三島由紀夫を語る村松英子と宮本亜門の対談が面白い ― 2025年02月03日
今年は三島由紀夫生誕100年である。生きていれば、2025年1月14日が百歳の誕生日だった。この日、「三島由紀夫生誕百年のつどい」というイベントが開催されたそうだ。Youtube で視聴できると知り、2時間半のこの番組を視聴した。
私は憂国忌に関心はないが、三島由紀夫は同時代性を感じる気がかりな作家である。3つの講演と1つの対談からなるこのイベントは面白かった。全般に、三島の死を政治的な死ではなく文学的な死と見なしている。その通りだと思うが、その文学的な死を神話に昇華させる見解には少し驚いた。
最も興味深かったのは、三島の演劇について語り合う村松英子と宮本亜門の対談である。舞台背景には、60年前(1965年)に撮影した村松英子と三島由紀夫のツーショット写真を投影している。登壇したた村松英子は86歳である。その元気な姿に感嘆した。
村松英子は三島の友人・村松剛の妹で、三島の戯曲によって育てられた女優である。私は18年前(2007年)、彼女が演出・主演した『薔薇と海賊』を観た。彼女の舞台を観るのはそれが初めてだった。おそらく最後だと思う。
宮本亜門は『金閣寺』『午後の曳航』などの小説を舞台化している。私は2016年に彼が演出した『ライ王のテラス』を観た。今年は『サド侯爵夫人』に挑戦するそうだ。楽しみである。
二人の対談は、宮本亜門が村松英子から三島の思い出を聞くという形で進行した。多くの小説や戯曲を書き、自身の戯曲だけでなく生き方や死に方までも演出した三島由紀夫という人物は、やはり興味深い。
三島が、シェイクスピアの悲劇を男中心の新国劇として敬遠したという話は面白い。ボディビルで鍛えた肉体は、実は物を持ち上げたりする力はないとも語っていたそうだ。精神と肉体の二元論に拘泥し、肉体の側に立つことをよしとした三島の愉快なエピソードだ。
『鏡子の家』のモデルに関する村松英子の話も興味深かった。いままで鏡子のモデルとされてきた人物は、本人がそう主張しているにすぎず、その人物の妹が本当のモデルだそうだ。村松英子の兄・村松剛が書いた『三島由紀夫の世界』も間違えた人物をモデルとしていた。
私は憂国忌に関心はないが、三島由紀夫は同時代性を感じる気がかりな作家である。3つの講演と1つの対談からなるこのイベントは面白かった。全般に、三島の死を政治的な死ではなく文学的な死と見なしている。その通りだと思うが、その文学的な死を神話に昇華させる見解には少し驚いた。
最も興味深かったのは、三島の演劇について語り合う村松英子と宮本亜門の対談である。舞台背景には、60年前(1965年)に撮影した村松英子と三島由紀夫のツーショット写真を投影している。登壇したた村松英子は86歳である。その元気な姿に感嘆した。
村松英子は三島の友人・村松剛の妹で、三島の戯曲によって育てられた女優である。私は18年前(2007年)、彼女が演出・主演した『薔薇と海賊』を観た。彼女の舞台を観るのはそれが初めてだった。おそらく最後だと思う。
宮本亜門は『金閣寺』『午後の曳航』などの小説を舞台化している。私は2016年に彼が演出した『ライ王のテラス』を観た。今年は『サド侯爵夫人』に挑戦するそうだ。楽しみである。
二人の対談は、宮本亜門が村松英子から三島の思い出を聞くという形で進行した。多くの小説や戯曲を書き、自身の戯曲だけでなく生き方や死に方までも演出した三島由紀夫という人物は、やはり興味深い。
三島が、シェイクスピアの悲劇を男中心の新国劇として敬遠したという話は面白い。ボディビルで鍛えた肉体は、実は物を持ち上げたりする力はないとも語っていたそうだ。精神と肉体の二元論に拘泥し、肉体の側に立つことをよしとした三島の愉快なエピソードだ。
『鏡子の家』のモデルに関する村松英子の話も興味深かった。いままで鏡子のモデルとされてきた人物は、本人がそう主張しているにすぎず、その人物の妹が本当のモデルだそうだ。村松英子の兄・村松剛が書いた『三島由紀夫の世界』も間違えた人物をモデルとしていた。
映画を観る前に『敵』を再読 ― 2025年02月06日
先月(2025年1月)公開の映画『敵』(監督:吉田大八、主演:長塚京三)が話題になっている。筒井康隆氏が27年前に発表した長編『敵』の映画化である。
筒井康隆ファンの私は、もちろん映画を観るつもりだ。原作は発表時に読んでいる。およその内容は憶えているが、細部は失念している。映画を機に原作を読み返そうと思った。観る前に再読か、観てから再読か、少しだけ悩み、前者にした。
『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)
この小説は「老人小説」である。主人公の渡辺儀助は75歳の元大学教授である。専門はフランス近代演劇史だ。妻に先立たれた一人暮らしの元教授の生活と心理を、端整な掌編(全45編)を坦々と積み上げながら進行する長編である。
「老人小説=晩年小説」との感得は初読でも再読でも変わらない。変わったのは読者である私の年齢だ。初読のときの私は49歳。儀助より26歳若かった。再読した現在の私は76歳。儀助より年長のリッパな老人だ。にもかかわらず、主人公を「老人だなあ」と見なす気分が初読のときと変わらないのが不思議だ。いま読んでも、儀助を自分より年長のジイサンに感じてしまうのだ。
この小説を発表したときの筒井氏は63歳だった。儀助を自身より12歳上に設定したのだ。現在、筒井氏は90歳の現役作家である。作家のイメージは、いまだに儀助より若い。
初読と再読で印象が少し違ったのは後半の展開である。この小説の中盤にパソコン通信が登場し、そこには「敵が来る」という意味不明のメッセージが書き込まれる。やがて、儀助の周辺に正体不明の敵が迫ってきて、穏やかな日常は不可思議な戦闘に巻き込まれていく。
初読のとき、その展開をドタバタ劇への変調・破調のように感じた。再読では、そのような変調・破調を感じなかった。平穏な日常に脳内世界が徐々に侵入してくる坦々とした物語に思えた。脳内世界の異様な展開は夢に近い光景だ。この小説な、老人のおだやかな午睡の世界を、そのまま描いた物語だと思った。
この三人称小説には、主人公である儀助の晩年生活を彩る人物が何人か登場する。世話を焼いてくれる友人二人、教え子だった女性、近所のクラブのマスターの姪の女子大生などだ。再読してあらためて気づいた。これら多様な人物は儀助の記憶や空想のなかに登場するだけである。彼らの実場面はない。パソコン通信のなかの人物とさほど変わりがない。
映画では、この「老人小説」をどのように映像化しているか、楽しみである。
筒井康隆ファンの私は、もちろん映画を観るつもりだ。原作は発表時に読んでいる。およその内容は憶えているが、細部は失念している。映画を機に原作を読み返そうと思った。観る前に再読か、観てから再読か、少しだけ悩み、前者にした。
『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)
この小説は「老人小説」である。主人公の渡辺儀助は75歳の元大学教授である。専門はフランス近代演劇史だ。妻に先立たれた一人暮らしの元教授の生活と心理を、端整な掌編(全45編)を坦々と積み上げながら進行する長編である。
「老人小説=晩年小説」との感得は初読でも再読でも変わらない。変わったのは読者である私の年齢だ。初読のときの私は49歳。儀助より26歳若かった。再読した現在の私は76歳。儀助より年長のリッパな老人だ。にもかかわらず、主人公を「老人だなあ」と見なす気分が初読のときと変わらないのが不思議だ。いま読んでも、儀助を自分より年長のジイサンに感じてしまうのだ。
この小説を発表したときの筒井氏は63歳だった。儀助を自身より12歳上に設定したのだ。現在、筒井氏は90歳の現役作家である。作家のイメージは、いまだに儀助より若い。
初読と再読で印象が少し違ったのは後半の展開である。この小説の中盤にパソコン通信が登場し、そこには「敵が来る」という意味不明のメッセージが書き込まれる。やがて、儀助の周辺に正体不明の敵が迫ってきて、穏やかな日常は不可思議な戦闘に巻き込まれていく。
初読のとき、その展開をドタバタ劇への変調・破調のように感じた。再読では、そのような変調・破調を感じなかった。平穏な日常に脳内世界が徐々に侵入してくる坦々とした物語に思えた。脳内世界の異様な展開は夢に近い光景だ。この小説な、老人のおだやかな午睡の世界を、そのまま描いた物語だと思った。
この三人称小説には、主人公である儀助の晩年生活を彩る人物が何人か登場する。世話を焼いてくれる友人二人、教え子だった女性、近所のクラブのマスターの姪の女子大生などだ。再読してあらためて気づいた。これら多様な人物は儀助の記憶や空想のなかに登場するだけである。彼らの実場面はない。パソコン通信のなかの人物とさほど変わりがない。
映画では、この「老人小説」をどのように映像化しているか、楽しみである。
映画『敵』の影の主役は屋敷 ― 2025年02月09日
テアトル新宿で映画『敵』(原作:筒井康隆、監督・脚本:吉田大八、主演:長塚京三)を観た。この監督の映画を観るのは『美しい星』、『騙し絵の牙』に続いて3本目である。映画を観る直前に筒井氏の原作を再読したので、原作の雰囲気と比較しつつの映画鑑賞になった。
上映後にはトークイベンがあった。吉田大八監督に若手の奥山由之氏(映画監督、写真家)がインタビューする形のトークだった。吉田監督は「原作にかなり忠実な映画です。スピリットでは…」と語っていた。その通りだとは思うが、当然ながら映画表現は小説表現とは異なる。
10年前に退職した元大学教授・渡辺儀助の生活を描いたこの映画はモノクロである。儀助が一人で暮らしている古い屋敷がモノクロにマッチしている。冒頭、儀助の起床、朝食の支度、朝食、歯磨き、洗濯、掃除、講演依頼電話への対応、パソコンを使った原稿執筆などの場面が坦々と流れる。原作小説の端正な世界引き込まれて行く心地よさを感じた。
原作の小説では、薄い膜を通した回想のような世界を感じた。映画は即物的表現がメインである。映像からは具体的でリアルな感触が伝わってくる。米を研ぐ手慣れた様子に感心し、朝食の咀嚼に美味を感じた。この映画に出てくる食べ物は美味しそうに見える。儀助が自身の生活演出に満足しているように見えるからだろう。
原作で75歳だった儀助が映画では77歳である。小説の儀助は私より1つ年下だが映画では1つ上だ。何故か得心する。この二十数年の社会の高齢化シフトを反映しているのだろう。
原作を改変した箇所はいくつかあり、それぞれに納得できて面白い。儀助の従兄弟の長子・渡辺槙男が最後に登場するのには驚いた。原作では名前が出てくるだけの人物である。渡辺槙男を登場させたのは、儀助の屋敷の相続人に指定されたからである。
吉田監督がトークでも述べていたが、この映画では屋敷のウエイトが高い。古い屋敷には記憶が多重的に刻み込まれている。畳み込まれた時間が錯綜的に流れる不思議な空間である。映画『敵』はそんな時空を表現した作品になっている。
上映後にはトークイベンがあった。吉田大八監督に若手の奥山由之氏(映画監督、写真家)がインタビューする形のトークだった。吉田監督は「原作にかなり忠実な映画です。スピリットでは…」と語っていた。その通りだとは思うが、当然ながら映画表現は小説表現とは異なる。
10年前に退職した元大学教授・渡辺儀助の生活を描いたこの映画はモノクロである。儀助が一人で暮らしている古い屋敷がモノクロにマッチしている。冒頭、儀助の起床、朝食の支度、朝食、歯磨き、洗濯、掃除、講演依頼電話への対応、パソコンを使った原稿執筆などの場面が坦々と流れる。原作小説の端正な世界引き込まれて行く心地よさを感じた。
原作の小説では、薄い膜を通した回想のような世界を感じた。映画は即物的表現がメインである。映像からは具体的でリアルな感触が伝わってくる。米を研ぐ手慣れた様子に感心し、朝食の咀嚼に美味を感じた。この映画に出てくる食べ物は美味しそうに見える。儀助が自身の生活演出に満足しているように見えるからだろう。
原作で75歳だった儀助が映画では77歳である。小説の儀助は私より1つ年下だが映画では1つ上だ。何故か得心する。この二十数年の社会の高齢化シフトを反映しているのだろう。
原作を改変した箇所はいくつかあり、それぞれに納得できて面白い。儀助の従兄弟の長子・渡辺槙男が最後に登場するのには驚いた。原作では名前が出てくるだけの人物である。渡辺槙男を登場させたのは、儀助の屋敷の相続人に指定されたからである。
吉田監督がトークでも述べていたが、この映画では屋敷のウエイトが高い。古い屋敷には記憶が多重的に刻み込まれている。畳み込まれた時間が錯綜的に流れる不思議な空間である。映画『敵』はそんな時空を表現した作品になっている。
何事も起こらない老人芝居『八月の鯨』 ― 2025年02月12日
紀伊國屋サザンシアターで劇団民藝公演『八月の鯨』(作:デイヴィッド・ベリー、訳・演出:丹野郁弓、出演:樫山文枝、日色ともゑ、他)を観た。
半世紀以上昔の学生時代、劇団民藝の舞台を二つ観た。それ以降の長い間、この老舗劇団の芝居は私の関心外だった。だが昨年、数十年ぶりに『オットーと呼ばれる日本人』を観たのに続いて、今年もまた劇団民藝の舞台を観ることになった。われながら意外である。きっかけは、先月の「渡辺えり古稀記念2作連続公演」で観た『鯨よ!私の手に乗れ』である。渡辺えりがパンフレットに次のように書いていた。
「母のことを書こうと思った頃に劇団民藝の『八月の鯨』を観た。高齢の姉妹が鯨の訪れを待ち、恋にあこがれる姿がチャーミングで残酷で美しかった。」
渡辺えりが観たのは12年前(2013年)の民藝公演である。この文章を読んだのとほとんど同時に『八月の鯨』の12年ぶりの再演を知った。これも何かの縁だと思ってチケットを入手した。『鯨よ!私の手に乗れ』は、渡辺えりの家族物語を軸に母の歴史と幻想世界が交錯する不思議な舞台だった。あの「アングラ劇」に「新劇」がどのように反映しているかを確認したくなったのだ。『鯨よ!私の手に乗れ』は『欲望という名の電車』のシーンも取り入れていた。
米国の劇作家デイヴィッド・ベリーの『八月の鯨』は1987年に映画にもなり、大ヒットしたそうだ。避暑地の島の別荘で夏を過ごす老姉妹の話である。気位の高い姉は86歳、その世話をする妹は75歳。時は1954年8月。この姉妹の生活に、知人女性、老いた修理工、自称元ロシア貴族などが絡んでくる。
姉を演じるのは樫山文枝、妹を演じるのは日色ともゑである。私のような団塊世代にとって、この二人は朝の連続テレビ小説の若いヒロインのイメージが強い。だが、二人とも現在83歳、この芝居の姉妹を演じるのにふさわしい。
この芝居に大きな事件や意表を突く展開はない。ささやかな波風が立つ出来事が時おり発生するだけの世界である。表面的には穏やかな日常生活が進行していく。
かつて、8月になるとこの別荘から鯨を見ることができた。鯨が来なくなって久しい。だが、二人は鯨が来るのを待っている…。チエホフの世界を彷彿とさせる芝居だった。
半世紀以上昔の学生時代、劇団民藝の舞台を二つ観た。それ以降の長い間、この老舗劇団の芝居は私の関心外だった。だが昨年、数十年ぶりに『オットーと呼ばれる日本人』を観たのに続いて、今年もまた劇団民藝の舞台を観ることになった。われながら意外である。きっかけは、先月の「渡辺えり古稀記念2作連続公演」で観た『鯨よ!私の手に乗れ』である。渡辺えりがパンフレットに次のように書いていた。
「母のことを書こうと思った頃に劇団民藝の『八月の鯨』を観た。高齢の姉妹が鯨の訪れを待ち、恋にあこがれる姿がチャーミングで残酷で美しかった。」
渡辺えりが観たのは12年前(2013年)の民藝公演である。この文章を読んだのとほとんど同時に『八月の鯨』の12年ぶりの再演を知った。これも何かの縁だと思ってチケットを入手した。『鯨よ!私の手に乗れ』は、渡辺えりの家族物語を軸に母の歴史と幻想世界が交錯する不思議な舞台だった。あの「アングラ劇」に「新劇」がどのように反映しているかを確認したくなったのだ。『鯨よ!私の手に乗れ』は『欲望という名の電車』のシーンも取り入れていた。
米国の劇作家デイヴィッド・ベリーの『八月の鯨』は1987年に映画にもなり、大ヒットしたそうだ。避暑地の島の別荘で夏を過ごす老姉妹の話である。気位の高い姉は86歳、その世話をする妹は75歳。時は1954年8月。この姉妹の生活に、知人女性、老いた修理工、自称元ロシア貴族などが絡んでくる。
姉を演じるのは樫山文枝、妹を演じるのは日色ともゑである。私のような団塊世代にとって、この二人は朝の連続テレビ小説の若いヒロインのイメージが強い。だが、二人とも現在83歳、この芝居の姉妹を演じるのにふさわしい。
この芝居に大きな事件や意表を突く展開はない。ささやかな波風が立つ出来事が時おり発生するだけの世界である。表面的には穏やかな日常生活が進行していく。
かつて、8月になるとこの別荘から鯨を見ることができた。鯨が来なくなって久しい。だが、二人は鯨が来るのを待っている…。チエホフの世界を彷彿とさせる芝居だった。
2024年下期芥川賞受賞作2作を読んだ ― 2025年02月14日
『文藝春秋 2025年3月号』をコンビニで購入した。年2回の芥川賞発表号だけはこの月刊誌を買ってしまう。惰性に近い。最近の小説にさほど関心がないのに、芥川賞作品ぐらいは目を通しておこうと思うのは、達観や解脱からほど遠いわが俗物性の故である。
閑話休題。今回の受賞作は次の二つだ。
『DTOPIA』(安堂ホセ)
『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生)
安堂ホセ氏は30歳、鈴木結生氏は23歳。二人とも若い。二作品とも面白かった。読みながらビックリした。『DTOPIA』では話の暴走と漂流に驚き、『ゲーテはすべてを言った』では半端でない文学研究オタクぶりに驚いた。
『DTOPIA』はネット中継する恋愛リアリティショーの話である。時代は2024年、場所はタヒチの近くのボラ・ボラ島である。私には、近未来の異世界に感じられる舞台だ。私はタヒチに行ったことはあるが、ボラ・ボラ島は知らなかった。小説を読みながら、ウィキペディアとグーグル・マップでその実在と魅力を確認した。作中人物が『ポリネシアが中心だと』『地球は真っ青なんだ』と語るのを読んだとき、グーグル・マップのズームアウト操作でそれを追認した。まさにその通りだと感心した。
『DTOPIA』は途中から「これはなんじゃ」という展開になるが、最後は何とか着地した。人種ミックスやLGBTが当然の前提のような世界を描いている。
『ゲーテはすべてを言った』は23歳の作者の博学・衒学ぶりに感心した。受賞者インタビューによれば、小学生のときに『神曲』を読み終えてたそうだ。私が読み終えたのは75歳のとき(去年)だ。
この小説は、筒井康隆氏の『文学部唯野教授』『敵』を連想させる教授小説である。浮世と少しくズレた大学教授の生態が面白い。この小説に登場する然紀典(しかりのりふみ)という学者の顛末には舌を巻いた。作者のしたたかな知力を感じる。だが、主人公の教授一家の姿がメルヘンのようなホームドラマなのが少々こそばゆい。緻密な仕掛けに満ちたエンタメ小説に思えた。
閑話休題。今回の受賞作は次の二つだ。
『DTOPIA』(安堂ホセ)
『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生)
安堂ホセ氏は30歳、鈴木結生氏は23歳。二人とも若い。二作品とも面白かった。読みながらビックリした。『DTOPIA』では話の暴走と漂流に驚き、『ゲーテはすべてを言った』では半端でない文学研究オタクぶりに驚いた。
『DTOPIA』はネット中継する恋愛リアリティショーの話である。時代は2024年、場所はタヒチの近くのボラ・ボラ島である。私には、近未来の異世界に感じられる舞台だ。私はタヒチに行ったことはあるが、ボラ・ボラ島は知らなかった。小説を読みながら、ウィキペディアとグーグル・マップでその実在と魅力を確認した。作中人物が『ポリネシアが中心だと』『地球は真っ青なんだ』と語るのを読んだとき、グーグル・マップのズームアウト操作でそれを追認した。まさにその通りだと感心した。
『DTOPIA』は途中から「これはなんじゃ」という展開になるが、最後は何とか着地した。人種ミックスやLGBTが当然の前提のような世界を描いている。
『ゲーテはすべてを言った』は23歳の作者の博学・衒学ぶりに感心した。受賞者インタビューによれば、小学生のときに『神曲』を読み終えてたそうだ。私が読み終えたのは75歳のとき(去年)だ。
この小説は、筒井康隆氏の『文学部唯野教授』『敵』を連想させる教授小説である。浮世と少しくズレた大学教授の生態が面白い。この小説に登場する然紀典(しかりのりふみ)という学者の顛末には舌を巻いた。作者のしたたかな知力を感じる。だが、主人公の教授一家の姿がメルヘンのようなホームドラマなのが少々こそばゆい。緻密な仕掛けに満ちたエンタメ小説に思えた。
6年前のトランプ時代に出た『真実の終わり』を今になって読んだ ― 2025年02月16日
先日読んだ朝日新聞のコラム(2025.2.2『日曜に想う』)に、次の記述があった。
「10年近く前、ポスト・トゥルース(真実後)という新語が注目された。意味するところは、事実や真実が重視されない時代の到来である。最近耳にしなくなったのは、当たり前の風景になったからだろうか。」
この一節を読んで、6年前に買ったまま未読だった次の本を思い出し、あわてて読了した。
『真実の終わり』(ミチコ・カクタニ/岡崎玲子訳/集英社/2019.6)
原著の出版は2018年、トランプ大統領誕生の翌年だ。トランプがもたらした時代風潮を批判的に探究し、真実が無視される事態に警鐘を鳴らした本である。
百数十ページの薄い本である。短時間で読めるだろうと目近の書架に積んだまま6年の時間が流れた。いつしか、トランプ時代からバイデン時代に移り、時評的な本書への関心が薄れていった。そして、再びトランプ時代となり、新聞コラムに促され、本書を手にする次第となった。
著者はニューヨーク・タイムズで活躍した高名な文芸批評家だそうだ。本書は、虚偽に満ちたトランプの言動を厳しく批判すると同時に、真実探求の関心を失った現代社会の情況を多面的に考察している。簡略に言えば、ポストモダン思想による物事の相対化がニヒリズムにつながり、トランプを生み出す土壌になったという指摘である。
著者の指摘は概ね納得できる。この10年ほどの間に見聞きしてきたさまざまな言説をあらためて復習した気分になる。カウンター・カルチャー的左翼的思潮が既存メディア否定のポピュリズム的右翼思潮に連結していく皮肉なダイナミズムに暗然とする。
本書に出てくる「羅生門的」「羅生門効果」という言葉に驚いた。一般的な用語かは不明だが、ナルホドと思った。著者は日系2世だそうだ。
脱構築の哲学者ポール・ド・マンという人物を本書で初めて知った。死後にナチスのユダヤ人迫害を支持する言説が発見されてスキャンダルになったそうだ。評価のゆらぎが興味深い。
ブーアスティンの『幻影の時代』への言及には心躍った。半世紀以上昔の学生時代に面白く読んだ本だ。筒井康隆氏の疑似イベント小説のネタ本だと知って読んだのだ。あの本がトランプ時代を胚胎していたとすれば「真実の終わり」の起源は根深い。文明論的な考察が必要だと思える。
それにしても、厚顔無恥の大音量が成功する社会がいいとは思わない。成功か失敗かの評価は歴史の時間軸で異なってくるだろうが。私は、寛容性を失うと文明は衰退すると思っている。
2018年に出た本書がどの程度の読者を得たかは知らない。トランプ時代が再来したのだから、本書にさほどに影響力はなかったと思わざるを得ない。故・西部邁ならトランプの出現は民主主義の必然と言うかもしれない。だが、リアルの世界を生きる私は、それをよしとするわけにはいかない。
「10年近く前、ポスト・トゥルース(真実後)という新語が注目された。意味するところは、事実や真実が重視されない時代の到来である。最近耳にしなくなったのは、当たり前の風景になったからだろうか。」
この一節を読んで、6年前に買ったまま未読だった次の本を思い出し、あわてて読了した。
『真実の終わり』(ミチコ・カクタニ/岡崎玲子訳/集英社/2019.6)
原著の出版は2018年、トランプ大統領誕生の翌年だ。トランプがもたらした時代風潮を批判的に探究し、真実が無視される事態に警鐘を鳴らした本である。
百数十ページの薄い本である。短時間で読めるだろうと目近の書架に積んだまま6年の時間が流れた。いつしか、トランプ時代からバイデン時代に移り、時評的な本書への関心が薄れていった。そして、再びトランプ時代となり、新聞コラムに促され、本書を手にする次第となった。
著者はニューヨーク・タイムズで活躍した高名な文芸批評家だそうだ。本書は、虚偽に満ちたトランプの言動を厳しく批判すると同時に、真実探求の関心を失った現代社会の情況を多面的に考察している。簡略に言えば、ポストモダン思想による物事の相対化がニヒリズムにつながり、トランプを生み出す土壌になったという指摘である。
著者の指摘は概ね納得できる。この10年ほどの間に見聞きしてきたさまざまな言説をあらためて復習した気分になる。カウンター・カルチャー的左翼的思潮が既存メディア否定のポピュリズム的右翼思潮に連結していく皮肉なダイナミズムに暗然とする。
本書に出てくる「羅生門的」「羅生門効果」という言葉に驚いた。一般的な用語かは不明だが、ナルホドと思った。著者は日系2世だそうだ。
脱構築の哲学者ポール・ド・マンという人物を本書で初めて知った。死後にナチスのユダヤ人迫害を支持する言説が発見されてスキャンダルになったそうだ。評価のゆらぎが興味深い。
ブーアスティンの『幻影の時代』への言及には心躍った。半世紀以上昔の学生時代に面白く読んだ本だ。筒井康隆氏の疑似イベント小説のネタ本だと知って読んだのだ。あの本がトランプ時代を胚胎していたとすれば「真実の終わり」の起源は根深い。文明論的な考察が必要だと思える。
それにしても、厚顔無恥の大音量が成功する社会がいいとは思わない。成功か失敗かの評価は歴史の時間軸で異なってくるだろうが。私は、寛容性を失うと文明は衰退すると思っている。
2018年に出た本書がどの程度の読者を得たかは知らない。トランプ時代が再来したのだから、本書にさほどに影響力はなかったと思わざるを得ない。故・西部邁ならトランプの出現は民主主義の必然と言うかもしれない。だが、リアルの世界を生きる私は、それをよしとするわけにはいかない。
二月大歌舞伎の「人情噺文七元結」が面白い ― 2025年02月18日
歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」夜の部を観た。「猿若祭」とは初世猿若勘三郎を記念する公演だそうだ。夜の部の演目は次の三つ。どれも、私には初めての演目である。
1. 壇浦兜軍記 阿古屋
2. 江島生島
3. 人情噺文七元結
「阿古屋」は源氏の重忠(菊之助)が、平家の景清の行方を聞き出すために遊君・阿古屋(玉三郎)を詮議する話である。詮議の方法が、琴・三味線・胡弓を奏でさせるというのが面白い。奏でる音が澄んでいるから、証言に偽りはないと判断する。歌舞伎らしい話だ。楽器を奏でる玉三郎の姿が見せ場である。
「江島生島」は菊之助と七之助の舞踏劇だった。七之助の女形は美しい。
「人情噺文七元結」はわかりやすくて面白い。円朝の物語的な落語がベースの人情噺である。よくできたハッピーエンドの話だ。オー・ヘンリーを連想した。主役は文七ではなく左官の長兵衛である。長兵衛夫妻を勘九郎と七之助の兄弟が演じている。この二人の絡みは、楽しく演じているように見える。勘九郎が父の18代勘三郎に似ていると感じた。
1. 壇浦兜軍記 阿古屋
2. 江島生島
3. 人情噺文七元結
「阿古屋」は源氏の重忠(菊之助)が、平家の景清の行方を聞き出すために遊君・阿古屋(玉三郎)を詮議する話である。詮議の方法が、琴・三味線・胡弓を奏でさせるというのが面白い。奏でる音が澄んでいるから、証言に偽りはないと判断する。歌舞伎らしい話だ。楽器を奏でる玉三郎の姿が見せ場である。
「江島生島」は菊之助と七之助の舞踏劇だった。七之助の女形は美しい。
「人情噺文七元結」はわかりやすくて面白い。円朝の物語的な落語がベースの人情噺である。よくできたハッピーエンドの話だ。オー・ヘンリーを連想した。主役は文七ではなく左官の長兵衛である。長兵衛夫妻を勘九郎と七之助の兄弟が演じている。この二人の絡みは、楽しく演じているように見える。勘九郎が父の18代勘三郎に似ていると感じた。
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