不思議な契機で大昔に読んだ2冊を再読 ― 2026年05月29日
◎不思議な暗合
ふとした経緯で、38年前に読んだ『文章読本』(向井敏)と61年前に読んだ『たそがれに還る』(光瀬龍)を続けて再読した。いずれも記憶の彼方の本であり、この2冊に何の関連もない筈だったが…。
先日、ネット検索していて不意打ちのように『文章読本』(向井敏)を称賛する文章に出会った。昔読んだ本だなと思い出し、本棚の奥から引っ張り出してパラパラと拾い読みし、元に戻した。向井敏(1930-2002)という著者はこの本で初めて知った――そう思っていた。他の著書は読んだことがない。
その夜、ベッドに入ったとき、急に高校時代(60年前だ)に読んだ光瀬龍(1928-1999)の『たそがれに還る』が頭に浮かんだ。私をSFに引きずり込んだ遠い昔の懐かしい小説だ。そのまま寝ようと思ったが、目が冴えて起き出し、本棚の奥から『たそがれに還る』を取り出した。冒頭部分に目を通したくなったのだ。
その古い本を開くと黄ばんだ切り抜きが出てきた。『図書』(1984年1月)の記事だった。『「青の魚座」という名の星座をご存知だろうか。」という書き出しの『たそがれに還る』に言及した記事である。「青の魚座」は光瀬龍の宇宙年代記シリーズに登場する架空の星座だ。記事の著者は向井敏、昼間に想起した『文芸読本』の著者だ。私には馴染みのない固有名詞との再度の遭遇に驚いた。私は『文章読本』を読む4年前にこの著者の記事を読み、切り抜き、挟み込んだようだ。
不思議な暗合に少々慄然とし、『文章読本』と『たそがれに還る』を再読せねば、という気分に追い込まれた。
◎2冊ともやや期待外れ
『文章読本』(向井敏/文藝春秋/1988.11)
『たそがれに還る』(光瀬龍/早川書房/1964.11)
この2冊、それぞれに印象深い。向井敏の『文章読本』には、天使人語や野間宏の評論を悪文の例としてコテンパンにした辛口痛快本のイメージがある。『たそがれに還る』は茫漠たる宇宙的無常観の光瀬節にしびれた。
かなりの期待感で数十年ぶりに読み返したのだが、2冊ともやや期待外れだった。私の感性が摩耗したせいもあるだろうが、この程度の内容だったのかの思いにとらわれた。年月の経過は恐ろしい。
◎『文章読本』はかなり文芸趣味
向井敏の『文章読本』は、天使人語(1984.12.17)、野間宏、大江健三郎らの文章をあげつらった冒頭に迫力があるだけに、竜頭蛇尾を感じた。共感できる指摘も多いが、著者の文芸趣味を聞かされている気分になる。文章の良し悪しに一般的基準があるとは思うが、多分に個人の感覚に依る部分もある。シャレタ文章と気もち悪い文章は紙一重だ。
そもそも、世の中に山ほどある「文章読本」は斎藤美奈子の『文章読本さん江』によって粉砕されてしまった気配もある。斎藤美奈子は向井本を「文芸批評的」としている。
◎諦観と詠嘆の叙事詩
『たそがれに還る』は光瀬龍36歳のときの処女長編である。初読の後、何度か部分的に読み返した筈だ。エピグラフ「人、うたた情ありて たそがれに還る」は記憶に刻まれいるし、冒頭の宇宙港の情景は鮮烈だった。今回読み返して、忘れている部分も多いと気づいた。道具立てのレトロ感は仕方ないが、展開がやや雑で強引だ。そこに独特の魅力があるとも言えるが。
60年前にこのSFを読んだときは、本格的なハード宇宙小説に思えた。いま読み返すと詩的箴言を散りばめた諦観と詠嘆の叙事詩である。地球があっさり滅亡しても、主人公らの営為は坦々と進行していく。オイオイと思いつつスゴさも感じる。瑕疵を補ってあまりある初々しい魅力があるのは確かだ。
ふとした経緯で、38年前に読んだ『文章読本』(向井敏)と61年前に読んだ『たそがれに還る』(光瀬龍)を続けて再読した。いずれも記憶の彼方の本であり、この2冊に何の関連もない筈だったが…。
先日、ネット検索していて不意打ちのように『文章読本』(向井敏)を称賛する文章に出会った。昔読んだ本だなと思い出し、本棚の奥から引っ張り出してパラパラと拾い読みし、元に戻した。向井敏(1930-2002)という著者はこの本で初めて知った――そう思っていた。他の著書は読んだことがない。
その夜、ベッドに入ったとき、急に高校時代(60年前だ)に読んだ光瀬龍(1928-1999)の『たそがれに還る』が頭に浮かんだ。私をSFに引きずり込んだ遠い昔の懐かしい小説だ。そのまま寝ようと思ったが、目が冴えて起き出し、本棚の奥から『たそがれに還る』を取り出した。冒頭部分に目を通したくなったのだ。
その古い本を開くと黄ばんだ切り抜きが出てきた。『図書』(1984年1月)の記事だった。『「青の魚座」という名の星座をご存知だろうか。」という書き出しの『たそがれに還る』に言及した記事である。「青の魚座」は光瀬龍の宇宙年代記シリーズに登場する架空の星座だ。記事の著者は向井敏、昼間に想起した『文芸読本』の著者だ。私には馴染みのない固有名詞との再度の遭遇に驚いた。私は『文章読本』を読む4年前にこの著者の記事を読み、切り抜き、挟み込んだようだ。
不思議な暗合に少々慄然とし、『文章読本』と『たそがれに還る』を再読せねば、という気分に追い込まれた。
◎2冊ともやや期待外れ
『文章読本』(向井敏/文藝春秋/1988.11)
『たそがれに還る』(光瀬龍/早川書房/1964.11)
この2冊、それぞれに印象深い。向井敏の『文章読本』には、天使人語や野間宏の評論を悪文の例としてコテンパンにした辛口痛快本のイメージがある。『たそがれに還る』は茫漠たる宇宙的無常観の光瀬節にしびれた。
かなりの期待感で数十年ぶりに読み返したのだが、2冊ともやや期待外れだった。私の感性が摩耗したせいもあるだろうが、この程度の内容だったのかの思いにとらわれた。年月の経過は恐ろしい。
◎『文章読本』はかなり文芸趣味
向井敏の『文章読本』は、天使人語(1984.12.17)、野間宏、大江健三郎らの文章をあげつらった冒頭に迫力があるだけに、竜頭蛇尾を感じた。共感できる指摘も多いが、著者の文芸趣味を聞かされている気分になる。文章の良し悪しに一般的基準があるとは思うが、多分に個人の感覚に依る部分もある。シャレタ文章と気もち悪い文章は紙一重だ。
そもそも、世の中に山ほどある「文章読本」は斎藤美奈子の『文章読本さん江』によって粉砕されてしまった気配もある。斎藤美奈子は向井本を「文芸批評的」としている。
◎諦観と詠嘆の叙事詩
『たそがれに還る』は光瀬龍36歳のときの処女長編である。初読の後、何度か部分的に読み返した筈だ。エピグラフ「人、うたた情ありて たそがれに還る」は記憶に刻まれいるし、冒頭の宇宙港の情景は鮮烈だった。今回読み返して、忘れている部分も多いと気づいた。道具立てのレトロ感は仕方ないが、展開がやや雑で強引だ。そこに独特の魅力があるとも言えるが。
60年前にこのSFを読んだときは、本格的なハード宇宙小説に思えた。いま読み返すと詩的箴言を散りばめた諦観と詠嘆の叙事詩である。地球があっさり滅亡しても、主人公らの営為は坦々と進行していく。オイオイと思いつつスゴさも感じる。瑕疵を補ってあまりある初々しい魅力があるのは確かだ。

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