別役劇『メリーさんの羊』はミステリー風の夢幻劇2025年04月06日

 下北沢の小劇場楽園で山の羊舎公演『メリーさんの羊』(作:別役実、演出:山下悟、出演:山口眞司、清田智彦、白石珠江)を観た。別役劇である。戯曲は未読だが、鉄道模型が「メリーさんの羊」を歌いながら走る芝居だと聞いた気がする。

 小劇場楽園は50程の客席が角度90度で二つに分かれ、四角い舞台の2辺が客席に面している。変形舞台だが、客と役者の距離が近いのが小劇場ならではの魅力だ。

 舞台には大きな食卓があり、紅茶のカップやポットなどがやや雑然と置かれている。食卓の上には鉄道模型のレールが敷かれ、列車が周回している。駅員の服装をした高齢の男が現れ、笛を吹くと列車は止まる。この男が主人のようだ。しばらくして、トランクを持った旅行者風の若者が登場する。

 主人の男は元駅員である。男と若者のおかしな会話で芝居は進行する。男は多くの死者が出た過去の重大鉄道事故の思い出を話す。鉄道模型の駅にホームに立つ人形と現実の人間が錯綜してくる。不条理劇というよりはミステリーに近い。

 模型の列車が走るテーブルの上の世界は、男の脳内世界が外部化されたように見えてくる。それは牧歌的なメルヘン風景の世界であり、そこに不気味な情景が二重写しになる。夢幻の世界とはこんな世界だという気がしてくる。

 模型の列車がメリーさんの羊を歌いながら走るシーンはなかった。私の勘違いだったようだ。若者が去った後、テーブルの上を周回する列車を眺めながら、男はメリーさんの羊の冒頭を低く口ずさむ。

『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』を観て新たに気づいたこと2025年03月24日

 歌舞伎座で『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』を、11時開演の「昼の部」から「夜の部」の21時02分終演まで連続で観劇した。今回の公演は「Aプロ」「Bプロ」があり、一部の役者が入れ替わる。私が観たのは「Bプロ」である。「通し狂言」と言っても全十一段すべての上演ではない。演目は以下の通りだ。

〔昼の部〕
 大序  鶴ヶ岡社頭兜改めの場
 三段目 足利館門前進物の場
     足利館松の間刃傷の場
 四段目 扇ヶ谷塩冶判官切腹の場
     扇ヶ谷表門城明渡しの場
 浄瑠璃 道行旅路の花聟
〔夜の部〕
 五段目 山崎街道鉄砲渡しの場
     山崎街道二つ玉の場
 六段目 与市兵衛内勘平腹切の場
 七段目 祇園一力茶屋の場
 十一段目 高家表門討入りの場
      高家奥庭泉水の場
      高家炭部屋本懐の場
      引揚げの場

 かなり長時間の観劇だったが、さほど長く感じなかった。開演前の「口上」と「大序」で観劇気分が盛り上がるが、大長編のダイジェストを観た気分である。

 私が初めて『仮名手本忠臣蔵』を観たのは、1986年2月の歌舞伎座の「通し狂言」で、今回とほぼ同じ演目だった。39年前のあの芝居が、私の歌舞伎座初体験だった。「昼の部」と「夜の部」を別の日に観た。市川團十郎(12代目)、片岡孝夫(現・仁左衛門)、坂東玉三郎が中心の舞台だった。

 9年前の2016年には、国立劇場で三部に分けて全11段を上演した公演を第1部、第2部、第3部とも観た。その他にも有名場面は何度か観ていると思う。仮名手本忠臣蔵関連の本も何冊か読んだ。『仮名手本忠臣蔵』の内容はほぼ把握しているつもりだったが、忘却力が増進しているせいもあり、今回の観劇で新たに気づいた点がいくつかあった。以前に感じたことを忘れてしまっている可能性もあるが…。

 塩冶判官は、我慢の果てに限界に達して刃傷に及ぶ。だが、歌舞伎の塩冶判官は、浅野内匠頭とは少しイメージが違って、冷静で温厚な人物である。血気にはやって逆上する役割は若狭之助である。塩冶判官が高師直の挑発に乗って逆上し刃傷に及ぶのは、やや不自然に感じた。高師直が顔世御前から拒絶の文を受け取ったのが挑発の契機なのだが…

 今回初めて気づいたのは、高師直が顔世御前から文箱を受領するタイミングが、お軽(と勘平)のせいでズレてしまい、それが刃傷につながったという点である。お軽と勘平の道行の背景には、お軽との逢瀬のために主君の大事に居合わせなかった勘平の後悔があると思っていた。だが、お軽が逢瀬を急ぐばかりに文箱を早く届けたことの方が重大な失態だと気づいた。

 今回の観劇であらためて感じたのは、芝居に引き込まれるのは5段目、6段目、7段目であり、つまるところはお軽と勘平の物語である。考えてみれば、これはメインの四十七士の物語ではなく外伝に近い。『仮名手本忠臣蔵』が不思議な芝居に思えた。

青年座の『Lovely wife』はブラック・コメディ2025年03月11日

  本多劇場で劇団青年座公演『Lovely wife』(作・演出:根本宗子、出演:高畑淳子、岩松了、他)を観た。

 根本宗子は35歳の劇作家・演出家・元女優である。私はこの芝居のチラシで初めてこの人を知った。『Lovely wife』は彼女が青年座のために書いた新作だそうだ。チラシには、芝居の内容に関する記述が全くない。題名と出演者だけの情報でチケットを購入したのは、未知の若い作家の新作に接するのも一興だと思ったからである。

 題名とチラシの写真から、ホーム・コメディだろうと想像した。確かにホーム・コメディに近かった。笑える場面が多い。だが、かなり苦い。ブッ飛んだ展開もある。チラシ写真のようなラーメンを食する場面はなかった。演劇ならではの仕掛けを駆使した面白い芝居だった。

 65歳になった夫婦を巡る話である。妻の秋江(高畑淳子)は編集者、夫(岩松了)は作家である。昔、若い女性編集者(秋江)が若い作家を担当し、二人は結婚する。夫は売れっ子作家となり、他の若い女性編集者との浮気をくり返す。いまや、夫婦の間は冷え切っている――という設定である。

 芝居の冒頭近く、秋江と幼馴染の親友(伊勢志摩)との会話シーンがある。独身の親友は売れっ子の装丁家である。気の置けない親友同士の楽しげな会話だが、その内容は尋常でない。装丁家は自身が同性愛者だとカミングアウトし、恋愛対象が親友の秋江だったと告白する。同性愛者でない秋江は、65歳になってからの幼馴染の告白に驚く――といっても、スゴク驚いているようには見えない。

 装丁家は秋江に「あんな亭主と別れて自分と一緒に暮らそう」と提案する。秋江にとっても検討の余地のある提案のようだ。この導入部を観て、一体どんな展開になるのやらと驚いた。だが、同性愛方向に話が進展するわけではなく、装丁家は芝居全体のコミカルな舞台回しだった。

 この芝居は、現在の場面に過去の追憶場面が重なる。追憶場面では若い役者が夫婦を演じる。だが、装丁家だけは現在も追憶場面も同じ役者である。過去と現在を自在に行き来するのだ。

 舞台回しだけでなく回り舞台も活用している。舞台が回ると「夫妻の居間」「カフェ」「ホテルの宴会場」に場面が転換する。夫は、都合が悪くなると舞台の回転を命じて自ら場面転換を図る。だから、舞台は何度も回る。場面転換と現在・過去を錯綜させながらテンポよく芝居が進行する。こんな方法があったのだと感心した。

女歌舞伎『新雪之丞変化』は華やかなアングラ劇2025年03月09日

 下北沢ザ・スズナリでProject Nyx公演・女歌舞伎『新雪之丞変化』(原作:三上於菟吉、作:白石征、構成:水嶋カンナ、演出:金守珍、出演:水嶋カンナ、寺田結美、森岡朋奈、小谷佳加、佐野美幸、もりちえ、浜田えり子、染谷知里、紅日毬子、本間美彩、いまいゆかり、他)を観た。

 『雪之丞変化』は、1934年(昭和10年)に『朝日新聞』に連載された人気時代小説で、何度も映画化・舞台化されてきた。だが、私は題名を知っているだけで、これまでに読んだことも観たこともなく、ほとんど予備知識なしに観劇した。休憩なしの2時間、アングラと歌舞伎が融合した妖しくも華やかな舞台に魅了された。

 江戸末期、大塩平八郎の乱の後の12代将軍家慶の頃の話である。歌舞伎の花形女形役者・雪之丞が、長崎で殺された親の仇を江戸で討つ復讐譚である。その復習譚に、雪之丞に惚れる奥女中、女盗賊、悪徳役人、悪徳商人などが絡んで話が展開する。どんでん返しもある。

 ストーリーも面白いが、場面転換ごとに繰り広げられる舞踏パフォーマンスが素晴らしい。あでやかな和服の女性たちがロックで乱舞する。幕間の暗闇でマッチの灯りをかざし、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)と朗詠したりもする。

 女歌舞伎と銘打っている通り、出演者は全員女性である。雪之丞は花形女形役者なので男性だが、それを女性が演じているからややこしくて面白い。髑髏や狐面が頻出し、不気味な気配を盛り上げている。

 士部山斎という悪党には迫力があった。片目を黒い仮面で覆い、髑髏を手に怪しく笑う異形は、いかにもアングラという雰囲気だ。演じた女優・小谷佳加が、昨年末に観た文化座の『しゃぼん玉』で気のいいオバチャンを演じていた俳優だと知って驚いた。

二月大歌舞伎の昼の部も観た2025年02月24日

 歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」昼の部を観た。先日、夜の部を観劇し、昼の部の「きらら浮世伝」も観たくなったのだ。昼の部の演目は次の三つ。( )は上演時間である。

 1. 鞘當(23分)
 2. 醍醐の花見(27分)
 3. きらら浮世伝(第1幕61分、第2幕61分)

 上演時間2時間の「きらら浮世伝」は今年の大河ドラマの蔦屋重三郎の話である。この演目の元は歌舞伎ではなく、1988年に銀座セゾン劇場で上演した演劇(作:横内謙介、演出:河合義隆)だそうだ。当時、蔦屋重三郎を演じたのは先代の中村勘九郎(18世勘三郎襲名の前)だった。それを歌舞伎にした今回の舞台(作・演出:横内謙介)で、蔦重を演じるのは当代の勘九郎である。

 そんな経緯を知ったので「きらら浮世伝」を観たくなった。普通の芝居の歌舞伎化だからわかりやすそうだ。37年前の舞台を観ているわけではないが、当代の勘九郎が亡き父親の芝居を踏襲・更新する様に興味がわいた。

 「きらら浮世伝」は期待通りに面白かった。蔦重(勘九郎)と吉原の遊女・お篠(七之助)の二人と、蔦重を応援する戯作者&武士の恋川春町(芝翫)の三人がメインの一代記的な芝居である。当時の著名人が多数登場するのが楽しい。喜多川歌麿、山東京伝はすでに売れっ子、滝沢馬琴、葛飾北斎、十辺舎一九はまだ無名だ。

 で、写楽をどう扱うかが気になる。第2幕はまさに写楽をめぐる展開だった。タイトルの「きらら」は写楽の浮世絵を指している。写楽に醜く描かれてクレームをつける役者(中山富三郎)を勘三郎が演じる場面もある。

 この芝居は写楽の正体を提示してはいない。写楽絵で満たされた背景の前の花道で蔦重が写楽絵そっくりの見得を切って終わる。蔦重を巡る時代精神の結集が写楽を産んだと語っているように見えた。

 「鞘當」は「恋の鞘当て」の語源にもなった場面である。二人の武士(巳之助、隼人)と止め女(児太郎)の活人錦絵を楽しめた。

 舞踊がメインの「醍醐の花見」では、満足気に桜を愛でる秀吉(梅玉)の姿を眺め、めでたい気分にならざるを得ない。

『蒙古が襲来』の舞台は対馬2025年02月20日

 パルコ劇場で東京サンシャインボーイズ復活公演『蒙古が襲来』(作・演出:三谷幸喜、出演:梶原善、西村まさ彦、相場一之、他)を観た。30年前に休眠(事実上の解散)した三谷幸喜氏の劇団・東京サンシャインボーイズが30年前の「公約」通りに結集した一回限りの復活公演だそうだ。

 私は東京サンシャインボーイズの芝居を観たことはない。チケットが取りにくい人気劇団だったそうだが、30年前の私はその存在も知らなかった。三谷幸喜氏が手掛けた映画やテレビドラマは何本も観ているが、舞台はほとんど観ていない。

 東京サンシャインボーイズという劇団に思い入れのない私が『蒙古が襲来』を観たいと思ったのは、蒙古襲来時の対馬を題材にしていると知ったからである。私は対馬に行ったことはないが、対馬の特異な歴史に関心がある。機会があれば訪問したいと思っている。モンゴルの歴史や蒙古襲来も私の関心分野だ。

 もちろん、普通の意味での歴史劇を期待したわけではない。三谷幸喜氏らしいひねりの効いたコメディ仕立てだろうと予感した。対馬という遠い前線の島での蒙古襲来をどんな切り口でドラマにしているか興味がわいた。蒙古に拉致された対馬の村民を描いた井上靖の短編『塔二と弥三』を想起した。

 背景に海が見える対馬の漁村が舞台である。そこに鎌倉の偉い武士が視察に来る。蒙古襲来の兆しがないかの実地調査である。多少の兆しはあるのだが、村民の幹部たちはそれを隠蔽する。なぜだか、蒙古が来襲する兆しはないと言い張る――という設定の芝居である。

 観終わって、私はやや不満だった。蒙古襲来という歴史的事実を的確に表現し、メッセージ性もある。だが、隠蔽の経緯に関わる物語の部分が説得力に乏しい。コメディとしてはあまり楽しめなかった。

 とは言え、東京サンシャインボーイズのファンには十分に楽しめる舞台だろうとも思えた。いろいろ仕掛けがあったようだ。配役リストには14人の役者が載っているのに、舞台上には13人しかいない。全員登場の場面で何度か数えたが、確かに13人だ。不思議だなと思った。帰宅後、購入したプログラムを読んで判明した。最後の方に声で少しだけ応答する「大宰府からの客人」という人物がいた。その声だけの役者・伊藤俊人もリストに載っているのだ。この役者は2002年に急逝、過去の舞台の音声を編集して声だけで「出演」していたのだ。

 事情を知らない私は、この客人が姿を見せないのが不思議だった。配役リストにある伊藤俊人が故人だと知っている観客なら、故人にアテ書きされた登場人物を推測しながら観劇したのだろう。そう思って芝居全体を振り返るとナルホドと思える点もあり、見方が少し変わってくる。

二月大歌舞伎の「人情噺文七元結」が面白い2025年02月18日

 歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」夜の部を観た。「猿若祭」とは初世猿若勘三郎を記念する公演だそうだ。夜の部の演目は次の三つ。どれも、私には初めての演目である。

 1. 壇浦兜軍記 阿古屋
 2. 江島生島
 3. 人情噺文七元結

 「阿古屋」は源氏の重忠(菊之助)が、平家の景清の行方を聞き出すために遊君・阿古屋(玉三郎)を詮議する話である。詮議の方法が、琴・三味線・胡弓を奏でさせるというのが面白い。奏でる音が澄んでいるから、証言に偽りはないと判断する。歌舞伎らしい話だ。楽器を奏でる玉三郎の姿が見せ場である。

 「江島生島」は菊之助と七之助の舞踏劇だった。七之助の女形は美しい。

 「人情噺文七元結」はわかりやすくて面白い。円朝の物語的な落語がベースの人情噺である。よくできたハッピーエンドの話だ。オー・ヘンリーを連想した。主役は文七ではなく左官の長兵衛である。長兵衛夫妻を勘九郎と七之助の兄弟が演じている。この二人の絡みは、楽しく演じているように見える。勘九郎が父の18代勘三郎に似ていると感じた。

何事も起こらない老人芝居『八月の鯨』2025年02月12日

 紀伊國屋サザンシアターで劇団民藝公演『八月の鯨』(作:デイヴィッド・ベリー、訳・演出:丹野郁弓、出演:樫山文枝、日色ともゑ、他)を観た。

 半世紀以上昔の学生時代、劇団民藝の舞台を二つ観た。それ以降の長い間、この老舗劇団の芝居は私の関心外だった。だが昨年、数十年ぶりに『オットーと呼ばれる日本人』を観たのに続いて、今年もまた劇団民藝の舞台を観ることになった。われながら意外である。きっかけは、先月の「渡辺えり古稀記念2作連続公演」で観た『鯨よ!私の手に乗れ』である。渡辺えりがパンフレットに次のように書いていた。

 「母のことを書こうと思った頃に劇団民藝の『八月の鯨』を観た。高齢の姉妹が鯨の訪れを待ち、恋にあこがれる姿がチャーミングで残酷で美しかった。」

 渡辺えりが観たのは12年前(2013年)の民藝公演である。この文章を読んだのとほとんど同時に『八月の鯨』の12年ぶりの再演を知った。これも何かの縁だと思ってチケットを入手した。『鯨よ!私の手に乗れ』は、渡辺えりの家族物語を軸に母の歴史と幻想世界が交錯する不思議な舞台だった。あの「アングラ劇」に「新劇」がどのように反映しているかを確認したくなったのだ。『鯨よ!私の手に乗れ』は『欲望という名の電車』のシーンも取り入れていた。

 米国の劇作家デイヴィッド・ベリーの『八月の鯨』は1987年に映画にもなり、大ヒットしたそうだ。避暑地の島の別荘で夏を過ごす老姉妹の話である。気位の高い姉は86歳、その世話をする妹は75歳。時は1954年8月。この姉妹の生活に、知人女性、老いた修理工、自称元ロシア貴族などが絡んでくる。

 姉を演じるのは樫山文枝、妹を演じるのは日色ともゑである。私のような団塊世代にとって、この二人は朝の連続テレビ小説の若いヒロインのイメージが強い。だが、二人とも現在83歳、この芝居の姉妹を演じるのにふさわしい。

 この芝居に大きな事件や意表を突く展開はない。ささやかな波風が立つ出来事が時おり発生するだけの世界である。表面的には穏やかな日常生活が進行していく。

 かつて、8月になるとこの別荘から鯨を見ることができた。鯨が来なくなって久しい。だが、二人は鯨が来るのを待っている…。チエホフの世界を彷彿とさせる芝居だった。

三島由紀夫を語る村松英子と宮本亜門の対談が面白い2025年02月03日

 今年は三島由紀夫生誕100年である。生きていれば、2025年1月14日が百歳の誕生日だった。この日、「三島由紀夫生誕百年のつどい」というイベントが開催されたそうだ。Youtube で視聴できると知り、2時間半のこの番組を視聴した。

 私は憂国忌に関心はないが、三島由紀夫は同時代性を感じる気がかりな作家である。3つの講演と1つの対談からなるこのイベントは面白かった。全般に、三島の死を政治的な死ではなく文学的な死と見なしている。その通りだと思うが、その文学的な死を神話に昇華させる見解には少し驚いた。

 最も興味深かったのは、三島の演劇について語り合う村松英子と宮本亜門の対談である。舞台背景には、60年前(1965年)に撮影した村松英子と三島由紀夫のツーショット写真を投影している。登壇したた村松英子は86歳である。その元気な姿に感嘆した。

 村松英子は三島の友人・村松剛の妹で、三島の戯曲によって育てられた女優である。私は18年前(2007年)、彼女が演出・主演した『薔薇と海賊』を観た。彼女の舞台を観るのはそれが初めてだった。おそらく最後だと思う。

 宮本亜門は『金閣寺』『午後の曳航』などの小説を舞台化している。私は2016年に彼が演出した『ライ王のテラス』を観た。今年は『サド侯爵夫人』に挑戦するそうだ。楽しみである。

 二人の対談は、宮本亜門が村松英子から三島の思い出を聞くという形で進行した。多くの小説や戯曲を書き、自身の戯曲だけでなく生き方や死に方までも演出した三島由紀夫という人物は、やはり興味深い。

 三島が、シェイクスピアの悲劇を男中心の新国劇として敬遠したという話は面白い。ボディビルで鍛えた肉体は、実は物を持ち上げたりする力はないとも語っていたそうだ。精神と肉体の二元論に拘泥し、肉体の側に立つことをよしとした三島の愉快なエピソードだ。

 『鏡子の家』のモデルに関する村松英子の話も興味深かった。いままで鏡子のモデルとされてきた人物は、本人がそう主張しているにすぎず、その人物の妹が本当のモデルだそうだ。村松英子の兄・村松剛が書いた『三島由紀夫の世界』も間違えた人物をモデルとしていた。

「神韻」は法輪功の舞踏劇だった2025年01月24日

 J:COMホール八王子で「神韻(シェンユン)日本公演2025」という舞踏劇を観た。新聞で「神韻」の全面広告を見たときは、私の関心外の舞台だと思ってスルーした。だが、出不精の家人が観たいと言い出した。ケイト・ブランシェットが「極上の美しさ」と推薦しているのに惹かれたらしい。で、チケットを手配することになった。

 チケットと共に送付されてきたチラシなどで得た観劇前の予備知識は以下の通りだ。

 ・神韻はニューヨークを拠点にした中国人の舞踏団のようだ
 ・「北京が恐れる舞台」と銘打っている
 ・共産党政権下で失われた伝統文化復興の公演らしい
 ・アクロバットのような華やかな中国の古典舞踏のようだ

 そんな予備知識から『長安の春』(石田幹之助)などで読んだ胡旋舞を連想した。唐の時代から続く舞踏なら一見の価値があるかなと思った。

 公演の当日、ロビーのグッズ売り場に「法輪大法」の書籍があるのを発見し、神韻は法輪功だと気づき、ナルホドと思った。釈然としなかったものが氷塊する気分になった。中国で一大勢力となって大弾圧を受けた法輪功が絡んだ公演なのだ。

 観劇後にネットで調べると「神韻は祖国を離れた北米在住の法輪功を信仰する華人たちにより、2006年にニューヨークで設立された」との説明があった。

 神韻の舞台は17の演目で構成されている。その都度、男女の司会者による簡単な演目紹介がある。舞踏劇がメインだが、テノール独唱、二胡独奏などもある。

 その舞台の特長は、新体操のようなパフォーマンスが繰り広げる華やかなスペクタルである。巨大なデジタル背景幕に目を見張った。単なる背景ではなく、精緻な風景のなかを演者たちが縦横に飛び回る動画にもなる。動画の演者がスムーズに舞台上の生の演者にすり替わる仕掛けを多用している。デジタル背景だから舞台転換は瞬時だ。

 演目は古典舞踊、孫悟空や李白が登場する舞踏劇だけでない。現代中国が舞台の演目もある。法輪功の弾圧場面などを描いてた舞踏劇である。そして、最後の演目「創生主の到来」は、現代都市上海が巨大な津波に飲み込まれ、創生主(お釈迦様のようにも見える)が来迎し、人々が天上界に救済されるような内容だった。壮大な映像である。

 派手派手しくて有難い新興宗教じみた舞台を観て、不思議の国を垣間見た気分になった。