ヘレニズム期の宗教融合がテーマの『辺境の王朝と英雄』2025年10月12日

『辺境の王朝と英雄:ヘレニズム文明(地中海世界の歴史4)』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家・本村凌二氏がメソポタミアからローマ帝国まで4000年の文明史を書き下す『地中海世界の歴史(全8巻)』の第4巻を読んだ。

 『辺境の王朝と英雄:ヘレニズム文明(地中海世界の歴史4)』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 このシリーズの第1巻『神々のささやく世界』と第2巻『沈黙する神々の帝国』はオリエント、第3巻『白熱する人間たちの都市』はギリシアの歴史であり、それぞれの時代に生きた人々の心性の変遷という視点で語る文明史だった。

 第4巻はオリエントとギリシアの文明が交錯するヘレニズムが主題である。著者は「はじめに」で次のように語っている。

 「ヘレニズム文化とは、オリエントのギリシア化であるとともに、ギリシア文化のオリエント化でもある。非ギリシア系の人々に受け入れられたヘレニズム文化は、それだけに普遍的な性格をもっている。このために、ヘレニズム文化というよりもヘレニズム文明とよぶべきだろう。」

 本書は全4章から成り、前半の1、2章はマケドニアのフィリッポス2世と息子のアレクサンドロス大王の事績概要である。類書や映画などで取り上げられてきたアレクサンドロス大王の物語を復習する気分で読んだ。

 3章はアレクサンドロス死後の後継者戦争(ディアドコイ)の話がメインだ。私の知らない話が多く、勉強になった。アレクサンドロスは「民族の融合」ということを考えていたかもしれないが、後継者である部下たちにはそんな意図がなかったそうだ。したがって、各地にできたギリシアの植民都市において支配層のギリシア人と土着の人々との融合が進展したとは言えない。

 本村氏の『地中海世界の歴史』シリーズの主題である心性の変遷は、最後の「第4章 共通語は新しい神を生む」になって展開される。

 ヘレニズムというグローバル化が空前絶後といえるほどの規模で宗教融合(シンクレティズム)をもたらし、各地の固有の神が集約されて普遍的な神が生まれたと指摘している。この話の大筋は、本村氏の『多神教と一神教』のテーマに通じている。あの本を復習している気分になった。

 アレクサンドロスやヘレニズムがテーマなら、攻め込んだギリシア視点だけでなく攻め込まれたオリエント視点での歴史記述も期待したが、そんな記述はなかった。バクトリアなどユーラシア西部のヘレニズムには軽く触れているだけだ。『地中海世界の歴史』だから当然なのかもしれないが…。

『南洋標本館』は読みごたえがある現代史小説2025年10月10日

『南洋標本館』(葉山博子/早川書房)
 新聞の書評(日経2025.8.25、朝日2025.9.13)で気になった次の小説を読んだ。

 『南洋標本館』(葉山博子/早川書房)

 主な舞台は日本領土だった台湾であり、主人公たちの活動範囲は南洋諸島やインドネシアにまで広がる。台湾で生まれ育った二人の植物学者の運命を軸に、大正末期から日本の敗戦までの時代を描いている。重厚で読みごたえがある小説だ。

 主人公は福建省にルーツをもつ本島人で、名前は劉偉→陳永豊→永山豊吉と変遷する。この変遷の経緯もひとつの物語だが、ここでは陳と呼ぶ。成績優秀な陳は台湾の高等学校から東大医学部に進学するも、農学部林学科へ転部する。

 高等学校時代からの陳の友人である生田琴司は台湾生まれの内地人である。総督府官吏の父は琴司を内地の大学に進ませようとするが、台湾から離れたくない琴司は台北帝大理農学部に進学する。

 陳も琴司も植物学者を目指している。植物学は林学や農学などの実学とは異なり「道楽」と見なされていた。二人は手分けして「南洋標本館」を作るのが夢である。本島人と内地人の二人の人生は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦に至る時代の波に翻弄される――という物語である。

 この小説には実在の人物が何人か登場する。巻末の参考文献や謝辞から推測すると琴司のモデルとなった植物学者は細川隆英という学者のようだ。陳にモデルがいるか否かは不明だ。フィクションの人物のように思えるが、その造形は陰影に富んでいて魅力的だ。

 日本の植民地だった台湾の姿をかなり詳しく書き込んでいるのもこの小説の魅力の一つだ。著者の情報収集力に感心した。と言うのは、1988年生まれという著者の若さに驚いたからである。

 著者より40歳上の戦後生まれの私は、当然ながら当時の台湾の様子を知らない。だが、かの地に多少の思い入れがある。私の祖父は台湾総督府病院の医者だった時期があり、母は台湾生まれだ。私は子供の頃、祖母や母から台湾時代の話をいろいろ聞かされた。私より40歳若い著者の描写を読んでいて、遠い昔に祖母や母から聞かされた情景に重なり、不思議な気分になった。

 この小説を読んでいて、あらためて台湾の現代史の変転の激しさを感じた。この地に暮らし、時代の奔流のなかを生きねばならない人々には多様なドラマがある。不謹慎な言い方だが、面白い物語が生まれる。

 この小説の第二の舞台とも言えるインドネシアについて私はほとんど知らない。オランダの植民地から日本の占領地になり、民族主義が生まれる時代を背景に物語は展開する。これも興味深い現代史である。かなり以前に読んだ『想像の共同体』がインドネシアのナショナリズムに言及していたのを想起した。

75歳のヘディンの精力的な外交活動に驚いた2025年10月06日

『秘められたベルリン使節:ヘディンのナチ・ドイツ日記』(金子民雄/中公文庫/1990.10)
 スウェーデンの高名な探検家・地理学者ヘディンとヒトラーをはじめとするナチス幹部たちとの交流・交渉を描いた次の本を読んだ。

  『秘められたベルリン使節:ヘディンのナチ・ドイツ日記』(金子民雄/中公文庫/1990.10)

 私がヘディンとナチスの関係を知ったのは、10年ほど前に『ヒトラーの秘密図書館』を読んだときだった。若い頃からヘディンのファンだったヒトラーは、総統になってヘディンを賓客として招待し、ヘディンはヒトラーの言説を代弁するような著作を出版した、といった内容だった。

 今年8月、NHK BSが『世界のドキュメンタリー ヒトラーの本棚:ナチズムの源を読み解く』という番組を放映した。2023年にドイツ/ベルギーで制作したこの番組に『ヒトラーの秘密図書館』の著者ライバックも解説者の一人として登場した。番組では、世界的な有名人ヘディンが『大陸の戦争におけるアメリカ』という著作でナチスの代弁者のように語った、と紹介していた。

 2年前に読んだ『ナチスと隕石仏像』もヘディンとナチスの関係に言及していた。この本では、親衛隊長官ヒムラーがアーリア人の痕跡追求のためチベット探検に注力し、ヘディンとも交流があったと紹介している。だが、ヘディンにとっては祖国スウェーデンの中立維持のための交流であり、「親ナチス」という批判を見直すべきだと述べている。

 私は、最近になってヘディンの『馬仲英の逃亡』『さまよえる湖』を読み、この胆力ある探検家への興味がわき、ヘディンとナチスの関係が気になってきた。ヒトラーやナチスは私の関心領域なので関連書を何冊か読んできたが、上記の2冊以外にヘディンに触れた本は記憶にない。カーショーの大著『ヒトラー』にもヘディンは登場しない。

 で、ネットを検索して30年以上前に出た本書『秘められたベルリン使節』を見つけた。著者は最近読んだ『西域 探検の世紀』の金子民雄氏である。

 本書は1935年から1943年1月まで、ヘディン70歳から77歳までのベルリンでの活動の記録である。400頁を越えるこの文庫本の読了には思いのほかの時間を要した。ヘディンの日記をベースに、歴史上のひとつの時期を緻密に記録している。彼の交流関係が広範なため登場人物が多い。後世の眼で俯瞰する歴史書ではなく、同時代進行の記録である。登場人物たちが情勢を語るさまざまな言説によって、先行き不透明な時代をヘディンと共に模索している気分になる。

 本書で驚いたのは、ヘディンがかなりの大物で、政治にも大いなる関心を抱いていたことだ。高名な探検家ヘディンはスウェーデン国王や政府関係者とも交流があり、ノーベル賞の選考委員も務めている。ヒトラーと個人的友人関係にあったと言われるが、それ以前からドイツ皇帝やヒンデンブルグらとも交友があった。ゲーリングとは無名時代から親しかった。

 また、ヘディンが克明な日記を残しているのも感嘆に値する。人と会談したときは、その内容を会話体で記録している。交友関係が驚くほど広いから日記は膨大である。ヘディンは探検費用を捻出するために膨大な探検記や戦記(第一次大戦)を書いているが、それらの著作のベースには克明な日記があったのだ。

 70歳を過ぎてもベルリンを何度も訪問しているヘディンは、ナチスの要人と会談を重ねている。ヒトラーとの会談は新聞報道もされる。ヘディンは、そんな会談を個人的な活動と述べているが、実際にはスウェーデン国王や政府の意を受けた外交活動と情報収集(ナチス政府の意図確認)だった。当時、ナチスの要人と容易に会える外国人はヨーロッパ中でもヘディンしかいなかった。

 ヘディンがそんな立場にいたのは、若いときからの親独派であり、ゲルマン人の優位性を信じていたからである。だが、全面的にナチスに共感していたわけではない。ユダヤ人や教会へのナチスの政策には批判的だった。ヘディンの著作『ドイツと世界平和』のドイツ語版は、ナチスからの修正要求に応じなかったため出版できなかった。そんな事情にもかかわず、ヒトラーはこの高名は老探検家を友人として遇した。

 本書によって、北欧三国(フィンランド、スウェーデン、ノルウェー)とナチス・ドイツとの微妙な関係を垣間見ることができた。ヘディンが自らに課していた使命はスウェーデンの中立維持である。結果的にその使命は果たされ、スウェーデンは第二次世界大戦において中立を維持できた。たが、スウェーデンのナチス批判派は戦後、親ナチスだったヘディンを批判する。

 ヘディンがゲッベルスやヒムラーとも何度か会見し、友好関係を結んでいたのは事実だ。そのため、ナチスから迫害されている団体や要人の関係者からは、改善の嘆願依頼がヘディンのもとに殺到した。ヘディンはそのいくつかをゲッベルスやヒムラーに取りつぎ、改善が実現したものもある。ナチスにとって、ヘディンは無視できない大物だったようだ。

 本書には、探検の成果を元に地図を作製・出版する作業の紹介もある。かなりの費用を要する作業だったらしい。20世紀前半の探検の時代、探検と政治の関係はかなり近かったのだと思う。

ゾロアスター教の茫漠を描いた『ゾロアスター教』2025年08月31日

『ゾロアスター教』(青木健/講談社選書メチエ)
 かなり以前に入手し、読もう読もうと思いながら先延ばしにしていた次の本を、やっと読んだ。

 『ゾロアスター教』(青木健/講談社選書メチエ)

 青木健氏の著書を読むのは『マニ教』(講談社選書メチエ)、『ペルシア帝国』(講談社現代新書)に続いて3冊目である。本書の刊行は私が読んだ2冊より前だ(初版2008年3月。本書は2019年4月10刷)。真面目な記述の合間に時おり挿入される青木氏独特のユーモラスなツッコミ述懐の魅力は、すでに本書でも発揮されている。

 ゾロアスター教に関しては、以前に『宗祖ゾロアスター』(前田耕作)と『マニ教とゾロアスター教』(山本由美子)を読んだことがある。だが、この宗教のイメージをつかめてはいない。本書を読み終えて、ゾロアスター教の姿はますます茫漠としてきた。ゾロアスタ―教の始まりは不明確で、そこにさまざまなものが付加され、後世では誤解に基づく虚像も拡大した。そんな姿を描こうとすれば茫漠とならざるを得ない。

 ゾロアスター教は古代アーリア人(インド・ヨーロッパ語族)の民族宗教から生まれた。古代アーリア人の原郷は中央アジア(カスピ海の東方、アムダリア川の北方)である。彼らはBC3000年頃から東西に移動を開始し、イラン高原やインドに向かう東方系とヨーロッパに向かう西方系に分かれた。イラン高原に進出した人々は「アーリア人」を自称し、そこでゾロアスター教が生まれたようだ。

 「ゾロアスター」は古代イラン語の「ザラスシュトラ」の英語読みである。ドイツ語だと「ツァラトゥストラ」になる。本書の本文は主にザラスシュトラを使っている。

 ザラスシュトラの生存年代は不明である。BC12世紀からBC9世紀頃、中央アジアからイラン高原東部で牧畜生活を送っていた古代アーリア人の神官の家に生まれた「知的エリート」だったそうだ。

 ザラスシュトラは当時の民族宗教に反旗を翻し、アフラー・マズダー(叡智の主)という神格を創案し、従来の神々を二元論的に再編成する。ザラスシュトラの死後も教団は発展していくが、その過程で古代多神教の神々に妥協していく。

 ゾロアスター教の成立は仏教やキリスト教よりはるかに古く、後続の宗教にさまざまな影響を与えたと言われている。だが、聖典『アベスター』が成立したのは、ゾロアスター教を国教としたサーサン朝(224年~651年)の時代であり、明確な教義の整備は、仏教やキリスト教より数世紀遅れた。その『アベスター』も現存しているのは30パーセント以下である。

 他の宗教と同じように、ゾロアスター教も成立以降さまざまな経緯による変質をくり返してきたようだ。それ故に実相をつかみにくい。

 本書の終章のタイトルは「ヨーロッパにおけるゾロアスター幻想」である。この章がとても面白い。正確なゾロアスターを知らないギリシア語・ラテン語の古典作者たちが独自のソロアスター像を進化させ、それがヨーロッパの知識人に影響を与えたという話である。次のような記述もある。

 「こうして、ヨーロッパの思想界に、「バビロニアの占星術の大家、プラトン主義哲学の祖、キリスト教の先駆者、マギの魔術の実践者」という、ザラスシュトア本人が聞けば間違いなく驚愕するであろう「ルネサンス的ゾロアスター像」が深く刻み込まれたのである。」、

 そんな事情が、ニーチェの『ツァラトゥストラ』やナチスの奇矯なアーリア民族至上主義にもつながっていく。本書はナチス親衛隊の機関「アーリア民族遺産研究会」によるチベット探検にまで言及していて、ちょっと驚いた。

探検の時代の西域にはスパイがいっぱい2025年08月28日

『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)
 先日読んだ『中亜探検』(橘瑞超)は意外に面白かった。あの文庫本に詳しい解説を書いていた金子民雄氏による次の新書を入手して読んだ。

 『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)

 19世紀末から20世紀初めにかけての二十数年、西域探検が華やかだった。ヘディンスタインが活躍した時代である。その頃の西域の状況を描いた本書は、大谷探検隊(第一次~第三次)に焦点をあてている。橘瑞超の『中亜探検』は第三次隊の記録だったが、本書によって第一次と第二次の概要がわかった。また、英露などの諸国が絡んだあの時代の西域の雰囲気や国際情勢を知ることができた。

 本書のキーワードは「グレイト・ゲーム」である。1907年にノーベル文学賞を受賞した英国の作家キプリングが1901年に発表した小説『キム』に出てくる言葉で、当時、欧米では流行語になったそうだ。英領インドのイギリス人孤児キムが少年スパイとして活躍する物語らしい。本書は随所で『キム』に言及している。いずれこの小説を読んでみたい、という気分にさせられる。

 1900年前後の西域は、英露のスパイが諜報活動をくり広げるグレイト・ゲームの舞台だった。そこに乗り込んだ大谷探検隊(西本願寺西域探検隊)は、しばしば日本のスパイと見なされたが、実際には諜報活動に携わってはいなかったようだ。

 アラビアのロレンスのように考古学者で諜報員という存在は珍しくない。西域で伝道活動をしている英国の宣教師の多くは諜報活動も担っていたそうだ。僧侶だからスパイでないと信頼されることはない。

 当時の西域探検・発掘は各国の競争の場だった。クチャに一番乗りしたのは第一次大谷探検隊である。近くまで来ていたドイツ探検隊に先駆けて貴重は遺物を発掘する。著者は次のように述べている。

 「日本ではまだ考古学の調査方法が十分確立していなかったので、西本願寺隊も壁画、仏像、古文書、古銭や古物品を熱心に集めたものの、記録と整理に不備があって、発掘品の正確な出土地が不明になるものが多かった。これは前後三回の探検を通しての共通した欠陥だった。(…)すばらしいものを発見、将来したものの、十分な成果が発表されたとは言い難かった。」

 先日読んだ『西域』(羽田明)に、大谷探検隊がクチャのキジル千仏洞の実測図を紛失した話があった。この件について、本書は次のように述べている。

 「せっかく測量したのに、堀賢雄のキジル千仏洞の実測図は紛失してしまった。一番肝心なものを失くしてしまったことになる。外国の探検家がよく失くすのが測量図で、これはまず人為的事故と見なすのが普通である。ヘディンの場合、同じものを三枚は作り、別々に保管した。」

 他国に先駆けて作成した測量図は盗難にあった可能性が高いようだ。まさに諜報戦の世界だ。

 大谷光瑞は第二次隊に18歳の橘瑞超を抜擢する。「頭も切れ、豪胆・健康だから」という理由である。著者は、光瑞が小説『キム』を読んでいて、若い瑞超の起用を思いついたのではと想像している。第一次の隊員は体験も学力もある常識人だった。無謀で突飛な発想力には欠けていた。光瑞は若い瑞超の決断力と突破力に賭け、瑞超の第三次隊はその期待に応えようとしたのかもしれない。

 瑞超の第三次隊はタクラマカン砂漠の縦断に成功する。現地に踏み込んだことがある著者は「どんな探検家でも、こんな無謀なことはまずしない。(…)風に吹かれたらまず助からない」と評している。

 瑞超はチベット踏破には失敗する。著者は、瑞超が試みたのとほぼ同じ崑崙の山にとりつく所までは行ってみたそうだ。「家畜を連れての旅はまったく無理と思えた」と述べている。隊員の逃亡もあり、失敗すべくして失敗した。著者は、清国政府による妨害が絡んでいた可能性を示唆している。チベット踏破は当初の計画にはなく、瑞超が独断で決行した。瑞超がホータンから崑崙山脈を越えてチベットへ向かっていると知った清国政府は日本政府へ抗議の通告をしている。まさに諜報戦の時代、瑞超の無謀な行動を見張っている眼があったようだ。

6年前と似た動機で『西域』(羽田明)を再読2025年08月24日

『西域(世界の歴史10)』(羽田明/河出書房新社/1969.2)
 6年前に読んだ西域の歴史の概説を再読した。

 『西域(世界の歴史10)』(羽田明/河出書房新社/1969.2)

 6年前、「幻のソグディアナ タジキスタン紀行」というツアーへの参加を決め、その事前勉強の一環で本書を読んだ。

 来月、(2025年9月)、「西域シルクロード紀行~カシュガル・ホータン・クチャとタクラマカン砂漠縦断」というツアーに参加する予定だ。その準備として、内容をほとんど失念している本書を再読した。

 本書の刊行は半世紀以上昔である。もっと新しいシルクロード概説書が何冊もあり、そのいくつかは私も読んできた。だが、西域旅行に先立って読み返したいと思ったのは本書である。『西域』というタイトルに惹かれたのかもしれない。

 再読とは言え内容をほとんど憶えていないので、新鮮な気分で「ヘェー」と思いながら読み進めた。1回読んだだけで歴史概説書の内容が頭に入るとは思っていないが、わが忘却力を追認する読書体験だった。

 タジキスタン旅行準備中の6年前は、パミール山塊の西側のソグディアナに注目して読んだと思う。今回のツアーはパミール山塊の東側のタリム盆地(タクラマカン砂漠)周辺なので、この地域に重点を置いて読んだ。

 本書には、先日読んだばかりの大谷探検隊の橘瑞超も登場する。18歳で第二次隊として派遣された瑞超を「世界探検史上にもまれな少年探検家だった」と紹介している。私が来月訪問予定のクチャのキジル千仏洞は、大谷探検隊が「ドイツよりもさきに、ということはどの国の調査隊よりもさきに、実測図をつくったりした」そうだ。だが、その資料はその後なくってしまい、内容はわからないという。

 本書で再認識したのは、東西文化交流の歴史の古さだ。著者の羽田氏は、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世の事蹟を刻んだ巨大なベヒストゥーン石碑(前6世紀末)が前3世紀のアショカ王や始皇帝の碑文に影響を及ぼした可能性を指摘している。ペルシアからインドや中国への文化波及は、張騫らがシルクロードを拓く以前の時代からあったと考えるのが自然なようだ。

 タリム盆地周辺の歴史は、周囲の諸勢力のせめぎあいの歴史であり、かなり複雑で頭に入りにくい。今回の再読で、ウイグル族の西走が大きなポイントだと思った。モンゴリアで突厥帝国のあとを継いだウイグル帝国はキルギス・トルコ族の襲撃で瓦解、ウイグル族は西走する。それによって、アーリア系だった西域の住民のトルコ化が進む。ウイグル族の人々の容貌はアーリア化していく。トルキスタンの誕生である。西域で活躍した西ウイグルについては不明な事項も多いそうだ。

 西ウイグルやトルコ系のさまざまな部族について、あらためて整理・勉強してみたくなった。

若き橘瑞超の『中亜探検』は面白かった2025年08月17日

『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)
◎大谷探検隊とは

 先日読んだスタインの『中央アジア踏査記』に、ミーラン遺跡の壁画を破損した「若い日本人旅行者」の話があった。ネットで調べて、その日本人が大谷探検隊の橘瑞超だと判明し、何年か前に古書で入手して積んだままの『中亜探検』の著者が橘瑞超だと思い出した。スタインを読んだのを機にこの本も読んだ。かなり面白かった。

 『中亜探検』(橘瑞超/中公文庫/1989.6)

 本書巻末に金子民雄(歴史学者)による約50ページの解説と詳細な年譜がある。名前のみしか知らなかった大谷探検隊の概要を知ることができた。

 へディンやスタインが中央アジアを探検した20世紀初頭、大谷探検隊は1902年から1914年にかけて3回実施された。指揮したのは浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主の家系に生まれた大谷光瑞(妻は大正天皇の皇后の姉)である。ロンドンに滞在していた光瑞は西域探検を計画、1902年に5名でロンドンから西域に向かう(第1回探検)。光瑞は26歳、他のメンバーも20代だった。翌年、父が死去し、光瑞は27歳で第22世法主となる。

 第2回探検(1908~1909年)は橘瑞超、野村栄三郎の二人が派遣される。このとき、橘瑞超は18歳。成績優秀だった瑞超は15歳で得度、光瑞の側近となっていた。「少年探検隊」の瑞超は楼蘭に到達し、重要な発掘をする。

 第3回探検(1910~1914)の前半は橘瑞超(20歳)、後半は吉川小一郎が担う。ロンドンからロシア経由で西域に入った橘瑞超は、タクラマカン砂漠縦断やチベット探索などを行うが、日本から連絡が取れなくなる。辛亥革命で騒然となった時期であり、瑞超捜索のため、吉川小一郎が派遣される。トルコ人に変装して探査行を続けていた瑞超は敦煌で吉川小一郎と劇的な出会いを果たす。瑞超は1912年に帰国(6月、京都着)。吉川小一郎は1914年まで調査を続行する。

 本書『中亜探検』は瑞超による第3回探検の記録(口述筆記)である。帰国から半年後の1912年の12月、瑞超22歳のときに刊行されている。

 本書刊行の翌々年の1914年、西本願寺の疑獄事件が起きる。第1回探検に参加した光瑞の側近も収監され、光瑞は38歳で法主を辞任、伯爵を返上、隠退生活に入る。反光瑞派からは西域探検の散財も問題にされる。探検を終えた吉川小一郎はひっそりと帰国する。その後、大谷探検隊の発掘品はばらばらになり、民間に流出して所在不明になったものもあるそうだ。

 ……と、ここまでが本書の背景説明である。本書の著者紹介には「光瑞の法王辞任後は隠棲して多くを語らず、謎多き人生でもあった。1968年死去、78歳」とある。

◎隊長は20歳

 本書で印象深いのは20歳という橘瑞超の若さと、探検隊の財力だ。若い瑞超には不撓不屈の探究心がある。金もある。だが無謀に思える場面もある。

 若干20歳で探検隊を率いる瑞超にどれほどの学識があったかは不明だが、英語・中国語・トルコ語ができ、西域に関わる史書も読み込んでいるようだ。本書によれば、第3回探検のロンドン出発前の1909年、大谷光瑞と共に英国でスタイン、ストックホルムでヘディンに会い「シッカリ遣るべし」と奨励されている。

 ミーランの壁画を破損した件について、瑞超は本書で触れていない。金子民雄の解説はこの件を次のように記述している。

 「瑞超師はアブダルからミーランに行き、先年、スタインが発見して持ち帰れなかった壁画を取り外そうとしたが、これはあまりに大きすぎてうまくいかず、一部砕いてしまった。とても無理と思って瑞超師も途中で作業を中止したようであるが、この情報は前年、スタインから知らされたものだった。スタインは自分の発見物だからといって先取権を主張しなかったのであろう。スタインは不満をもらしてはいるが、全部失ったわけではない。こうしたことはよくあることであり、この断片の一部は現在どうもソウルの博物館にあるようである。」

 若い瑞超は考古学への情熱はあっても、十分な技術が備わっていなかったようだ。身近に練達の技術者もいなかった。

 本書で驚いたのはタクラマカン砂漠の縦断だ。南から北へ、チェルチェンからブルクまで22日余をかけて縦断している。ヘディンもスタインも成し遂げていない壮挙である。暴挙に近いかもしれない。最後の数日は水が尽きた瀕死の状態だった。瑞超はトルコ人(1934年以降は古い名称復活で「ウイグル人」と呼ばれる人々)の部隊を率いての旅を次のように記述している。

 「私は僧侶の身でありますから、かかる場合に際会しての覚悟はすでに定っております。(…)私自身においては既に死の問題が解決されているのです。(…)けれどもただ金の力に引かれて、私に従ってきたトルコ人は、今や金の力も何の効力も奏せない、この大沙漠に立ったので、俄に発心し遥に西方メッカに向かって頻に礼拝するようになった。」

 その後、瑞超はホータンから南へ向かい、崑崙山脈の彼方のチベットを目指す。発掘だけでなく地図の空白を埋める探検への関心が強かったようだ。だが、この探検では多くの駱駝や荷物を失い、金で雇った隊員のほとんどが逃亡してしまう。瑞超に従って行けば命がないと思われたのだろう。探検は失敗に帰する。

 瑞超の行動は無謀に近い。駱駝に山道は難しいと知りながら駱駝を使うという判断は疑問だ。瑞超の冒険心や胆力には感嘆するが、隊員たちの人心を掌握して統率する力は、若さ故にまだ培われていなかったように思える。

玄奘はオーレル・スタインの「守護聖人」2025年08月14日

『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)
 シルクロード関連の本を読んでいると、ヘディンとスタインの名の並記に出会うことが多い。2カ月前、ヘディンの『さまよえる湖』などを読み終えたとき、数年前に古書で入手したまま積んでいるスタインの本が気がかりになった。ヘディンだけではスタインに申し訳ないので、意を決して次の本を読んだ。

 『中央アジア踏査記』(スタイン/沢崎順之助訳/白水社/2004.5)

 2段組のやや小さい活字で約300頁。読みにくそうに思えたが、読み始めると意外に面白く、引き込まれた。オーレル・スタインは1862年ハンガリー生まれのイギリスの考古学者・東洋学者である。ヘディンより3歳年長の同時代人だ。二人とも中央アジア探検で有名だが、ヘディンは地理学者、スタインは考古学者なので、業績は重なるようで多少異なる。

 スタインは中央アジアを3回探査している。①1900~1902年、②1906~1908年、③1913~1916年の3回である。本書の原著は1933年刊行。一連の探査から十数年後に過去3回の探査をふり返って地域別に記述している。本書は1966年に出た訳書を改版したものである。

 巻末に挟み込みの地図があり、口絵などにかなりの数の写真を収録している。だが、本書を読み進めながら、これだけでは物足りないと思った。本文で言及する地名や遺物に地図や写真が対応しきれていないのが残念だ。

 本書には玄奘やマルコポーロへの言及が多い。彼らの足跡とスタインの探査地域が重なるからである。『大唐西域記』『東方見聞録』からの引用もあり、この二つの書を読んだばかりの私にとっては楽しい読書時間だった。スタインは玄奘の記録の正確性を称賛し、玄奘を「私の守護聖人」と述べている。

 本書のメインは壁画・木簡・絹絵などを発掘した際の現場報告である。有名な遺物の数々がスタインによって発掘されたことをあらためて認識した。遺跡の多くはタクラマカン砂漠の僻地にあり、そこに辿り着くまでが大変である。多くの作業員・ラクダ・資材などを調達する一大プロジェクトだ。山道や砂漠を行く旅では、スタインも徒歩が多かったようだ。タフな人だと感心した。

 ミーラン遺跡の壁画が日本人によって破損されたとの記述には驚いた。スタインは第2回の探査でフレスコ画を発見し、それを安全にとりはずすには周到な準備が必要と判断し、そのままにする。その後の第3回の探査で壁画に対面した場面をスタインは次のように語っている。

 「わたしの発見が報ぜられた数年後、考古学への情熱に見合うだけの準備も、専門的技術も経験もない若い日本の旅行者がやって来て、拙劣な方法でフレスコ画をはぎとろうとしたのだ。その企てが、ただ破損をまねくばかりであるのは当然だった。」

 ミーラン遺跡は普通の旅行者が行ける場所ではない。この「日本の旅行者」について調べると、大谷探検隊の橘瑞超のようだ。

 スタインは多くの遺物を大英博物館やインド(当時は英国領)に運び出している。清朝末期のこの時代、貴重な遺物を持ち出すのを当然と考えていた。放置すれば破壊・盗難・散逸のおそれがあると判断したのだろう。敦煌で発見された大量の文書や絵画は道教の僧侶が管理していた。スタインはその管理者と交渉を重ねて巧みに説得し、寄進と引き換えに大量の遺物を入手する。興味深い話である。

 だが、探検隊が発掘物を容易に持ち出せる時代は終わりつつあった。辛亥革命で中華民国がスタートし、次第に外国人による発掘が制限されていく。1930年、スタインは第4回の探査を試みるが果たせなかた。