三島由紀夫を語る村松英子と宮本亜門の対談が面白い2025年02月03日

 今年は三島由紀夫生誕100年である。生きていれば、2025年1月14日が百歳の誕生日だった。この日、「三島由紀夫生誕百年のつどい」というイベントが開催されたそうだ。Youtube で視聴できると知り、2時間半のこの番組を視聴した。

 私は憂国忌に関心はないが、三島由紀夫は同時代性を感じる気がかりな作家である。3つの講演と1つの対談からなるこのイベントは面白かった。全般に、三島の死を政治的な死ではなく文学的な死と見なしている。その通りだと思うが、その文学的な死を神話に昇華させる見解には少し驚いた。

 最も興味深かったのは、三島の演劇について語り合う村松英子と宮本亜門の対談である。舞台背景には、60年前(1965年)に撮影した村松英子と三島由紀夫のツーショット写真を投影している。登壇したた村松英子は86歳である。その元気な姿に感嘆した。

 村松英子は三島の友人・村松剛の妹で、三島の戯曲によって育てられた女優である。私は18年前(2007年)、彼女が演出・主演した『薔薇と海賊』を観た。彼女の舞台を観るのはそれが初めてだった。おそらく最後だと思う。

 宮本亜門は『金閣寺』『午後の曳航』などの小説を舞台化している。私は2016年に彼が演出した『ライ王のテラス』を観た。今年は『サド侯爵夫人』に挑戦するそうだ。楽しみである。

 二人の対談は、宮本亜門が村松英子から三島の思い出を聞くという形で進行した。多くの小説や戯曲を書き、自身の戯曲だけでなく生き方や死に方までも演出した三島由紀夫という人物は、やはり興味深い。

 三島が、シェイクスピアの悲劇を男中心の新国劇として敬遠したという話は面白い。ボディビルで鍛えた肉体は、実は物を持ち上げたりする力はないとも語っていたそうだ。精神と肉体の二元論に拘泥し、肉体の側に立つことをよしとした三島の愉快なエピソードだ。

 『鏡子の家』のモデルに関する村松英子の話も興味深かった。いままで鏡子のモデルとされてきた人物は、本人がそう主張しているにすぎず、その人物の妹が本当のモデルだそうだ。村松英子の兄・村松剛が書いた『三島由紀夫の世界』も間違えた人物をモデルとしていた。

映画を観る前に『敵』を再読2025年02月06日

『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)
 先月(2025年1月)公開の映画『敵』(監督:吉田大八、主演:長塚京三)が話題になっている。筒井康隆氏が27年前に発表した長編『敵』の映画化である。

 筒井康隆ファンの私は、もちろん映画を観るつもりだ。原作は発表時に読んでいる。およその内容は憶えているが、細部は失念している。映画を機に原作を読み返そうと思った。観る前に再読か、観てから再読か、少しだけ悩み、前者にした。

 『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)

 この小説は「老人小説」である。主人公の渡辺儀助は75歳の元大学教授である。専門はフランス近代演劇史だ。妻に先立たれた一人暮らしの元教授の生活と心理を、端整な掌編(全45編)を坦々と積み上げながら進行する長編である。

 「老人小説=晩年小説」との感得は初読でも再読でも変わらない。変わったのは読者である私の年齢だ。初読のときの私は49歳。儀助より26歳若かった。再読した現在の私は76歳。儀助より年長のリッパな老人だ。にもかかわらず、主人公を「老人だなあ」と見なす気分が初読のときと変わらないのが不思議だ。いま読んでも、儀助を自分より年長のジイサンに感じてしまうのだ。

 この小説を発表したときの筒井氏は63歳だった。儀助を自身より12歳上に設定したのだ。現在、筒井氏は90歳の現役作家である。作家のイメージは、いまだに儀助より若い。

 初読と再読で印象が少し違ったのは後半の展開である。この小説の中盤にパソコン通信が登場し、そこには「敵が来る」という意味不明のメッセージが書き込まれる。やがて、儀助の周辺に正体不明の敵が迫ってきて、穏やかな日常は不可思議な戦闘に巻き込まれていく。

 初読のとき、その展開をドタバタ劇への変調・破調のように感じた。再読では、そのような変調・破調を感じなかった。平穏な日常に脳内世界が徐々に侵入してくる坦々とした物語に思えた。脳内世界の異様な展開は夢に近い光景だ。この小説な、老人のおだやかな午睡の世界を、そのまま描いた物語だと思った。

 この三人称小説には、主人公である儀助の晩年生活を彩る人物が何人か登場する。世話を焼いてくれる友人二人、教え子だった女性、近所のクラブのマスターの姪の女子大生などだ。再読してあらためて気づいた。これら多様な人物は儀助の記憶や空想のなかに登場するだけである。彼らの実場面はない。パソコン通信のなかの人物とさほど変わりがない。

 映画では、この「老人小説」をどのように映像化しているか、楽しみである。

映画『敵』の影の主役は屋敷2025年02月09日

 テアトル新宿で映画『敵』(原作:筒井康隆、監督・脚本:吉田大八、主演:長塚京三)を観た。この監督の映画を観るのは『美しい星』『騙し絵の牙』に続いて3本目である。映画を観る直前に筒井氏の原作を再読したので、原作の雰囲気と比較しつつの映画鑑賞になった。

 上映後にはトークイベンがあった。吉田大八監督に若手の奥山由之氏(映画監督、写真家)がインタビューする形のトークだった。吉田監督は「原作にかなり忠実な映画です。スピリットでは…」と語っていた。その通りだとは思うが、当然ながら映画表現は小説表現とは異なる。

 10年前に退職した元大学教授・渡辺儀助の生活を描いたこの映画はモノクロである。儀助が一人で暮らしている古い屋敷がモノクロにマッチしている。冒頭、儀助の起床、朝食の支度、朝食、歯磨き、洗濯、掃除、講演依頼電話への対応、パソコンを使った原稿執筆などの場面が坦々と流れる。原作小説の端正な世界引き込まれて行く心地よさを感じた。

 原作の小説では、薄い膜を通した回想のような世界を感じた。映画は即物的表現がメインである。映像からは具体的でリアルな感触が伝わってくる。米を研ぐ手慣れた様子に感心し、朝食の咀嚼に美味を感じた。この映画に出てくる食べ物は美味しそうに見える。儀助が自身の生活演出に満足しているように見えるからだろう。

 原作で75歳だった儀助が映画では77歳である。小説の儀助は私より1つ年下だが映画では1つ上だ。何故か得心する。この二十数年の社会の高齢化シフトを反映しているのだろう。

 原作を改変した箇所はいくつかあり、それぞれに納得できて面白い。儀助の従兄弟の長子・渡辺槙男が最後に登場するのには驚いた。原作では名前が出てくるだけの人物である。渡辺槙男を登場させたのは、儀助の屋敷の相続人に指定されたからである。

 吉田監督がトークでも述べていたが、この映画では屋敷のウエイトが高い。古い屋敷には記憶が多重的に刻み込まれている。畳み込まれた時間が錯綜的に流れる不思議な空間である。映画『敵』はそんな時空を表現した作品になっている。

何事も起こらない老人芝居『八月の鯨』2025年02月12日

 紀伊國屋サザンシアターで劇団民藝公演『八月の鯨』(作:デイヴィッド・ベリー、訳・演出:丹野郁弓、出演:樫山文枝、日色ともゑ、他)を観た。

 半世紀以上昔の学生時代、劇団民藝の舞台を二つ観た。それ以降の長い間、この老舗劇団の芝居は私の関心外だった。だが昨年、数十年ぶりに『オットーと呼ばれる日本人』を観たのに続いて、今年もまた劇団民藝の舞台を観ることになった。われながら意外である。きっかけは、先月の「渡辺えり古稀記念2作連続公演」で観た『鯨よ!私の手に乗れ』である。渡辺えりがパンフレットに次のように書いていた。

 「母のことを書こうと思った頃に劇団民藝の『八月の鯨』を観た。高齢の姉妹が鯨の訪れを待ち、恋にあこがれる姿がチャーミングで残酷で美しかった。」

 渡辺えりが観たのは12年前(2013年)の民藝公演である。この文章を読んだのとほとんど同時に『八月の鯨』の12年ぶりの再演を知った。これも何かの縁だと思ってチケットを入手した。『鯨よ!私の手に乗れ』は、渡辺えりの家族物語を軸に母の歴史と幻想世界が交錯する不思議な舞台だった。あの「アングラ劇」に「新劇」がどのように反映しているかを確認したくなったのだ。『鯨よ!私の手に乗れ』は『欲望という名の電車』のシーンも取り入れていた。

 米国の劇作家デイヴィッド・ベリーの『八月の鯨』は1987年に映画にもなり、大ヒットしたそうだ。避暑地の島の別荘で夏を過ごす老姉妹の話である。気位の高い姉は86歳、その世話をする妹は75歳。時は1954年8月。この姉妹の生活に、知人女性、老いた修理工、自称元ロシア貴族などが絡んでくる。

 姉を演じるのは樫山文枝、妹を演じるのは日色ともゑである。私のような団塊世代にとって、この二人は朝の連続テレビ小説の若いヒロインのイメージが強い。だが、二人とも現在83歳、この芝居の姉妹を演じるのにふさわしい。

 この芝居に大きな事件や意表を突く展開はない。ささやかな波風が立つ出来事が時おり発生するだけの世界である。表面的には穏やかな日常生活が進行していく。

 かつて、8月になるとこの別荘から鯨を見ることができた。鯨が来なくなって久しい。だが、二人は鯨が来るのを待っている…。チエホフの世界を彷彿とさせる芝居だった。

2024年下期芥川賞受賞作2作を読んだ2025年02月14日

 『文藝春秋 2025年3月号』をコンビニで購入した。年2回の芥川賞発表号だけはこの月刊誌を買ってしまう。惰性に近い。最近の小説にさほど関心がないのに、芥川賞作品ぐらいは目を通しておこうと思うのは、達観や解脱からほど遠いわが俗物性の故である。

 閑話休題。今回の受賞作は次の二つだ。

 『DTOPIA』(安堂ホセ)
 『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生)

 安堂ホセ氏は30歳、鈴木結生氏は23歳。二人とも若い。二作品とも面白かった。読みながらビックリした。『DTOPIA』では話の暴走と漂流に驚き、『ゲーテはすべてを言った』では半端でない文学研究オタクぶりに驚いた。

 『DTOPIA』はネット中継する恋愛リアリティショーの話である。時代は2024年、場所はタヒチの近くのボラ・ボラ島である。私には、近未来の異世界に感じられる舞台だ。私はタヒチに行ったことはあるが、ボラ・ボラ島は知らなかった。小説を読みながら、ウィキペディアとグーグル・マップでその実在と魅力を確認した。作中人物が『ポリネシアが中心だと』『地球は真っ青なんだ』と語るのを読んだとき、グーグル・マップのズームアウト操作でそれを追認した。まさにその通りだと感心した。

 『DTOPIA』は途中から「これはなんじゃ」という展開になるが、最後は何とか着地した。人種ミックスやLGBTが当然の前提のような世界を描いている。

 『ゲーテはすべてを言った』は23歳の作者の博学・衒学ぶりに感心した。受賞者インタビューによれば、小学生のときに『神曲』を読み終えてたそうだ。私が読み終えたのは75歳のとき(去年)だ。

 この小説は、筒井康隆氏の『文学部唯野教授』『敵』を連想させる教授小説である。浮世と少しくズレた大学教授の生態が面白い。この小説に登場する然紀典(しかりのりふみ)という学者の顛末には舌を巻いた。作者のしたたかな知力を感じる。だが、主人公の教授一家の姿がメルヘンのようなホームドラマなのが少々こそばゆい。緻密な仕掛けに満ちたエンタメ小説に思えた。

6年前のトランプ時代に出た『真実の終わり』を今になって読んだ2025年02月16日

『真実の終わり』(ミチコ・カクタニ/岡崎玲子訳/集英社/2019.6)
 先日読んだ朝日新聞のコラム(2025.2.2『日曜に想う』)に、次の記述があった。

 「10年近く前、ポスト・トゥルース(真実後)という新語が注目された。意味するところは、事実や真実が重視されない時代の到来である。最近耳にしなくなったのは、当たり前の風景になったからだろうか。」

 この一節を読んで、6年前に買ったまま未読だった次の本を思い出し、あわてて読了した。

 『真実の終わり』(ミチコ・カクタニ/岡崎玲子訳/集英社/2019.6)

 原著の出版は2018年、トランプ大統領誕生の翌年だ。トランプがもたらした時代風潮を批判的に探究し、真実が無視される事態に警鐘を鳴らした本である。

 百数十ページの薄い本である。短時間で読めるだろうと目近の書架に積んだまま6年の時間が流れた。いつしか、トランプ時代からバイデン時代に移り、時評的な本書への関心が薄れていった。そして、再びトランプ時代となり、新聞コラムに促され、本書を手にする次第となった。

 著者はニューヨーク・タイムズで活躍した高名な文芸批評家だそうだ。本書は、虚偽に満ちたトランプの言動を厳しく批判すると同時に、真実探求の関心を失った現代社会の情況を多面的に考察している。簡略に言えば、ポストモダン思想による物事の相対化がニヒリズムにつながり、トランプを生み出す土壌になったという指摘である。

 著者の指摘は概ね納得できる。この10年ほどの間に見聞きしてきたさまざまな言説をあらためて復習した気分になる。カウンター・カルチャー的左翼的思潮が既存メディア否定のポピュリズム的右翼思潮に連結していく皮肉なダイナミズムに暗然とする。

 本書に出てくる「羅生門的」「羅生門効果」という言葉に驚いた。一般的な用語かは不明だが、ナルホドと思った。著者は日系2世だそうだ。

 脱構築の哲学者ポール・ド・マンという人物を本書で初めて知った。死後にナチスのユダヤ人迫害を支持する言説が発見されてスキャンダルになったそうだ。評価のゆらぎが興味深い。

 ブーアスティンの『幻影の時代』への言及には心躍った。半世紀以上昔の学生時代に面白く読んだ本だ。筒井康隆氏の疑似イベント小説のネタ本だと知って読んだのだ。あの本がトランプ時代を胚胎していたとすれば「真実の終わり」の起源は根深い。文明論的な考察が必要だと思える。

 それにしても、厚顔無恥の大音量が成功する社会がいいとは思わない。成功か失敗かの評価は歴史の時間軸で異なってくるだろうが。私は、寛容性を失うと文明は衰退すると思っている。

 2018年に出た本書がどの程度の読者を得たかは知らない。トランプ時代が再来したのだから、本書にさほどに影響力はなかったと思わざるを得ない。故・西部邁ならトランプの出現は民主主義の必然と言うかもしれない。だが、リアルの世界を生きる私は、それをよしとするわけにはいかない。

二月大歌舞伎の「人情噺文七元結」が面白い2025年02月18日

 歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」夜の部を観た。「猿若祭」とは初世猿若勘三郎を記念する公演だそうだ。夜の部の演目は次の三つ。どれも、私には初めての演目である。

 1. 壇浦兜軍記 阿古屋
 2. 江島生島
 3. 人情噺文七元結

 「阿古屋」は源氏の重忠(菊之助)が、平家の景清の行方を聞き出すために遊君・阿古屋(玉三郎)を詮議する話である。詮議の方法が、琴・三味線・胡弓を奏でさせるというのが面白い。奏でる音が澄んでいるから、証言に偽りはないと判断する。歌舞伎らしい話だ。楽器を奏でる玉三郎の姿が見せ場である。

 「江島生島」は菊之助と七之助の舞踏劇だった。七之助の女形は美しい。

 「人情噺文七元結」はわかりやすくて面白い。円朝の物語的な落語がベースの人情噺である。よくできたハッピーエンドの話だ。オー・ヘンリーを連想した。主役は文七ではなく左官の長兵衛である。長兵衛夫妻を勘九郎と七之助の兄弟が演じている。この二人の絡みは、楽しく演じているように見える。勘九郎が父の18代勘三郎に似ていると感じた。

『蒙古が襲来』の舞台は対馬2025年02月20日

 パルコ劇場で東京サンシャインボーイズ復活公演『蒙古が襲来』(作・演出:三谷幸喜、出演:梶原善、西村まさ彦、相場一之、他)を観た。30年前に休眠(事実上の解散)した三谷幸喜氏の劇団・東京サンシャインボーイズが30年前の「公約」通りに結集した一回限りの復活公演だそうだ。

 私は東京サンシャインボーイズの芝居を観たことはない。チケットが取りにくい人気劇団だったそうだが、30年前の私はその存在も知らなかった。三谷幸喜氏が手掛けた映画やテレビドラマは何本も観ているが、舞台はほとんど観ていない。

 東京サンシャインボーイズという劇団に思い入れのない私が『蒙古が襲来』を観たいと思ったのは、蒙古襲来時の対馬を題材にしていると知ったからである。私は対馬に行ったことはないが、対馬の特異な歴史に関心がある。機会があれば訪問したいと思っている。モンゴルの歴史や蒙古襲来も私の関心分野だ。

 もちろん、普通の意味での歴史劇を期待したわけではない。三谷幸喜氏らしいひねりの効いたコメディ仕立てだろうと予感した。対馬という遠い前線の島での蒙古襲来をどんな切り口でドラマにしているか興味がわいた。蒙古に拉致された対馬の村民を描いた井上靖の短編『塔二と弥三』を想起した。

 背景に海が見える対馬の漁村が舞台である。そこに鎌倉の偉い武士が視察に来る。蒙古襲来の兆しがないかの実地調査である。多少の兆しはあるのだが、村民の幹部たちはそれを隠蔽する。なぜだか、蒙古が来襲する兆しはないと言い張る――という設定の芝居である。

 観終わって、私はやや不満だった。蒙古襲来という歴史的事実を的確に表現し、メッセージ性もある。だが、隠蔽の経緯に関わる物語の部分が説得力に乏しい。コメディとしてはあまり楽しめなかった。

 とは言え、東京サンシャインボーイズのファンには十分に楽しめる舞台だろうとも思えた。いろいろ仕掛けがあったようだ。配役リストには14人の役者が載っているのに、舞台上には13人しかいない。全員登場の場面で何度か数えたが、確かに13人だ。不思議だなと思った。帰宅後、購入したプログラムを読んで判明した。最後の方に声で少しだけ応答する「大宰府からの客人」という人物がいた。その声だけの役者・伊藤俊人もリストに載っているのだ。この役者は2002年に急逝、過去の舞台の音声を編集して声だけで「出演」していたのだ。

 事情を知らない私は、この客人が姿を見せないのが不思議だった。配役リストにある伊藤俊人が故人だと知っている観客なら、故人にアテ書きされた登場人物を推測しながら観劇したのだろう。そう思って芝居全体を振り返るとナルホドと思える点もあり、見方が少し変わってくる。

27年前に出た『世界の歴史 (1)』をやっと読了2025年02月22日

『人類の起源と古代オリエント(中公新版・世界の歴史1)	』(大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮/中央公論社)
 中央公論社の『世界の歴史』(全30巻)は1996年から1999年にかけて刊行された。その頃、私は世界史にさほどの関心はなく、このシリーズ本もスルーした。リタイアして時間の余裕ができてから世界史への興味がわき、10年ほど前に古書で全30巻をまとめて入手した。かなり安かった(このシリーズ刊行中に社名は中央公論新社になった)。

 購入後、関心のある巻をボチボチ読んでいる。全巻読破したいと思ってはいるが、気まま読書なので、まだ半分も読んでいない。その第1巻を読んだ。

 『人類の起源と古代オリエント(世界の歴史1) 』(大貫良夫・前川和也・渡辺和子・尾形禎亮/中央公論社/1998.11)

 本書の執筆者は4人。次のような構成の執筆分担になっている。

 第1部 人類文明の誕生……大貫良夫
 第2部 都市と帝国
  前半(メソポタミア文明の誕生~)……前川和也
  後半(アッシリアとフリ人の勢力~)……渡辺和子
 第3部 ナイルが育んだ文明……尾形禎亮

 この第1巻は他の巻よりやや厚く、読了にかなりの時間を要した。4冊の歴史概説書を読んだ気分だ。全体がバラバラというわけではないが、4人の学者の歴史エッセイ集に近い。付録の月報には執筆者3人(前川、渡辺、尾形)と小松左京の座談会が載っている。これも面白い。

 古代オリエントに関しては一昨年、中公新書の『古代オリエント全史』(小林登志子)を読み、昨年の暮れには本村凌二氏の『神々のささやく世界:オリエントの文明』『沈黙する神々の帝国:アッシリアとペルシア』を読んだ。だが、あまり頭に入っていない。馴染みの薄い固有名詞(地名と人名)が頭の中を通過していき、なかなか定着しない。受験生ではないので、憶える意欲が薄弱で、へぇーと思いながら頁をめくっていくだけだ。

 そんな私だが、本書の所々でかすかな既視感を得た。先行読書のおかげだ。歴史のイメージを把握するには、歴史書をくり返し読むしかなさそうだ。

 第1部は、猿人→原人→新人という人類の進化から文明の誕生までを概説し、文明と文化を論じている。人類は環境への適応方法を人工的に身体の外に見出した。道具などの技術である。それが文化を作り、文明につながる。動物(人類を含む)の進化に比べて道具の進化は加速度的との指摘にナルホドと思った。動物としての人間がさほど進化しないのに、道具だけがどんどん進化していく――示唆に富んだ指摘だ。

 第2部は古代オリエント史の概説である。前川氏が執筆した前半はシュメールからアッカドを経てウル第三王朝あたりまで、前2000年期頃までの歴史である。粘土板に刻まれた楔形文字に関する話が面白い。

 メソポタミアで出土した粘土板は何と50万枚ほどもあるそうだ。尋常な数ではない。学者たちは手分けして粘土板に刻まれた楔形文字の解読に取り組んでいる。楔形文字は一つの言語の表現ではない。メソポタミアとその周辺に興亡した集団の多様な言語が楔形文字で刻まれている。法典や叙事詩もあるが、多くは経済文書だそうだ。この概説の後段は、前川氏自身が携わった文書解読に関わる学術エッセイに近い。学者の仕事の現場を垣間見ることができて面白かった。

 渡辺氏が執筆した第2部後半は、アッシリアの黎明期から帝国への興隆と滅亡を中心に関連諸国を描いている。BC2000年頃からBC600年頃までの長い期間、多くの国が興亡する。あらためて、メソポタミア史とは複雑な国際関係の歴史だと思う。執筆者の渡辺氏は宗教学からアッシリア研究に進んだそうだ。『旧約聖書』が史料だろうかとは思うが、歴史理解には『旧約聖書』の読解が欠かせないようだ。

 第3部はエジプト史である。エジプトは砂漠という海に囲まれた細長い島国だとの指摘が面白い。メソポタミアは、あちこちに住む多様な人間集団が東西南北に移動しつつ興亡をくり返すのでゴチャゴチャしていて複雑だ。エジプトは前3000年頃から前500年頃までの長い期間に、初期王朝→古王国→第1中間期→中王国→第2中間期→新王国→第3中間期→末期王朝期と変遷していく。二次元でなく一次元なので比較的わかりやすい。

 この第3部を読んで、エジプト史もいろいろ起伏に富んでいて意外に面白いと感じた。前1200年頃、エジプト最初の考古学者と呼ばれる人物がいたとの記述には驚いた。ラメセス2世(大王)の息子のカエムウアセトである。ギザのピラミッドを修復し砂に埋もれたスフィンクスを清掃したそうだ。カエムウアセトにとってギザのピラミッドは約1300年前の遺物だから、十分に考古学の対象になる。あらためて一次元のエジプト史の悠久の時間を感じた。

二月大歌舞伎の昼の部も観た2025年02月24日

 歌舞伎座で「猿若祭二月大歌舞伎」昼の部を観た。先日、夜の部を観劇し、昼の部の「きらら浮世伝」も観たくなったのだ。昼の部の演目は次の三つ。( )は上演時間である。

 1. 鞘當(23分)
 2. 醍醐の花見(27分)
 3. きらら浮世伝(第1幕61分、第2幕61分)

 上演時間2時間の「きらら浮世伝」は今年の大河ドラマの蔦屋重三郎の話である。この演目の元は歌舞伎ではなく、1988年に銀座セゾン劇場で上演した演劇(作:横内謙介、演出:河合義隆)だそうだ。当時、蔦屋重三郎を演じたのは先代の中村勘九郎(18世勘三郎襲名の前)だった。それを歌舞伎にした今回の舞台(作・演出:横内謙介)で、蔦重を演じるのは当代の勘九郎である。

 そんな経緯を知ったので「きらら浮世伝」を観たくなった。普通の芝居の歌舞伎化だからわかりやすそうだ。37年前の舞台を観ているわけではないが、当代の勘九郎が亡き父親の芝居を踏襲・更新する様に興味がわいた。

 「きらら浮世伝」は期待通りに面白かった。蔦重(勘九郎)と吉原の遊女・お篠(七之助)の二人と、蔦重を応援する戯作者&武士の恋川春町(芝翫)の三人がメインの一代記的な芝居である。当時の著名人が多数登場するのが楽しい。喜多川歌麿、山東京伝はすでに売れっ子、滝沢馬琴、葛飾北斎、十辺舎一九はまだ無名だ。

 で、写楽をどう扱うかが気になる。第2幕はまさに写楽をめぐる展開だった。タイトルの「きらら」は写楽の浮世絵を指している。写楽に醜く描かれてクレームをつける役者(中山富三郎)を勘三郎が演じる場面もある。

 この芝居は写楽の正体を提示してはいない。写楽絵で満たされた背景の前の花道で蔦重が写楽絵そっくりの見得を切って終わる。蔦重を巡る時代精神の結集が写楽を産んだと語っているように見えた。

 「鞘當」は「恋の鞘当て」の語源にもなった場面である。二人の武士(巳之助、隼人)と止め女(児太郎)の活人錦絵を楽しめた。

 舞踊がメインの「醍醐の花見」では、満足気に桜を愛でる秀吉(梅玉)の姿を眺め、めでたい気分にならざるを得ない。