ヤマザキマリ氏の安部公房への傾倒がわかる2冊2022年06月04日

『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』(ヤマザキマリ/NHK出版新書)、『100分de名著 砂の女』(ヤマザキマリ/NHKテキスト)
 来週月曜日(2022年6月6日)からのEテレ『100分de名著』は安部公房の『砂の女』、講師はヤマザキマリ氏である。私は若い頃には安部公房ファンだった。番組のテキストを入手しようと本屋へ行くと、彼女の新刊の新書もあった。それも購入した。

 『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』(ヤマザキマリ/NHK出版新書)
 『100分de名著 砂の女』(ヤマザキマリ/NHKテキスト)

 ヤマザキマリ氏が安部公房を敬愛していることは『男性論 ECCE HOMO』などで知っていたが、この2冊を読み終えて、その読み込みの広さと深さに感服した。

 同時期に同じ版元から出たこの2冊には多少の重複がある。だが「100分de名著」のテキストをふくらませて新書にしたわけではない。新書は安部公房の著作全般を論じていて、番組テキストはその『砂の女』の部分をより詳しく掘り下げている。

 自らをノマド(遊牧民)と見なすヤマザキマリ氏は特異な経歴の人である。日本の高校を中退してイタリアに留学し画家を目指し、その地で生活力のない詩人(グラムシを敬愛する共産主義者)と同棲、シングルマザーとなる。詩人と別れてマンガ家となり、14歳年下のイタリア人と結婚、世界各地を転々とする。現在の居住地はイタリアと日本だが、コロナ禍のため日本に足止めされているそうだ。

 定住を拒んで移動を好む性向は安部公房世界の人物に通じる。『壁とともに生きる』では、著者十代後半の頃、イタリアでの極貧生活時代に『砂の女』(須賀敦子訳のイタリア語版)に出会い「これは私のことだ」と安部公房作品に引きこまれて行った経緯を語っている。 貧しかった若き日の安部公房と真知夫人(画家)の姿を、画家志望だった著者とかの詩人の姿に重ね、「空腹」に共感するさまに、なるほどと思った。

 全6章の『壁とともに生きる』は各章が6つの作品(『砂の女』『壁』『飢餓同盟』『けものたちは故郷をめざす』『他人の顔』『方舟さくら丸』)に対応しているが、この6編だけを論じているのではなく、他のほとんどすべての長編に言及している。初期の地味な短篇のいくつかにも着目しているのには驚いた。

 本書は作品を論じつつ、安部公房の生涯を辿っている。巻末の参考文献には『安部公房とわたし』(山口果林)も載っているが、安部公房と山口果林の関係への言及はない。それは作品とは無関係だと見なしたのだろうか。

 安部公房の長編であまり注目されていないのが『石の眼』で、『壁とともに生きる』にもこの長編への言及はなかった。しかし、『100分de名著 砂の女』では的確に『石の眼』に触れていた。さすが……と感心した。

 『砂の女』のラスト近くで、子宮外妊娠した女が「ふとんごと、サナギのようにくるまれ、ロープでて吊り上げられ」病院へ搬送される。『100分de名著 砂の女』で、この姿をウスバカゲロウ(幼虫は蟻地獄)のサナギと見なし、孵化して飛び去る姿までも想像している。私には想定外の「読み」に驚き、感心した。

 安部公房を敬愛する著者が苦手とするのが村上春樹で、村上作品に浮薄で脆弱なものを感じてしまうと述べている。共感できる。

『現代思想』の臨時増刊「ウクライナから問う」を読んで暗い気分2022年06月06日

『現代思想 6月臨時増刊号 ウクライナから問う』(青土社)
 1週間ほど前『現代思想 6月臨時増刊号 ウクライナから問う』を購入した。全382ページ2段組(一部3段組)活字びっしりの厚い雑誌である。42編の記事が坦々と並んでいる。ウクライナの歴史への関心から数編の記事を読むつもりで購入したが、フラットな目次を眺めているうちに全編に目を通そうという気になった。

 私は雑誌を購入しても、すべての記事を読むことはほとんどない。だが、この臨時増刊号は意を決して最初のページから読み始め、何とか最後のページまで読み終えた。流し読みになってしまった記事もあるが、ぐったり疲れた。消化しきれず、頭の中がモヤモヤしている。

 全42編のうち対談が1編、インタビュー(翻訳)1編、文献抄訳紹介が1編、他の39編はウクライナを巡る評論(内3編は翻訳)である。

 執筆者は二人のジャーナリスト以外はすべて研究者のようだ。大半が私には未知の人で、その専門分野は多岐にわたる。史学・政治学・社会学・宗教学・文学などの研究者がそれぞれの知見をふまえて現在進行形の戦争を論じている。ほとんどの記事の文末には執筆年月日の記載があり、2022年4月下旬の日付が多い。開戦から約2カ月の時点で研究者たちが何を考えていたかが伝わってくる。

 巻頭の2編の翻訳記事は現地の作家と社会学者の文章で、生々しい。21世紀になって第二次大戦を追体験しているような落ち着かない気分になる。

 多様な文章をまとめて読んで、頭の中の整理がついていないが、世界が困った状況になっていることはわかる。プーチンの愚行の背景がわかっても、それで物事が明解になるわけではない。国連でのロシア非難決議を棄権した非欧米の国々の事情や状況を考えると、ウクライナが勝ってロシアが撤退すればメデタシ・メデタシとなるほど単純な話ではないとも思えてくる。世界の課題は根深い。

 本書によって、ドゥーギンという怪しげな人物を初めて知った。ネオ・ユーラシア主義を唱える論者である。プーチンへの思想的影響がどれほどかは不明のようだが、ヨーロッパの新右翼にも関わりがあるらしい。本書の論考のうちの6編がドゥーギンに言及していた。戦争を歴史や文化などの観点で考えていくと、「思想」とはつくづくやっかいなものに思えてくる。

 しかし、「戦争」は人間に「考える」ことを迫る作用がある。

シアターコクーンの『パンドラの鐘』は戦争を想起する芝居2022年06月08日

 シアターコクーンで『パンドラの鐘』(作:野田秀樹、演出:杉原邦、出演:成田凌、葵わかな、前田敦子、玉置玲央、大鶴佐助、柄本時生、片岡亀蔵、南果歩。白石加代子、他)を観た。

 この公演は「NINAGAWA MWMORIAL」と謳っている。シアターコクーンは、1999年に蜷川幸雄演出でこの作品を上演しているからである。23年前の初演は異例の事態がニュースになったそうだ。同じ時期に同じ作品を野田秀樹演出で世田谷パブリックシアターでも初演したのだ。二人の演出家による同時初演という競演になったのは、蜷川幸雄から作品執筆依頼を受けた野田秀樹が、自分が演出予定で執筆中の作品でもいいかと冗談半分で返答すると、蜷川幸雄が即座にOKしたからである。

 私は23年前、そんなニュースは知らなかった。最近になってその事情を知り、『パンドラの鐘』が名作だとも知った。戯曲を読みたいと思ってネット古書に注文したが、観劇日までに入手できなかった。

 事前に内容を知らずに観たこの芝居、とても面白かった。遺跡(墳墓)を発掘している現代と、その遺跡が作られた時代(古代)が交錯する展開で始まる。よくある仕掛けと思って観ていたが、途中から意外な展開になる。非常に驚いた。

 もちろんリアリズムの芝居ではないが、実にいろいろなものが盛り込まれている。道成寺、蝶々夫人、2・26事件、長崎原爆、天皇制……これらが絡み合って古代と現代が融合していく舞台である。

 この公演が決まったのはロシアのウクライナ侵攻前のはずだが、いま起きている戦争を連想せざるを得ない場面が随所にある。人間の表現活動において、いつの時代でも戦争は普遍的な課題ということだと思うが……。

2年半ぶりに歌舞伎座に行った2022年06月10日

 歌舞伎座で「6月大歌舞伎」の第一部と第二部を観た。第三部は観なかった。歌舞伎座に行くのは2020年1月以来2年半ぶりである。劇場に入り、あの大きな舞台の前に広がる客席を眺め、客の入りが少ないなあと思った。よく見ると座席の三つに一つがテープで封印されていた。私は昨年初めから芝居をかなり観てきたが、大劇場でないせいか、このような座席の制限はなかった。あらためて、コロナ禍の興行へのインパクトがまだ続いているのだと認識した。

 歌舞伎座の昼の部では、コンビニの握り飯を持参して幕間に食べることが多い。今回も歌舞伎座地下のコンビニで握り飯を購入して入場した。ところが、座席もロビーも飲食禁止になっていた。仕方なく、一部と二部の合間に外の公園で握り飯を食べた。

 今回観た演目は次の通りだ。

 第一部
  菅原伝授手習鑑 車引
  猪八戒
 第二部
  信康
  勢獅子

 車引は活人画としての歌舞伎の楽しさ満喫できる。時平(猿之助)、松王丸(松緑)、梅王丸(巳之助)、桜丸(壱太郎)らの見得で決まる幕切れにうっとりした。

 信長の娘と政略結婚した家康の長男・信康に関しては、昔、井上靖の短篇「信康自刃」を読んだ記憶がかすかにあるだけだった。今回の舞台「信康」を観て、興味深い人物だと思った(史実ではなく解釈の話だが)。

 信康を演じる17歳の染五郎は今回が初主演だそうだ。信康の父・家康を染五郎の祖父・白鴎が演じている。17歳の染五郎の舞台を眺めていて、新たなスター誕生かなと感じた。私の世代にとって、染五郎という名からは若き日の白鴎の精悍な姿や若き日の幸四郎の色気が浮かび、それらが三重写しになる。歌舞伎役者の襲名とは不思議なものだと思う。

サルトルの『恭しき娼婦』を観劇2022年06月12日

 紀伊国屋ホールでサルトルの芝居『恭(うやうや)しき娼婦』(演出:栗山民也、出演:奈緒、風間俊介、他)を観た。

 この戯曲のタイトルはかなり以前から知っていたが内容は知らなかった。今回の上演を知り、戯曲を読んだ(古い文学全集のサルトルの巻に芥川比呂志訳が収録されていた)。米国の黒人差別を扱っていて、初演は1946年だ。かなりストレートな黒人差別告発的な内容である。戯曲からはアジプロ劇のような印象を受け、少ししらけた。

 だが、舞台での上演を観ると緊張感や絶望感が伝わってきて、引き込まれた。戯曲の印象と観劇の印象がくい違うのは、私が戯曲を表面的にしか読んでいなかったということである。反省した。

 南部の街の娼婦の部屋で進行する話である。娼婦は冤罪で追われている黒人青年の無実を知っているが、上院議員の息子に偽証を強いられる。真犯人はその息子のいとこで前途を嘱望されている人物である。当初、娼婦は偽証を拒否する。だが、息子の父親である上院議員が登場し、その巧みなレトリックにまるめこまれて偽証にサインする。

 そんな展開だが、娼婦と上院議員の息子の感情の起伏や会話の推移が面白い。外部情況を切実に反映させた芝居になっている。

 サルトルは実際の黒人冤罪事件を素材にこの告発的な戯曲を書いたそうだ。70年以上昔である。その後のアメリカ社会は変わったかもしれないが、相変わらずの部分や新たに現れてきた課題も多い。それ故に今回の上演になったのだろう。

 蛇足だが、私が『恭しき娼婦』という芝居に反応した一因は、かの状況劇場の第1回公演がこの芝居だったと聞いていたからである(画像下部)。『状況劇場全記録』という本によれば、1963年に明治大学のホールで、星山初子(李礼仙)や大鶴義英(唐十郎)らの役者で上演している。サルトル劇はこれのみで、その後は唐十郎作品になったようだ。

西欧中心の見方を否定した『イスラーム歴史物語』2022年06月15日

『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』(後藤明/講談社/2001.11)
 昨年1月、イスラーム史の概説書を4冊続けて読んだ。その記憶がかなり薄れてきているので、復習気分で次の本を読んだ。

 『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』(後藤明/講談社/2001.11)

 1年半前に読んだ『イスラーム帝国のジハード』(小杉泰/講談社学術文庫)巻末の参考文献で本書を「ビジュアル版で、文章も非常に読みやすい。著者の専門は初期イスラームであるが、日本でイスラーム史全体を俯瞰できる数少ない一人。」と紹介していた。それが目に止まり、本書を古書で入手した。

 確かに俯瞰的な歴史物語である。文明の始まりから20世紀末までを100話(1話3ページ)で語っている。全体は6章に分かれていて、各章の冒頭の「総説」で章全体を概観しているので頭に入りやすい。

 第1話では「イスラム教」でなく「イスラーム」と表記した理由を述べている。アラビア語の原音に近いということもあるが、イスラームはふつうの意味での「宗教」をこえているからである。国家や社会がどうあるべきかという理念を含む用語として「イスラーム」としたそうだ。確かに、歴史を俯瞰するとき「イスラーム世界」という概念を使うとわかりやすくなるように思える。

 本書の特徴は西欧中心的な歴史の見方から脱却している点にある。イスラームの歴史なら、ムハンマド登場の7世紀から始まると思うが、本書はそのはるか以前の古代オリエント文明から書き起こしている。イスラームの起源がそこにある、としているからである。少し面食らうが、本書を読むと納得できた。

 西欧が自身の歴史の起源をギリシアとする考え方は短絡的で、かつギリシアを一面的にしか捉えていない。文明の起源はオリエント文明にあり、ギリシアはその一部にすぎない。そんな視点から、著者は古代オリエントの文明を承継したのはイスラームであるとしている。

 ローマ帝国の時代において、ローマは政治の中心だっただけで経済・文化の中心は以前と同じように東方にあったという見解にも驚いた。視点をずらせば、そのようにも見えてくる気がする。著者は5世紀の「西ローマ帝国滅亡」を「滅亡」としたのは19世紀の西欧史家の誤謬だとし、次のように述べている。

 「ローマ帝国は、476年のあとも繁栄をつづけました。そして7世紀に、イスラームはローマ帝国の主要な領土であるシリア、エジプト、北アフリカを継承します。そののち、長い時間をかけて、イスラーム世界はローマ帝国を飲み込んでいきます。それは、1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープルを征服したときに完了します。イスラーム世界とは、まさしくローマ帝国の継承者でもあるわけです。」

 かなりの期間、歴史の主役をつとめていたイスラームが傾き始めるのは14~15世紀頃からであり、コンスタンティノープル征服の頃は最盛期を過ぎていたことになる。18世紀にはイスラームは西欧やロシアに逆転され、19~20世紀にはイスラーム地域の大部分が西欧の植民地になってしまう。本書は、そんな大きな流れの物語である。

 以下、私が本書で興味深く感じた事柄を列挙する。

 ・西欧文明の実質的故郷はイスラム文明のイベリア半島だ。

 ・ソグド商人は時代とともにムスリム商人になった。

 ・ポルトガル人が日本に伝えた鉄砲はオスマン帝国製か?

 ・喜望峰を東に廻って北上し、ムスリム商人が活躍する海域(アラビア海)に出たポルトガルは、港市を襲撃して交易を妨害した。

 ・インド洋の交易に参入した西欧はアジアに売る商品をもっていなかった。アメリカから調達した銀だけが西欧の「商品」だった。

 ・西欧は、アメリカから到来した銀とジャガイモによって発展した。

 ・西欧支配下にあった中東のイスラームは、日露戦争での日本の勝利に沸き返った。

〔P.S.〕
 本書を半ばまで読んだ時点で、著者への興味から他の著書を検索し、『イスラーム世界史』(角川ソフィア文庫)という本を見つけ、ネット書店で注文した。届いた文庫本は本書を文庫化したものだった。

私の求めていた歴史地図を見つけた2022年06月19日

『最新世界史図説 タペストリー』(監修:川北稔、桃木至朗/帝国書院)
 駅前の本屋の棚に並んでいた次の本を手に取り、これこそ私が求めていたものだと感激し、すぐに購入した。

 『最新世界史図説 タペストリー』(監修:川北稔、桃木至朗/帝国書院)

 全頁カラーの大判なのに、定価は957円(870円+税)。高校生向けの教科書に準じた副読本だから安いのだと思う。一般書なら数千円でもおかしくない内容である。

 私は、本書によく似た山川出版社の『詳説世界史図録』を数年前に入手しているが、この『タペストリー』の方が充実している。

 私が感動したのは冒頭の「世界史対照表」と年代別の世界地図である。

 「世界史対照表」とは、横軸・縦軸を時間と地域にして、古代から現代までの王朝や国の消長が一覧できる表である。歴史の本を読んでいると、いろいろな形の対照表を目にするが、時代や地域を限定したものが多い。本書の見開きの対照表は網羅的で、それを眺めるだけで人類の歴史を俯瞰した気分になる。

 それ以上に感動したのは年代別の世界地図である。かねがね、古代から現代までの1世紀ごとの世界地図があれば便利だと思っていたが、手頃なものが見つからなかった。本書の6ページから51ページまでの見開き23枚の世界地図は、まさに私が求めているものだった。最初の3枚は「前4~前3世紀」「前2~前1世紀」「1~2世紀」と200年ごとだが、3世紀からは100年ごとになり、19世紀以降は50年ごとになる。

 ただし、なぜか8世紀と9世紀は「8~9世紀」とまとめて200年になっている。ここは2枚に分けてほしかった。3世紀以降の歴史において8~9世紀は変動が少なかったのだろうか。学習書なので各地図の欄外には簡単な地域別年表や概説記事があり、その時代の主要な出来事が把握できる。よくできている。

 冒頭の歴史地図だけでなく本体部分の図説も充実している。私が最近読んだばかりのイスラーム史のページを眺めると「イスラーム王朝興亡史」という表があり、この表にも感動した。

 この「興亡史」は「世界史対照表」のイスラーム王朝部分を詳細にしたもので、各王朝を「アラブ系」「イラン・アフガン系」「トルコ系」「ベルベル系」「その他」に色分けしている。アラブ系からトルコ系への変遷が色の変化でつかめる。縞模様の王朝もある。「モンゴル系」がないのも実態の反映だと納得した。イル=ハン国、ティームール帝国、ムガル帝国などは「その他」に色分けしている。シーア派の王朝名を赤字表記にしているのも親切だ。

 この『タペストリー』をパラパラめくりながら、その豊富な内容に「高校世界史恐るべし」と感じた。

花園神社境内のテントで41年ぶりに『下谷万年町物語』を観た2022年06月21日

 新宿の花園神社境内で新宿梁山泊のテント公演『下谷万年町物語』(作:唐十郎、演出:金守珍、出演:蜂谷眞未、大鶴義丹、六平直政、他)を観た。猥雑華麗な面白い芝居だった。

 初演は1981年の西武劇場(現パルコ劇場)である。私は41年前のこの初演を観ている。観たという記憶があるが、悲しいことに内容はほとんど失念している。テントではなく立派な大劇場の舞台に立つ李礼仙に感慨をおぼえた記憶はある。表紙が李礼仙の公演パンフを購入したはずで、今回の観劇を機に探索したが見つからなかった。演出は蜷川幸雄だったかもしれない。はっきりしない。

 今回の観劇では、芝居を眺めているうちに昔の観劇記憶がどのくらい甦ってくるかが楽しみだった。残念ながら「ぎんやんま」という言葉に遠い記憶が反応しただけで、ほとんど初見に近い印象だ。

 下谷万年町に棲息するオカマたちの世界を幻視的に描いた舞台で、ノスタルジックな情景が多い。このテント芝居を眺めながら、半世紀近く昔、私が新入社員だった頃の遠い記憶が甦ってきた。

 若かった私は、酒席で話の合うある先輩に紅テントの状況劇場が面白いという話をした。先輩からは「あれは浅草六区だね」とのコメントが返ってきた。浅草六区が何であるかを知らなかった私は返す言葉がなく、ややしらけた。

 ……そんなことを思い出したのは、この芝居が下谷万年町のオカマたちと浅草との競合・共同を描いているからである。下谷万年町と浅草、そして水の底の幻想世界が交錯してオカマの世界を過激に猥雑かつ華やかに現出させる舞台に圧倒された。

 先日、同じ花園神社で上演された劇団唐組の『おちょこの傘持つメリー・ポピンズ』でも感じたことだが、往年の状況劇場を演じる現代の俳優たちの怪演に感服する。21世紀のテント芝居に往年の熱気を感じることができるのは不思議であり、感無量でもある。

2時間半ノンストップの独白芝居『審判』を観た2022年06月23日

 わが家から徒歩30分のせんがわ劇場で『審判』(作:バリー・コリンズ、演出:加藤健一、出演:加藤義宗)を観た。加藤健一の息子・加藤義宗の一人芝居である。

 この一人芝居は、加藤健一が若い頃に何度も上演した演目で、そもそも彼が1980年に加藤健一事務所を立ち上げたのは『審判』を上演するためだったと聞いていた。それを息子がやるというので、きっと名作なのだろうと思ってチケットを手配した。

 私は加藤健一の芝居をさほど観ているわけではない。『審判』の内容も知らなかった。チラシをよく読めば内容を推測できたはずだが、勝手にブラック・コメディだと思っていた。だから、今回の舞台を観て、そのシリアスな迫力に驚いた。加藤健一事務所ホームページの加藤健一プロフィールを見れば「一人芝居『審判』とは」という内容説明がある。それに気づいたのは観劇後である。

 2時間30分休憩なしの一人芝居である。舞台は極めてシンプル、舞台中央にポツンと証言台があるだけだ。主人公は客席に向かって延々と2時間30分のにわたって証言を展開する。彼は、第二次大戦でドイツ軍によって修道院の地下室に閉じ込められていたソ連の将校で、解放された後に法廷で証言しているのである。

 その地下室には7名の将校が衣服を剥ぎ取られ、食料も水も与えられずに放置されていた。彼らは一人でも生き延びるため、クジで選ばれた者が自身の肉体を食糧として提供する道を選び、2ヵ月後に解放された時に生きていたのは二人、内一人は発狂していた。地下室で何があったかを証言できるのは、発狂していない生き残りである主人公だけ……そんな話である。

 あたかも客席が陪審員席のような仕掛けで、主人公は客席に向かって緊迫した極限状況についてしゃべり続ける。役者も大変だろうが、観客も緊張を強いられて疲れる。こんな舞台では、途中に休憩を入れるのは難しく、2時間30分ぶっ通しになるのも仕方ない。

 2時間30分の法廷を傍聴した気分になる芝居で、見終わるとぐったりした。

『イスラム世界の発展』(本田實信)は言語の歴史書だ2022年06月25日

『イスラム世界の発展(ビジュアル版世界の歴史6)』(本田實信/講談社)
 『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』を読んだのを機に、似た体裁の次の概説書を読んだ。

 『イスラム世界の発展(ビジュアル版世界の歴史6)』(本田實信/講談社)

 世界史叢書1冊である本書の刊行は37年前の1985年、入手したのは半年前である。半年前に読んだ『世界史を変貌させたモンゴル』(杉山正明)で、ペルシア語文献にもとづく研究を進展させた先達研究者として本田實信を高く評価していた。本田實信に興味をいだき、読みやすそうな本書を見つけてネット古書店で入手した。

 杉山氏の紹介によれば本田實信は主にフレグ・ウルス史を中心にモンゴルの国家制度を研究した人だそうだ。だが、本書はイスラム史の概説書である。ムハンマド登場の7世紀から17世紀頃までの約1000年のイスラム世界を概説している。

 本書の第1章から第6章までのタイトルは「イスラム世界の誕生」「イスラム世界の成立」「イスラム世界の変容」「イスラム世界の分解」「イスラム世界の再編」「イスラム世界の完成」である。誕生・成立・変容・分解・再編・完成という言葉を並べるとイスラム史の大きな流れをつかめる気がする。ちなみにラストの「完成」ではシーア派イランとオスマン帝国を概説している。

 本書で印象深いのは言語に関する解説である。ムハンマドはアラブ人でコーランはアラビア語だから、イスラム世界の出発点はアラビア語である。時代とともにペルシア語、チャガタイ・トルコ語、オスマン・トルコ語などがイスラム世界に普及していく。その様子が興味深い。

 歴史地図を言語で色分けすればわかりやすくなりそうに思えるが、そんなに単純な話ではない。同じ地域でも支配者と民衆の言語が異なることは多いし、公文書と日常語が異なる場合もある。それぞれの言語への人々の愛着や反発もさまざまだ。

 文化や社会への目配りもある本書を読んで、言語の変遷と歴史の移ろいとの絡み合いへの興味が深まった。