読んでから観た『あちらにいる鬼』2022年11月22日

 今月封切りの映画『あちらにいる鬼』を観た。瀬戸内寂聴と井上光晴の不倫を描いた映画である。寂聴役の寺島しのぶが剃髪シーンでは本当に剃髪したと知り、映画館に足を運びたくなった。著名作家のスキャンダルへのミーハー的関心も多少はある。

 映画を観ると決めると、事前に原作を読みたくなり『あちらにいる鬼』(井上荒野/朝日文庫)を読んだ。オビには「作者の父 井上光晴と私の不倫が始まった時、作者は五歳だった――瀬戸内寂聴」という当事者のコメントが載っている。

 私は井上光晴の長編を学生時代に読みかけたが挫折した。短編はいくつか読んだ。井上光晴編集の季刊誌『辺境』(1970年~)はリアルタイムで何冊か読んだ。井上光晴に関して最も印象深いのは彼が癌で死ぬまでを撮ったドキュメンタリー映画『全身小説家』(監督:原一男)だ。彼の女装ストリップシーンも強烈だが、彼が「嘘つき」であり、それは作家という存在の本質だというメッセージにインパクトがあった。

 作家にとっては虚構こそが真実なのだ。作家・井上荒野が作家・井上光晴のことを作家・瀬戸内寂聴から取材して書いた小説『あちらにいる鬼』を読んでいると、どこまでが事実だろうという週刊誌的関心が無意味に思えてくる。みんな嘘つきで、かつ真実を語っているのかもしれない。

 この小説で最も興味をひかれた人物は井上光晴の妻、つまり作者の母親だ。不思議な人である。井上光晴の短編のいくつかは妻の作品だという話が面白い。作家と妻が二重写しになる。この小説は、娘が亡き母親のために書いたようにも思える。

 当然ながら、映画と小説の印象は異なる。白木篤郎(井上光晴)役の豊川悦司は適役である。映画のなかの作家は「作家を演じている作家」の感じがあり、やや滑稽で哀れをもよおす所もある。作家を揶揄している表現ではない。

 また、映画は原作以上に昭和世相史になっている。全共闘や三島事件なども挿入されていて、同時代を生きてきた私の世代には懐かしい。だが、とってつけたような感じもする。もっと時代背景の表現に踏み込んでもよかったのではと思う。

〔蛇足〕映画では、三島由紀夫の自死に際して書いた文章を白木(井上光晴)が読むシーンがある(小説にはない)。この文章は『新潮』への掲載を拒否され、自らが編集する『辺境』に掲載拒否の経緯を含めて掲載したものだ。そんな事情も映像化すれば面白かったと思う。映画のトーンからはズレるかもしれないが……