三島由紀夫の「薔薇と海賊」は自決予告2007年11月15日

 三島由紀夫の芝居「薔薇と海賊」を紀伊国屋ホールで見た。このホールに入るのは20年ぶりぐらいか。昔よく来た場所で、しゃれたホールだという印象があった。現在の目で見ると、椅子もやや粗末で、全体に色褪せて見える。年を経るとは、そういうことか。芝居の印象も、この感覚に重なる。

 主演・演出は村松英子(オリジナル演出・三島由紀夫)。村松英子の舞台を見たことがなかったので、失礼ながらご存命中に見ておこうという気になった。チラシの写真はずいぶん若いが、おそらく60代後半の筈。怖いもの見たさという気持もあった。しかし、村松英子は声もよく通り、立派な芝居で、舞台女優の貫禄があった。

 ヒロイン役の村松英子はよかったが、ヒーロー役の白痴の青年(帆之亟)がモノ足りなかった。これは、役者にとって演じにくい役だと思うが、このヒーローに説得力がないと、芝居の世界への「引き込まれ感」が生じない。
 「薔薇と海賊」を見終えた時の最初の感想は、「引き込まれ感」不足のモノ足りなさと、多少の違和感だった。しかし、よく反芻してみると、これはいま一歩で傑作になる芝居なのだと気付いた。

 芝居の構造は巧みである。簡略化すれば、以下のような話だ。
 女主人公(楓阿里子)は売れっ子の童話作家。住居や庭は、自分の童話世界仕立てにし、娘(千恵子)には童話の登場人物の扮装までさせている。しかし、本当に童話の世界に生きているのか、演じているだけなのかは不明。
 そこへ、童話の世界を信じ込んでいる白痴の青年(帝一)が現れる。やがて、その青年に引きずられて、阿里子は青年と共に童話の世界に出航する。その時、「僕たちは夢を見ているんじゃないだろうね」という帝一の問いかけに対して、阿里子は「私は決して夢なんぞ見たことはありません」ときっぱり言いはなち、緞帳がストンと落ちて幕となる。
 この幕切れはいい。芝居は芝居じみていなければ芝居ではない。
 そして、この芝居の構造はそっくりそのまま三島由紀夫の自決の構造につながってくる。
 「薔薇と海賊」の初演は1958年だが、三島の強い希望によって自決の直前に再演されたそうだ(1970年10月~11月)。自決を決意した三島は、この芝居の世界に同化していったのだろうか。

 この構造で、盛り付けをもっと工夫すれば、とても面白くなるような気がする。

 私がこの芝居に感じた違和感は、薔薇・海賊というメタファや、性的世界の三島的こだわり、やや冗長で説明的すぎる科白などだ。

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