チェルノブイリの現在を知り35年前の「警告の書」を読んだ ― 2021年07月02日
先月末の朝日新聞夕刊に『現場へ! チェルノブイリ 廃墟の街から』という5回連載の記事が載った(2021.6.21~6.25)。あの地域は立ち入り禁止が続き、原発は「石棺」に覆われていると聞いていたが、この記事で、廃墟を訪れる観光客が増えつつあり世界遺産登録の動きがあると知り驚いた。
チェルノブイリ原発事故が発生したのは35年前の1986年4月、まだソ連が存在していた。ゴルバチョフが書記長に就任した翌年の大事故で、ソ連崩壊の前触れのようでもあった。福島原発の事故はチェルブイリから25年後である。
この新聞記事で、最近入手した35年前の次の本を思い出し、そそくさと読了した。
『チェルノブイリ:最後の警告』(高木仁三郎/七つ森書館)
2000年に62歳で逝った 高木仁三郎は原発批判を続けた科学者で、その 著書のいくつかは読んだが、本書は未読だった。今年4月に読んだ 『世界史との対話:70時間の歴史批評(下)』の最終講(第70講)「トリニティからチェルノブイリとフクシマへ」の「ブックガイド」に本書が載っていたので古書で入手したのである。
『チェルノブイリ:最後の警告』は事故発生から8ヵ月後の刊行で、事故直後2ヵ月の間に書いた文章を中心にまとめている。各文章に執筆日時の記載があり、当時の緊迫した状況が伝わってくる。あの頃、日本の原発はソ連の危うい原発に比べると格段に安全で、日本では起こり得ない事故だとの言説があった。著者はそれを鋭く批判し、日本の原発事故への警告を発している。
本書を読み、新聞記事を読み返し、チェルノブイリ以降の35年間に起きたさまざまなことを思い返すと暗然とする。警告とは、警告通りの事態になって初めて認識されるものにも思えてくる。
アウシュビッツが世界遺産に登録されているようにチェルノブイリが世界遺産になるのも意義があるとは思う。だが、それを観光資源と考えるのは少し変な気がする。廃墟に惹かれる気持ちは私にもあるのだが…
チェルノブイリ原発事故が発生したのは35年前の1986年4月、まだソ連が存在していた。ゴルバチョフが書記長に就任した翌年の大事故で、ソ連崩壊の前触れのようでもあった。福島原発の事故はチェルブイリから25年後である。
この新聞記事で、最近入手した35年前の次の本を思い出し、そそくさと読了した。
『チェルノブイリ:最後の警告』(高木仁三郎/七つ森書館)
2000年に62歳で逝った 高木仁三郎は原発批判を続けた科学者で、その 著書のいくつかは読んだが、本書は未読だった。今年4月に読んだ 『世界史との対話:70時間の歴史批評(下)』の最終講(第70講)「トリニティからチェルノブイリとフクシマへ」の「ブックガイド」に本書が載っていたので古書で入手したのである。
『チェルノブイリ:最後の警告』は事故発生から8ヵ月後の刊行で、事故直後2ヵ月の間に書いた文章を中心にまとめている。各文章に執筆日時の記載があり、当時の緊迫した状況が伝わってくる。あの頃、日本の原発はソ連の危うい原発に比べると格段に安全で、日本では起こり得ない事故だとの言説があった。著者はそれを鋭く批判し、日本の原発事故への警告を発している。
本書を読み、新聞記事を読み返し、チェルノブイリ以降の35年間に起きたさまざまなことを思い返すと暗然とする。警告とは、警告通りの事態になって初めて認識されるものにも思えてくる。
アウシュビッツが世界遺産に登録されているようにチェルノブイリが世界遺産になるのも意義があるとは思う。だが、それを観光資源と考えるのは少し変な気がする。廃墟に惹かれる気持ちは私にもあるのだが…
高木仁三郎と小林よしのりの脱原発論 ― 2012年09月24日
早いもので、脱原発の論客・高木仁三郎氏が大腸癌で亡くなってから12年経った。2000年12月に日比谷公会堂で開催された「高木さんを偲ぶ会」には私も足を運んだ。2階席から会場を見渡し、参加者の多さに驚いた。
私のような物見高いミーハーも混ざっていただろうが、高木氏の活動に関心をもつ人が多いことをあらためて認識した。
あの頃、私は明確に「反原発」という考えではなかった。電力は社会に不可欠なものであり、原発はないに越したことはないが必要悪のようなものだろう、という中途半端な考えだった。
昨年の3.11によって自分の考えの甘さを思い知り、考えが変わった。今では、原発を廃止すべきだと考えている。われながら軽薄で付和雷同と思うが仕方ない。
そんな私だが、3.11以前から高木氏の著作はいくつか読んでいた。3.11以降、何冊かを読み返した。現金なもので、3.11以前と以降で読み方が変わってくる。昔は文明論的に読み、今は現実的問題の所在を確認するために読んでいる……そんな違いだろうか。
高木氏の著作は『高木仁三郎著作集』(全12巻、七つ森書館)にまとめられているが、その膨大な業績をコンパクトにまとめた本が出た。
『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編/岩波現代文庫)
初期論文から最晩年の手記までを一望できる一冊で、これを読んだだけでも、高木氏が考えていたことの輪郭をつかめる。そして、高木氏が3.11のフクシマを予見し警告していたこともよくわかる。
少壮科学者としてスタートした高木氏は、31歳で都立大学助教授に就任するが35歳で辞職し、「在野の科学者」という特異な立場での活動を続ける。そして62歳で大腸癌で亡くなる。
本書で興味深く感じたのは、大学を辞めるときに巻き起こった大学人による強烈な慰留の件りだ。高木氏が期待される優秀な人材だったということもあるだろうが、アカデミズムというムラ社会の家族意識の強さが伝わってくる印象的な逸話だ。
本書収録の最も古い文章は、『朝日ジャーナル 1970年4月26日号』掲載の『現代科学の超克をめざして --- 新しく科学を学ぶ諸君へ』という論文だ。
この文章を読んでいて、40年以上前の学生時代に『朝日ジャーナル』でこれを読んだことを思い出した。かすかな記憶が甦ってきて、なつかしく感じた。「<近代>の超克」「人間としてのトータリティの復権」などという言葉が出てくる。いまの私がこれらを「生硬ながら初々しい」などと評するのは傲慢だろう。その後の高木氏の思想が予見でき、現在においてもなお切実であろう課題を提示しようとした論文である。
本書には、癌に侵されて余命いくばくもないときの手記も掲載されていて、身につまされる。この手記に明示されているわけではないが、高木氏の生涯を見つめると、高木氏の発癌は若い研究者時代に多量の放射線を浴びたせいではないかと思われてくる。身を挺して原発の危険性を表現したようにも思えるし、キュリー夫人も連想する。
『高木仁三郎セレクション』読了後、続いて『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』(小林よしのり/小学館)を一気に読んだ。
久々に『ゴーマニズム宣言』を読んだ。本書の小林よしのり氏は「脱原発」を熱く主張し、原発推進の自称保守派を例によって激しく非難している。また、原発に対して中庸という立場はないと言い切っている。
小林よしのり氏はわかりやすさとわかりにくさを兼ね備えた不思議な人だが、本書の主張は明快で、私には概ね納得できる内容だ。本書は原発の脅威を誇張していると感じる人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。小林氏は原発の危険性の本質を把握しているだけのだ。
例によって『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』にはいろいろな論客が登場する。この本を『高木仁三郎セレクション』読了直後に読んだ動機の一つは、高木仁三郎氏が出てくるかなと思ったからだ。しかし、出てこなかった。3.11の時点で故人だったのだから当然かもしれない。
だが、高木氏が予見し、敷衍した考えは本書にも反映さていると感じた。原発の危険性の本質を把握しているからだ。
私のような物見高いミーハーも混ざっていただろうが、高木氏の活動に関心をもつ人が多いことをあらためて認識した。
あの頃、私は明確に「反原発」という考えではなかった。電力は社会に不可欠なものであり、原発はないに越したことはないが必要悪のようなものだろう、という中途半端な考えだった。
昨年の3.11によって自分の考えの甘さを思い知り、考えが変わった。今では、原発を廃止すべきだと考えている。われながら軽薄で付和雷同と思うが仕方ない。
そんな私だが、3.11以前から高木氏の著作はいくつか読んでいた。3.11以降、何冊かを読み返した。現金なもので、3.11以前と以降で読み方が変わってくる。昔は文明論的に読み、今は現実的問題の所在を確認するために読んでいる……そんな違いだろうか。
高木氏の著作は『高木仁三郎著作集』(全12巻、七つ森書館)にまとめられているが、その膨大な業績をコンパクトにまとめた本が出た。
『高木仁三郎セレクション』(佐高信・中里英章編/岩波現代文庫)
初期論文から最晩年の手記までを一望できる一冊で、これを読んだだけでも、高木氏が考えていたことの輪郭をつかめる。そして、高木氏が3.11のフクシマを予見し警告していたこともよくわかる。
少壮科学者としてスタートした高木氏は、31歳で都立大学助教授に就任するが35歳で辞職し、「在野の科学者」という特異な立場での活動を続ける。そして62歳で大腸癌で亡くなる。
本書で興味深く感じたのは、大学を辞めるときに巻き起こった大学人による強烈な慰留の件りだ。高木氏が期待される優秀な人材だったということもあるだろうが、アカデミズムというムラ社会の家族意識の強さが伝わってくる印象的な逸話だ。
本書収録の最も古い文章は、『朝日ジャーナル 1970年4月26日号』掲載の『現代科学の超克をめざして --- 新しく科学を学ぶ諸君へ』という論文だ。
この文章を読んでいて、40年以上前の学生時代に『朝日ジャーナル』でこれを読んだことを思い出した。かすかな記憶が甦ってきて、なつかしく感じた。「<近代>の超克」「人間としてのトータリティの復権」などという言葉が出てくる。いまの私がこれらを「生硬ながら初々しい」などと評するのは傲慢だろう。その後の高木氏の思想が予見でき、現在においてもなお切実であろう課題を提示しようとした論文である。
本書には、癌に侵されて余命いくばくもないときの手記も掲載されていて、身につまされる。この手記に明示されているわけではないが、高木氏の生涯を見つめると、高木氏の発癌は若い研究者時代に多量の放射線を浴びたせいではないかと思われてくる。身を挺して原発の危険性を表現したようにも思えるし、キュリー夫人も連想する。
『高木仁三郎セレクション』読了後、続いて『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』(小林よしのり/小学館)を一気に読んだ。
久々に『ゴーマニズム宣言』を読んだ。本書の小林よしのり氏は「脱原発」を熱く主張し、原発推進の自称保守派を例によって激しく非難している。また、原発に対して中庸という立場はないと言い切っている。
小林よしのり氏はわかりやすさとわかりにくさを兼ね備えた不思議な人だが、本書の主張は明快で、私には概ね納得できる内容だ。本書は原発の脅威を誇張していると感じる人がいるかもしれないが、私はそうは思わない。小林氏は原発の危険性の本質を把握しているだけのだ。
例によって『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱原発論』にはいろいろな論客が登場する。この本を『高木仁三郎セレクション』読了直後に読んだ動機の一つは、高木仁三郎氏が出てくるかなと思ったからだ。しかし、出てこなかった。3.11の時点で故人だったのだから当然かもしれない。
だが、高木氏が予見し、敷衍した考えは本書にも反映さていると感じた。原発の危険性の本質を把握しているからだ。
総理大臣も3.11の震災直後に『日本沈没』を読んでいた ― 2012年08月09日
昨日(2012年8月8日)、菅直人前総理の記者会見(日本記者クラブ主催)に行った。
ナマの菅直人氏を見るのは2回目だ。最初に見たのは35年前の参議院選挙のときだ。有楽町街頭での選挙運動を目撃した。社会市民連合という小さな政党から立候補した菅直人氏は、ホウマツとまでは言えないものの当選の見込みの極めて低い候補者だった。当時30歳、それ以前から市川房江を応援する若者として多少の知名度はあった。
有楽町のスクランブル交差点でさわやかな笑顔を振りまきながら歩行者と握手している菅候補の印象は新鮮だった。従来の政治家とは異質の若々しい魅力を感じた。
その菅候補を私と一緒に目撃していた友人が「こいつは、何回か選挙をやっているうちに当選するぞ」とつぶやいた。それを半信半疑で聞いていた私は、目の前で笑顔を振りまいている青年が未来の総理大臣だとはまったく想像できなかった。
落選を繰り返していた菅直人氏が衆議院議員になるのはそれから3年後だ。
あれから35年、あの若者もオジサンになってしまったなあと思う。もちろん、他人事ではない。菅氏より2歳年下の私もジイサンになった。風貌がオジサンになり、さわやかさが失われるのは仕方ないが、前総理はきわめて元気に見えた。
今回の記者会見の発言で面白く感じたのは、3.11の後、小松左京の『日本沈没』を読んだというエピソードだ。私も震災の直後に『日本沈没』を再読した。あの小説は、総理大臣のために書かれたという一面もあり、総理こそが最適の読者だ。小松左京氏も本望だろう。
菅氏が『日本沈没』を読んだのは、震災直後の原発事故に「国家存亡の危機」を感じたからのようだ。震災直後の日々の心境についての発言は、それなりにナマナマしく興味深かった。
「よく、あれだけで止まったと思う。止めたと言いたいが、止まったという感じだ。紙一重を超えていれば、首都圏3000万人避難になると考えていた。」「ほとんど死が確実な現場に決死隊を派遣しなければならない決断を迫られる事態も想定したが、幸いそのような決断をすることはなかった。」「3000万人が避難して容易に戻れないという事態の経済へのダメージを考えると、原発再稼働を安易に求める経済人の認識に違和感がある」
この発言からもうかがえるように、菅氏はかなり明確に脱原発依存を進めるべきだと述べた。ただし、より具体的で説得的なシナリオが聞けたわけではない。
「脱原発」を唱える政治家は少なくなく、それぞれの立場はかなりバラバラなので、議論の真贋を見極めて評価するのは容易ではない。選挙で「脱原発」が争点になるかどうかも難しいだろう。票になると見れば、誰もがそれぞれのレベルでの「脱原発」を唱えるような気がする。
今回の菅氏の記者会見では、小沢一郎氏への言及も興味深かった。小沢氏が民主党を離れて発言しやすくなったのだろう、かなり明確にチクチクと批判していた。そのチクチクは主に次のような内容だ。
(1) 小沢氏は政治でなく政局を好む。1988年の金融国会で、自民党が丸飲みする代案を提示した私(当時の民主党代表)に対して小沢氏(当時の自由党代表)は「政局にしないなどというヤツとは組めない」と言った。
(2) 小沢氏は独断で民主党のマニュフェストを選挙向けに変更(消費税増の削除、子供手当の増額)した。それがマニュフェストの実現を難しくした要因でもある。
(3) 3.11後、脱原発路線を打ちだした私に対する「菅おろし」の背後には小沢氏と自民党の暗躍があったようだ。
こんなことを述べるのだから、前首相はまだまだ元気で野心満々のようだ。もちろん、政治家にとって野心は重要だ。35年前の笑顔がさわやかな青年も野心満々だった筈だが、その野心の量は現在も増えてこそあれ減ってはいないだろう。
ナマの菅直人氏を見るのは2回目だ。最初に見たのは35年前の参議院選挙のときだ。有楽町街頭での選挙運動を目撃した。社会市民連合という小さな政党から立候補した菅直人氏は、ホウマツとまでは言えないものの当選の見込みの極めて低い候補者だった。当時30歳、それ以前から市川房江を応援する若者として多少の知名度はあった。
有楽町のスクランブル交差点でさわやかな笑顔を振りまきながら歩行者と握手している菅候補の印象は新鮮だった。従来の政治家とは異質の若々しい魅力を感じた。
その菅候補を私と一緒に目撃していた友人が「こいつは、何回か選挙をやっているうちに当選するぞ」とつぶやいた。それを半信半疑で聞いていた私は、目の前で笑顔を振りまいている青年が未来の総理大臣だとはまったく想像できなかった。
落選を繰り返していた菅直人氏が衆議院議員になるのはそれから3年後だ。
あれから35年、あの若者もオジサンになってしまったなあと思う。もちろん、他人事ではない。菅氏より2歳年下の私もジイサンになった。風貌がオジサンになり、さわやかさが失われるのは仕方ないが、前総理はきわめて元気に見えた。
今回の記者会見の発言で面白く感じたのは、3.11の後、小松左京の『日本沈没』を読んだというエピソードだ。私も震災の直後に『日本沈没』を再読した。あの小説は、総理大臣のために書かれたという一面もあり、総理こそが最適の読者だ。小松左京氏も本望だろう。
菅氏が『日本沈没』を読んだのは、震災直後の原発事故に「国家存亡の危機」を感じたからのようだ。震災直後の日々の心境についての発言は、それなりにナマナマしく興味深かった。
「よく、あれだけで止まったと思う。止めたと言いたいが、止まったという感じだ。紙一重を超えていれば、首都圏3000万人避難になると考えていた。」「ほとんど死が確実な現場に決死隊を派遣しなければならない決断を迫られる事態も想定したが、幸いそのような決断をすることはなかった。」「3000万人が避難して容易に戻れないという事態の経済へのダメージを考えると、原発再稼働を安易に求める経済人の認識に違和感がある」
この発言からもうかがえるように、菅氏はかなり明確に脱原発依存を進めるべきだと述べた。ただし、より具体的で説得的なシナリオが聞けたわけではない。
「脱原発」を唱える政治家は少なくなく、それぞれの立場はかなりバラバラなので、議論の真贋を見極めて評価するのは容易ではない。選挙で「脱原発」が争点になるかどうかも難しいだろう。票になると見れば、誰もがそれぞれのレベルでの「脱原発」を唱えるような気がする。
今回の菅氏の記者会見では、小沢一郎氏への言及も興味深かった。小沢氏が民主党を離れて発言しやすくなったのだろう、かなり明確にチクチクと批判していた。そのチクチクは主に次のような内容だ。
(1) 小沢氏は政治でなく政局を好む。1988年の金融国会で、自民党が丸飲みする代案を提示した私(当時の民主党代表)に対して小沢氏(当時の自由党代表)は「政局にしないなどというヤツとは組めない」と言った。
(2) 小沢氏は独断で民主党のマニュフェストを選挙向けに変更(消費税増の削除、子供手当の増額)した。それがマニュフェストの実現を難しくした要因でもある。
(3) 3.11後、脱原発路線を打ちだした私に対する「菅おろし」の背後には小沢氏と自民党の暗躍があったようだ。
こんなことを述べるのだから、前首相はまだまだ元気で野心満々のようだ。もちろん、政治家にとって野心は重要だ。35年前の笑顔がさわやかな青年も野心満々だった筈だが、その野心の量は現在も増えてこそあれ減ってはいないだろう。
脱原発は文明論である ― 2011年09月21日
『福島の原発事故をめぐって:いくつか学び考えたこと』(山本義隆/みすず書房/2011.8.25)
『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(宮台真司・飯田哲也/講談社現代新書/2011.6.20)
◎元・東大全共闘代表の著作
書店の店頭で『福島の原発事故をめぐって』が目に止まった。かつての全共闘運動のシンボルでもあった東大全共闘代表・山本義隆氏の著作だからだ。
予備校教師を続けている山本義隆氏が在野の研究者として物理学の本を多数執筆していることは知っていた。毎日出版文化賞や大仏次郎賞などを受賞した『磁力と重力の発見(全3巻)』は数年前に読んだ。しかし、本書を目にしたとき、意外な感じがした。時事的・社会的テーマの本に思えたからだ。
山本氏の身の処し方は、ある意味でストイックである。著作は物理学や物理学思想に関するものだけで、全共闘運動や自身に関しては何も語らず、外国旅行もしていない。そんな彼が社会へのメッセージ性のある本を公にするのは『知性の叛乱』(1969.6.15/前衛社)以来ではなかろうか。
そんな思いが脳裏をよぎり本書を購入した。薄い本なので一気に読了できた。タイトルの通り、福島の原発事故について考察し、かなり根源的に脱原発を説いた内容だった。
本書を読んだのをきっかけに、脱原発の根拠について少し勉強してみようと思い、『原発社会からの離脱』も読んだ。
◎私の考え
私自身は、3.11以降、原発は止めるべきだと考えている。無毒化に何万年もかかる放射性廃棄物を作りだしてしまうという致命的な欠陥があるからだ。
かつて、地球上には放射性物質が大量に存在していた。その放射性物質が長い時間をかけて崩壊し、放射線を出さない安定した物質になった。そして、地球上に多様な生物が発生したと考えられている。
核分裂によってエネルギーを取りだすという技術は、現在の地救上から消滅した放射性物質を生成してしまう。この技術には、世界を生命発生以前の環境に変えてしまう危険性がある。対処不能な本質的に危険な技術だと思う。
そんな考えを前提にこの二つの本を読んだ。
◎壮大で明快な論旨
『福島の原発事故をめぐって』は薄い本だが論旨は壮大で明快だ。3つの章に分かれている。
最初の章では、日本における原発開発の源流に「核兵器開発の潜在力を維持したい」という国策があったと指摘している。原子力の平和利用が国策であったのは間違いないが、その背景に外交政策・安全保障政策があったと考えるのは自然だと思える。
第2の章では、原子核物理学という理論から原子核工学という技術に至る距離の大きさを述べ、放射性廃棄物を生成する原発は未完成の技術だと指摘している。当然の指摘だ。
第1と第2の章は、原発批判の典型となる考察である。本書でユニークなのは「科学技術幻想とその破綻」というタイトルの第3の章である。この章で著者の真骨頂が発揮されている。
福島原発事故を考察する科学史家・山本義隆氏の視野は16世紀文化革命・17世紀科学革命にまで遡る。そして、次のように科学技術幻想を断罪する。
「福島原発の大事故は、自然に対して人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長、そして科学技術は万能という19世紀の幻想を打ち砕いた」
原発事故の淵源をガリレオやデカルトから出発した科学思想に求めるというのは、壮大で根源的な文明論的反省である。かつて、全共闘運動が「近代合理主義という強固な壁」を乗り越えようと苦闘した(と私は思う)ことを想起した。
◎元・原子力ムラ住人の興味深い考察と提言
『福島の原発事故をめぐって』がアウトサイダーの学究が書斎で考察した静かな書だとするなら、『原発社会からの離脱』は政治経済や社会現象の現場に近い研究者二人が縦横無尽にしゃべり合ったにぎやか書である。
おしゃべりな社会学者・宮台真司氏主導の本かなと思ったが、飯田哲也氏の主張や解説が中心の内容だった。宮台氏は聞き役兼コメンテータという役所だ。この二人は1959年生まれの同世代だそうだ。山本義隆氏より18歳若い。
原発の技術的非合理性、社会的非合理性を論じた対談だが、自然エネルギーへのシフトが強調されている。
本書には「知識社会」という言葉が頻出する。それはヨーロッパにはあるが日本では形成されていないものだそうだ。一言で言うと「ヨーロッパは進んでいる。日本は遅れている。」という内容である。北欧やドイツの紹介はあるが、原発国・フランスへの言及はない。本当のところはよくわからないが、著者たちのような見方もありうるだろうなという気はしてくる。
山本義隆氏は原発開発の源流に核兵器開発の潜在力維持の考えがあったとしているが、宮台氏は「核武装うんぬんは政治オンチの戯言」と述べている。脱原発思想から左翼的硬直性を排除したいという考えだろう。眺めている時間の違いもありそうだ。
また、二人とも地球温暖化懐疑論を非知的な考えとして退けている。反原発の広瀬隆氏との大きな違いだ。私は、地球温暖化論は原発推進のための陰謀だとまでは思わないが、電力会社が原発推進のために温暖化論を政治的に利用したのは確かだと思う。原発と温暖化論は検証すべきテーマの一つだ。
飯田哲也氏は3.11以降テレビでよく見るが、本書によって経歴などを初めて知り、興味深い人物だと思った。原子核工学を専攻し、神戸製鋼で原発関連の仕事に従事し、電力中央研究所でIAEA関連の業務に携わっていたそうだ。いわゆる「原子力ムラ」出身者で、現在は環境エネルギー政策研究所所長である。かなり幅の広い人物のようだ。
本書で面白いのは、飯田氏の語る原子力ムラや日本の官僚たちの生々しい実態である。確かに、何とかしなければ日本はダメになると思えてくる。
本書は、原発推進の社会を形成してきた日本の官僚制や政治経済などの問題点を指摘するだけでなく、それを打開する方策も述べている。打開策実施のキーワードは経済合理性の導入である。
と書くと、かなり現実的な提言の書のように思えるが、必ずしもそうとは言い切れない。社会が変わるには、それを構成する一人ひとりの意識が変わらなければならいという点も指摘されていて、かなり文明論的でもある。
そこに、山本義隆氏の考察と通底するものを感じた。
『原発社会からの離脱:自然エネルギーと共同体自治に向けて』(宮台真司・飯田哲也/講談社現代新書/2011.6.20)
◎元・東大全共闘代表の著作
書店の店頭で『福島の原発事故をめぐって』が目に止まった。かつての全共闘運動のシンボルでもあった東大全共闘代表・山本義隆氏の著作だからだ。
予備校教師を続けている山本義隆氏が在野の研究者として物理学の本を多数執筆していることは知っていた。毎日出版文化賞や大仏次郎賞などを受賞した『磁力と重力の発見(全3巻)』は数年前に読んだ。しかし、本書を目にしたとき、意外な感じがした。時事的・社会的テーマの本に思えたからだ。
山本氏の身の処し方は、ある意味でストイックである。著作は物理学や物理学思想に関するものだけで、全共闘運動や自身に関しては何も語らず、外国旅行もしていない。そんな彼が社会へのメッセージ性のある本を公にするのは『知性の叛乱』(1969.6.15/前衛社)以来ではなかろうか。
そんな思いが脳裏をよぎり本書を購入した。薄い本なので一気に読了できた。タイトルの通り、福島の原発事故について考察し、かなり根源的に脱原発を説いた内容だった。
本書を読んだのをきっかけに、脱原発の根拠について少し勉強してみようと思い、『原発社会からの離脱』も読んだ。
◎私の考え
私自身は、3.11以降、原発は止めるべきだと考えている。無毒化に何万年もかかる放射性廃棄物を作りだしてしまうという致命的な欠陥があるからだ。
かつて、地球上には放射性物質が大量に存在していた。その放射性物質が長い時間をかけて崩壊し、放射線を出さない安定した物質になった。そして、地球上に多様な生物が発生したと考えられている。
核分裂によってエネルギーを取りだすという技術は、現在の地救上から消滅した放射性物質を生成してしまう。この技術には、世界を生命発生以前の環境に変えてしまう危険性がある。対処不能な本質的に危険な技術だと思う。
そんな考えを前提にこの二つの本を読んだ。
◎壮大で明快な論旨
『福島の原発事故をめぐって』は薄い本だが論旨は壮大で明快だ。3つの章に分かれている。
最初の章では、日本における原発開発の源流に「核兵器開発の潜在力を維持したい」という国策があったと指摘している。原子力の平和利用が国策であったのは間違いないが、その背景に外交政策・安全保障政策があったと考えるのは自然だと思える。
第2の章では、原子核物理学という理論から原子核工学という技術に至る距離の大きさを述べ、放射性廃棄物を生成する原発は未完成の技術だと指摘している。当然の指摘だ。
第1と第2の章は、原発批判の典型となる考察である。本書でユニークなのは「科学技術幻想とその破綻」というタイトルの第3の章である。この章で著者の真骨頂が発揮されている。
福島原発事故を考察する科学史家・山本義隆氏の視野は16世紀文化革命・17世紀科学革命にまで遡る。そして、次のように科学技術幻想を断罪する。
「福島原発の大事故は、自然に対して人間が上位に立ったというガリレオやベーコンやデカルトの増長、そして科学技術は万能という19世紀の幻想を打ち砕いた」
原発事故の淵源をガリレオやデカルトから出発した科学思想に求めるというのは、壮大で根源的な文明論的反省である。かつて、全共闘運動が「近代合理主義という強固な壁」を乗り越えようと苦闘した(と私は思う)ことを想起した。
◎元・原子力ムラ住人の興味深い考察と提言
『福島の原発事故をめぐって』がアウトサイダーの学究が書斎で考察した静かな書だとするなら、『原発社会からの離脱』は政治経済や社会現象の現場に近い研究者二人が縦横無尽にしゃべり合ったにぎやか書である。
おしゃべりな社会学者・宮台真司氏主導の本かなと思ったが、飯田哲也氏の主張や解説が中心の内容だった。宮台氏は聞き役兼コメンテータという役所だ。この二人は1959年生まれの同世代だそうだ。山本義隆氏より18歳若い。
原発の技術的非合理性、社会的非合理性を論じた対談だが、自然エネルギーへのシフトが強調されている。
本書には「知識社会」という言葉が頻出する。それはヨーロッパにはあるが日本では形成されていないものだそうだ。一言で言うと「ヨーロッパは進んでいる。日本は遅れている。」という内容である。北欧やドイツの紹介はあるが、原発国・フランスへの言及はない。本当のところはよくわからないが、著者たちのような見方もありうるだろうなという気はしてくる。
山本義隆氏は原発開発の源流に核兵器開発の潜在力維持の考えがあったとしているが、宮台氏は「核武装うんぬんは政治オンチの戯言」と述べている。脱原発思想から左翼的硬直性を排除したいという考えだろう。眺めている時間の違いもありそうだ。
また、二人とも地球温暖化懐疑論を非知的な考えとして退けている。反原発の広瀬隆氏との大きな違いだ。私は、地球温暖化論は原発推進のための陰謀だとまでは思わないが、電力会社が原発推進のために温暖化論を政治的に利用したのは確かだと思う。原発と温暖化論は検証すべきテーマの一つだ。
飯田哲也氏は3.11以降テレビでよく見るが、本書によって経歴などを初めて知り、興味深い人物だと思った。原子核工学を専攻し、神戸製鋼で原発関連の仕事に従事し、電力中央研究所でIAEA関連の業務に携わっていたそうだ。いわゆる「原子力ムラ」出身者で、現在は環境エネルギー政策研究所所長である。かなり幅の広い人物のようだ。
本書で面白いのは、飯田氏の語る原子力ムラや日本の官僚たちの生々しい実態である。確かに、何とかしなければ日本はダメになると思えてくる。
本書は、原発推進の社会を形成してきた日本の官僚制や政治経済などの問題点を指摘するだけでなく、それを打開する方策も述べている。打開策実施のキーワードは経済合理性の導入である。
と書くと、かなり現実的な提言の書のように思えるが、必ずしもそうとは言い切れない。社会が変わるには、それを構成する一人ひとりの意識が変わらなければならいという点も指摘されていて、かなり文明論的でもある。
そこに、山本義隆氏の考察と通底するものを感じた。
新聞週間の標語『新聞は世界平和の原子力』の記事かと思った ― 2011年06月09日
本日(2011年6月9日)の朝日新聞夕刊に「原発標語24年後の悔い」という見出しの記事が載っていた。
見出しを見た瞬間、新聞週間の標語の反省記事かと思った。しかし、そんな記事ではなかった。
24年前、福島県双葉町の標語コンクールで入選した『原子力明るい未来のエネルギー』という標語の作者に関する記事だった。当時、小学校6年生だった作者は現在35歳になり、避難生活を送っているそうだ。標語は、現在も双葉町の商店街に掲げられていて、作者は双葉町民に「うしろめたい気持ち」も感じる、と記事にある。
それほど面白い記事ではない。小学生時代に作った標語で「うしろめたい気持ち」になる必要はないし、もっと「うしろめたい」人はいくらでもいる筈だ。そういう人をドンドン取り上げるべきなのだ。そんな人はなかなか取材には口を開かないだろうが。
こんな標語を記事にするなら、1955年の新聞週間の標語『新聞は世界平和の原子力』を取り上げる方がよほど意義がある。
『新聞は世界平和の原子力』は新聞業界が選んだ標語だ。当時、原子力の平和利用=原子力発電を推進する旗振り役が新聞をはじめとするマスメディアだったのは間違いない。
私は、この標語を『科学記者』(柴田鉄治/岩波新書)という本で知ったが、最近、テレビの報道番組でも取り上げられたらしい。「鉄腕アトム」だって原子力の平和利用だし、私も子供の頃は原子力の平和利用に夢を感じていた。そのような風潮には何らかの根拠があった筈だ。うしろめたい気持で振り返る必要はないが、原発推進の歴史の淵源と展開を、より深く検討する必要はある。
現在、原子力発電の検証がメディアの大きな役割であることは間違いない。検証にあたっては、メディア(広告業界も含む)の果たしてきた役割もきちんと検証しなければならない。はたして、どこまでできるだろうか。
見出しを見た瞬間、新聞週間の標語の反省記事かと思った。しかし、そんな記事ではなかった。
24年前、福島県双葉町の標語コンクールで入選した『原子力明るい未来のエネルギー』という標語の作者に関する記事だった。当時、小学校6年生だった作者は現在35歳になり、避難生活を送っているそうだ。標語は、現在も双葉町の商店街に掲げられていて、作者は双葉町民に「うしろめたい気持ち」も感じる、と記事にある。
それほど面白い記事ではない。小学生時代に作った標語で「うしろめたい気持ち」になる必要はないし、もっと「うしろめたい」人はいくらでもいる筈だ。そういう人をドンドン取り上げるべきなのだ。そんな人はなかなか取材には口を開かないだろうが。
こんな標語を記事にするなら、1955年の新聞週間の標語『新聞は世界平和の原子力』を取り上げる方がよほど意義がある。
『新聞は世界平和の原子力』は新聞業界が選んだ標語だ。当時、原子力の平和利用=原子力発電を推進する旗振り役が新聞をはじめとするマスメディアだったのは間違いない。
私は、この標語を『科学記者』(柴田鉄治/岩波新書)という本で知ったが、最近、テレビの報道番組でも取り上げられたらしい。「鉄腕アトム」だって原子力の平和利用だし、私も子供の頃は原子力の平和利用に夢を感じていた。そのような風潮には何らかの根拠があった筈だ。うしろめたい気持で振り返る必要はないが、原発推進の歴史の淵源と展開を、より深く検討する必要はある。
現在、原子力発電の検証がメディアの大きな役割であることは間違いない。検証にあたっては、メディア(広告業界も含む)の果たしてきた役割もきちんと検証しなければならない。はたして、どこまでできるだろうか。
原発ルネッサンス謳歌本を書いた豊田有恒氏は高木仁三郎氏の同級生 ― 2011年04月24日
東日本大震災の半年前に出た広瀬隆氏の『原子炉時限爆弾』が、大地震による原発事故を警告したタイムリーな本だとすれば、東日本大震災の3カ月前に出た豊田有恒氏の『日本の原発技術が世界を変える』(祥伝社新書/2010.12.10)は、日本の原発は世界一安全と謳った、誠にタイミングの悪い本だと言える。
とは言え、『日本の原発技術が世界を変える』は書店の店頭に平積みになっている。大震災後の2011年4月25日に2刷が出ている。これから原発論議が活発になるであろうことを見越しての増刷だろう。昔、私はSFファンだったから、日本SF第一世代の豊田有恒氏の初期SF小説には親しんでいた。彼が原発をどうとらえているかに興味を持ったので、読んでみた。
本書は「日本の原発技術は世界最高レベルにある。安全性も世界一だ。この技術を広く世界に売り込もう」と主張している。福島原発の事故を体験したわれわれに、この主張がむなしく聞こえるのは仕方がない。しかし、本書は作家の手になるだけに、読みやすい。ある種の説得力もある。
豊田有恒氏は自分の立場を「無条件推進派ではなく、むしろ批判派、原発やむを得ず派」としている。恐らく、大震災後の現在も、この立場を変えていないと思われる。
著者は、原子力の平和利用を人類の技術進歩ととらえ、原発のかかえる放射性廃棄物などの課題は技術で克服できると考えている。そして、原発反対運動は、無知や誤解あるいは政治的思惑によるものとみなしている。
特にH.T氏(広瀬隆氏と思われる)については、「反対ありきで、センセーショナルに煽りたてる」「金儲けと言って悪ければ、巧妙手柄のため、反対をぶちあげる」と手厳しい。
で、この本を読んで、私が「原発やむなし」に説得されたかと言うと、残念ながら、そうではない。
私は、原発の根本的な問題は、無毒化するには何万年も要する放射線廃棄物を出し続ける点にあると考えている。豊田氏は、放射線廃棄物の処理方法の一つとして、素粒子加速器の利用をあげている。可能性はあるかもしれないが、あまりに大げさな方法であり、H.T氏ならずとも、たかがお湯を沸かすだけのために、そこまでコストをかけるのか、という気がしてくる。
本書で驚いたのは高木仁三郎氏への言及の箇所だ。豊田有恒氏は群馬大学付属中学時代、高木仁三郎氏と同級で親しい友人だったそうだ。そのせいか、豊田氏はH.T氏を口汚く罵る一方、高木氏には一目置き、プルトニウムの毒性に着目した信念の人だったと持ち上げている。しかし、それによって豊田氏の信念が変わったわけではなさそうだ。
本書読了後、『市民科学者として生きる』(高木仁三郎/岩波新書)を再読し、さらに『あなたもSF作家になれるわけではない』(豊田有恒/徳間文庫)も再読した。どちらも、著者の自伝的要素が強い読みやすい本なので、パラパラめくりながら、つい読み返してしまったのだ。
高木仁三郎氏と豊田有恒氏は、私の頭の中ではまったく異なる範疇の人物だった。両氏の初期の著作から読んでいたが、この両氏に接点を感じたことはなかった。
彼らは1938年生まれ、私より10歳年上だ。この二人が同級生だったことを知ったうえで二人の自伝的著作を読み返してみると、同世代の二人の人生が重なり合って見えてきて興味深かった。
高木氏は『市民科学者として生きる』の中で、群馬大学付属中学時代を、多くの友人にめぐまれた、のびのびした、夢のような日々であったと語っている。おそらく、豊田氏にとっても同じような日々だったのだろう。
この二人にはいくつかの共通点がある。二人とも開業医の息子で、その父は彼らが成人する前に亡くなっている。二人とも兄は医師になっているが、弟たちは別の道に進む。二人とも高校時代は受験勉強に集中し、東大(理系)に合格している。その後、二人ともある意味でのドロップアウトの人生を送っている。
原発への立場はまったく異なる二人だが、電力会社への不快感に多少の共通点がある。
高木氏は、電力会社の意を汲んだジャーナリストから「研究会を主宰してほしい。とりあえず3億円は用意する」と持ちかけられたことがあるそうだ。当時の3億円は現在の100億円に相当するインパクトがあったらしい。
原発の取材に熱心だった豊田氏は、電力会社から推進派と見なされ、これを書け、あれを書けと指示され、腹が立ったそうだ。
そんな二人の間に、成人後も何がしかの交流があったのかなかったのかは、これらの著作からは判然としない。
高木氏が存命で、ドロップアウト同士の同級生の二人が虚心坦懐に対話すればどんな展開になるだろうかと夢想してみた。しかし、原発問題はそんなことで論議が深まるほど生易しいものではなさそうだ。信念のぶつけあいに終わらせず、叡智を作り上げていくにはどうすればいいのか。
とは言え、『日本の原発技術が世界を変える』は書店の店頭に平積みになっている。大震災後の2011年4月25日に2刷が出ている。これから原発論議が活発になるであろうことを見越しての増刷だろう。昔、私はSFファンだったから、日本SF第一世代の豊田有恒氏の初期SF小説には親しんでいた。彼が原発をどうとらえているかに興味を持ったので、読んでみた。
本書は「日本の原発技術は世界最高レベルにある。安全性も世界一だ。この技術を広く世界に売り込もう」と主張している。福島原発の事故を体験したわれわれに、この主張がむなしく聞こえるのは仕方がない。しかし、本書は作家の手になるだけに、読みやすい。ある種の説得力もある。
豊田有恒氏は自分の立場を「無条件推進派ではなく、むしろ批判派、原発やむを得ず派」としている。恐らく、大震災後の現在も、この立場を変えていないと思われる。
著者は、原子力の平和利用を人類の技術進歩ととらえ、原発のかかえる放射性廃棄物などの課題は技術で克服できると考えている。そして、原発反対運動は、無知や誤解あるいは政治的思惑によるものとみなしている。
特にH.T氏(広瀬隆氏と思われる)については、「反対ありきで、センセーショナルに煽りたてる」「金儲けと言って悪ければ、巧妙手柄のため、反対をぶちあげる」と手厳しい。
で、この本を読んで、私が「原発やむなし」に説得されたかと言うと、残念ながら、そうではない。
私は、原発の根本的な問題は、無毒化するには何万年も要する放射線廃棄物を出し続ける点にあると考えている。豊田氏は、放射線廃棄物の処理方法の一つとして、素粒子加速器の利用をあげている。可能性はあるかもしれないが、あまりに大げさな方法であり、H.T氏ならずとも、たかがお湯を沸かすだけのために、そこまでコストをかけるのか、という気がしてくる。
本書で驚いたのは高木仁三郎氏への言及の箇所だ。豊田有恒氏は群馬大学付属中学時代、高木仁三郎氏と同級で親しい友人だったそうだ。そのせいか、豊田氏はH.T氏を口汚く罵る一方、高木氏には一目置き、プルトニウムの毒性に着目した信念の人だったと持ち上げている。しかし、それによって豊田氏の信念が変わったわけではなさそうだ。
本書読了後、『市民科学者として生きる』(高木仁三郎/岩波新書)を再読し、さらに『あなたもSF作家になれるわけではない』(豊田有恒/徳間文庫)も再読した。どちらも、著者の自伝的要素が強い読みやすい本なので、パラパラめくりながら、つい読み返してしまったのだ。
高木仁三郎氏と豊田有恒氏は、私の頭の中ではまったく異なる範疇の人物だった。両氏の初期の著作から読んでいたが、この両氏に接点を感じたことはなかった。
彼らは1938年生まれ、私より10歳年上だ。この二人が同級生だったことを知ったうえで二人の自伝的著作を読み返してみると、同世代の二人の人生が重なり合って見えてきて興味深かった。
高木氏は『市民科学者として生きる』の中で、群馬大学付属中学時代を、多くの友人にめぐまれた、のびのびした、夢のような日々であったと語っている。おそらく、豊田氏にとっても同じような日々だったのだろう。
この二人にはいくつかの共通点がある。二人とも開業医の息子で、その父は彼らが成人する前に亡くなっている。二人とも兄は医師になっているが、弟たちは別の道に進む。二人とも高校時代は受験勉強に集中し、東大(理系)に合格している。その後、二人ともある意味でのドロップアウトの人生を送っている。
原発への立場はまったく異なる二人だが、電力会社への不快感に多少の共通点がある。
高木氏は、電力会社の意を汲んだジャーナリストから「研究会を主宰してほしい。とりあえず3億円は用意する」と持ちかけられたことがあるそうだ。当時の3億円は現在の100億円に相当するインパクトがあったらしい。
原発の取材に熱心だった豊田氏は、電力会社から推進派と見なされ、これを書け、あれを書けと指示され、腹が立ったそうだ。
そんな二人の間に、成人後も何がしかの交流があったのかなかったのかは、これらの著作からは判然としない。
高木氏が存命で、ドロップアウト同士の同級生の二人が虚心坦懐に対話すればどんな展開になるだろうかと夢想してみた。しかし、原発問題はそんなことで論議が深まるほど生易しいものではなさそうだ。信念のぶつけあいに終わらせず、叡智を作り上げていくにはどうすればいいのか。
大地震による原発事故を警告した『原子炉時限爆弾』 ― 2011年04月21日
『原子炉時限爆弾:大地震におびえる日本列島』(広瀬隆/ダイヤモンド社/2010.8.26)を近所の書店で見つけたのは、東日本大震災の数日後だった。大地震による原発事故を警告したタイムリーな本である。今回の震災後に書かれたものではない。奥付を見ると発行日は2010年8月26日、約半年前に出ている。早速購入して一気に読んだ。約1カ月前のことだ。
本書を読むと、多くの人が気が滅入ってくるか、恐怖にかりたてられるだろう。
日本の原発はすべて地震の危険地帯に建てられていて、ひとたび大地震が発生すると、取り返しのつかない悲劇が起こる、という内容の本だ。特に危ない浜岡原発は即刻停止すべきだと強く主張し、電力会社にそれを「懇願」している。
広瀬隆氏は反原発の本をたくさん書いてきた人だ。このような著作を、いたずらに恐怖心を煽るアヤシイ本と捉える人もいるだろう。私は、本書で広瀬氏が述べている事実関係に大きな間違いはないだろうと思えた。したがって、広瀬氏の主張にも違和感はない。もちろん、「想定外」という言葉が繰り返された今回の大事故を経験したゆえに、そんな感想になるのだ。
本書であらためて知ったのは、原発の立地は必ずしも最近の地震学の知見に基づいているわけではないということだ。
「プレートテクトニクス」に基づく地震発生のメカニズムの解説は今回の地震でも何度も聞かされた。私たちは、プレートテクトニクスを常識のように思っているが、この学説が確立したのは1960年代後半で、そんなに昔のことではない。
日本の大半の原発の建設場所が決まったのはプレートテクトニクス学説が確立する前であり、原発の立地は地震に強い場所を選定したわけだはない、という本書の指摘には慄然とする。とどのつまり、いたる所に活断層がある日本には原発の立地はない、ということになる。
それはともかく、『原子炉時限爆弾』を読了したとき、私が感じたのは、この大震災を機に、この本は大増刷され、注目を集めるに違いない、ということだった。
その後、本屋の店頭を見ると、確かに増刷されている。3月30日に2刷、4月5日に3刷が出て、近所の本屋でも平積みになっている。
私がいぶかしく感じたのは、この本の新聞広告を目にしないことだ。朝日新聞と日経新聞を購読しているが、私が見落としていないとすれば、ダイヤモンド社は本書を新聞で広告していないようだ。
「大地震による原発事故を予見」とでも宣伝すれば売れそうに思える。本書があまりにセンセーショナルなので、恐怖心を煽らないように本書の広告を「自粛」しているのかもしれない。
最近は新聞広告の効果が落ちていると言われているので、広告しなくても売れるだろうと判断して広告しないだけかもしれないが。
本書を読むと、多くの人が気が滅入ってくるか、恐怖にかりたてられるだろう。
日本の原発はすべて地震の危険地帯に建てられていて、ひとたび大地震が発生すると、取り返しのつかない悲劇が起こる、という内容の本だ。特に危ない浜岡原発は即刻停止すべきだと強く主張し、電力会社にそれを「懇願」している。
広瀬隆氏は反原発の本をたくさん書いてきた人だ。このような著作を、いたずらに恐怖心を煽るアヤシイ本と捉える人もいるだろう。私は、本書で広瀬氏が述べている事実関係に大きな間違いはないだろうと思えた。したがって、広瀬氏の主張にも違和感はない。もちろん、「想定外」という言葉が繰り返された今回の大事故を経験したゆえに、そんな感想になるのだ。
本書であらためて知ったのは、原発の立地は必ずしも最近の地震学の知見に基づいているわけではないということだ。
「プレートテクトニクス」に基づく地震発生のメカニズムの解説は今回の地震でも何度も聞かされた。私たちは、プレートテクトニクスを常識のように思っているが、この学説が確立したのは1960年代後半で、そんなに昔のことではない。
日本の大半の原発の建設場所が決まったのはプレートテクトニクス学説が確立する前であり、原発の立地は地震に強い場所を選定したわけだはない、という本書の指摘には慄然とする。とどのつまり、いたる所に活断層がある日本には原発の立地はない、ということになる。
それはともかく、『原子炉時限爆弾』を読了したとき、私が感じたのは、この大震災を機に、この本は大増刷され、注目を集めるに違いない、ということだった。
その後、本屋の店頭を見ると、確かに増刷されている。3月30日に2刷、4月5日に3刷が出て、近所の本屋でも平積みになっている。
私がいぶかしく感じたのは、この本の新聞広告を目にしないことだ。朝日新聞と日経新聞を購読しているが、私が見落としていないとすれば、ダイヤモンド社は本書を新聞で広告していないようだ。
「大地震による原発事故を予見」とでも宣伝すれば売れそうに思える。本書があまりにセンセーショナルなので、恐怖心を煽らないように本書の広告を「自粛」しているのかもしれない。
最近は新聞広告の効果が落ちていると言われているので、広告しなくても売れるだろうと判断して広告しないだけかもしれないが。
原発、「イエス・バット」か「ノー」か(「天声人語」を読んで) ― 2011年03月30日
今回の福島第一原発事故に際して、あらためて原発について自分自身の考えを明確にしなければならないと思う。
かつて、私は「反原発」が正しいと考えていた。その後、いつの頃から「イエス・バット」になっていった。
「ノー」から「イエス・バット」に移行したのは、年を取るに従い現状追認の保守的な考えになってきたからかもしれない。「反原発」にラダタイト的な匂いを感じ、科学技術は不可逆的に「進歩」し続けるしかないのだとも考えた。われわれは電気なしの世界に戻れないし、人類はE=MC2のエネルギーを無視できる筈がないとも思った。
もちろん、放射線廃棄物の問題は認識していたが、それも人類が克服しなければならない課題の一つのように思えた。この世に百パーセントの安全はあり得ず、何事にもリスクはあり、要はリスク管理の問題だと思えた。
とは言っても、さほど突き詰めて考えていたわけではない。何も考えていなかったという方が正しい。そして、今回の事故に際して、やはり原発に対しては「ノー」であるべきだと考えるようになった。
われながら、定見のない、軟弱な日和見的態度だと思う。
で、本日(2011年3月30日)の朝日新聞の天声人語を読んで、何とも釈然としない気分になった。今回の事故は東電の想定が間違っていた、という東電批判の内容だ。次のような文もある。
〔多くの学者が国策になびく中、脱原発を貫いた高木仁三郎氏がご健在ならと思う〕〔電力会社は論敵(高木氏)の視座から出直すしかない。「最悪」を免れ、原発という科学が残ればの話だが。〕」
東電批判は当然だが、私が釈然としないのは、このコラムが「国策になびく学者」「電力会社」を論難しながら、新聞自身を棚上げして他人事の問題にしている点だ。「国策になびく学者」以上に新聞も「原子力の平和利用」になびいてきたのではなかろうか。出し遅れの証文か免罪符のように高木仁三郎氏の名が出てくるのもひっかかる。彼は地震や津波による原発事故を警告したのではなく、現在の科学技術では人間は原子炉を制御できないとして、ラディカルに原発を否定したのだ。
新聞社の世論調査では原発推進への反対が賛成を上回っている。しかし、朝日新聞の原発に対する論調は「ノー」ではなく「イエス・バット」である。そもそも日本の原子力開発(平和利用)を引っ張ったのは新聞であり、その初期段階で二人の新聞人(読売新聞の正力松太郎氏と朝日新聞の田中慎次郎氏)が大きな役割を果たしている。
このへんの事情は『科学事件』(柴田鉄治/岩波新書/2000.3)の第4章に詳しい。著者の柴田鉄治氏は朝日新聞の科学部長や論説委員を歴任した誠実な言論人である。柴田氏は本書で次のように述べている。
〔バットの部分に多少の差はあっても、どの新聞の論調も「イエス・バット」だといって過言ではない。朝日新聞はそのなかで最もバットの部分が大きいとはいえるが、けっして「ノー」ではない。〕
東電の想定が間違っていたのは確かだが、報道機関がそれをあらかじめ指摘できなかったとすれば、大きい筈の「バット」の重要な部分を把握できてなかったということである。つまり、新聞が自らの役割を果たせなかったことになる。
本日の「天声人語」はそのような視点が欠けた、安全地帯からの言説である。しかも、なしくずし的・気分的に「イエス・バット」から「ノー」に移行しようとしているようにも見える。「ノー」に転換するなら、そのことを明示すべきだろう。
高木仁三郎氏が健在なら、このようなメディアの状況をどう見ただろうか。若い頃に高木仁三郎氏から影響を受けながら、何となく「イエス・バット」になった私自身、忸怩たる思いである。
かつて、私は「反原発」が正しいと考えていた。その後、いつの頃から「イエス・バット」になっていった。
「ノー」から「イエス・バット」に移行したのは、年を取るに従い現状追認の保守的な考えになってきたからかもしれない。「反原発」にラダタイト的な匂いを感じ、科学技術は不可逆的に「進歩」し続けるしかないのだとも考えた。われわれは電気なしの世界に戻れないし、人類はE=MC2のエネルギーを無視できる筈がないとも思った。
もちろん、放射線廃棄物の問題は認識していたが、それも人類が克服しなければならない課題の一つのように思えた。この世に百パーセントの安全はあり得ず、何事にもリスクはあり、要はリスク管理の問題だと思えた。
とは言っても、さほど突き詰めて考えていたわけではない。何も考えていなかったという方が正しい。そして、今回の事故に際して、やはり原発に対しては「ノー」であるべきだと考えるようになった。
われながら、定見のない、軟弱な日和見的態度だと思う。
で、本日(2011年3月30日)の朝日新聞の天声人語を読んで、何とも釈然としない気分になった。今回の事故は東電の想定が間違っていた、という東電批判の内容だ。次のような文もある。
〔多くの学者が国策になびく中、脱原発を貫いた高木仁三郎氏がご健在ならと思う〕〔電力会社は論敵(高木氏)の視座から出直すしかない。「最悪」を免れ、原発という科学が残ればの話だが。〕」
東電批判は当然だが、私が釈然としないのは、このコラムが「国策になびく学者」「電力会社」を論難しながら、新聞自身を棚上げして他人事の問題にしている点だ。「国策になびく学者」以上に新聞も「原子力の平和利用」になびいてきたのではなかろうか。出し遅れの証文か免罪符のように高木仁三郎氏の名が出てくるのもひっかかる。彼は地震や津波による原発事故を警告したのではなく、現在の科学技術では人間は原子炉を制御できないとして、ラディカルに原発を否定したのだ。
新聞社の世論調査では原発推進への反対が賛成を上回っている。しかし、朝日新聞の原発に対する論調は「ノー」ではなく「イエス・バット」である。そもそも日本の原子力開発(平和利用)を引っ張ったのは新聞であり、その初期段階で二人の新聞人(読売新聞の正力松太郎氏と朝日新聞の田中慎次郎氏)が大きな役割を果たしている。
このへんの事情は『科学事件』(柴田鉄治/岩波新書/2000.3)の第4章に詳しい。著者の柴田鉄治氏は朝日新聞の科学部長や論説委員を歴任した誠実な言論人である。柴田氏は本書で次のように述べている。
〔バットの部分に多少の差はあっても、どの新聞の論調も「イエス・バット」だといって過言ではない。朝日新聞はそのなかで最もバットの部分が大きいとはいえるが、けっして「ノー」ではない。〕
東電の想定が間違っていたのは確かだが、報道機関がそれをあらかじめ指摘できなかったとすれば、大きい筈の「バット」の重要な部分を把握できてなかったということである。つまり、新聞が自らの役割を果たせなかったことになる。
本日の「天声人語」はそのような視点が欠けた、安全地帯からの言説である。しかも、なしくずし的・気分的に「イエス・バット」から「ノー」に移行しようとしているようにも見える。「ノー」に転換するなら、そのことを明示すべきだろう。
高木仁三郎氏が健在なら、このようなメディアの状況をどう見ただろうか。若い頃に高木仁三郎氏から影響を受けながら、何となく「イエス・バット」になった私自身、忸怩たる思いである。
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