『歴史と哲学の対話』で歴史解釈ということを考えた2023年02月01日

『歴史と哲学の対話』(西研、竹田青嗣、本郷和人/講談社/2013.1)
 中世史と哲学のコラボを目指した歴史学者と哲学者の対談本を読んだ。

 『歴史と哲学の対話』(西研、竹田青嗣、本郷和人/講談社/2013.1)

 ホストは歴史学者の本郷和人氏、前半は哲学者・西研氏との対談、後半は哲学者・竹田青嗣氏との対談である。古文書に取り組んで日本中世史を実証的に研究している本郷氏が、史像・史観の理論を得るために哲学者から哲学的アプローチを学ぶ、というスタイルになっている。

 歴史学者は実証を追究して理論がなく、哲学者はさほど史実を知らなくても歴史解釈を追究する、だから両者のコラボが重要――単純化すれば、それが本書の主旨である。

 昨年、本郷氏の新書『歴史学者という病』『北条氏の時代』を興味深く読み、このセンセイの対談本なら面白そうだと思って本書を手にした。哲学と聞くと身構えてしまうが、対談本なので読みやすい。哲学者がどんなことを考えているか、その一端をうかがうことができた。

 前半の対談の冒頭で西研氏が現象学の方法について解説する。その抽象的な説明についていくのが大変で、先が思いやられたが、話題が歴史という具体的事象に移ると面白くなった。歴史を学ぶということは、結局は歴史の意味を考えるところにまで行かねばならいのだと再認識した。

 本書は、本郷氏の天皇への問題意識がベースになっている。鎌倉幕府に天皇は必要だったのか、豊臣秀吉に天皇は必要だったのか、という考察である。私も本郷氏の問題意識に共感する。二人の哲学者の歴史解釈は天皇の必要性(効用?)を認めているようである。

 蛇足に近いが、江戸時代の鎖国に関する本郷氏の以下の発言には驚いた。

 「近世史の方で優勢になっているらしい、鎖国はなかった、という議論はどうも首肯できないような気がしています。あれは通説をひっくり返せば学者らしくみえる、というような、なんだか変な妄想の産物じゃないかと。」

 本郷氏は鎖国の一例として大黒屋光太夫の幽閉を指摘している。井上靖の小説『おろしあ国酔夢譚』では光太夫は幽閉されるが、後に出た吉村昭の小説『大黒屋光太夫』では幽閉されていなかったと思う。門外漢の私にはよくわからないが、いろいろな見方があるようだ。研究者の世界も面白い。

唐組若手公演『赤い靴』は誘拐事件をタネに紡いだ夢幻世界2023年02月03日

 下北沢・駅前劇場で唐組若手公演『赤い靴』(作:唐十郎、演出:加藤野奈、監修:久保井研)を観た。

 1996年の唐十郎作品である。私は初見だ。1995年に東京都足立区で実際に起こった少女誘拐事件を下敷きにした戯曲だそうだ。私はこの事件の記憶がない。ネット検索すると、どこかの誰かが書いた記事が出てきた。その冒頭で以下のようにまとめている。

 「1995年8月、東京都足立区で小学生の女の子が誘拐された。女の子は翌日無事解放され、犯人は逮捕されたが、犯人は20歳と21歳の女。その後の調べで判明した犯行の稚拙さもさることながら、犯行に至った動機の愚かさに当時の日本社会の嘲笑を誘った。」

 事件の全貌をかなり詳しく描いた記事である。私は、芝居を観た後でこの記事を見つけ、それを読みながら芝居を反芻している気分になった。記事と芝居が二重写しになり、魔術師・唐十郎が事件をタネに幻視世界が湧きあがらせている現場に立ち会っているような錯覚にとらえられた。

 舞台は事件から数年後、誘拐時に小学生だった少女はジュニア小説作家(自称?)になっている。二人の犯人(若い女性)の一人は刑務所の中、もう一人は釈放されたばかり、という設定である。誘拐に使った車(ハイラックス・サーフ)を売ったセールスマンが芝居全体の狂言回しで、彼が刑務所に面会に来る。なぜか、彼は車のローン支払いを肩代わりしている。芝居の科白では語られなかったと思うが、実際の事件の動機はこの車の代金獲得だったらしい。

 この芝居のシンボル・赤い靴とは、誘拐中の小学生に求められて犯人が買い与えたものである(創作だと思うが不明)。それは、アンデルセン童話の赤い靴でもある。私はアンデルセンの『赤い靴』を憶えていない。ネットの青空文庫で読んでみた。それを履くと踊り続けねばならない靴で、踊りを止めるために足を切るという怖い童話だ。

 『赤い靴』は、そんな「怖い童話」と「嘲笑を誘う稚拙な事件」が唐十郎の妄想世界で混合した舞台である。ハイラックス・サーフを沈める沼のイメージから沼正三らしき人物が登場したりもする。ひとときの唐十郎世界を堪能できた。

いしいひさいちの『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』は自費出版2023年02月07日

『ROCA 吉川ロカストーリーライブ』(笑)いしい商店
 わが故郷・岡山県玉野市出身のいしいひさいちが「たまのの市」出身のファド歌手・吉川ロカを描いた漫画『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』が、何と自費出版で刊行されていた。書店にもアマゾンにも置いていない。「(笑)いしい商店」からネット通販で入手した。2022年8月1日初版発行、私が入手したのは2023年1月1日発行の5版だった。

 この本、奥付を含めてすべてあの独特の手書き文字で、どこにも活字がない。もちろん、ISBN番号もバーコードもない。いしいひさいちの漫画を出したい出版社はいくらでもあると思うが、あえて自費出版にする何らかのこだわりがあるのだろう。

 私は、古川ロカについては朝日新聞の『ののちゃん』で知っているだけだった。他にもいくつか書いていて、それらに書き下ろしを加えて1冊にしたのが『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』である。4コマ漫画109編を集成した本書は、4コマ漫画集でありながら、ストリートライブの女子高生がファド歌手として花開いていくストーリー漫画になっている。面白いうえに、長編小説のような感動も味わった。さすが、いしいひさいちだ。

 玉野市出身の私にとっては、懐かしマイナーな地名(田井港など)が出てくるのも楽しい。簡略化された瀬戸内の風景もいい。ラストの1コマが素晴らしい。

 吉川ロカと不良の年長同級生・柴島美乃が、ともに母親を連絡船の沈没事故で失っていることは本書で初めて知った。連絡船沈没といえば1955年の紫雲丸沈没だ。当時、私は7歳だったが記憶に残っている。私より3歳若いいしいひさいちも憶えていたのだろうか。漫画では「紫雲出山丸沈没事故10周年慰霊祭」のとき、吉川ロカは高校生である。とすると、私と同世代で、現在は70歳を超えていることになる。年を取らない4コマ漫画の主人公の年齢を気にしても無意味だが…。

 ポルトガルの国民歌謡「ファド」は、ちあきなおみが歌っていたので、たまたま知っていた。こんな分野に目をつけるのが、いしいひさいちの独特の才である。本書では、芸能プロダクションの役員と担当者の「ファドはもうかりますか」「もうかりません」という会話も出てくる。

 天才いしいひさいちは分野を選ばない。音楽、スポーツ、文学、世界史、現代哲学……何でもギャク漫画で料理する才には舌を巻く。先日、本屋の店頭に、講談社学術文庫版『現代思想の遭難者たち』が積まれていて驚いた。私はハードカバーと増補版のソフトカバーを持っているが、まさかギャク漫画が学術文庫に収録されるとは……。

 本書にも、やや哲学的な問答が出てくる。古川ロカが「偉大なるアマチュア」におわるのではないか、という議論のなかで「あらゆるジャンルの岐路には偉大なアマチュアが関わるというのが私の持論でして…」というセリフが出てくる。以前、マルクス研究のある哲学者が「よく調べれば、マルクスがアマチュアだとわかる。だが偉大なるアマチュアだ」と言っていたのを思い出した。

長いトンネルを戻ると雪国であった2023年02月11日

越後湯沢の一本杉スキー場
 車で越後湯沢へ行き、2泊して昨日帰京した。

 関越道の関越トンネルを抜けると越後湯沢である。雪のシーズンに関越トンネルを抜けるたびに「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」が頭に浮かぶ。川端康成の名文は鉄道の清水トンネルだが、トンネルの長さは往時の清水トンネルより関越トンネルの方が少し長い。

 長いトンネルを抜けて別世界に出る――それは心ときめく体験である。だが、今年の往路は、たまたま越後湯沢の雪の少ない日にあたり、トンネルを出たときの反射的な「雪国だ!」という感動は薄かった。その代わり、帰路が「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という状態だった。面白い逆転である。

 こういう逆転体験は脳への刺激になりそうな気がする。何故か近頃、脳に刺激を与えることを、いろいろ急かされているような気がする。後期高齢者直前の私が、そんな記事や番組に無意識のうちに引き寄せられているだけかもしれないが……。

 いずれにしても「長いトンネル」は異世界へ赴く格好の道具である。過去や未来につながるタイムトンネルSFは多い。元の場所に戻るトンネルというのもあった。長いトンネルを抜けて、どんな光景に出会うと脳の刺激になるだろうかと、いろいろ考えてみたが陳腐なものしか思いつかない。トンネルを抜けると逆走していた、なんてのは怖い。

なはーと(那覇)で歌舞劇「沖縄燦燦」を観た2023年02月16日

 那覇文化芸術劇場なはーと小劇場で歌舞劇「沖縄燦燦」(脚本・演出:三隅治雄)を観た。

 歌舞伎をベースにした組踊とは異なり、より素朴かつ現代的で、村祭りの演し物のような趣の歌舞劇だった。漁村の若い二人が結ばれて子供ができるという祝祭的な内容で、ストーリーのある盆踊りのようでもある。舞踊には滑稽な要素も盛り込んでいる。

 琉球舞踊や琉球民謡を元にした歌舞劇だと思うが、生演奏の音楽に驚いた。バイオリン、ドラム、エレキギター、キーボードと琉球民謡の三線、太鼓がミックスしているのだ。民謡風なのにバイオリンが際立っていた。

 出演者は男性2人、女性7人の計9人。配布されたパンフレットには出演者のプロフィールが掲載されている。それを見ると、沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻の卒業生や国立劇場おきなわ組踊養成研修の修了生が目につく。沖縄には、伝統芸能の継承に努める若い世代が多いように思えた。門外漢の印象に過ぎないが。

芥川賞受賞作2編を読んだ2023年02月18日

 『文藝春秋』(2023年3月号)掲載の芥川賞受賞作2編を読んだ。『この世の喜びよ』(井戸田射子)と『荒地の家族』(佐藤厚志)である。年を取ると新しい作家の作品に接するのが億劫になる。新たな文学に出会いたいという大層な関心は薄れる。せめて、芥川賞作品で「最近の小説」の様子を一瞥しておこうという気分で受賞作を読んだ。

 『この世の喜びよ』は二人称小説である。半世紀以上昔に倉橋由美子の『暗い旅』で初めて二人称小説に接したときはカッコイイと感じた。『暗い旅』に関しては江藤淳の酷評や倉橋由美子の猛反論などで賑やかな事態になった。『この世の喜びよ』は、そんな騒動を招く要素はなさそうだ。私にとっては、ショッピングセンターの喪服売り場という印象だけが強く残るお仕事小説で、知らない職場を知ったというお得感はある。

 『荒地の家族』は逃げた妻を巡る宙ぶらりんな不条理が印象に残る。私にとっては、ひとり親方の植木屋という、私には馴染みのない職場を知ったというお得感はある。

 私は『文藝春秋』を定期購読していないが、年2回の芥川賞受賞作掲載号だけはほぼ購入している。そういう読者は多いと思う。

 私が芥川賞の『文藝春秋』を初めて買ったのは高校生の頃だった(津村節子か高井有一受賞の頃)。それから半世紀強、芥川賞受賞作を断続的に惰性のように読んできた。大半の受賞作の内容は失念している。

 惰性のように芥川賞受賞作掲載の『文藝春秋』を買い続けてきたのは、選考委員の選評が載っているからである。選評を読むために、その前提として受賞作を読んでいるような気もする。受賞作であっても否定的な評価をしている選考委員もいて、小説の読み方はさまざまだと確認できるのが面白い。受賞者の才を愛でるより、選考委員の芸を楽しんでいるのだ。

 半世紀以上の間に、自分より年長だった選考委員や受賞者が次第に同世代となり、いつの間にか皆が年少者になった。新人だった受賞者もアッと言う間に月日が経って選考委員になっている。齢を重ねるとは、そういうことである。

漫画『虹色のトロツキー 』はアジア主義の物語2023年02月21日

『虹色のトロツキー①~⑧	』(安彦良和/中公文庫コミック版)
  2カ月前に読んだ小説『地図と拳』 の巻末には大量の参考文献リストがあり、その中に『虹色のトロツキー』が入っていた。評論や専門書が大半のリストに漫画が入っているのを異様に感じた。この漫画に興味がわき、文庫版全8冊を入手して読んだ。

 『虹色のトロツキー①~⑧ 』(安彦良和/中公文庫コミック版)

 太平洋戦争直前の満州を描いた物語で、主人公は日本人と蒙古人のハーフの将校である。父は日本の軍人(諜報担当か?)、母は蒙古人、主人公が幼いときに両親は謀殺されている。興味深い設定である。ノモンハン事件までを描いた本書には辻正信や石原完爾をはじめ多数の実在人物が登場する。重厚な昭和史漫画、歴史物語である。

 私より1歳年長の高名なアニメーター・安彦良和氏の作品を読むのは初めてだ――と思っていたが、本書読了後、4年前に安彦氏の著書『革命とサブカル』 を読んでいたと気づいた。読後感を書いた当時のブログに、知人に勧められて読んだとあるが、その知人が誰だか思い出せない。己の忘却力に感心する。

 トロツキーという名をタイトルに入れたことに、全共闘世代の作者の心意気を感じる。トロツキーと満州という取り合わせは意表をつく。満州に作った建国大学に、石原完爾らが亡命中のトロツキーを招聘しようと画策する物語である。どこまでが史実に基づいているか、私にはわからない。

 だが、シベリアにユダヤ人の居留地があったという話や満州国がユダヤ人を招き入れようとした話は、どこかで断片的に読んだ記憶がある。あまり深く考えたことがなかったが、満州にユダヤ人を絡めるという発想は秀逸で面白い。物語のスケールが大きく広がる。この着想だけで本書を傑作と見なしていいと思えてくる。

 『虹色のトロツキー』と題した本書にトロツキー本人は登場しない。背景的隠然たる存在で、まさに反スタのシンボルのようでもある。だが、本書は世界革命の話ではなく、アジア主義の物語である。五族協和を謳うアジア主義は侵略を取り繕う欺瞞に過ぎなかった。しかし、五族協和の美しい理想を追求する人々もいたであろうとは容易に推測できる。

 この漫画を読んで、かつてのアジア主義とは何であったをあらてめて勉強してみたくなった。そこには、国民国家や民族という近代のやっかいな課題やグローバリズムという現代の難しい問題を考えるうえでのヒントがあるかもしれない。

シンポジウム「前田耕作先生の業績を語る会」に行った2023年02月23日

 本日(2023年2月23日)、東京国立博物館平成館大講堂で開催された「シンポジウム:前田耕作先生の業績を語る会」に行った。2022年12月に89歳で亡くなったアジア文化史研究者・前田耕作先生を偲んで、多くの関係者たちが先生の業績を語り合うシンポジウムである。

 私が前田先生に初めて接したのは9年前、カルチャーセンターで「ギボン『ローマ帝国衰亡史』を読む」という講義を受講したときである。この講義は全10巻(ちくま学芸文庫)の8巻目に入った昨年春、先生の入院で中断した。その他にも「プルタルコス」「ローマの宗教」「ローマ皇帝群像」「ルネッサンスの異教秘儀」「弥勒」などいろいろな講義を受講した。2018年には先生が同行するシチリアの古跡を巡るツアーにも参加した。

 先生の講義を受講して、すぐに感じたのは「学者の凄さ」だった。どんなことに関しても造詣が深く、この先生は何でも知っているのではなかろうかと感じた。私は学問の世界に縁のない人間で、人文系の学者と接する機会がなかったので、学問の世界の底深さに驚いたのである。

 前田先生はローマ史の専門家ではない。若いときにアフガニスタンの学術調査に携わり、バーミアン遺跡などの文化財保護活動に尽力したことで知られている。本日のシンポジウムでもバーミアン絡みの話題が多かった。

 そんな話のなかで、先生より12歳下の後輩学者が「<夢想・歴史・神話/宗教>を結ぶ“前田学”の原点」と題した、先生の学問の基盤の紹介が興味深かった。現象学、言語学、図像学など私には馴染みのない難しそうな世界の話だったので、十分に理解できたわけではないが…。

 先生の専門が何であったか、私にはよくわからない。新聞などの表記は「アジア文化史」が多いが「ユーラシア思想史」や「東洋美術史」などもある。以前、酒席で先生にお尋ねすると「インド以外のアジア文化史」と返ってきた。アジアと言っても先生の著書『アジアの原像』はヘロドトスの話だからヨーロッパにも食い込んでいる。私が受講した講義の大半は古代ローマ史関連である。

 先生から「一人の研究者が読める史料には限界があるので、おのずと歴史研究者の専門範囲は限られる」と聞いたこともある。だが、先生は専門を狭く限定するのでなく、文化の交流という広がりのある歴史を探究していた。「文明の十字路、混成文化の発信地」と言われるアフガニスタンの学術調査からスタートしたことが、視野の広い学風につながったのだと思う。「日本の学界からは距離を置いていた。行動する学者だった」というシンポジウムでの指摘が印象深い。

マクベスの翻案『蜘蛛巣城』は若い夫婦の物語2023年02月26日

 神奈川芸術劇場で『蜘蛛巣城』(上演台本:斎藤雅文、赤堀雅秋、演出:赤堀雅秋、出演:早乙女太一、倉科カナ、他)を観た。シェイクスピアの『マクベス』を戦国時代の日本に翻案した黒澤映画『蜘蛛巣城』(1957年)の舞台版である。

 私は小学3年か4年の頃(60年以上昔だ)、この映画を観ている。そのなかの二つのシーンは今も頭の中に強く残っている。霧の中で魔女の老婆が『蜘蛛巣城の大将さん、蜘蛛巣城の大将さん』と予言をするシーンと、狂った山田五十鈴が手を洗いながら『洗っても、洗っても……』と叫ぶシーンである。不気味で怖い情景の強烈な印象は幼い子供の頭に焼き付きやすい。

 あの映画が『マクベス』と知ったのは後年である。その映画をベースにした芝居が上演されると知り、どんな舞台なのか関心がわいて劇場に足を運んだ。幼少期の怖かった印象を追体験したいと思ったわけではないが、かすかに期待していたかもしれない。

 映画『蜘蛛巣城』の脚本は小田英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明が担当し、それをベースにした演劇は斎藤雅文の脚本で2001年に新橋演舞場で上演されたそうだ。今回の上演台本は、斎藤雅文の脚本に赤堀雅秋が手を入れたものだ。

 映画『蜘蛛巣城』の二つのシーン以外の記憶は薄らいでいるし、新橋演舞場の舞台は観ていないので身勝手な印象になるが、今回の『蜘蛛巣城』はかなり現代化されていると思った。20世紀の戦争や今般のウクライナ戦争と重なって見えるシーンもある。戦争はいつの時代にもある人類普遍のテーマなのだ。

 シェイクスピアの芝居のなかでは『マクベス』が一番面白いと私は思っている。成り上がった末に予言に裏切られて破滅する物語は、よくできている。今回の舞台は若い夫婦の家庭劇の趣があり『マクベス』の新たな切り口を観た。

 幼少期の私の頭に刻印された二つの不気味なシーンは、私の頭に残っている映画のシーンとは少し違っていた。幼少期の強烈な印象の追体験は成らなかったが、銀粉蝶の魔女は十分に不気味だった。