新疆ウイグル自治区の状況に暗澹とする ― 2022年11月04日
今年6月に出た次の新書を読んだ。
『新疆ウイグル自治区:中国共産党支配の70年』(熊倉潤/中公新書)
中国政府による人権侵害が問題になっている地域の現代史概説書である。中国北西部の広大な新疆ウイグル自治区は、かつて西域と呼ばれたシルクロードの地だ。この地が現在なぜ中国なのか、ちょっと不思議な気がする。シルクロードや中央アジア史は私の関心領域なので、この地域の古代からモンゴルの時代までの様子は何となくイメージできる。だが、その後の歴史は私にはぼんやりしている。
第二次大戦後の混乱、共産党統治の始まり、文革時代、改革開放、そして習近平時代――そんな流れの新疆ウイグル自治区の現代史を読んで、暗澹たる気持ちになった。この70年は共産党による融和的協調路線が次第に強権的弾圧に変容していく歴史である。
2年前、中国で発禁になった『ウイグル人』という歴史書の日本語版を読んだ。原著は天安門事件が起きた年(1989年)に出版され、すぐに発禁になったそうだ。その時代以降、状況はさらに悪化し、ウイグル人への弾圧は激しくなっている。ウイグル人の言語や宗教を規制し「中華民族」に改変していこうとする様子を著者は「文化的ジェノサイド」と表現している。
本書には、昨年末(2021年12月19日)に放送されたNHKの「中国新世紀 第5回“多民族国家”の葛藤」というテレビ番組の内容紹介が2カ所ある。一つは「親戚制度」というおぞましい密告制度の紹介、もう一つは中国のウイグル人は幸福で自由に暮らしているという捏造的プロパガンダの紹介である。
私はこの番組を観ていなかった。ネット検索するとNHKオンデマンドに入っていたので、本書読了後、すぐに視聴した。かなり衝撃的な内容だった。本書理解の一助になったが暗然とする。
中国がハイテクを駆使した監視社会になりつつあることは承知しているが、それに加えて「親戚制度」という人海戦術の監視体制を構築していることに驚いた。もともとは、高齢者・障害者など社会的弱者を公務員の「親戚」ということにして支援する制度だそうだ。新疆ウイグル自治区では、110万人以上の政府職員がウイグル人の「親戚」になり、その家庭に入り込んで食事を共にし、情報収集をしているそうだ。まるで安部公房の『友達』のような悪夢の世界である。
21世紀の世界に、オーウェルの『1984年』をも凌駕しそうな独裁監視社会が出現しようとしている……
『新疆ウイグル自治区:中国共産党支配の70年』(熊倉潤/中公新書)
中国政府による人権侵害が問題になっている地域の現代史概説書である。中国北西部の広大な新疆ウイグル自治区は、かつて西域と呼ばれたシルクロードの地だ。この地が現在なぜ中国なのか、ちょっと不思議な気がする。シルクロードや中央アジア史は私の関心領域なので、この地域の古代からモンゴルの時代までの様子は何となくイメージできる。だが、その後の歴史は私にはぼんやりしている。
第二次大戦後の混乱、共産党統治の始まり、文革時代、改革開放、そして習近平時代――そんな流れの新疆ウイグル自治区の現代史を読んで、暗澹たる気持ちになった。この70年は共産党による融和的協調路線が次第に強権的弾圧に変容していく歴史である。
2年前、中国で発禁になった『ウイグル人』という歴史書の日本語版を読んだ。原著は天安門事件が起きた年(1989年)に出版され、すぐに発禁になったそうだ。その時代以降、状況はさらに悪化し、ウイグル人への弾圧は激しくなっている。ウイグル人の言語や宗教を規制し「中華民族」に改変していこうとする様子を著者は「文化的ジェノサイド」と表現している。
本書には、昨年末(2021年12月19日)に放送されたNHKの「中国新世紀 第5回“多民族国家”の葛藤」というテレビ番組の内容紹介が2カ所ある。一つは「親戚制度」というおぞましい密告制度の紹介、もう一つは中国のウイグル人は幸福で自由に暮らしているという捏造的プロパガンダの紹介である。
私はこの番組を観ていなかった。ネット検索するとNHKオンデマンドに入っていたので、本書読了後、すぐに視聴した。かなり衝撃的な内容だった。本書理解の一助になったが暗然とする。
中国がハイテクを駆使した監視社会になりつつあることは承知しているが、それに加えて「親戚制度」という人海戦術の監視体制を構築していることに驚いた。もともとは、高齢者・障害者など社会的弱者を公務員の「親戚」ということにして支援する制度だそうだ。新疆ウイグル自治区では、110万人以上の政府職員がウイグル人の「親戚」になり、その家庭に入り込んで食事を共にし、情報収集をしているそうだ。まるで安部公房の『友達』のような悪夢の世界である。
21世紀の世界に、オーウェルの『1984年』をも凌駕しそうな独裁監視社会が出現しようとしている……
現状の死生観を平明に語る『死にぎわに何を思う』 ― 2022年11月06日
書架の「積ン読」棚にあった次の本に目が行き、それを取り出し、一気に読了した。
『死にぎわに何を思う:日本と世界の死生観から』(上村くにこ/アートビレッジ)
この本を入手したのは2年前だ。私は8年前からカルチャーセンターである先生の講義を受講している。その先生が講義冒頭の雑談で、知り合いの研究者が書いた本書に言及、私はその本をネット書店で購入し、そのまま積んでいた。
その先生が先日、89歳で亡くなった。頑丈そうな方だったのでショックだった。そんなとき書架の本書が目に止まり、先生の死と本書のタイトルが重なり、手が伸びた。
著者は1944年生まれのフランス文学者・元大学教授である。著者は34歳のとき、搭乗していた大韓航空機が銃撃され、不時着までの2時間、生死をさまよう体験をしたそうだ(大韓航空機銃撃事件)。72歳のときには肺がんと診断されている。末期の肺がんだったイギリス人の夫は、2年前(2018年?)著者が帰国中に亡くなっている。その死は終末期セデーション(死ぬまで眠らせる鎮静処置)だったらしい。
そんな体験をふまえた著者自身の死生観を述べた本に思える。あとがきには、大学を定年退職した後、いままでの研究とは別分野の死生学という学問に挑戦したと述べている。歴史的・地理的に死の捉え方の変遷や相違を紹介する死生学の研究成果がメインで、そこに多少の自分語りも混じっている。
死生観は私には鬱陶しいテーマで、関心も薄い。私自身は19年前に舌がんで大きな手術を受けたことがある。舌がんとわかったとき、本屋で医学書を立ち読みして「5年生存率70パーセント」という数字を見た。70パーセントという微妙な値に、がんでなくても生存率100パーセントではないし……と感じた。手術後、人から「死生観が変わったか」と訊かれて「別に、何も」と答えた。正確には、元から死生観などなかったのであり、死について考えていなかった。考えることから逃げていたとも言える。
というわけで、本書にもなかな手が伸びなかった。読み始めると、意外に面白い。著名人の闘病記などをベースに戦後日本の死生観を考察している箇所が特に興味深い。海外における安楽死・尊厳死の現状紹介も勉強になった。
と言っても、本書を読了して死に向き合う気持が高揚したわけではない。まだ、死を自分ごととして考える気になれない。考えるのが大変だと思うし、結局のところ死とは自分ごとではないとも思えるのである。
『死にぎわに何を思う:日本と世界の死生観から』(上村くにこ/アートビレッジ)
この本を入手したのは2年前だ。私は8年前からカルチャーセンターである先生の講義を受講している。その先生が講義冒頭の雑談で、知り合いの研究者が書いた本書に言及、私はその本をネット書店で購入し、そのまま積んでいた。
その先生が先日、89歳で亡くなった。頑丈そうな方だったのでショックだった。そんなとき書架の本書が目に止まり、先生の死と本書のタイトルが重なり、手が伸びた。
著者は1944年生まれのフランス文学者・元大学教授である。著者は34歳のとき、搭乗していた大韓航空機が銃撃され、不時着までの2時間、生死をさまよう体験をしたそうだ(大韓航空機銃撃事件)。72歳のときには肺がんと診断されている。末期の肺がんだったイギリス人の夫は、2年前(2018年?)著者が帰国中に亡くなっている。その死は終末期セデーション(死ぬまで眠らせる鎮静処置)だったらしい。
そんな体験をふまえた著者自身の死生観を述べた本に思える。あとがきには、大学を定年退職した後、いままでの研究とは別分野の死生学という学問に挑戦したと述べている。歴史的・地理的に死の捉え方の変遷や相違を紹介する死生学の研究成果がメインで、そこに多少の自分語りも混じっている。
死生観は私には鬱陶しいテーマで、関心も薄い。私自身は19年前に舌がんで大きな手術を受けたことがある。舌がんとわかったとき、本屋で医学書を立ち読みして「5年生存率70パーセント」という数字を見た。70パーセントという微妙な値に、がんでなくても生存率100パーセントではないし……と感じた。手術後、人から「死生観が変わったか」と訊かれて「別に、何も」と答えた。正確には、元から死生観などなかったのであり、死について考えていなかった。考えることから逃げていたとも言える。
というわけで、本書にもなかな手が伸びなかった。読み始めると、意外に面白い。著名人の闘病記などをベースに戦後日本の死生観を考察している箇所が特に興味深い。海外における安楽死・尊厳死の現状紹介も勉強になった。
と言っても、本書を読了して死に向き合う気持が高揚したわけではない。まだ、死を自分ごととして考える気になれない。考えるのが大変だと思うし、結局のところ死とは自分ごとではないとも思えるのである。
依然としてコロナ禍は続いている ― 2022年11月08日
今週金曜日、本多劇場でケラリーノ・サンドロヴィッチの『しびれ雲』を観劇する予定だった。昨日届いたメールによれば、金曜日までの公演はコロナで中止、それ以降は未定だそうだ。金曜日のチケットを持っている私がこの芝居を観ることは難しくなった。
何となくコロナは一段落したかと思っていたが、そうでもないようだ。演劇のような多くの人間が関わるイベントの開催が不安定な状況は今後も続きそうだ。関係者にとっては大きなストレスだろうと同情するしかない。
観客である私は、より慎重なメールチェックを心がけねばならない。これまでに、公演中止のメールを見逃して劇場まで足を運んだことが2回ある。コロナはいろいろな面で私たちの行動変容をもたらしている。
何となくコロナは一段落したかと思っていたが、そうでもないようだ。演劇のような多くの人間が関わるイベントの開催が不安定な状況は今後も続きそうだ。関係者にとっては大きなストレスだろうと同情するしかない。
観客である私は、より慎重なメールチェックを心がけねばならない。これまでに、公演中止のメールを見逃して劇場まで足を運んだことが2回ある。コロナはいろいろな面で私たちの行動変容をもたらしている。
『ビサンツ 驚くべき中世帝国』は偏見を正す書 ― 2022年11月10日
今年の7月以降、ビザンツ史の概説書を7冊ほど読んだ。ほとんど知らなかったビザンツの姿が多少はイメージできるようになった。で、書店の棚で見つけた次のハードカバーに挑戦した。
『ビサンツ 驚くべき中世帝国』(ジュディス・ヘリン/井上浩一監訳/白水社)
著者は1942年生まれの英国のビザンツ史研究者である。本書は一般向けの概説書だが入門書ではない。ビザンツ史を28のテーマに分けて解説している。ビザンツ史の基本知識がないとわかりにくい。私は「皇帝表」と「年表」を参照しながら読み進めた。興味深い話を多く盛り込んだ面白い本だ。
一言で言えば、本書は西欧人のビザンツへの偏見を正す書である。ビザンツがなければ現在の西欧はなかった(イスラム世界になっていた)にもかかわらず、西欧のビザンツ観は偏っている。著者は終章で次のように述べている。
「彼ら(啓蒙思想家など)がビザンツを正しく評価できなかった理由を、私は本書で論理的に説明したと思っている。」
ビザンツへの偏見とは何か。英語の Byzantine には「迷宮のように入り組んだ」「もつれた」「権謀術数の」、ドイツ語の Byzantiner は「お追従者」「曲学阿世の徒」という意味があり、ビザンツ主義は「些末主義」を指す。著者は紋切り型のビザンツ観として、画一的、官僚的、軟弱、頽廃、複雑怪奇、無能などをあげ、それらはすべて誤解だとしている。
そのような偏見が生まれた理由はいろいろ考えられるが、著者は1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃に着目している。異教であるイスラムを攻撃するはずだった十字軍がキリスト教国を攻撃したのである。このとんでもない事態を正当化するためにビザンツを貶める言説、つまり偏見が広まったという見解である。
本書で初めて知ったのだが、第4回十字軍から800年目の2004年、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの事件について謝罪したそうだ。
本書を読んでいると、ビザンツへの偏見とは野蛮(西欧)の文明(ビザンツ)への偏見にも思える。戦争を回避するための敵との交渉、戦争を始めるための法的根拠の検討などが野蛮の眼には軟弱で臆病な官僚的行為に見えたのかもしれない。
ビザンツは1204年の後も200年以上継続するが、かつての栄光は失われ、小国に分裂した状態になる。著者はこの200年もビザンツは依然として「帝国」だったと見なし、この時代の文化なども詳述している。
本書は私の知らない事柄も多く取り上げていて、ビザンツの概要を全体的に把握するのは大変だと感じた。いつか、じっくりと整理してみたい。
『ビサンツ 驚くべき中世帝国』(ジュディス・ヘリン/井上浩一監訳/白水社)
著者は1942年生まれの英国のビザンツ史研究者である。本書は一般向けの概説書だが入門書ではない。ビザンツ史を28のテーマに分けて解説している。ビザンツ史の基本知識がないとわかりにくい。私は「皇帝表」と「年表」を参照しながら読み進めた。興味深い話を多く盛り込んだ面白い本だ。
一言で言えば、本書は西欧人のビザンツへの偏見を正す書である。ビザンツがなければ現在の西欧はなかった(イスラム世界になっていた)にもかかわらず、西欧のビザンツ観は偏っている。著者は終章で次のように述べている。
「彼ら(啓蒙思想家など)がビザンツを正しく評価できなかった理由を、私は本書で論理的に説明したと思っている。」
ビザンツへの偏見とは何か。英語の Byzantine には「迷宮のように入り組んだ」「もつれた」「権謀術数の」、ドイツ語の Byzantiner は「お追従者」「曲学阿世の徒」という意味があり、ビザンツ主義は「些末主義」を指す。著者は紋切り型のビザンツ観として、画一的、官僚的、軟弱、頽廃、複雑怪奇、無能などをあげ、それらはすべて誤解だとしている。
そのような偏見が生まれた理由はいろいろ考えられるが、著者は1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープル攻撃に着目している。異教であるイスラムを攻撃するはずだった十字軍がキリスト教国を攻撃したのである。このとんでもない事態を正当化するためにビザンツを貶める言説、つまり偏見が広まったという見解である。
本書で初めて知ったのだが、第4回十字軍から800年目の2004年、教皇ヨハネ・パウロ2世がこの事件について謝罪したそうだ。
本書を読んでいると、ビザンツへの偏見とは野蛮(西欧)の文明(ビザンツ)への偏見にも思える。戦争を回避するための敵との交渉、戦争を始めるための法的根拠の検討などが野蛮の眼には軟弱で臆病な官僚的行為に見えたのかもしれない。
ビザンツは1204年の後も200年以上継続するが、かつての栄光は失われ、小国に分裂した状態になる。著者はこの200年もビザンツは依然として「帝国」だったと見なし、この時代の文化なども詳述している。
本書は私の知らない事柄も多く取り上げていて、ビザンツの概要を全体的に把握するのは大変だと感じた。いつか、じっくりと整理してみたい。
生きるのが面倒くさい人が増えているらしい ― 2022年11月13日
精神科医が書いた次の新書を読んだ。
『生きるのが面倒くさい人:回避性パーソナル障害』(岡田尊司/朝日新書/朝日新聞出版)
生きるのが面倒になったから読んだわけではない。というか、すでに七十余年という十分な時間を生きてしまった私には縁遠い話題で、いまさら「面倒くさい」と言える立場でもない。
本書を読もうと思ったのは、半年前に読んだ『星新一の思想』(浅羽通明)で紹介されていて興味を抱いたからである。星新一をアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)と見なしている浅羽通明氏は次のように述べている。
「精神科医岡田尊司は『生きるのが面倒くさい人』第7章の16頁分を、星新一のパトグラフィに充てました。岡田の診断によると星新一はアスペルガーよりも回避性人格のようです。」
本書のメインテーマである「回避性パーソナル障害」を十分に理解できたわけではないが、「生きるのが面倒くさい」「人生の選択を先のばしにする」「自己評価が低い」「無気力」「ひきこもり」などの性向のようだ。
本書では、そんな傾向が見られる著名人として、星新一の他に井上靖、サマセット・モーム、藤子・F・不二雄、村上春樹、森鴎外などの事例を紹介している。そして、精神科医である著者自身が回避性パーソナル障害だったとし、自分自身も分析対象にしている。勤務医だった著者は、現在は自分のクリニックを開業し、ひきこもり患者の社会復帰などを手助けしているそうだ。
回避性パーソナル障害の原因は、遺伝的要素もあるが、家庭環境を含めた社会的要因が大きく、時代とともに世界レべルで増加傾向にあるらしい。村上春樹ではないが「やれやれ」という気分になる。
本書の後半は、回避性パーソナル障害の若者たちが社会に出て行くための具体的アドバイスである。年寄りの私は、いまの若者たちは大変だなあと同情しつつも、しっかり生きてくれと期待するしかない。
『生きるのが面倒くさい人:回避性パーソナル障害』(岡田尊司/朝日新書/朝日新聞出版)
生きるのが面倒になったから読んだわけではない。というか、すでに七十余年という十分な時間を生きてしまった私には縁遠い話題で、いまさら「面倒くさい」と言える立場でもない。
本書を読もうと思ったのは、半年前に読んだ『星新一の思想』(浅羽通明)で紹介されていて興味を抱いたからである。星新一をアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)と見なしている浅羽通明氏は次のように述べている。
「精神科医岡田尊司は『生きるのが面倒くさい人』第7章の16頁分を、星新一のパトグラフィに充てました。岡田の診断によると星新一はアスペルガーよりも回避性人格のようです。」
本書のメインテーマである「回避性パーソナル障害」を十分に理解できたわけではないが、「生きるのが面倒くさい」「人生の選択を先のばしにする」「自己評価が低い」「無気力」「ひきこもり」などの性向のようだ。
本書では、そんな傾向が見られる著名人として、星新一の他に井上靖、サマセット・モーム、藤子・F・不二雄、村上春樹、森鴎外などの事例を紹介している。そして、精神科医である著者自身が回避性パーソナル障害だったとし、自分自身も分析対象にしている。勤務医だった著者は、現在は自分のクリニックを開業し、ひきこもり患者の社会復帰などを手助けしているそうだ。
回避性パーソナル障害の原因は、遺伝的要素もあるが、家庭環境を含めた社会的要因が大きく、時代とともに世界レべルで増加傾向にあるらしい。村上春樹ではないが「やれやれ」という気分になる。
本書の後半は、回避性パーソナル障害の若者たちが社会に出て行くための具体的アドバイスである。年寄りの私は、いまの若者たちは大変だなあと同情しつつも、しっかり生きてくれと期待するしかない。
『ビザンツ皇妃列伝』は秀逸なビザンツ史概説書 ― 2022年11月18日
ネット古書店で入手した次の本を読んだ。
『ビザンツ皇妃列伝:憧れの都に咲いた花』(井上浩一/筑摩書房/1996.3)
ネット検索で「白水Uブックス」版の本書を見つけ、それを注文したつもりだったが、届いたのは原著初版のハードカバーだった。Uブックスには新たな「あとがき」が付加されているようだが、どちらでもかまわない。ネットで古書を注文すると、こういうことも起こるのだ。
このところビザンツ史の概説書を何冊か読んでいる私にとって、ビザンツの8人の皇妃を描いた本書はとても面白かった。私の頭にはビザンツ史に登場する有名な皇妃の印象は残っている。だが本書には、私の記憶にない皇妃が何人も登場する。8人の皇妃は以下の通りだ。
1 アテナイス=エウドキア (401-460年)
2 テオドラ (497頃-548年)
3 マルティナ (605?-641年以降)
4 エイレーネー (752頃-803年)
5 テオファノ (941頃-976年以降)
6 エイレーネー・ドゥーカイナ (1067-1133年?)
7 アニェス=アンナ (1171/2-1204年以降)
8 ヘレネ・パライオロギナ (?-1450年)
この生没年からわかるように5世紀から15世紀までの千年の歴史から各時代の皇妃を抽出している。皇妃列伝という艶やかなタイトルだが、著者は皇妃たちの生涯に重ねて、実はビザンツの千年史を描いているのだ。
ビザンツの皇妃の多くは史料の記録がわずかしか残っていない。著者は歴史小説家ではなく歴史研究者だから、記録にない部分を想像力で自由奔放に補うわけにはいかない。本書冒頭で著者は次のように述べている。
「私は限られた史料にのみ拠りつつ皇妃たちの伝記を書くことにした。もちろん想像をめぐらせることをいっさい拒否したわけではない。そんなことはできるはずもないし、したならば、歴史は干涸びたものになってしまうだろう。歴史学においても想像力は不可欠である。しかし歴史学における想像は史料に基くものでなければならない。」
本書を読み進めていて、歴史学者の想像力とはどんなものか、多少はわかった気がした。そして、歴史学者の想像力に感服した。
本書の列伝の多くは、前半で史料に基づいた生涯を描出し、後半ではより広範な史料を批判的に検討し、前半で描いた皇妃とは別の姿を提示している。鮮やかなドンデン返しミステリーの趣もあり、惹きつけられる。
やや乱暴にまとめれば、本書はどの皇妃も「時代の子」だったということを「証明」している。時代背景から皇妃たちの生涯を読み解いている故に、ユニークで見事なビザンツ史概説になっているのだ。
『ビザンツ皇妃列伝:憧れの都に咲いた花』(井上浩一/筑摩書房/1996.3)
ネット検索で「白水Uブックス」版の本書を見つけ、それを注文したつもりだったが、届いたのは原著初版のハードカバーだった。Uブックスには新たな「あとがき」が付加されているようだが、どちらでもかまわない。ネットで古書を注文すると、こういうことも起こるのだ。
このところビザンツ史の概説書を何冊か読んでいる私にとって、ビザンツの8人の皇妃を描いた本書はとても面白かった。私の頭にはビザンツ史に登場する有名な皇妃の印象は残っている。だが本書には、私の記憶にない皇妃が何人も登場する。8人の皇妃は以下の通りだ。
1 アテナイス=エウドキア (401-460年)
2 テオドラ (497頃-548年)
3 マルティナ (605?-641年以降)
4 エイレーネー (752頃-803年)
5 テオファノ (941頃-976年以降)
6 エイレーネー・ドゥーカイナ (1067-1133年?)
7 アニェス=アンナ (1171/2-1204年以降)
8 ヘレネ・パライオロギナ (?-1450年)
この生没年からわかるように5世紀から15世紀までの千年の歴史から各時代の皇妃を抽出している。皇妃列伝という艶やかなタイトルだが、著者は皇妃たちの生涯に重ねて、実はビザンツの千年史を描いているのだ。
ビザンツの皇妃の多くは史料の記録がわずかしか残っていない。著者は歴史小説家ではなく歴史研究者だから、記録にない部分を想像力で自由奔放に補うわけにはいかない。本書冒頭で著者は次のように述べている。
「私は限られた史料にのみ拠りつつ皇妃たちの伝記を書くことにした。もちろん想像をめぐらせることをいっさい拒否したわけではない。そんなことはできるはずもないし、したならば、歴史は干涸びたものになってしまうだろう。歴史学においても想像力は不可欠である。しかし歴史学における想像は史料に基くものでなければならない。」
本書を読み進めていて、歴史学者の想像力とはどんなものか、多少はわかった気がした。そして、歴史学者の想像力に感服した。
本書の列伝の多くは、前半で史料に基づいた生涯を描出し、後半ではより広範な史料を批判的に検討し、前半で描いた皇妃とは別の姿を提示している。鮮やかなドンデン返しミステリーの趣もあり、惹きつけられる。
やや乱暴にまとめれば、本書はどの皇妃も「時代の子」だったということを「証明」している。時代背景から皇妃たちの生涯を読み解いている故に、ユニークで見事なビザンツ史概説になっているのだ。
読んでから観た『あちらにいる鬼』 ― 2022年11月22日
今月封切りの映画『あちらにいる鬼』を観た。瀬戸内寂聴と井上光晴の不倫を描いた映画である。寂聴役の寺島しのぶが剃髪シーンでは本当に剃髪したと知り、映画館に足を運びたくなった。著名作家のスキャンダルへのミーハー的関心も多少はある。
映画を観ると決めると、事前に原作を読みたくなり『あちらにいる鬼』(井上荒野/朝日文庫)を読んだ。オビには「作者の父 井上光晴と私の不倫が始まった時、作者は五歳だった――瀬戸内寂聴」という当事者のコメントが載っている。
私は井上光晴の長編を学生時代に読みかけたが挫折した。短編はいくつか読んだ。井上光晴編集の季刊誌『辺境』(1970年~)はリアルタイムで何冊か読んだ。井上光晴に関して最も印象深いのは彼が癌で死ぬまでを撮ったドキュメンタリー映画『全身小説家』(監督:原一男)だ。彼の女装ストリップシーンも強烈だが、彼が「嘘つき」であり、それは作家という存在の本質だというメッセージにインパクトがあった。
作家にとっては虚構こそが真実なのだ。作家・井上荒野が作家・井上光晴のことを作家・瀬戸内寂聴から取材して書いた小説『あちらにいる鬼』を読んでいると、どこまでが事実だろうという週刊誌的関心が無意味に思えてくる。みんな嘘つきで、かつ真実を語っているのかもしれない。
この小説で最も興味をひかれた人物は井上光晴の妻、つまり作者の母親だ。不思議な人である。井上光晴の短編のいくつかは妻の作品だという話が面白い。作家と妻が二重写しになる。この小説は、娘が亡き母親のために書いたようにも思える。
当然ながら、映画と小説の印象は異なる。白木篤郎(井上光晴)役の豊川悦司は適役である。映画のなかの作家は「作家を演じている作家」の感じがあり、やや滑稽で哀れをもよおす所もある。作家を揶揄している表現ではない。
また、映画は原作以上に昭和世相史になっている。全共闘や三島事件なども挿入されていて、同時代を生きてきた私の世代には懐かしい。だが、とってつけたような感じもする。もっと時代背景の表現に踏み込んでもよかったのではと思う。
〔蛇足〕映画では、三島由紀夫の自死に際して書いた文章を白木(井上光晴)が読むシーンがある(小説にはない)。この文章は『新潮』への掲載を拒否され、自らが編集する『辺境』に掲載拒否の経緯を含めて掲載したものだ。そんな事情も映像化すれば面白かったと思う。映画のトーンからはズレるかもしれないが……
映画を観ると決めると、事前に原作を読みたくなり『あちらにいる鬼』(井上荒野/朝日文庫)を読んだ。オビには「作者の父 井上光晴と私の不倫が始まった時、作者は五歳だった――瀬戸内寂聴」という当事者のコメントが載っている。
私は井上光晴の長編を学生時代に読みかけたが挫折した。短編はいくつか読んだ。井上光晴編集の季刊誌『辺境』(1970年~)はリアルタイムで何冊か読んだ。井上光晴に関して最も印象深いのは彼が癌で死ぬまでを撮ったドキュメンタリー映画『全身小説家』(監督:原一男)だ。彼の女装ストリップシーンも強烈だが、彼が「嘘つき」であり、それは作家という存在の本質だというメッセージにインパクトがあった。
作家にとっては虚構こそが真実なのだ。作家・井上荒野が作家・井上光晴のことを作家・瀬戸内寂聴から取材して書いた小説『あちらにいる鬼』を読んでいると、どこまでが事実だろうという週刊誌的関心が無意味に思えてくる。みんな嘘つきで、かつ真実を語っているのかもしれない。
この小説で最も興味をひかれた人物は井上光晴の妻、つまり作者の母親だ。不思議な人である。井上光晴の短編のいくつかは妻の作品だという話が面白い。作家と妻が二重写しになる。この小説は、娘が亡き母親のために書いたようにも思える。
当然ながら、映画と小説の印象は異なる。白木篤郎(井上光晴)役の豊川悦司は適役である。映画のなかの作家は「作家を演じている作家」の感じがあり、やや滑稽で哀れをもよおす所もある。作家を揶揄している表現ではない。
また、映画は原作以上に昭和世相史になっている。全共闘や三島事件なども挿入されていて、同時代を生きてきた私の世代には懐かしい。だが、とってつけたような感じもする。もっと時代背景の表現に踏み込んでもよかったのではと思う。
〔蛇足〕映画では、三島由紀夫の自死に際して書いた文章を白木(井上光晴)が読むシーンがある(小説にはない)。この文章は『新潮』への掲載を拒否され、自らが編集する『辺境』に掲載拒否の経緯を含めて掲載したものだ。そんな事情も映像化すれば面白かったと思う。映画のトーンからはズレるかもしれないが……
観劇に先駆けて戯曲『建築家とアッシリアの皇帝』を読んだ ― 2022年11月24日
古書で入手した奇天烈な戯曲集を読んだ。
『アラバール戯曲集2』(アラバール/宮原庸太郎訳/思潮社/1969.1)
目当ては本書収録の『建築家とアッシリアの皇帝』である。この戯曲は山崎努の「私の履歴書」(日経新聞 2022年8月連載)で知った。山崎努は新聞連載で2回にわたって(8月19日、20日)この芝居の企画・上演を熱く語っていた。あらすじを次のように紹介している。
「――原始人「建築家」が1人で棲んでいる孤島に飛行機が墜落、生存者は文明人「アッシリア皇帝」のみ。2人きりの生活が始まる。馬乗りをして遊ぶ。「おれが馬?」「違う、おれだ」。やがて芝居ごっこに興じるようになる。様々な役柄、様々な展開。ごっこがエスカレートし、いさかいが生じ――、と進む筋立て。」
これを読んでもよくわからない。身体を酷使する芝居で、山崎努は幕間で医者に注射を打ってもらいながら演じてそうだ。どんな芝居だろうと興味を抱いた。
その『建築家とアッシリアの皇帝』が世田谷パブリックシアターで上演(2022.11.21~12.11)されると知り、11月27日のチケットをゲットした。観劇できるとなると事前に戯曲を読みたくなり、ネット古書店で本書を入手した。
アラバールは私には未知の劇作家である。1932年生まれのスペイン人、パリで著作活動をし、戯曲はフランス語で書いている。ノーベル文学書にノミネートと言われた作家だそうだ。『建築家とアッシリアの皇帝』のパリでの初演が1967年3月、本書が出たのが1969年1月だ。
『建築家とアッシリアの皇帝』は奇天烈でぶっ飛んだ芝居である。アッシリアは遠い昔の最初の世界帝国だ。ただ一人の文明人・アッシリア皇帝は人類の文明史を背負った存在とも考えられるが、時には哀れな姿にもなる。動物の毛皮で禿頭をかくす原始人は戯れに神のような超能力を発揮することもある。戯曲を一回読んだだけでは、唖然とするばかりである。
本書には他に5編の戯曲も収録されていて、どれも奇天烈で不思議な世界である。
私には『迷路』が面白かった。広大な庭に膨大なシーツと毛布の洗濯物を干していて、それを取り込む労働者が逃亡したために迷路が出現している。この状況設定がすごい。
『戴冠式―秘密伝授の儀式―』も印象深い。屋根裏部屋で進行する話だが、外界が超常現象的に変異する仕掛けになっている。魔女的女性と天使的女性が別々に登場し、それが合体していくのが不気味である。
『アラバール戯曲集2』(アラバール/宮原庸太郎訳/思潮社/1969.1)
目当ては本書収録の『建築家とアッシリアの皇帝』である。この戯曲は山崎努の「私の履歴書」(日経新聞 2022年8月連載)で知った。山崎努は新聞連載で2回にわたって(8月19日、20日)この芝居の企画・上演を熱く語っていた。あらすじを次のように紹介している。
「――原始人「建築家」が1人で棲んでいる孤島に飛行機が墜落、生存者は文明人「アッシリア皇帝」のみ。2人きりの生活が始まる。馬乗りをして遊ぶ。「おれが馬?」「違う、おれだ」。やがて芝居ごっこに興じるようになる。様々な役柄、様々な展開。ごっこがエスカレートし、いさかいが生じ――、と進む筋立て。」
これを読んでもよくわからない。身体を酷使する芝居で、山崎努は幕間で医者に注射を打ってもらいながら演じてそうだ。どんな芝居だろうと興味を抱いた。
その『建築家とアッシリアの皇帝』が世田谷パブリックシアターで上演(2022.11.21~12.11)されると知り、11月27日のチケットをゲットした。観劇できるとなると事前に戯曲を読みたくなり、ネット古書店で本書を入手した。
アラバールは私には未知の劇作家である。1932年生まれのスペイン人、パリで著作活動をし、戯曲はフランス語で書いている。ノーベル文学書にノミネートと言われた作家だそうだ。『建築家とアッシリアの皇帝』のパリでの初演が1967年3月、本書が出たのが1969年1月だ。
『建築家とアッシリアの皇帝』は奇天烈でぶっ飛んだ芝居である。アッシリアは遠い昔の最初の世界帝国だ。ただ一人の文明人・アッシリア皇帝は人類の文明史を背負った存在とも考えられるが、時には哀れな姿にもなる。動物の毛皮で禿頭をかくす原始人は戯れに神のような超能力を発揮することもある。戯曲を一回読んだだけでは、唖然とするばかりである。
本書には他に5編の戯曲も収録されていて、どれも奇天烈で不思議な世界である。
私には『迷路』が面白かった。広大な庭に膨大なシーツと毛布の洗濯物を干していて、それを取り込む労働者が逃亡したために迷路が出現している。この状況設定がすごい。
『戴冠式―秘密伝授の儀式―』も印象深い。屋根裏部屋で進行する話だが、外界が超常現象的に変異する仕掛けになっている。魔女的女性と天使的女性が別々に登場し、それが合体していくのが不気味である。
プルカレーテ演出の『守銭奴』はユニーク ― 2022年11月26日
東京芸術劇場プレイハウスでモリエールの『守銭奴』(演出:シルヴィウ・プルカレーテ、主演:佐々木蔵之介)を観た。
モリエールの舞台を観るのは、たぶん初めてだ。17世紀の喜劇作家モリエールを知ったのは半世紀以上昔の高校時代、その頃、岩波文庫で何冊かの代表的戯曲を読んだ。しかし、舞台を観た記憶がない。2年前、『タルチェフ』(主演:仲代達矢)のチケット(2020年3月)をゲットし、ついにモリエールを観劇できると思ったが、残念なことにコロナで中止になった。
今回の『守銭奴』はチラシが異様である。パンクなロック風で、「ザ・マネー・クレージー」というサブタイトルがある。とても古典喜劇とは思えない。演出はルーマニア人だ。オーソドックスな舞台ではないと覚悟して劇場に行った。
だが、思った以上に普通で、少し安心(?)した。アルパゴン役の佐々木蔵之介はチラシのような金髪トサカ頭で登場するのではなく、いかにもアルパゴンらしいい禿頭で服装も古典っぽい。台本も原作通りである。
と言っても、かなり不思議な舞台だ。舞台装置はリアリズムではなくシンプル、自在に変化する。登場人物の服装も古典と現代がミックスしている。アルパゴンの息子や娘の服装は現代的でオシャレな眼鏡をかけている。この娘は、登場シーンで何故かリコーダーを吹いていて、ラスト近くではそれがサックスになる。現代と17世紀の同居が、この芝居の普遍性を表しているようにも思える。
最も驚いたのは、ラスト近くのバタバタと大団円に向かうシーンである。岩波文庫『守銭奴』の訳者・鈴木力衛は解説で次のように述べている。
「『守銭奴』の幕切れはいかにも不自然で、取ってつけたような感じがするが、由来、モリエールという作家は重要な人物を十分に描写し終ると、勝手なところでさっさと幕を下ろしてしまう。」
この取ってつけたような予定調和的な展開を、演出家は見事な「見せ場」にしている。突如として芝居のトーンを一変させ、歌舞伎の見得にも通じるシーンに盛り上げているのだ。「取ってつけた」を逆手にとった演出に感心した。
モリエールの舞台を観るのは、たぶん初めてだ。17世紀の喜劇作家モリエールを知ったのは半世紀以上昔の高校時代、その頃、岩波文庫で何冊かの代表的戯曲を読んだ。しかし、舞台を観た記憶がない。2年前、『タルチェフ』(主演:仲代達矢)のチケット(2020年3月)をゲットし、ついにモリエールを観劇できると思ったが、残念なことにコロナで中止になった。
今回の『守銭奴』はチラシが異様である。パンクなロック風で、「ザ・マネー・クレージー」というサブタイトルがある。とても古典喜劇とは思えない。演出はルーマニア人だ。オーソドックスな舞台ではないと覚悟して劇場に行った。
だが、思った以上に普通で、少し安心(?)した。アルパゴン役の佐々木蔵之介はチラシのような金髪トサカ頭で登場するのではなく、いかにもアルパゴンらしいい禿頭で服装も古典っぽい。台本も原作通りである。
と言っても、かなり不思議な舞台だ。舞台装置はリアリズムではなくシンプル、自在に変化する。登場人物の服装も古典と現代がミックスしている。アルパゴンの息子や娘の服装は現代的でオシャレな眼鏡をかけている。この娘は、登場シーンで何故かリコーダーを吹いていて、ラスト近くではそれがサックスになる。現代と17世紀の同居が、この芝居の普遍性を表しているようにも思える。
最も驚いたのは、ラスト近くのバタバタと大団円に向かうシーンである。岩波文庫『守銭奴』の訳者・鈴木力衛は解説で次のように述べている。
「『守銭奴』の幕切れはいかにも不自然で、取ってつけたような感じがするが、由来、モリエールという作家は重要な人物を十分に描写し終ると、勝手なところでさっさと幕を下ろしてしまう。」
この取ってつけたような予定調和的な展開を、演出家は見事な「見せ場」にしている。突如として芝居のトーンを一変させ、歌舞伎の見得にも通じるシーンに盛り上げているのだ。「取ってつけた」を逆手にとった演出に感心した。
二人芝居『建築家とアッシリア皇帝』は濃厚で熱い ― 2022年11月28日
世田谷パブリックシアターのシアタートラムで『建築家とアッシリア皇帝』(作:フェルナンド・アアラバール、演出:生田みゆき、出演:岡本健一、成河)を観た。山崎努の『私の履歴書』でこの芝居に関心を抱いた経緯は先日のブログに書いた。今回の公演のパンフレットには山崎努の『私の履歴書』を抜粋転載していた。稽古場を訪れた“初代アッシリア皇帝”山崎努の写真も載っている。
15分の休憩をはさんで2時間50分の二人芝居、熱量の高い激しい舞台である。原始人(建築家)が一人で住む孤島に飛行機が墜落、ただ一人の生き残りの文明人(アッシリア皇帝)と原始人との二人が繰り広げる「芝居ゴッコ」の芝居である。休憩時間も舞台上では「芝居ゴッコ」が継続していた。
この芝居は不条理演劇の一つと言われているそうだ。ベケットや別役実の世界とはかなり異なり、マルケスのマジックリアリズムの世界に通じるものも感じた。濃厚な舞台である。
事前に戯曲を読んでいたが、今回の上演は私が読んだ翻訳とは別の訳者で、上演台本は当世風にアレンジしている。戯曲だけではイメージしにくい気違いじみた不条理な展開も、役者の肉体を通すと親しみやすい光景になり、不思議世界が眼前に浮かび上がってくる。役者の肉体でしか表現できない、戯曲だけでは把み難い世界である。
それにしても、実に多様なものを「芝居ゴッコ」芝居に詰め込んだものだと思う。人類史と個人史の深層意識を脈絡を無視して盛り込んだ感じだ。世界とは「芝居ゴッコ」の二人芝居で成り立っている――そんな妄想がわいてくる。
この孤島舞台の二人芝居、チラシのようなスーツ姿で演じるわけではない。Webページに舞台写真が公開されている。
〔蛇足〕この芝居の開演のとき、客席が薄暗くなり舞台が明るくなり、ふたたび客席が明るくなった。変わった趣向だなと思っていると、舞台そでに人が出てきて「ただいま瞬間的な停電がありました。点検後に開演します」と言った。それも芝居かなと思ったが、本当にトラブルだった。開演は15分遅れた。
15分の休憩をはさんで2時間50分の二人芝居、熱量の高い激しい舞台である。原始人(建築家)が一人で住む孤島に飛行機が墜落、ただ一人の生き残りの文明人(アッシリア皇帝)と原始人との二人が繰り広げる「芝居ゴッコ」の芝居である。休憩時間も舞台上では「芝居ゴッコ」が継続していた。
この芝居は不条理演劇の一つと言われているそうだ。ベケットや別役実の世界とはかなり異なり、マルケスのマジックリアリズムの世界に通じるものも感じた。濃厚な舞台である。
事前に戯曲を読んでいたが、今回の上演は私が読んだ翻訳とは別の訳者で、上演台本は当世風にアレンジしている。戯曲だけではイメージしにくい気違いじみた不条理な展開も、役者の肉体を通すと親しみやすい光景になり、不思議世界が眼前に浮かび上がってくる。役者の肉体でしか表現できない、戯曲だけでは把み難い世界である。
それにしても、実に多様なものを「芝居ゴッコ」芝居に詰め込んだものだと思う。人類史と個人史の深層意識を脈絡を無視して盛り込んだ感じだ。世界とは「芝居ゴッコ」の二人芝居で成り立っている――そんな妄想がわいてくる。
この孤島舞台の二人芝居、チラシのようなスーツ姿で演じるわけではない。Webページに舞台写真が公開されている。
〔蛇足〕この芝居の開演のとき、客席が薄暗くなり舞台が明るくなり、ふたたび客席が明るくなった。変わった趣向だなと思っていると、舞台そでに人が出てきて「ただいま瞬間的な停電がありました。点検後に開演します」と言った。それも芝居かなと思ったが、本当にトラブルだった。開演は15分遅れた。
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