19年前に出た唐十郎のムックを通読した2025年05月06日

『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』(河出書房新社/2006.4)
 今週末、劇団唐組公演『紙芝居の絵の町で』を観劇予定である。この芝居の戯曲は次のムックに載っている。

 『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』(河出書房新社/2006.4)

 19年前に出たムックだが、私が古書で入手したのは数年前だ。入手してパラパラといくつかの記事を読んだが、戯曲「紙芝居の絵の町で」は未読だった。観劇の機会に読めばいいと思った。その機会が巡ってきたのである。戯曲を読み、それを機にすべての記事を頭から通読した。

 「紅テント・ルネサンス!」というタイトルが示すように、2006年頃は「唐十郎ブーム」だったらしい。当時、私は仕事が忙しく、劇場や映画館に行くこともほとんどなく、唐十郎ブームを感じることもなかった。

 このムックを読むと、2006年頃に唐十郎が新たなピークを迎えていたとわかる。2005年に横浜国大教授(2001年に就任)を定年退職、劇団唐組以外のいろいろな所で唐作品が上演されていたそうだ。2006年、唐十郎66歳。転倒脳挫傷の6年前である。

 このムックの約半分が2006年当時の記事で、それ以外は寺山修司との対談など古い記事の再録である。再録記事の数編(種村季弘、澁澤瀧彦、土方巽)は1974年に出た『別冊新評 唐十郎の世界』に載っていたもので、タイムカプセルを開いたような懐かしさを感じつつ再読した。

 巻頭3編「新宿の人・唐十郎 扇田昭彦」「特別対談 坪内祐三・唐十郎」「唐十郎――流れ出す世界 室井尚」は、いずれも2006年当時の記事で、とても面白かった。

 扇田昭彦が紹介する花園神社の優しい老宮司にホンワカした。唐十郎を横浜国大に招聘した室井尚は、唐十郎を「完全にオリジナルでどこにも似たものが見出せない奇蹟的な場所を生み出し続けている」と評価している。坪内祐三との対談では、福田善之との関連、寺山修司や別役実の唐十郎への眼差しなどを語っていて興味深い。

 2006年当時は元気だった唐十郎、扇田昭彦、坪内祐三、室井尚は、いまではみな物故者になった。坪内祐三と室井尚は私より若い。19年前の記事に接し、しみじみした気分になる。

追悼本『唐十郎襲来!』で往年を偲ぶ2025年04月16日

『唐十郎襲来!』(河出書房新社/2024.11)
 唐十郎が84歳で逝ったのは昨年(2024年)5月4日、劇団唐組公演『泥人魚』初日の前日だった。私は逝去の翌々日にこの公演を観た。逝去から半年後、次の追悼本が出た。

 『唐十郎襲来!』(河出書房新社/2024.11)

 32本の記事と戯曲1編(最期に書いた『海星』)を収録した盛り沢山な本である。刊行直後に入手し、いくつかの記事を拾い読みしたが、今回、あらためて全編を通読した。さまざまな側面の唐十郎の姿に接する至福の読書時間だった。

 32本中の4本は過去の記事の再録で、28本が逝去後の書き下ろし&語り下ろしである。状況劇場発足以前の学生劇団時代の大鶴義英(唐十郎)の先輩による遠い追憶譚から、横国大や明大の教授になった唐十郎の教え子の思い出話まで、執筆者の世代は幅広い。

 横尾忠則のインタビュー記事は驚きだった。横尾忠則による初期の状況劇場のポスターは衝撃的で、紅テントのイメージと切り離せない。横尾忠則は、初期の何作かのポスターを提供した後、新たな作風のポスターを制作したそうだ。次のように語っている。

 「(今までの作風では)僕自身も自分の作品のコピー作ることになるからダメだし、唐君も僕のイメージで芝居をやろうとしたらダメだから、一回ひっくり返してやろうと思って、とんでもないポスターを作ったんですよ。それは怖かったようで受け入れなかった。キャンセルしてきた。」

 1968年か1969年頃の話だと推測される。横尾忠則は、あのとき唐十郎が新たなポスターを受け入れていたら、その芝居も別次元の新たな展開を見せたかもしれないと惜しんでいる。『吸血姫』『唐版 風の又三郎』などの傑作はその後に生まれるのだが……。

 麿赤児の記事でも新たな事実を知った。唐十郎は逝去の12年前、2012年に転倒による脳挫傷で執筆不能となる。それまで年1~2本のペースで戯曲を書いていたが、その後の新作はない。転倒直前に取り組んでいたのは、何と麿赤児あての戯曲だったのだ。嵐山光三郎のプロデュースで麿赤児の唐組への出演が決まっていたそうだ。実現していれば、1971年以来40数年ぶりの麿赤児の紅テント芝居だった。

 麿赤児は「唐の言語の死以来数回、唐組の芝居を観た」と述べている。そのうちの一つは私が観劇した2018年の『吸血姫』のはずだ。私は、桟敷席後方の椅子席に座っている麿赤児とリハビリ後の唐十郎の姿を発見して感激した記憶がある。

 唐十郎の姿を最後に目撃したのは、逝去前年の一糸座公演『少女仮面』の客席だった。カーテンコールの際に舞台上から紹介され、客席から立ち上がって観客に手を振った。舞台上から唐十郎に呼びかけた役者が思わず涙ぐんだ姿が印象に残っている。

 本書は興味深い指摘やエピソードに満ちている。唐十郎の演出について不破万作は「 アドリブは絶対ダメだったんですよ。『このセリフ、意味がわかんないです』と聞いてみ、『わかんなくても喋ればいいんだ!』と言われた」と語っている。蜷川幸雄は2011年の対談で「稽古のときに(唐十郎が)台詞一行一行すべてについて、どういう意味や行動があるのかを出したことがあるよ。僕も仰天したんだけど、衝動的に書いているように見せながら、確固たる裏付けがあるんだよね。あれはびっくりした」と語っている。あの迷宮芝居群のナゾを解き明かすのは容易ではない。だから楽しい。

 唐十郎は100編以上の戯曲を残したそうだ。今後、どの程度上演されるだろうか。新たな古典芸能として長く受け継がれていくような気がする。

『北里柴三郎』(上山明博)は官尊民卑の権威主義との攻防譚2025年01月26日

『北里柴三郎:感染症と闘いつづけた男』(上山明博/青土社/2021.9)
 昨年、北里柴三郎の伝記を2冊読んだ。『北里柴三郎:雷と呼ばれた男』(山崎光男)と『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊)である。この人物の概略がわかり、それで満足していたが、次の伝記があると知り、読んでみたくなった。

 『北里柴三郎:感染症と闘いつづけた男』(上山明博/青土社/2021.9)

 北里の生涯のあらましは記憶に残っているので、それを追体験する気分で、かなりスラスラと読了できた。山崎氏や海堂氏の著作が想像力を加味した物語仕立てなのに対して、本書は北里の研究業績紹介をベースにしたノンフクションである。同時代の文書(記事や書簡など)の紹介が多い。エピソードや私生活に関する記述は少ない。

 資料に基づいた坦々とした記述にもかかわらず、起伏に富んだ北里の生涯の面白さが伝わってきてくる。北里という人物の魅力がくっきりと浮かび上がってくる伝記だ。

 雑駁にまとめれば、北里の伝記は、男の嫉妬に駆られた東京帝大医学部教授(青山胤通など)や陸軍軍医総監森林太郎(鷗外)らとの攻防譚である。その背景には、卓越した細菌学者北里の成功物語と、当然に受賞するべきだった第1回ノーベル生理医学賞を逸した無念な逸話がある。無念と思うのは後世の我々であり、北里自身はさほど気にしていなかったかもしれない。

 本書で印象深いのはドイツ留学を終えた北里が帰国する場面である。次のように記述している。

 「おそらく北里は横浜港に着岸し、六年半ぶりに日本の土を踏む際、大勢の市民の歓迎を受けると想定したと思われる。しかし、北里の予想に反して横浜港には出迎えてくれる市民の姿はなく、インタビューを申し込む記者もいなかった。」

 北里はドイツ留学中に破傷風菌の純粋培養や血清療法を開発で名声を上げた世界的研究者だった。欧米の大学から破格の待遇での招聘を受けていたが、国費留学生だったためそれらの招聘を断り、祖国に貢献すべく帰国する。

 著者は帰国当時の新聞や雑誌を調べたそうだ。世界的に名声を得た細菌学者の帰国を報じる記事はなかった。当時、東京帝大医学部の教授たちが北里と対立していて、北里への批判的な言説もあった。当時のメディアは北里の業績を把握していなかったのだと推察される。

 帰国した北里を受け入れる研究機関はなく、世界的細菌学者が無聊をかこっているのを見かねた人々が福沢諭吉の力によって、北里のために民間の伝染病研究所を設立する。そこから、北里に敵対する勢力との興味深い物語が始まるのである。

 本書は脚気論争も詳述している。北里のメインの研究業績とは別の話題だが、東京帝大医学部や陸軍軍医森林太郎らの大きな失点あるは汚点である。著者は「けだし真実の解明のためのもっとも大きな障害は、権威者といわれる特定の人びとの固定観念と集団権威体制の頑強さにこそあった」と彼らを批判している。本書は官尊民卑の権威主義に抗した細菌学者の伝記である。

 本書で気がかりな点がひとつあった。巻末の年表では1890年に第1回ノーベル賞とあり、本文にもノーベル賞に基づいて1890年頃を描いた記述がある。第1回ノーベル賞は1890年ではなく1901年である。本書141頁でも、1986年12月にノーベルが死去し、1900年にノーベル賞の定款が定められたと述べている。記述が混乱しているように思えた。

『宿命の子:安倍晋三政権クロニクル』は記述が細かい2025年01月06日

『宿命の子:安倍晋三政権クロニクル(上)(下)』(船橋洋一/文藝春秋)
  1カ月以上前に読み始めた次の本を、年明けになってやっと読み終えた。

 『宿命の子:安倍晋三政権クロニクル(上)(下)』(船橋洋一/文藝春秋)

 著者は本書を「調査報道であり、ノンフィクションである」と述べている。第2次安倍政権(2012年12月~2020年9月)の思考と行動を、おびただしい人数の関係者へのインタビューをベースに描いている。安倍晋三本人にも、退陣後2年弱のあいだに19回インタビューしたそうだ。労作である。

 安倍晋三に関しては、以前に『安倍三代』(青木理)や『安倍晋三の正体』(適菜収)などを読んだ。いずれも安倍晋三に批判的な内容であり、私はこれらの著作に共感している。安倍政権を評価する気にはなれない。

 にもかかわらず本書を読もうと思ったのは、著者が元・朝日新聞社主筆の船橋洋一氏だからである。船橋氏の著作は以前にいくつか読んだことがある。安倍政権に批判的だった朝日新聞の元・主筆が安倍政権をどのように描いているのかに興味がわいたのだ。

 上下巻で約1200頁の本書は、「アベノミクス」「戦後70年首相談話」「プーチン」「トランプ」など約20のテーマごとに、政権中枢がどんな動きをしてきたかを細かく描いている。細かい話になると頭がついて行くのが難しくなり、読むのに時間を要した。何とか読了できたのは、やはり面白いからである。「へぇー」と感じる興味深い話がいろいろ出てくる。

 本書は関係者の証言に基づいた事実を坦々と描写しているが、取材対象の多くは政権に関わった人物である。だから功罪の「罪」よりは「功」にウエイトがかかり、全体としては安倍政権をかなり評価している印象を受ける。

 最終章の「戦後終章」は著者による安倍政権総括である。著者は次のように述べている。

 「この政権は、国のあるべき構想を明確にし、そのための政治課題を設定し、それを能動的に遂行しようとするきわめて理念的かつ行動的な政治において際立っていた。」

 「安倍時代、日本の政治は欧米民主国家の多くで起こったような「極端な党派性のポピュリスト的罠」に嵌ることはなかった。」

 「この政権は、第1次政権の失敗の歴史からよく学んだ。その本質は、このリアリズムの政治のありようということだったかもしれない。そして、それが憲政史上最長の政権をつくった最大の秘訣だっただろう。」

 船橋氏が描出した安倍晋三は、信念と使命を追究しつつも柔軟性をもったリアリズムの政治家である。青木理氏は『安倍三代』で安倍晋三を「悲しいまでに凡庸で、何の変哲もない人間」「空虚で空疎な人間」としていた。適菜収氏は『安倍晋三回顧録』から見えるものは「安倍という男の絶望的な幼さ、自己中心的な思考、地頭の悪さだ」と書いていた。これら批判的な安部晋三像と船橋氏が本書で描いた安倍晋三像は矛盾するだろうか。私は、必ずしも矛盾しないと思う。

 本書のタイトル「宿命の子」は安倍晋三の母親・洋子(岸信介の娘。安倍晋太郎の妻)が息子について語った言葉である。岸信介の孫、安倍晋太郎の息子として生まれた凡庸で空疎なオボッチャマが、後天的に無理やりに「信念」や「使命」を自身に注入した――それが「宿命の子」だと思える。元が空疎だから可塑性はある。育ちのよさには、先天的な人たらしの魅力(愛嬌)があったのかもしれない。言葉が軽く、饒舌で、雑談の名手だったそうだ。

 コロナ禍の頃に関する次の記述が印象に残った。

 「萩生田は、コロナ危機の中で、安倍の体力と気力の弱まりを感じた。海外にも行けない。ゴルフもできない。みんなでワイワワイガヤガヤできない。」

 外交やゴルフ、ワイワイガヤガヤが政権維持の気力の源泉だとすると、人間味を感じる。

『安部公房展』は盛況だった2024年11月05日

 県立神奈川近代文学館で開催中の『安部公房展:21世紀文学の基軸』に行った。会場での記念対談『安部公房と戦後の政治・芸術運動 苅部直(政治学者)鳥羽耕史(文学研究者)』も聴講した。

 安部公房展は11年前に世田谷文学館でも開催された。私はそれも観ている。前回は没後10年記念、今回は生誕100年記念である。11年前の安部公房展の記憶はかなり薄れているが、今回の方が盛況のような気がした。安部公房が忘れられた作家になる心配なさそうだ。新しい世代の読者が広がっているのだと思う。

 今回は成城高校在学中の数学のノートまで展示していた。微分や積分の端正なノートを見て、安部公房は真面目にきちんと数学の勉強もしていたのだと、少し感動した。

 「夜の会」「世紀の会」「下丸子文化集団」など、若い頃の芸術運動や政治活動に関する歴史的な資料の展示も興味深い。

 会場では、安部公房スタジオの最後の公演『仔象は死んだ』のビデオを小さなデイスプレイで流していた。私はこの公演を観ていないが、ビデオを観て、この公演への辛口批評が納得できる気がした。映像パフォーマンスとしては面白いかもしれないが、役者の魅力は殺がれているように感じられた。

 苅部直氏と鳥羽耕史氏の対談も面白かった。両氏とも1960年代生まれの研究者だから、安部公房より40歳ぐらい若い。対談を聞きながら、私のような団塊世代には同時代作家に感じられる安部公房が、すでに歴史上の人物になったと思えた。

 苅部氏が『S・カルマ氏の犯罪』のパロディが筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』だと指摘したのには驚いた。『脱走と追跡のサンバ』を読んだ直後に『S・カルマ氏の犯罪』を読んだので、『S・カルマ氏の犯罪』を面白いと思えなかったそうだ。

 私は半世紀以上昔に『S・カルマ氏の犯罪』を角川文庫の古本(桂川寛のオリジナル挿絵が入った珍品)で読み、その後に『脱走と追跡のサンバ』をリアルタイムで読んだ。あのとき、パロディとは気づかなかった。いずれ、読み返して確認してみたい。

オートヴィル家の息子たちの歴史は面白い2024年11月01日

『ノルマン騎士の地中海興亡史』(山辺規子/白水Uブックス/白水社)
 数カ月前に『中世シチリア王国』(高山博)という新書を再読したとき、ノルマンディのオートヴィル家の息子たちの話に惹かれた。北フランスの田舎の小領主の息子たちが南イタリアへ傭兵(あるいは盗賊)として赴き、一帯を支配する王にまで上りつめていく「イタリアン・ドリーム」物語である。彼らについてもう少し知りたいと思い、次の本を読んだ。

 『ノルマン騎士の地中海興亡史』(山辺規子/白水Uブックス/白水社)

 11世紀から12世紀にかけての南イタリアにおけるノルマン人の征服活動とシチリア王国成立を描いた歴史書である。とても面白い。目次は以下の通りだ。

 プロローグ ノルマンディ
 第1章 ノルマン人、南イタリアへ
 第2章 ロベール・ギスカール登場
 第3章 ノルマン人、シチリアへ
 第4章 古い支配の終焉
 第5章 世界の恐怖――ロベール・ギスカール
 第6章 シチリア王国の成立
 第7章 ノルマン朝シチリア王国の変遷
 エピローグ 十字軍のノルマン人

 全7章のうち、第2章から第5章までの4章、つまり本書の半分以上がロベール・ギスカールに関する話である。本書の主役と言えるだろう。勇敢で頭がいい魅力的な騎士だったらしい。著者は「一言でいえば「すごい奴」ということになる」と紹介している。

 ギスカールとは「狡猾」という意味のあだ名である。そう呼ばれる面もあったのだろうが、本書を読む限りではかなり寛容な人物である。彼の生涯は支配権を確立していく過程での反乱への対処のくり返しだった。著者は次のように述べている。

 「ロベール・ギスカールが反乱に対して寛容な態度を取り続けてきたために、反乱を起こすのも、毎度同じメンバーである」

 同輩や縁者たちの中から一人が突出していくなかで「昨日の友は今日の敵」「昨日の敵は今日の友」がくり返されるのは、どこの世界にもある話だろう。ロベール・ギスカールが対処する相手はイタリアの諸侯やノルマン人諸侯だけでない。ローマ教皇、神聖ローマ皇帝、ビザンツ皇帝も重要なプレイヤーであり、彼らとの流動的な絡みの展開が歴史を作っていく。

 彼の二番目の妻シケルガイタ(サレルノ侯女)も興味深い。戦場に同行し、長槍を手に馬を駆って騎士たちを叱咤する凄い女性である。

 このロベール・ギスカールは高校世界史には登場しない。本書に登場するノルマン騎士で、高校世界史で名が挙がるのは、ロベール・ギスカールの甥にあたるルッジェーロ2世だけだと思う。ルッジェーロ2世は初代シチリア王になる。知的好奇心旺盛な優れた政治家であり、ロベール・ギスカールとは別の魅力がある。この王がいたからパレルモは「12世紀ルネサンス」の地になった。

 ルッジェーロ2世の孫が「世界の驚異」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フェデリコ2世である。私はフェデリコ2世のファンであり、2カ月前、彼が建てた謎の城カステル・デル・モンテを訪問した。フェデリコ2世から見るとルッジェーロ2世は母方の祖父になる(父方の祖父はフリードリヒ1世=バルバロッサ)。フェデリコ2世の時代にはシチリアのノルマン朝はすでになく、彼をノルマン騎士とは呼べないだろう。だが、本書を読んで、フェデリコ2世はルッジェーロ2世に似ていると思った。

『奏鳴曲 北里と鷗外』は「チビスケ」と呼ばれる「ぼく」の史伝小説2024年10月15日

 半年前に読んだ『北里柴三郎:雷(ドンネル)と呼ばれた男』(山崎光男)は面白い伝記小説だった。北里柴三郎に関してはこれで十分と思っていたが、書店の棚で次の本を見つけ、つい買ってしまった。

 『奏鳴曲 北里と鷗外』(海堂尊/文春文庫)

 本書のサブタイトル「北里と鷗外」に惹かれたのである。『雷と呼ばれた男』にも鷗外は登場するが脇役である。医者としての鷗外に注目するなら「脚気論争」の話だろうと推測し、その経過と顛末を再確認したくなった。

 私は36年前の1988年に『模倣の時代』(板倉聖宣)という本で脚気論争の歴史を知り、驚いた。上下2冊の厚い本だったが一気に読了し、著者に感動の手紙まで投函し、返信の葉書をもらった。読んだ本の著者に手紙を出した唯一の経験だ。

 そんな記憶があり、軍医総監・森林太郎(鷗外)には日清・日露で戦死者以上の脚気死者を出した元凶のひとりという悪役イメージが強い。鷗外の小説は数編を読んでいるだけで、あまり馴染みがない。私のいだく鷗外像は「脚気の悪者・鷗外」である。

 『奏鳴曲 北里と鷗外』の著者・海堂尊氏は医師で小説家である。その作品を読むのは本書が初めてである。エンタメ系歴史小説と思って読み始めたが、思ったほど読みやすくはない。多くの登場人名や医学的事項についての親切な説明が少なく、圧縮記述のように感じる部分もある。しかし、材料の面白さに惹かれて興味深く読了できた。

 著者は「あとがき」で次のように述べている。

 「二人の心情的な交流の記録はほとんど見当たりません。北里は自分についてはほぼ何も書き残さず、鷗外は膨大な日記や小説を残しましたが、都合の悪い部分には触れていません。」

 というわけで、本書は二人のかかわり合いや心情に関しては想像力を大胆に駆使している。ノンフィクションではなく史伝小説である。

 本書の記述は、やや異様だ。基本は三人称なのに、鷗外に関する部分だけは鷗外の一人称になっている。その一人称は「ぼく」である。北里に関する部分は三人称で、北里が鷗外を呼ぶときは一貫して「チビスケ」である。もちろん「ぼく」はこの呼称に不満である。最高位の軍医総監になっても「ぼく」は「チビスケ」と呼ばれる。

 「ぼく」という鷗外の一人称の使い方も不思議である。リアルタイムの一人称ではない。後世(死後?)の一人称のように思えるのだ。おのれの人生を俯瞰した「ぼく」という一人称は三人称に近いかもしれない。

 いずれにしても「ぼく」「チビスケ」という用語は、鷗外の小人物ぶりを表現しているように見える。同時に屈折した鷗外の人間的な姿を描いているとも言える。この史伝小説の主人公は北里ではなく鷗外だと感じた。

『外岡秀俊という新聞記者がいた』は新聞への挽歌か?2024年10月11日

 新聞というメディアの現状と将来に思いをはせざるを得なくなる本を読んだ。

 『外岡秀俊という新聞記者がいた』(及川智洋/田畑書店)

 元朝日新聞編集局長・外岡秀俊へのインタビューをまとめたジャーナリズムに関するオーラル・ヒストリーである。外岡秀俊は2011年3月に早期退職、2021年12月に心不全で死去した。享年68歳だった。彼は朝日新聞入社前から有名人だった。東大法学部在学中の1976年に『北帰行』で文藝賞を受賞して注目されたが、作家の道には進まずに朝日新聞社に入社、新聞記者として内外で活躍した。

 本書の著者は、外岡秀俊より13歳下の元朝日新聞記者である。インタビューは2015年11月から2017年5月まで18回実施したそうだ。著者は「まえがき」で次のように述べている。

 「この記録によって、外岡さんが日本のリーディングペーパーであった朝日の知性と良心を代表しうる最後の記者であったこと、また新聞が生活必需品であり民主主義の主柱とされた時代の掉尾を飾るジャーナリストであったことを証明できたと思う、」

 著者がどんな思いで「最後の」「掉尾を飾る」という言葉を使ったかはわからないが、新聞の現状への諦観が伝わってくる。

 外岡秀俊が朝日新聞社を早期退職したのは、北海道に住む親のそばで暮らすためだったそうだ。再び小説に取り組む意図もあったと思う。退職後の2014年に中原清一郎名義で発表した小説『カノン』を発表している。

 本書を読むと、必ずしも小説家に転身するために退職したのではなく、外岡秀俊は退職後もジャーナリストであり続けたことがわかる。そして、彼の真面目で誠実かつ柔軟な思考が伝わってくる。

 退職後の2014年、朝日新聞が慰安婦報道や吉田調書の問題で揺れているとき、外岡秀俊に「社長になってもらえないか」の打診があったそうだ。「せっかく苦労して辞めたのに戻るなんて考えられない」と固辞している。だが、新聞の将来を悲嘆していたわけではない。「恐らく本はこれからも残るはずですよ。新聞も残る。日本の場合は特に、文化形成にかかわっているから。」とも語っている。

 過去1世紀以上にわたって新聞が担ってきたジャーナリズムという役割はこの先どうなるのだろうか。新聞のない世界を想像するのは難しい団塊世代の私には、将来のメディアの姿がイメージできない。

生誕100年の安部公房と吉本隆明の接点は…2024年10月01日

 今年(2024年)は安部公房生誕100年で、吉本隆明生誕100年でもある。二人とも、半世紀以上昔のわが青春時代のスターだった。私も少なからぬ影響を二人から受けていると思う。と言っても、この二大スターは異質な存在で、接点は少なかった。

 安部公房は花田清輝に近かったから、「吉本・花田論争」で花田清輝をコテンパンにした吉本隆明にとっては「敵」に近い存在だったと思う。大昔に読んだ吉本隆明の著作のなかに安部公房を揶揄・罵倒する文章がいくつかあった。安部公房が吉本隆明に言及した文章に接した記憶はない。

 だが、先日読んだ『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史)には吉本隆明の名が何か所か出てきた。その情報をベースに、二人の生誕100年を記念して、二人の接点を簡単に辿ってみようと思う。

 二人はともに1924年生まれだが、学年は安部公房がひとつ上だ。1945年8月の日本敗戦のとき安部公房は21歳、吉本隆明は20歳だった。安部公房は1947年に『無名詩集』を自費出版、1948年に東大医学部を卒業している。吉本隆明は1947年に東工大を卒業、1952年に自家版『固有時との対話』を出版する。

 鳥羽氏の伝記によれば、二人は1951年、27歳の頃に接触している。

 「1951年に公房と堀田善衛が春と秋に続けて芥川賞を取った時、東京工業大学で文芸部に所属していた吉本隆明と奥野健男が、二人を呼んで座談会を企画したことがある。この座談会では公房が一人で淡々と喋り、堀田はほとんど何も喋らなかったという。」

 二人の出会いが意外に早かったのに驚いた。その後、1957年に安部公房らが「記録芸術の会」を立ち上げたとき、その発起人会に吉本隆明もいたそうだ。鳥羽氏は次のように述べている。

 「発起人会では村松剛の入会可否をめぐって対立が生じて吉本隆明、武井昭夫、奥野健男らが退場したため、当初のメンバーは26名でスタートした。」

 1957年、二人は決裂したのだ。そして1960年10月、安部公房は「記録芸術の会」が準備してきた月刊誌『現代芸術』(勁草書房)の編集長になる。この雑誌の創刊号に花田清輝の巻頭詩「風の方向」が載る。この詩が60年安保闘争の吉本隆明を揶揄していて、吉本・花田論争のきっかけになる。鳥羽氏のおかげで、安部公房が吉本・花田論争のきっかけに、かなり深く関わっていたと知り、なるほどと思った。

 鳥羽氏の伝記による安部公房と吉本隆明の接点は以上の三点である。それをふまえて、吉本隆明の安部公房への言及を少し探索してみた。

 1960年刊行の『言語にとって美とはなにか』の「第Ⅳ章 表現転移論」では「戦後話体の表出が文学体への上昇過程へ向かった」作品の例として、太宰治「人間失格」、田中英光「さようなら」、安部公房「壁」、高見順「この神のへど」を挙げている。

 1958年発表の「情勢論」では、安部公房の評論「人間未来史観序説」を「マルクス主義者中の「未来バカ」が、今日のマス化現象のなかで、危機感を失い、児戯に類するタワゴトにふけっている好個のエキザンプルである」と痛烈に批判している。

 1963年発表の「「政治と文学」なんてものはない」では『砂の女』を次のように「評価」している。

 「また、安部公房のように才あって徳なしといった政治的オポチュニストが、無意識のうちに、世界の政治的解体を感受した解放感と挫折感を、はじめてわが身につまされて表現したため、過去の作品より出来がよかったというにすぎない『砂の女』や、『金閣寺』をどこまで超えたか疑わしい三島由紀夫の『美しい星』を、ことこまかく論ずる意思もない。」

 1964年発表の「いま文学に何が必要か」という文章では、現代の優れた作品の一つとして『砂の女』などを例示し、次のように述べている。

 「かれの創った作品のなかに、現在の現実社会の病根がすべて鏡になって映されているような、ほんとうの患者こそが重要なのだ。(…)そして、現在、それぞれの個性と陰影をこめて、あたうかぎりほんとうの患者でありえているのは、残念なことに、島尾敏雄、安部公房、三島由紀夫、大江健三郎らの少数の優れた知識人作家のほかにありえないのである。」

 結局は評価しているのだ。吉本隆明の安部公房への言及は他にもありそうだが、私の雑駁な探索で得たのは以上である。

 今年生誕100年を迎えた大物二人、どちらがビッグか、私には判断できない。

調布市仙川に住んでいた安部公房を偲ぶイベント2024年09月29日

 調布市文化会館で『仙川 安部公房生誕100年祭:調布に住んだ文豪』というイベントがあった。入場無料だ。往年の安部公房ファンで調布市在住の私としては行かないわけにはいかない。

 午後2時から8時までの長丁場で、以下の内容である。

 映画『砂の女』上演
 映画『おとし穴』上演
 生誕100年記念鼎談「俳優座、仙川と安部公房・真知夫妻」
  登壇者:川口敦子(俳優座・俳優)、鳥羽耕史(早稲田大学教授)、山口三詠子(「アジィ」経営)

 勅使河原宏監督の映画2本はいずれも観たことがあるが、この機会に大画面で観ようと思った。

 カンヌ国際映画祭審査員特別賞受賞の映画『砂の女』(1964年公開)を観たのは、高校生の時だった。1965年頃だと思う。三島由紀夫の『憂国』と2本立だった。原作の小説を読んだのは映画を観た後だ。十年以上前にCATVでも観ている。

 今回、久々に『砂の女』を観て、あたりまえでバカみたいだが岡田英次も岸田今日子も若いなあと感じた。当方が齢を重ねただけだ。砂の表現の迫力にもあらためて驚き、しばしば挿入される技巧的・芸術的な画面に感心した。この映画を観るのは久しぶりだが、数年前に舞台で『砂女』『砂の女』を観ている。舞台にも映画にもそれぞれの魅力がある。最も原作小説に近いのはやはり映画だと思う。この映画はたしかに名作だと再認識した。

 1962年公開の『おとし穴』は、かなり昔にCATVで観た。三井三池炭鉱争議を題材にしたプロパガンダ的映画で、死者が次々に幽霊となって登場するのがミソである。歴史的な意義は多少はあるかもしれないが、図式的にすぎてシラける映画だ。炭鉱住宅の雰囲気は印象深い。

 映画上演後の鼎談は、安部公房が暮らした地元・仙川をアピールする楽しいトークだった。『安部公房:消しゴムで書く』を上梓し、いまや安部公房研究の第一人者の鳥羽耕史は聞き手である。

 俳優座の川口敦子氏(1933年生まれ)は、『幽霊はここにいる』にセクシーなファッションモデル役で登場した女優で、仙川周辺在住である。安部真知と晩年まで親交があったそうだ。

 山口三詠子氏は仙川のブティックの経営者で、安部真知との親交があり、仙川の安部公房邸でのパーティにも参加していたそうだ。

 鼎談は桐朋学園や安部真知をめぐる思い出話が中心だった。2014年に取り壊された仙川の安部公房邸がしばしば話題にのぼり、会場の画面にその映像も投影された。

 仙川の安部公房邸は、わが家から徒歩20分ぐらいの場所にあった。2011年(13年前だ)、私はふと思い立って安部公房邸を探索し、それらしい家を見つけて撮影した(掲示写真)。人の住んでいる気配はなかった。それから数年後、ふたたび安部公房邸の探索を試みたが、すでに別の住宅になっていた。

 今回の鼎談で安部公房邸に話が及んだとき、司会の鳥羽氏が聴衆に対して「安部公房の家を見たことがある人は?」と尋ねた。かなりの人が挙手した。私も挙手した。今回のイベントは、安部公房が調布市仙川に在住していたことを再確認する場のようでもあった。それは意味あることだと思う。

 鼎談の最後に女優の川口氏が司会の鳥羽氏の著書『安部公房:消しゴムで書く』について、「何故こんなに詳しいのと驚きました。俳優座のことも詳しく書いています」と称賛した。鳥羽氏は「ストーカー的な本で…」と照れていた。私も、あの本の詳しさに驚いた一人である。