意外な著書2007年12月05日

 星新一の読書体験を追憶していて、『人民は弱し官吏は強し』を手にしたときの意外感を思い出した。SFショートショートの大家が、父親の評伝風ノンフィクション書いたわけで、これまでの作品との繋がりはほとんどない。当時の書評で「星新一はこの作品(人民は弱し・・・)を書きたいために作家になったのではなかろうか」などと述べた人もいた。ショートショート作家は仮の姿であった・・・というのはうがち過ぎだが、この作品に少し驚いたのは確かだ。いま振り返ってみると両方とも星新一の作品世界であり、さほどの違和感はない。『人民は弱し官吏は強し』によってジャンルを拡張したことになるのだろう。

 ある著者が意外なジャンルの本を書いていて、びっくりすることがある。思いつく例は以下の通り。

 昔、『平凡社における失敗の研究』(大原緑峯、1974年)という本を読んだ。著者は平凡社の元役員で、体験と反省を込めた一種の経営書である。この本のあとがきに「大原緑峯(実ハ大沢正道)」と書いてあった。大沢正道と言えば日本アナキスト連盟の創立メンバーでもあり、『アナキズム思想史』(大沢正道、1974年)など多くのアナキズム研究書を書いた人だ。アナキズムと会社経営には違和感があるが、必ずしも水と油ではないのだろう。

 NHK大河ドラマで「新選組」をやっていた頃、新選組関連の本にはまり、本屋の店頭で見つけた『新選組多摩党の虚実―土方歳三・日野宿・佐藤彦五郎』(神津陽、2004年)という本を買った。著者名に見覚えがある。全共闘運動はなやかなりし頃に話題になった『蒼氓の叛旗』(神津陽、1970年)の著者名と同じだ。確認してみると同一人物だった。考えてみれば、全共闘と新選組に繋がりがないとは言えないと。

 ハードSFの第一人者と言えば石原藤夫氏。衝撃の名作『ハイウェイ惑星』(1967年)でデビューし、『SF相対論入門』(1975年)、『銀河旅行』(1981年)などの科学解説書も秀逸だ。その著者が『靖国神社一問一答』(石原藤夫、2002年)という本も書いている。靖国神社とハードSFには関連がないかもしれないが、一人の人間の関心分野にはいろいろな組み合わせがあり得る。

 意外な著書とは言えないが、松田道雄氏は小児科医&評論家で『育児の百科』『ロシアの革命』など異分野の本を書いている。
 一人の人間が作家、学者、評論家、etc・・・として本を書いたとしても、同じジャンルの本を書き続ける方がおかしいのかもしれない。他人から見て「意外な著書」がある方がフツーなのだと思える。

時間と生命2007年12月16日

 話題の「生物と無生物のあいだ」(福岡伸一/講談社現代新書)を読んだ。評判通り面白く刺激的な本だった。最終章「時間という名の解けない折紙」において、生物と機械の違いについて「機械には時間がない」「生物には時間がある」と指摘しているのが印象的だ。この指摘だけ読むとあたりまえのように見えるが、本書で説きおこしている現代生物学の知見をふまえた結論・到達(?)であるところが深い。

 本書を読んで、最近読んだ別の新書「時間はどこで生まれるのか」(橋元淳一郎/集英社新書)を連想した。これも刺激的な本で、もっと注目されていいと思う。温度や色がミクロの世界では存在しないように、時間も物理的実在ではない。では、どこで時間が生まれたのか・・・生命の発生によって時間が生まれたのである。乱暴に要約すれば、そんなことを述べた本だ。

 きちんとした検証が必要だろうが、この二つの本は「生命」と「時間」の本質的で不思議な関係を示唆している。もう少し勉強してみたい分野だ。

「シアトリカル」唐十郎の40年と大島新・大島渚2007年12月26日

 映画「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」を観た。監督の大島新は大島渚の次男だそうだ。30年以上前の一時期、状況劇場に通いつめた私には面白い映画だった。

 上映パンフに扇田昭彦氏も書いているが、この映画を観ると大島渚の「新宿泥棒日記」がよみがえってくる。私はこの映画で初めて唐十郎に接し、強いインパクトを受け、それがきっかけで状況劇場の芝居を観るようになった。「新宿泥棒日記」の主演の横尾忠則には独特の存在感があったが、映画全体を統べているのは随所に登場する唐十郎だった。大島渚が唐十郎に惹かれ、彼を迷宮巡りの案内人とした撮った映画が「新宿泥棒日記」なのだと思う。

 それから約40年後、大島渚の倅の大島新が撮った「シアトリカル」は迷宮巡りの映画ではないが、唐十郎の発散するシアトリカルな(芝居じみた)エネルギーを捉えた映画だ。40年を経て、映画を撮る監督は親父から倅に世代交代したが、被写体の唐十郎は27歳が67歳になっただけで、その存在感は変わっていない。これは驚異だ。

 昔、ハーメルンの笛吹き男に誘われる子供のように紅テントの立つ場所を巡り歩いた。記憶を辿れば、渋谷の空き地(現・パルコの場所)、吉祥寺の空き地(風呂屋の跡)、新宿西口の空き地(現・高層ビル街)、運河に浮かぶ石炭船、大久保の工場跡地、夢の島(現・お台場あたりか?)、上野公園不忍池、青山墓地・・・など。 その後、紅テントではなく普通の劇場でも唐十郎作品を観たが、いつしか年月が過ぎ21世紀になった。

 状況劇場解散後、劇団唐組が結成されたことは知っていたが、うかつにも、未だに紅テントでやっているとは、この映画を観るまで知らなかった。大鶴義丹の「昭和ギタン」を読んでも、往時の雰囲気を懐かしんだだけだったが、「シアトリカル」には、大鶴義丹が幼少時の昭和に目撃した〈劇団の世界〉が平成の世に現前している。

 劇団員との〈宴会〉でジョンシルバーを歌う唐十郎の姿は、ナツメロを歌う老年ではなく、未だに扇動者の面影がある。かつて、平岡正明がヒトラーの青年浮浪者時代を唐十郎になぞらえたことがあったが、67歳の唐十郎を観て毛沢東を想起した。晩年になって若者を扇動して文化大革命を引き起こした毛沢東は、間違いだらけの晩節だったが、唐十郎は間違ってはいない。芝居の魔力に憑かれた男・唐十郎の元気に脱帽する。同時に、人間の年の取り方を考えさせられた。