現役老大家の『筒井康隆自伝』を一気読み2025年11月18日

『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
 91歳の筒井康隆氏は現在も文芸誌に掌編を発表し続けている現役作家である。その老大家が『文學界』に2024年から2025年にかけて連載した自伝が単行本になった。

 『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)

 雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。

 「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」

 90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。

 私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。

 そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。

 この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。

 「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」

 この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。

朝ドラに『ボオ氏』が出てきた2025年09月05日

 古い知人から朝ドラの『あんぱん』を観てますか、とのメールが届いた。私は観ていないし、どんな内容かも知らない。この朝ドラの関連で、私が12年前に書いたブログがSNSで話題になっているそうだ。びっくりした。

 『あんぱん』はやなせたかし氏をモデルにしたドラマで、そのなかで、やなせ氏が懸賞マンガに応募して入選する話が放映されたそうだ。私は12年前のやなせ氏逝去の際に書いたブログで、週刊朝日の百万円懸賞連載マンガ(1967年)に『ボオ氏』が入選した件に触れた。それがSNSの一部で注目されたようだ。

 NHKプラスで9月4日の『あんぱん』を観た。やなせたかしや手塚治虫が、それとわかる別名で出てきた。『ボオ氏』はそのままの名だ。忘れられた作品だと思っていた『ボオ氏』がテレビドラマに登場したのに感動した。

 私は『ボオ氏』全26回の切り抜きを保存している。あらためて58年前の入選発表記事を読み返してみた。審査員は岡部冬彦(マンガ家)、佐藤忠男(評論家)、永田力(画家)、なだいなだ(作家)と週刊朝日編集長である。

 最終的にはやなせたかし、梅田英俊、森町長子の三人の争いとなった。いずれもプロのようだ。審査員で唯一のマンガ家・岡部冬彦氏は「アハハオホホと他意なく笑って過ごす平均的読者のために描く平均的マンガ家が出てほしかった」と不満を漏らしている。永田力氏は「プロの心得がある、やなせ・たかしが入選と決まったときは、ひそかに新しい人を期待していた私は正直いってがっかりだった」と述べている。

 この記事を読みながら、またひとつ遠い記憶がよみがえった。やなせ氏と争った梅田英俊氏の『アーネスト0(ゼロ)氏の場合』は、後に『アサヒグラフ』に連載されたと思う。本屋で立ち読みしただけだが、私はやなせ氏よりは梅田氏の方が好みだった。

かなり古い岩波新書『玄奘三蔵』をやっと読了2025年08月08日

『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)
 岩波新書の『玄奘三蔵、シルクロードを行く』に続いて次の岩波新書を読んだ。

 『玄奘三蔵:史実西遊記』(前嶋信次/岩波新書/1952.7 第1刷、1966.11 第21刷)

 73年前(!)に出た岩波新書である。私が入手したのは半世紀以上前の学生時代だと思う。読了しないまま書架に眠っていた。『玄奘三蔵、シルクロードを行く』の「あとがき」と『玄奘三蔵:西域・インド紀行』の「解題」の両方が、この新書を「名著」と言及していた。かすかな記憶を頼りに書棚を探索し、本書を発見した。

 著者・前嶋信次(1903-1983)はイスラム学者、東洋史家である。私は数年前に著者の『イスラム世界』『イスラムの陰に』を読み、その独特の語り口に不思議な魅力を感じた。

 本書冒頭で、著者は西暦600年頃を激動の時代としている。聖徳太子、ムハンマド、唐の太宗、玄奘らの時代である。日本への仏教渡来を「このややどぎつい、深みのある文化を、われらの祖先たちは、おそれたり、あこがれたりしていた」と表現し、600年頃を次のように描写している。

 「世界史の流れは俄にすさまじい勢を示し、さかまき、うずまき、天地をどよもし、無邊際に巨浪をつらねて流れ出したかのような感をあたえる。それでいて決して暗い感じではない。」

 そして、玄奘を次のように紹介している。

 「大きな期待に何となく胸の高鳴るをおぼえる黎明の時に、黄河の南、中原のかたほとりに眉目うるわしく、健やかな男の子が生まれ出て本篇の主人公となるのである。」

 高揚感あふれる前嶋節の玄奘伝への期待が高まる。だが、本編は『大慈恩寺三蔵法師伝』『大唐西域記』、『続高僧伝』をベースにしたオーソドックスの玄奘の伝記だった。「生い立ち」「旅立ち」「往路」「インドでの勉強と周遊」「帰路」「帰国後の訳経事業」をバランスよく記述している。

 往路で玄奘がバクトラ(かつてのバクトリア王国の中心地)を訪問したときの記述で、この地が後の『千夜一夜物語』に関連していると指摘している。あの長大な物語の翻訳者でもある著者らしい挿話で楽しい。

 本書で印象に残ったのは、インドでは仏教が衰退期にあることへの玄奘への嘆きである。『大唐西域記』にも荒廃した寺院の記述は多いが、描写は抑制的でヒンズー教への具体的な言及はない。本書は、それをきちんと描き、次のように記述している。

 「佛滅後千五百年で大釋迦ムニの教は、インドから消え去るであろうと云う豫言が行われていた。その徴候を玄奘は各地で見ているのである。」

 仏陀ゆかりの地を巡る旅は廃墟巡りに近い。祇園精舎は荒れはて、菩提樹の下で玄奘は次のように嘆く。

 「今萬里の異域からはるばるとここに辿りついて見れば、佛法はその發祥の地で衰え、観音像は砂中に沈もうとしている。この玄奘は何の故にかくも罪業が深いのであろうか……」

 そんなインドではあるが、玄奘はナーランダー寺院で戒賢から5年にわたって学び、さらには4年かけて南インドを周遊してナーランダー寺院に戻る。所期の目的をほぼ果たした玄奘は、膨大な経典を持って帰国の途につくのである。仏教が廃れつつあっても、なおインドには仏教の本場としての底力があった。底知れぬ国だと思う。

『玄奘三蔵、シルクロードを行く』は著者の肉声が聞こえてくる2025年08月04日

『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)
 『大唐西域記』玄奘の伝記を続けて読んだのを機に、次の新書を再読した。

 『玄奘三蔵、シルクロードを行く』(前田耕作/岩波新書/2010.4)

 本書を読んだのは11年前だが、読後感メモは残していない。玄奘の壮大な旅に中央アジアの魅力を感じた記憶がかすかに残っている。11年前、私はカルチャーセンターの講義で初めて著者に接した。その後、いくつかの講義を受講し、著者同行の海外旅行へも参加し、いろいろお話を聞く機会を得た。だから、著者を「先生」と呼ばないとしっくりこない。

 前田耕作先生は2022年12月に89歳で亡くなり、先生の業績を偲ぶシンポジジウムも開催された。

 本書の対象は『大唐西域記』全12巻のうちの巻1と巻2であり、先生の広範な学識と東西を見はるかす洞察に裏打ちされた魅力あふれる講義である。本書を再読していると、先生の肉声が聞こえてくる気がする。

 前田先生は若い頃からバーミアン遺跡の調査に携わっていた。バーミアン大仏破壊後の現地調査にも赴いている。バーミアンの歴史の現存する最古の記録が『大唐西域記』である。本書はバーミアンを含むアフガニスタンに多くのページを割いている。玄奘の記録をベースにした近代の発掘史は興味深い。7世紀の玄奘の旅を辿りつつも記述は現場レポートのように瑞々しい。先生が玄奘に憑依して語っているように感じられる箇所もある。

 本書「第1章 不東の旅立ち」では、『大唐西域記』には記述のない玄奘の生い立ちから密出国までを語っている。玄奘の青少年時代は隋朝末期から唐朝初期に移る動乱の時代だ。知的向上心の強い玄奘は模索する哲学青年だった。若き玄奘を描く前田先生は、自身の青年時代と青年玄奘を重ねているように思える。

 戦後の騒然とした時代に哲学科に入学した前田先生は、大学の授業とは別に在野の学者の勉強会に参加して鍛えられたそうだ。マルクス主義から現象学へ脱出する格闘だったらしい。同時に奈良の古寺を巡り、各地の遺跡発掘にも携わる。激烈な紆余曲折の青春だったという。先生は青年期の玄奘を次のように表現している。

 「活力にみなぎった青年期の玄奘の知の糧が、真諦の訳した諸経にあったことは、時代の流れもあろうが明らかであった。無著・世親の斬新な教学こそ、若き玄奘にとっては緻密に読み返すべき「精神現象学」であったにちがいない。」

 前田先生は知の探究者であると同時に行動する学者だった。古跡を巡る旅行では、そこに何も残っていなくても現場に立って何かを感じることが大事だと述べていた。玄奘も行動する学者である。先生が描く「旅する玄奘」は求法の僧であると同時に文化人類学者であり、異文化交流研究者である。先生の想いが玄奘に投影されているようにも感じられる。

 本書のメインはバクトリアとバーミアン、つまり現在のアフガニスタンであり、玄奘がハッダを後にしてガンダーラに向かう場面で終わる。結語は「ガンダーラ巡拝についてはいつの日か改めて語るとしよう」である。

 先生との雑談のなかで私が本書に触れたとき「あれは、続きを書かなければ…」とつぶやかれた。その思いを果たすことなく逝ってしまわれた。

旅の経緯を描いた『玄奘三蔵:西域・インド紀行』は面白い2025年08月02日

『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)
 玄奘の『大唐西域記』に目を通し、その消化不良を補うために『西域記:玄奘三蔵の旅』を読み、『大慈恩寺三蔵法師伝』への興味がわいた。玄奘の弟子が同時代に書いた伝記である。

 『西域記:玄奘三蔵の旅』の著者・桑山正進氏は、この伝記(『大慈恩寺…』)が世に出る経緯を興味深く推理していた。『大唐西域記』の訳者・水谷真成氏は解説で「もし玄奘法師の行実の躍如たるを求むるならば、本書(『大唐西域記』)よりはむしろ『大慈恩寺三蔵法師伝』十巻をこそ選ぶべきであろう」と語っている。

 そんな記述に誘われて『大慈恩寺三蔵法師伝』の日本語訳である次の本を読んだ。

 『玄奘三蔵:西域・インド紀行』(慧立・彦悰/長澤和俊訳/講談社学芸文庫)

 シルクロード関連の著書が多い長澤和俊氏は若い頃、『大慈恩寺三蔵法師伝』全十巻の全訳を上梓している。その前半五巻を改訳したのが講談社学芸文庫版の本書である。前半五巻は玄奘が西域へ旅立ってから帰国するまで、後半五巻は帰国後の経典翻訳の話だそうだ。私にとっては前半だけで十分である。

 本書は『大唐西域記』より読みやすい。出国時や帰国時の経緯もいろいろ書いてあって興味深い。仏教に関する討論試合などの記述も、単に勝敗だけでなく討論の内容にまで立ち入って記述している。だが、仏教思想に無知な私は哲学的談義について行けない。残念である。玄奘が巡った国々の地誌や故事に関する記述には『大唐西域記』との重複を感じる箇所もある。

 玄奘は求法のためにインドに行きたいと上奏するが、国外旅行はダメとの詔が下る。よって、密出国することになる。苦労のうえ玉門関を突破する場面は面白い。その後の砂漠の旅については「空には飛ぶ鳥もなく、地上には走る獣もなく、また水草もない。あたりをみまわしても、ただ一つ自分の影があるのみである」と表現している。過酷な旅だったようだ。

 だが、砂漠を抜けて伊吾(ハミ)に到達して以降は、おとぎ話のようなトントン拍子で、大名行列に近い旅になる。懇意になった高昌国王は玄奘のために、さまざまな物資と共に少年僧4人、手力(クーリー)25人、馬30匹、道案内などを提供、先々の国への封書や贈物も持たせてくれる。

 とは言っても、天山山脈を越える山旅は大変だったようだ。「キャラバンのうち、凍病死した者が十人のうち三、四人もあり、牛馬はそれ以上だった」と記述している。玄奘の旅に巻き込まれて落命した人は少なくない。

 帰国の旅も、北インドを支配するハルシャヴァルダナ王(戒日王)の支援を受けて象に乗った大行列になる。大量の経典や仏像を持ち帰るには象が必須だ。しかし、途中で象が溺死してかなりの経典を失う。クスタナ(ホータン)まで帰ってきた玄奘は皇帝に上奏文を送り、皇帝からは歓迎の返書が届く。沿道の諸国には、玄奘に人夫や馬を提供するようにとの勅令も出る。密出国したにもかかわらず、大歓迎を受けるのだ。

 この伝記を読むと、玄奘という人物の大きさが伝わってくる。探究心や向学心が旺盛な優れた学者であると同時に現場に赴くことを重視する行動の人であり、並外れた政治力やコミュニケーション力をそなえた人物だったと思える。

 本書で面白く思ったのは、ソグド商人に関する記述である。さほどソグド商人が登場するわけではないが、その多くが悪人だ。たまたまなのか、そんなイメージが一般的だったのか、よくわからない。

一之輔とタブレット純で夏の夜の夢2025年07月27日

 世田谷パブリックシアターで、春風亭一之輔プロデュースの『せたがや夏いちらくご 夜の部』を観た(聴いた)。夜の部の出演は春風亭一之輔とタブレット純である。

 私はさほど落語を聴くわけではない。一之輔は「笑点」で観ているだけで、落語を聴くのは初めてだ。昨年夏、パルコ劇場の『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』の客席で、一之輔と思しき眼鏡に帽子の人物を見かけたことがある。タブレット純を始めて観た(聴いた)のは3年前の『加藤登紀子ほろ酔い50年祭』だった。それ以来、昭和歌謡と漫談の独特のムードに魅了されている。一之輔とタブレット純という取り合せに魅力を感じ、チケットをゲットした。

 今回の企画は、前座の落語に続いて、一之輔の長めの落語。15分休憩の後、タブレット純の歌謡漫談と一之輔の落語というプログラムだった。一之輔とタブレット純の二人が同時に登場する掛け合いも期待したが、それはなかった。

 客席の反応から判断して、一之輔ファンだけでなくタブレット純ファンの中高年がかなりいるような気がした。昭和歌謡と他の楽曲との取り合わせが面白い。童謡『サッちゃん』と『赤色エレジー』の混合には笑った。アイジョージとあいみょんの混合は難しい。両方ともわかる人はどれくらいいるだろうか。私はどちらもわからなかった。

 初めて聴く一之輔の落語は二つとも江戸の噺だがシュールな部分があり、面白かった。一本目は大店の病弱な若旦那が真夏に蜜柑を欲しがり、番頭が奔走する話である。二本目は、大工とヤンチャな倅が天神祭の飴屋や団子屋で騒動を引き起こす噺だが、後半になって大岡越前が登場し、ドタバタ風の不思議な展開になる。一之輔の語りには越境したような魅力がある。その人気を得心した。

マルコ・ポーロは体験談を盛っている2025年07月10日

『マルコ・ポーロ:『東方見聞録』を読み解く』(海老澤哲雄/世界史リブレット人/山川出版社)
◎『東方見聞録』を再読したくなったので

 7年前に読んだ『東方見聞録』を再読したくなった。再読の前に『東方見聞録』がどう評価されているかを確認しておこうと思い、次のリブレットを読んだ。

 『マルコ・ポーロ:『東方見聞録』を読み解く』(海老澤哲雄/世界史リブレット人/山川出版社)

 『東方見聞録』を再読したくなった理由は二つある。一つは、NHKで毎週土曜朝5時10分から再放送している『アニメーション紀行「マルコ・ポーロの冒険」』の録画視聴を始めたからである。実写とアニメを絡めた1979年放映の不思議な番組である。もう一つの理由は、先日読んだ『クビライ・カアンの驚異の帝国』(宮紀子)が、モンゴル史研究の基本中の基本史料のひとつに『東方見聞録』(フランス語、イタリア語、ラテン語などのさまざまな版)を挙げていたからである。 7年前に読んだ内容の大半を忘れているので、どんなことを書いてあったか再確認したくなった。

◎マルコ・ポーロは実在したか

 マルコ・ポーロに関しては、モンゴル史の泰斗・杉山正明が『モンゴルが世界史を覆す』のなかで次のように述べている。

 「歴史研究者とよばれる人でも、マルコ・ポーロの存在そのものを疑うむきは、まずいないといってよい。しかし、わたくしはそうは考えない。」

 『東方見聞録』にはクビライの周辺にいた者でしか知り得ない情報が盛り込まれているが、元史や集史などの史料にはマルコ・ポーロと見なせる人物が登場しない。杉山氏は、『東方見聞録』は複数の人物の体験・知見をベースにした集成と考えている。

 杉山氏のそんな見解を読んだことがあるので、他の研究者がマルコ・ポーロをどう見ているかを確認したくなり、このリブレットを繙いた。

◎マルコは実在。作為の記述も。

 本書の著者・海老澤哲雄氏は1936年生まれなので、杉山氏より16歳年長の研究者である。著者はマルコ・ポーロを実在の人物と見なしている。だが、マルコたちの旅がどのようなものであったか、中国でどのように暮らしていたかの記述がほとんどなく、個人的な体験への言及が少ないとも指摘している。

 『東方見聞録』はマルコが執筆した手記ではない。二十数年にわたる紀行を終えた後、マルコの口述を物語作家が筆記したものである。著者は「見聞したことを、マルコなりに取捨選択したもので、作為した記述も含まれ、額面どおりには受け止められないものもある」と述べている。

◎かなり話を盛っている

 マルコ一行が元の都に到着したとき、クビライから大歓迎を受けたとマルコは書いている。著者は、超大物でもないマルコ一行がそんな歓迎を受けたとは考えにくいと疑義を呈している。また、マルコがクビライの宮廷で重用されたとの話も疑わしく、使節の随員に加わった程度だろうとしている。

 クビライの宮廷には、君主に近侍する要因のケシクという組織があった。著者は、若いマルコはケシクの一員だったのではないかと推測している。

 マルコは、ローマ教皇からクビライに宛てた親書やクビライから教皇に宛てた親書などがマルコ一行に託されたと語っている。著者は、そのような親書の存在には否定的である。作り話の可能性が高い。

 数奇な体験をした人が、過去の二十数年を振り返ってその体験談を他人に語るとき、話を盛るのは有り勝ちだと思う。マルコの体験談にも「盛った部分」がかなりあるようだ。

馬仲英への興味からヘディンの探検記を読んだ2025年06月23日

『馬仲英の逃亡』(スヴェン・ヘディン/小野忍訳/中公文庫)
 胡桃沢耕史の小説『天山を越えて』に続いて彼のシルクロード紀行記2冊を読み、これらの本が言及している馬仲英という人物への興味がわいた。ウィキペディアの写真は馬賊の親分というよりは端整な青年将校のような姿だ。

 ウィキペディアによれば、スウェーデン人探検家ヘディンは新疆での馬仲英の戦いに巻き込まれ、詳細な記録を残したそうだ。その本を古書で入手し、読了した。

 『馬仲英の逃亡』(スヴェン・ヘディン/小野忍訳/中公文庫)

 2002年の中公文庫だが、翻訳の原版は1938年と古い。日中戦争が始まった頃に翻訳された本である。

 序言によれば、本書は1934年に実施した中央アジア探検の記録である。記録が多岐にわたるので「戦争」「道路」「湖水」という三つのテーマに分けた三部作とし、その第一部が本書『馬仲英の逃亡』である。第二部『シルク・ロード』、第三部『さまよえる湖』と続く。

 1934年時点のヘディンは69歳、すでに高名な探検家・地理学者だった。本書の舞台・中央アジアは、20代の頃から四十数年に渡って何度も探検している。その探検記は漢語でも出版され、本書の探検において読者に出会ったりもしている。

 この探検は南京の中央政府(蒋介石)の依頼により、中央アジアへの自動車道路設計の調査を目的にしている。乗用車1台、トラック4台を連ねた総勢15人の探検隊である。

 隊長ヘディン以下、メンバーはスウェーデン人の医師、地形学者、中国人学者(測量・天文)、中国人技師(鉄道・道路)2名、スウェーデン宣教師の息子である機械部員2名、モンゴル人運転手2名、料理人、召使4名である。

 車を連ねた探検隊はトルファン盆地北方をハミ→トルファン→カラ・シャール→コルラへと進んで行く。当時、この地帯は戦争状態だった。雑駁に言えば、南京政府のコントロールが及ばない半独立状態のなか、馬仲英と盛世才が覇権を争っていた。馬仲英に勢いがあったが、盛世才がソ連軍の支援を要請、ソ連軍の空爆によって馬仲英は劣勢になっていく。

 そんな状況のなか、馬仲英支配下の地域に踏み込んだ探検隊は大変な目に遭う。臨場感あふれる面白い記録である。馬仲英は高名なヘディンを歓迎すると言って、探検隊に「護衛」をつけるが、結局、ヘディンは馬仲英との会見は果たせない。

 ヘディンが伝聞で紹介する馬仲英像は複雑である。途方もなく勇敢で、前線で敵機の爆撃にも不適に身を晒す。人助けが好きで思いやりある人間的な側面と、占領地域の住民を殺戮する野蛮な面がある。不注意なほどにあけすけで、自分の計画を誰にでも話すが、彼が本当にしようと思っていることは本人以外誰も知らない――そんな人物だそうだ。

 当時24歳、回教徒だった彼は、現代におけるティムールの後継者として中央アジアの回教世界を支配下におくことを目指していたとも言われる。

 馬仲英の敗色が濃厚になった頃、探検隊は馬仲英軍の将軍から車両の提供を求められれる。ヘディンが拒否すると銃殺されそうになる。やむなく、馬仲英らの敗走のためのトラックと運転手を提供する。彼らが出発するとき、ヘディンは、運転手は殺されトラックも戻って来ないだろうと覚悟する。だが、意外にも、馬仲英らを送り届けた後、運転手とトラックは戻ってくる。

 そんなわけで、探検隊のメンバーの一人(スウェーデン宣教師の息子である機械部員)は、馬仲英を車の助手席に乗せて運転し、親しく会話を交わすという経験をする。ヘディンがこの隊員に馬仲英の様子を尋ねたときの返答は次の通りだ。

 「気持ちのいい男ですね。われわれはまるで学校友達みたいでしたよ。別れる時、あいつはこういいましたっけ、今までにこんな面白いことはなかったって。私もさようならをいうのがとても残念な気がしましたね。」

 ヘディンは新疆地域で多様な「民族」の人々に出会う。中国人、東干、トルコ人、トルグート、モンゴル人、タタール人、キルギス人、ロシア人などだ。あらためて多民族の地域だと認識した。トルコ人とは現在ウイグル人と呼ばれている人だろう。古代の「ウイグル」の名称を人為的に復活させたのは1935年だそうだ。この探検の翌年である。