イタリア系の女性作家はコワくて魅力的 ― 2014年12月23日
『男性論 ECCE HOMO』(ヤマザキマリ/文春新書)を読んだ。『テルマエ・ロマエ』を書いたマンガ家のエッセイで、出版は約1年前だ。
先日、たまたま点けていたラジオから流れてきたヤマザキマリさんのトークが面白かったので、このマンガ家に興味をいだき、本書を入手した。
映画『テルマエ・ロマエ』は面白かったが、原作のマンガは読んでいない。その代わりと言うのもヘンだが、本書と並行して『モーレツ! イタリア家族』『プリニウスⅠ』の2冊のマンガを読んだ。
本書は確かに男性論ではあるが、日本の女性や若者への苦言・提言でもあり、著者の波乱に満ちた人生の半生記でもある。それらが渾然一体となって刺激的な本になっている。
ヤマザキマリさんは、日本の高校を中退してイタリアに留学し、シングルマザーとなり、その後14歳年下のイタリア人と結婚、これまでの居住地はイタリア、米国、ポルトガルからシリアにまでおよび、自らを「半分外国人」と見なしている。
このバックボーンから展開される男性論は、著者が古代ローマの魅力とする「寛容性」「ダイナミズム」「増長性」をベースにしている。採り上げられる男たちは古代ローマのハドリアヌス、プリニウスに始まり、中世のフェデリーコ2世、ルネサンスのラファエロを経て現代の日本人にも及ぶ。
そこで採り上げられている日本人が水木しげると安部公房である。これにはドキッとした。私もこの二人のファンだが、この二人が連名になっていると、トラウマ的記憶が甦ってくるのだ。
50年近く昔の学生時代、ヘタな短篇小説を書き、著名な助教授に読んでもらう機会があった。そのときの評が「安部公房的というか…ゲゲゲの鬼太郎風かな」で、おのれの無意識が見透かされた気分になった。その後、この二人の名が並んでいるのを見ることがなかったので、本書でドキッとしたのだ。
そんなことがあり、この二人を採り上げた著者に共感してしまった。私たち団塊世代は1960年代が青春だった。私より約20歳若い著者は「安部公房が生きていて、学生たちがいろんなものに貪欲だった1960年代の日本などに、タイムスリップして様子を見てみたい」とも述べている。こんな科白を読むと、生まれるのが遅すぎた同世代のようにも思え、手前勝手にさらに共感してしまう。
本書は男性論の範疇を越えて、ヒラヒラした服装やアンチエージングに汲々としている日本女性を辛辣に批判し、空気を読むことにウエイトをおく日本社会を憂いている。「よく言った」と納得してしまう。無責任な年寄りの感想である。
そんなヤマザキマリさんの文章を読んでいると、どうしても塩野七生さんを思い浮かべてしまう。ずいぶん違うタイプのお二人だが、カブる部分も多いと思う。本書ではイタリア系の作家・須賀敦子さんの魅力を述べているが、塩野七生さんへの言及は次の箇所だけだ。
「塩野七生さんには人物を通して時代を描いた作品として『わが友マキャベッリ』がありますが、わたしなら『わたしの愛したプリニウス』を書くでしょう」
著者の対抗心が感じられる。また、フェデリーコ2世(ドイツ語読みでフリードリッヒ2世)を採り上げた本書の出版と同時期に塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』が出版されたのも、偶然ではあろうが興味深い。
本書には「……カエサルが理想の男性像かどうかはさておき、…」という表現があり、こんな箇所にもカエサルに惚れ込んでいる(と思われる)塩野七生さんへの意識を感じてしまう。
そんなことを思ったのは、本書を読んで、25年前に読んだ塩野七生さんの『男たちへ』を思い出したからだ。具体的な内容は忘れてしまったが、読後感とでもいうべき印象が似ているのだ。塩野七生さんには、女・司馬遼太郎的な警世家の趣があるが、ヤマザキマリさんも将来、そんな存在になるかもしれない。
ヤマザキマリさんの「半分外国人」的な強さ、臆面のなさを感じるのは次のような表現だ。
「手塚治虫さん、あるいは石ノ森章太郎さんはむりかもしれないけど、女版・水木しげるにはなれるかな」
水木しげるの一ファンとしては手塚治虫と同列に扱ってもいいじゃないかと思えるが、水木しげるへの遠慮がないところがすごい。
また、サブタイトルの「ECCE HOMO」にも日本人離れした思い切りのよさがある。ラテン語で「この人を見よ」である。空気を読む人なら、カッコ付きの邦訳を付すと思う。不親切なラテン語だけのサブタイトルに感心した。
先日、たまたま点けていたラジオから流れてきたヤマザキマリさんのトークが面白かったので、このマンガ家に興味をいだき、本書を入手した。
映画『テルマエ・ロマエ』は面白かったが、原作のマンガは読んでいない。その代わりと言うのもヘンだが、本書と並行して『モーレツ! イタリア家族』『プリニウスⅠ』の2冊のマンガを読んだ。
本書は確かに男性論ではあるが、日本の女性や若者への苦言・提言でもあり、著者の波乱に満ちた人生の半生記でもある。それらが渾然一体となって刺激的な本になっている。
ヤマザキマリさんは、日本の高校を中退してイタリアに留学し、シングルマザーとなり、その後14歳年下のイタリア人と結婚、これまでの居住地はイタリア、米国、ポルトガルからシリアにまでおよび、自らを「半分外国人」と見なしている。
このバックボーンから展開される男性論は、著者が古代ローマの魅力とする「寛容性」「ダイナミズム」「増長性」をベースにしている。採り上げられる男たちは古代ローマのハドリアヌス、プリニウスに始まり、中世のフェデリーコ2世、ルネサンスのラファエロを経て現代の日本人にも及ぶ。
そこで採り上げられている日本人が水木しげると安部公房である。これにはドキッとした。私もこの二人のファンだが、この二人が連名になっていると、トラウマ的記憶が甦ってくるのだ。
50年近く昔の学生時代、ヘタな短篇小説を書き、著名な助教授に読んでもらう機会があった。そのときの評が「安部公房的というか…ゲゲゲの鬼太郎風かな」で、おのれの無意識が見透かされた気分になった。その後、この二人の名が並んでいるのを見ることがなかったので、本書でドキッとしたのだ。
そんなことがあり、この二人を採り上げた著者に共感してしまった。私たち団塊世代は1960年代が青春だった。私より約20歳若い著者は「安部公房が生きていて、学生たちがいろんなものに貪欲だった1960年代の日本などに、タイムスリップして様子を見てみたい」とも述べている。こんな科白を読むと、生まれるのが遅すぎた同世代のようにも思え、手前勝手にさらに共感してしまう。
本書は男性論の範疇を越えて、ヒラヒラした服装やアンチエージングに汲々としている日本女性を辛辣に批判し、空気を読むことにウエイトをおく日本社会を憂いている。「よく言った」と納得してしまう。無責任な年寄りの感想である。
そんなヤマザキマリさんの文章を読んでいると、どうしても塩野七生さんを思い浮かべてしまう。ずいぶん違うタイプのお二人だが、カブる部分も多いと思う。本書ではイタリア系の作家・須賀敦子さんの魅力を述べているが、塩野七生さんへの言及は次の箇所だけだ。
「塩野七生さんには人物を通して時代を描いた作品として『わが友マキャベッリ』がありますが、わたしなら『わたしの愛したプリニウス』を書くでしょう」
著者の対抗心が感じられる。また、フェデリーコ2世(ドイツ語読みでフリードリッヒ2世)を採り上げた本書の出版と同時期に塩野七生さんの『皇帝フリードリッヒ2世の生涯』が出版されたのも、偶然ではあろうが興味深い。
本書には「……カエサルが理想の男性像かどうかはさておき、…」という表現があり、こんな箇所にもカエサルに惚れ込んでいる(と思われる)塩野七生さんへの意識を感じてしまう。
そんなことを思ったのは、本書を読んで、25年前に読んだ塩野七生さんの『男たちへ』を思い出したからだ。具体的な内容は忘れてしまったが、読後感とでもいうべき印象が似ているのだ。塩野七生さんには、女・司馬遼太郎的な警世家の趣があるが、ヤマザキマリさんも将来、そんな存在になるかもしれない。
ヤマザキマリさんの「半分外国人」的な強さ、臆面のなさを感じるのは次のような表現だ。
「手塚治虫さん、あるいは石ノ森章太郎さんはむりかもしれないけど、女版・水木しげるにはなれるかな」
水木しげるの一ファンとしては手塚治虫と同列に扱ってもいいじゃないかと思えるが、水木しげるへの遠慮がないところがすごい。
また、サブタイトルの「ECCE HOMO」にも日本人離れした思い切りのよさがある。ラテン語で「この人を見よ」である。空気を読む人なら、カッコ付きの邦訳を付すと思う。不親切なラテン語だけのサブタイトルに感心した。
コメント
_ ノムラマサカツ ― 2017年04月15日 16時45分
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なのでおっしゃること、よくわかります。