チャペックの『ロボット』の21世紀上演2024年11月24日

  シアタートラムで世田谷パブリックシアター企画制作の『ロボット』(原作:カレル・チャペック、潤色・演出:ノゾエ征爾、出演:水田航生、朝夏まなと、渡辺いっけい、他)を観た。100年以上昔の1920年に書かれた芝居である。

 私は観劇に先立って岩波文庫版の千野栄一訳を読み、60年前の『SFマガジン』に載った深町真理子訳にも目を通した。今回の上演は栗栖茜訳を潤色している。

 ロボットという言葉がチャペックの『RUR』という作品に由来していると知ったのは、SFにはまった高校生の頃だ。当時の私にとって『RUR』は幻の作品だった。だから、『SFマガジン』(1964年8月臨時増刊号)に『RUR』が載ったときには驚喜して読み、この作品が戯曲なのに驚いた。そして、やはりクラシックな内容だなと感じた。あのとき、この作品を舞台で観る機会が訪れるとは夢にも思わなかった。半世紀以上昔のことだ。

 今回の観劇では、あのクラシックな作品を21世紀に向けてどんな形で提示しているかに興味があった。

 原作戯曲は序幕&三幕であり、「序幕と第二幕のあとで休憩」というこまかな指示まで入っている。今回の上演は休憩なしの2時間に圧縮していて、テンポがいい。笑えるシーンも織り込まれている。原作を大きく改変しているわけではないが、古臭い雰囲気は薄れている。シンプルで抽象的な舞台装置が現代的だ。だがやはり、人物造型や状況設定にクラシックなものを感じる。普遍的な作品と言い換えられるかもしれないが。

 労働のために造ったロボットをより人間に近づけるように改造していくと、ロボットたちは人間に対して反乱を起こす。ロボットという言葉の誕生と同時に、ロボットのそんな側面が宿命づけられていたことに、あらためて感じ入った。

 この舞台は、生き残った最後の人間がロボットのアダムとイブを世界に送る出すシーンで終わる。だが、今回の上演のラストシーンにはアダムやイブという言葉は出てこない。聖書にしばられた西欧文化的な見方の克服に見え、感心した。

 だが、「愛は生命工学を凌駕する」「愛こそが再生への希望」といったやや陳腐なメッセージには少し鼻白んだ。別の終わり方のアイデアが私にあるわけではない。だが、もう一工夫ほしいと感じた。

 カーテンコールになって、舞台装置が「最後の人間」の墓碑に組み換えられていくのには驚き、ナルホドと思った。再生するのは人間ではなくロボット(AI)なのだ。

『ロボット(R.U.R.)』を半世紀ぶりに再読した2024年11月19日

『SFマガジン 1964年8月臨時増刊号』、『ロボット(R.U.R.)』(チャペック/千野栄一訳/岩波文庫)
 今週末『ロボット』という芝居を観る予定だ。チャペックの有名作『RUR』の上演である。ロボットという言葉は、チェコ語のrobota(賦役)が語源で、1920年に発表されたこの作品から生まれた。

 私は半世紀以上昔、この戯曲を『SFマガジン』で読んでいる。内容はほとんど失念している。ロボットの反乱の話だとの記憶はある。この作品が戯曲という珍しい形式だったことが強く印象に残っている。

 観劇前に岩波文庫版を入手して再読した。

 『ロボット(R.U.R.)』(チャペック/千野栄一訳/岩波文庫)

 この文庫を読んだ後、念のために本棚の奥底の古いSFマガジンを探索した。処分した号も多いのだが『RUR』が載った1964年8月臨時増刊号(60年前だ)は残っていた。「名作古典」と紹介されている。深町真理子訳なので重訳かもしれない。岩波文庫版と突き合わせてみて、多少の食い違いに気づいた。SFマガジン版が簡略化されている箇所があり、その逆のケースもある。戯曲は上演のたびに変化することもある。いくつかの版があるのだと思う。

 チャペックの元祖ロボットは機械人形ではなく合成人間である。その工場は薬品などを駆使する化学工場だ。昔読んだときは、フランケンシュタインに近いクラシックで古臭い設定だとの印象を受けた。だが、生命工学が発展しつつある現在では、合成人間製造の生化学工場の方が機機械工場より新しいと感じる。

 この戯曲を読みながら、半世紀以上昔の初読のときの印象が少しよみがえってきた。私はロボットを労働者の寓意だととらえ、この作品は寓話SFだと思った。『RUR』が発表されたのはロシア革命の数年後だった。

 今回の再読で、単純な寓話とは言えないと感じた。ロボットの反乱によって、ただ一人を除いてすべての人間が殺されてしまう。しかし、ロボットたちは自身の再生産の手段を知らず、ロボットも絶滅の危機を迎える。そしてラストシーンで、ロボットのアダムとイブが人間として再生すると予感させる。寓話というよりは神話である。

 このやや不自然な設定の物語は、小説ではなく舞台でなければ表現しにくいだろうと思えた。観劇予定の『ロボット』のチラシには「2024年に生きる人々に向けて、シニカルかつ不条理なドラマとして転換し、現代の物語としてお届けします。」とある。百年前の戯曲をどう料理するのか楽しみである。

ギリシア悲劇をアレンジした『テーバイ』2024年11月12日

 新国立劇場小劇場で『テーバイ』(原作:ソポクレス、構成・上演台本・演出:船岩祐太、出演:植本純米、今井昭彦、他)を観た。

 ソポクレスのギリシア悲劇三作品「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」を一本に再構成した芝居である。

 私は「オイディプス王」を2回観ている。4年前の海老蔵(当時)の『オイディプス』と昨年の三浦涼介の『オイディプス王』である。海老蔵のオイディプスは背広姿で、設定は感染症で閉ざされた近未来都市だった。三浦涼介のオイディプスはかなりオーソドックスでギリシア悲劇の雰囲気を味わえた。

 因縁物語の原型のような「オイディプス王」は何度観ても楽しめる芝居である。他のギリシア悲劇は戯曲を読んだだけで舞台を観たことはない。ソポクレスの現存戯曲は7編だけで、文庫本1冊に収められている。4年前に読んだが、すでに記憶は朧だ。今回の『テーバイ』を観る前に上演台本の元になる3編を読み返した。これらの作品に限らずギリシア悲劇の多くは、作者のオリジナル創作というよりは伝承の再構成である。だから、同じ人物があちこちに登場する。

 「オイディプス王」は、スフィンクスを倒してテーバイの王となったオディプスが、自分が殺したのが実の父、結婚相手が実の母と知って絶望する話である。母は首を吊り、オイディプスは自ら両目を潰し、自身をテーバイから追放する。

 「コロノスのオイディプス」はその後日譚である。盲目のオイディプスは娘アンティゴネに手を引かれ、各地をさまよった末にアテネ郊外のコロノスにたどり着き、その地で生涯を終える。

 「アンティゴネ」はさらなる後日譚だ。オイディプス後、テーバイを統治するオイディプスの二人の息子は諍いによる相打ちで二人とも死ぬ。王妃の弟クレオンが王になり、オイディプスの息子兄弟の弟は埋葬するが兄の埋葬を禁ずる。反逆者と見なしたからである。しかし、妹(オイディプスの娘)アンティゴネは禁を破って兄を埋葬しようとし、クレオンの怒りを買う、という話である。

 「コロノスのオイディプス」と「アンティゴネ」は戯曲を読んでもさほど面白くはない。いまいち納得しがたいのだ。だが、今回の再構成作品『テーバイ』は、三作品をテンポのいい一つの舞台(2時間40分。休憩15分を含む)にまとめている。結果的にクレオンが軸になり、統治の悲劇が繰り返される物語という形で、何となく納得させられた。

 開演時間前から芝居を始める趣向は面白い。客席の照明がまだ灯っていて、携帯電話オフの注意アナウンスが流れる中で、舞台には俳優が登場し、台詞のないプロローグのような場面を演じ始める。なしくずし的に劇中に誘われていく。

 舞台装置や衣装は古代ギリシアでなく現代風である。オイディプスの王宮は19世紀頃の植民地インド総督府のオフィスのような雰囲気だ。オイディプスは白いスーツ姿で、彼が発する布告は傍らの秘書がカシャカシャとタイプライターに打ち込む。

 王宮オフィス以外の舞台はシンプルで抽象的だ。台詞はソポクレスをそのまま使用している。コロスはなく、わかりやすい対話のストレートプレイになっている。ギリシア悲劇の骨格の普遍性を表現するアレンジである。

 王宮オフィス舞台の正面には大扉があり、多くの役者はそこから出入りする。外界のニュースも大きなノック音とともにその扉からもたらされる。王宮オフィスが世界から孤絶した空間のようにも感じられた。

やっと三人吉三を舞台で観た2024年11月09日

 十一月歌舞伎座特別公演を観た。11月恒例の顔見世ではなく、「ようこそ歌舞伎座へ」と題した新観客開拓をめざした特別公演である。冒頭、映像による歌舞伎座の舞台裏紹介や入門的イベントがあり、面白かった。続く演し物は若手役者中心の『三人吉三巴白浪』と『石橋(しゃっきょう)』である。客席には高校生や外国人観光客の団体が目立った。

 私の目当ては『三人吉三巴白浪』だ。私は、まだ歌舞伎で「三人吉三」を観たことがなく、観劇の機会を窺っていたのである。

 「三人吉三」を知ったのは約60年前の中学生の頃だ。1963年、橋幸夫の「お嬢吉三」が大ヒットし、テレビやラジオで繰り返し流れた。当時、橋幸夫は大スターだった。私は橋幸夫の青春歌謡は好んで聴いたが、股旅モノは苦手だった。「お嬢吉三」も好みではなかった。古臭いと思った。しかし、なぜか耳に馴染み、歌詞も自然に頭に残ってしまった。お嬢吉三が何者かを知らないままに、その名前は記憶に刻まれた。

 いま「お嬢吉三」を聴き返すと、軽快でいい曲である。歌詞の調子もいい。最後まで聴くと、お嬢吉三・お坊吉三・和尚吉三の三人が順番に登場し、頭の中に芝居の情景が浮かんでくる。

 三人吉三がどんな話か確認するため、歌舞伎台本『三人吉三廓初買』(河竹黙阿弥)を読んだのは6年前だ。しかし、観劇の機会がないまま月日が過ぎた。

 今回の公演は「大川端庚申塚の場」のみである。七五調の名調子「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」で始まり三人が出会う、という最も有名な場だ。和尚吉三が中心の三角形の見得を観ると、歌舞伎を観たという気分になり、それだけで満足した。

 それにしても、夜鷹を川に突き落として「やれ可哀そうなことをした」と言いつつも「こいつあ春から縁起がいいわえ」とは、非道い話である。死をもてあそぶような舞台に「痴呆の芸術」(谷崎潤一郎)という言葉を想起した。痴呆が芸術にとどまっている限りは結構なことなのだが。

林芙美子の戦中・戦後を描いた『太鼓たたいて笛ふいて』2024年11月03日

 紀伊国屋サザンシアターでこまつ座公演『太鼓たたいて笛ふいて』(作:井上ひさし、演出:栗山民也、出演:大竹しのぶ、高田聖子、福井晶一、天野はな、近藤公園、土屋佑壱)を観た。

 林芙美子の半生を描いた音楽劇である。林芙美子が『放浪記』で売れっ子作家になったのは1930年、27歳のときだった。戦時中は多くの作家と同じように軍の要請で戦地に赴いて現地報告などを発表する。戦後も精力的に作品を発表するが、1951年、心臓麻痺で急逝した。

 1935年から1951年までの林芙美子邸がメイン舞台である。満州事変が日中戦争に拡大していく時代から、敗戦後6年の林芙美子急逝までを描いている。登場人物は6人、その6人による合唱で幕が上がる。登場人物の紹介のような合唱に、「ドン」「ピッ」という間の手のような掛け声が入る。芝居がかなり進行してから、あの「ドン」「ピッ」は太鼓の音と笛の音だったのだと気づいた。

 この芝居は10年ぶりの5度目の上演で、初回(2002年)から大竹しのぶが主演だそうだ。私は初見である。戯曲も読んでいない。

 カンパのために芙美子邸を訪れた女性が島崎藤村の姪・島崎こま子なのには驚いた。やがて、芙美子邸に同居する。観劇後、どこまでが史実に基づいているのか気になり、少し調べた。多少の接点はあったようだがフィクションだと思う。こんな設定を考え出した井上ひさしの作劇の才に感服した。

 観劇前に林芙美子について検索した際、急逝のときのエピソードを知った。売れっ子作家の原稿を取りにきた編集者は、締め切り逃れの嘘だと思って「死んだふりはやめてください」と遺体の面布を剥がしたそうだ。このエピソードは芝居の取り入れられているだろうと推測したが、ハズレた。ラストはコメディではなくシリアスだった。

 この芝居は、従軍作家として戦争宣伝の文章を発表していた林芙美子が、戦地を巡るなかで戦争の実情を知り、太鼓をたたいて笛をふくことをやめる決断に至る話である。音楽劇にこめられたメッセージはシリアスだ。

100年以上昔の芝居に英国風を感じた2024年10月23日

 わが家から徒歩30分のせんがわ劇場で『ドクターズジレンマ』(作:バーナード・ショー、翻訳:小田島創志、演出:小笠原響、出演:佐藤誓、大井川皐月、他)を観た。

 19世紀から20世紀にかけての高名な文学者バーナード・ショーの作品を読んだことはない。ノーベル文学賞受賞者で多くの戯曲を書いたそうだが、その演劇を観たこともない。100年以上前にロンドンで初演された『ドクターズジレンマ』も初耳である。

 今回の戯曲は小田島創志氏による新訳だそうだ。チラシを見てもどんな話かよくわからない。近所の劇場での上演であり、バーナード・ショーはどんな芝居を書いているのか興味がわき、チケットを購入した。

 せんがわ劇場は客席百数十の小さな劇場である。以前に観劇したレイアウトとはかなり違っていた。舞台は台形で、それを囲む三方に客席をしつらえている。正面は2列、左右は7列だ。役者は四方から出入りする。客席と舞台が近いのがいい。役者の熱気が直に伝わってくる。稽古場で芝居を観ているような気分になる。

 2時間30分(休憩10分を含む)の芝居だった。6人の医師と若くて貧しい画家夫婦の話である。主人公はナイトの称号を得た高名な医師である。多忙なので新たな患者は受け付けない。そこに、画家の妻が結核の夫の診察を依頼に来る。医師は若い妻の魅力に惹かれて診察を受諾するが――というのが話の発端である。

 当初はコメディかなと思っていたが、そうでもない。シリアスとも言えない。100年以上前の英国の風俗習慣がわからないので、目の前のシーンが誇張なのかリアルなのか判断し難くなったりもする。

 エリート医師たちは患者が死ぬのは仕方ないと考えているようだ。患者を何人殺したかがステータスと思っているフシもある。作者のアイロニーだろう。観劇を終えて、この芝居は皮肉な悲喜劇だと思った。そして、これが英国風か、と感じた。

『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は不気味で面白い2024年10月07日

 吉祥寺シアターで劇団青年座公演『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』(作:別役実、演出:金澤菜乃英、出演:山路和弘、山本龍二、他」を観た。おかしくて不気味な別役ワールドを堪能した。

 舞台には「移動簡易宿泊所」の看板がある。面白い看板だ。旅人にとって、地図で確認できる灯台のような「固定宿泊所」こそが頼りだと思う。だが、考えてみれば、移動(遍歴)する人とともに移動する宿泊所の方が便利かもしれない。と言っても、どこに出現するかわからない宿泊所はあやふやで頼りない。この看板は、不思議世界に誘い込まれる秀逸な空間設定だ。

 『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は、ドン・キホーテとは大きく異なり、騎士は二人、従者も二人である。騎士はかなり年老いてヨボヨボである。そのくせに大食漢で、人殺しの技には長けている。しかも、ドン・キホーテとは逆に、従者より醒めた存在に見える。風車に突撃するのは騎士ではなく従者である。

 騎士と従者の他に、宿の亭主と娘、医師と看護婦、牧師が登場する。医師と看護婦は患者を求めてさすらい、牧師は葬儀を求めて医師たちの後を追うようにさすらっている。これらの人物が遭遇する移動宿泊所で最後まで生き残るのは、遍歴に疲れ果て、死に場所を求めているようにさえ見える騎士二人である。不条理というよりは、人の世のアイロニーが浮かび上がってくる。

戦争を終わらせられるかを問う『失敗の研究―ノモンハン1939』2024年09月23日

 紀伊国屋サザンシアターで青年劇場公演『失敗の研究―ノモンハン1939』(作:古川健康、演出:鵜山仁、出演:岡本有紀、矢野貴大、他)を観た。この劇団の芝居を観るのは『豚と真珠湾―幻の八重山共和国』以来2年ぶりだ。出版社の編集部が主な舞台の真面目なストレートプレイである。このテの芝居を観ると胸のあたりがこそばゆくなる。だが、退屈することなく面白く観劇した。

 時代は1970年。出版社の経理部から編集部に抜擢された女性編集者・沢田利枝が、1936年の「ノモンハン事件」を取材する話である。ノモンハンの企画は大物小説家・馬場貫太郎の発案によるもので、利枝はその取材を手伝う。だが、馬場は取材途中で執筆を断念する。それでも利枝は取材を続けるのだが……という展開である。プロローグとエピローグに、ノンフィクション作家になった現在(2024年)の利枝が登場する。

 ――そんな粗筋からは、中央公論社の経理部から編集部に異動になり、その後ノンフィクション作家に転身した澤地久枝や、ノモンハン小説を構想しながらも断念した司馬遼太郎を連想せざるを得ない。しかし、内幕モノの伝記芝居ではない。作者は、実在の人物をヒントに、ノモンハンを材料にして「どのようにして戦争が起きたのか」「どうしたら戦争を終わらせることができるのか」を追究している。戦争に関するメッセージ性の高い芝居である。

 1970年を舞台にしたこの芝居には、当時の内外のフォークソングが流れる。団塊世代の私にとっては懐かしい曲ばかりだ。編集者たちの会話も当時の世相を反映している。だが、そんなフォークソングや会話に、あの頃の若者だった私はかすかな違和感を抱いた。安易な類型で処理されているように感じる。時代を深く適格に表現するのは容易でないとは思うが。

 ノモンハン事件について、私は3年前に読んだ『ノモンハンの夏』(半藤一利)で知っているだけだ。その記憶も薄れかけている。この芝居は「ノモンハン事件」の概説でもあり、この悲惨な「戦争」をあらためて想起できた。あの「戦争」の「失敗の研究」が成されていれば、真珠湾を避けられただろうか。まったくわからない。

 「20世紀は戦争の世紀」と言われる。「21世紀も戦争の世紀になるのだろうか」というこの芝居のメッセージには慄然とした。

『朝日のような夕日をつれて2024』に驚いた2024年08月15日

 紀伊國屋ホールで『朝日のような夕日をつれて2024』(作・演出:鴻上尚史、出演:玉置玲央、一色洋平、稲葉友、安西慎太郎、小松準弥)を観た。

 私は鴻上尚史氏のエッセイはいくつか読んでいるが、芝居を観たことはない。『朝日のような夕日をつれて』という芝居の題名は聞いていたが、どんな内容かはまったく知らなかった。その有名作が上演されると知り、これまで縁がなかっった鴻上演劇を覗いてみたくなった。

 観劇後の感想は「驚いた」である。役者5人が高いテンションの早口で休憩なしの2時間しゃべり続ける。謳い続けるといった方が適切かもしれない。ストーリーは飛躍と錯綜に満ちている。内容はよくわからなかったが、男優5人の奮闘と芝居のエネルギーに圧倒された。

 『朝日のような夕日をつれて』は『第三舞台』の旗揚げ公演(1981年)作品で、鴻上尚史氏が22歳の時に初めて書いた戯曲である。その後、何度も上演を繰り返し、時代に合わせて改変してきたそうだ。今回の上演は2024年版である。

 冒頭では、チャットGTP、イーロンマスク、フェイスブックなどの言葉が飛び交い、ファイブGに関するギャグも登場する。鴻上氏より10歳上の高齢者である私にとっては、眩暈がしそうな展開だ。

 倒産の危機に瀕している玩具会社の話だと思って観ていると、なぜか『ゴドーを待ちながら』が浸透してくる。ゴドーも登場する。正確には、玩具会社の社員がゴドーに変異する。不条理劇というよりは、多重世界を詩的に謳いあげるような芝居だった。

8角柱8本の舞台が象徴的な『破門フェデリコ』2024年08月10日

 PARCO劇場で『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』(作:阿部修英、演出:東憲司、出演:佐々木蔵之介、上田竜也、那須凜、栗原英雄、六角精児、他)を観た。

 私は「世界の驚異」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フェデリコ(フリードリヒ)2世に関心がある。2カ月前には『フリードリヒ2世』(藤澤房俊)を読み、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生)を再読した。この皇帝を扱った「エルサレム和平・若き皇帝の決断」という番組を20年前にNHKが放映したと知り、昨年になってオンデマンドで視聴し、関連書も読んだ。

 そして、今年になってNHKBSで『パクス・ヒュマーナ:平和という“奇跡”』というドキュメンタリーを観た。第6回十字軍でエルサレムを無血開城したフェデリコ2世に焦点を当てた番組である。ナビゲーターの佐々木蔵之介が、フェデリコ2世が建てた8角形の城(カステル・デル・モンテ)を訪ね、往時の業績を偲ぶ内容だった。私は今月末、南イタリア旅行に行きカステル・デル・モンテを訪れる予定である。旅行を決断した要因のひとつはこの番組だった。

 だから、佐々木蔵之介主演の『破門フェデリコ』という芝居が上演されると知ったときは驚いた。南イタリア旅行の前に観劇したいと思ったが、すでに前売券は完売だった。しかし、何とか当日券をゲットし、昨日(2024.8.9)観劇できた。

 芝居のパンフレットによって、作者の阿部修英氏(テレビマンユニオン)は『パクス・ヒュマーナ:平和という“奇跡”』(2024.2.23初回放送)のディレクターだと知った。あの番組はこの芝居の企画と並行して制作したようだ。戦争の時代を終わらせて平和を希求するという理念は、番組にも芝居にも色濃く反映されている。

 『破門フェデリコ』は、私が想定した内容とは少し違っていた。史実をふまえてはいるが、メッセージ性の強い芝居になっている。大胆なデフォルメこそが演劇の魅力である。

 息子ハインリヒ(上田竜也)の造形は私の意表をついた。父親の器量を理解できないがゆえに教皇に利用され、反乱を起こして敗れ、目をつぶされ、後に崖から身を投げて果てた王子である。この芝居では、ハインリヒにかなり重要な役割を与えている。こんな描き方もあるのかと感心した。

 教皇グレゴリウス(インノケウス3世、ホノリウス3世も融合:六角精児)のコミカルかつ悪辣な姿は、現代世界にまで続く人類の愚かさを体現しているように見える。

 あの8角形の城カステル・デル・モンテは、この芝居全体の象徴的な背景になっている。舞台装置は高さの異なる8本の8角柱がメインである。かなりシンプルだ。8本の8角柱を自在に動かしながら芝居は進行する。

 フェデリコとカーミル(イスラムのスルタン:栗原英雄)との8角形をめぐる書簡の応酬は秀逸で面白い。6角形は自然、8角形は人工という見解を、この芝居で初めて知った。8角形は理性という人類の希望のシンボルかもしれない。