『モンゴル帝国の興亡』(岡田英弘)は20世紀までの歴史 ― 2025年12月03日
20年以上前に出た次の新書を古書で入手して読んだ。
『モンゴル帝国の興亡』(岡田英弘/ちくま新書/2001.10)
岡田英弘(1931-2017)はユニークな歴史学者である。チンギス・ハーンが即位した1206年に世界史が始まったと説く『世界史の誕生』は刺激的な本だった。
人類共通の歴史である世界史は、ユーラシアの東西をつないだモンゴルに始まるという説に説得力がある。世界史におけるモンゴルの重要性を指摘した杉山正明(1952-2019)の言説に通じる。世代的に見て岡田英弘説を杉山正明が踏襲したのだろうか。
杉山正明には本書と同名の新書『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書/1996.5)がある。私は6年前にこの新書を読んだが、その内容の大半は失念している。モンゴル史を復習するため、いずれ再読と思っていたが、再読の前に同名の別の新書を読む方がよさそうに思え、本書を読んだのである。
この新書を読了し、頭の中はモヤモヤしている。長時間の歴史の圧縮記述が、すんなりとは頭に入って来なかった。チンギス・ハーンの時代からソ連崩壊後のモンゴル国(それ以前はモンゴル人民共和国)までの長い歴史の上澄みをなでただけ、という気分である。
私が何となくイメージできるモンゴル史は5代目ハーンのフビライまでだ。それ以降の歴史は霧の中だ。約250ページの本書の81ページでフビライが亡くなる(1294年)。私がついていけたのは、そのあたりまで。その後の三分の二強は、未知の固有名詞が頻出する約700年の詳細年表を読み上げるような読書だった。オイラト、北元(モンゴル)、後金(清)からジュンガルに至る氏族や部族の抗争がぼんやりと浮かぶ。
本書であらためて認識したのは、キリスト教ネストリウス派(景教)のモンゴルの地への浸透だ。431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は東方に活路を開いたのである。
また、バト率いるヨーロパ遠征(1236年~)にイングランドから逃れてきたイギリス人貴族の将校が参加していたとの話に驚いた。著者は次のように述べている。
「キリスト教世界の事情に通じているフランス派のこのイギリス人がモンゴル軍の先鋒部隊に加わって道案内をつとめていたところから見て、モンゴル軍の遠征の最終目的が、大西洋にまで達する西ヨーロッパ全体の征服であったことは疑いない。」
あのとき、オゴデイ死去の知らせが届いていなければ――などと夢想してしまう。
『モンゴル帝国の興亡』(岡田英弘/ちくま新書/2001.10)
岡田英弘(1931-2017)はユニークな歴史学者である。チンギス・ハーンが即位した1206年に世界史が始まったと説く『世界史の誕生』は刺激的な本だった。
人類共通の歴史である世界史は、ユーラシアの東西をつないだモンゴルに始まるという説に説得力がある。世界史におけるモンゴルの重要性を指摘した杉山正明(1952-2019)の言説に通じる。世代的に見て岡田英弘説を杉山正明が踏襲したのだろうか。
杉山正明には本書と同名の新書『モンゴル帝国の興亡』(講談社現代新書/1996.5)がある。私は6年前にこの新書を読んだが、その内容の大半は失念している。モンゴル史を復習するため、いずれ再読と思っていたが、再読の前に同名の別の新書を読む方がよさそうに思え、本書を読んだのである。
この新書を読了し、頭の中はモヤモヤしている。長時間の歴史の圧縮記述が、すんなりとは頭に入って来なかった。チンギス・ハーンの時代からソ連崩壊後のモンゴル国(それ以前はモンゴル人民共和国)までの長い歴史の上澄みをなでただけ、という気分である。
私が何となくイメージできるモンゴル史は5代目ハーンのフビライまでだ。それ以降の歴史は霧の中だ。約250ページの本書の81ページでフビライが亡くなる(1294年)。私がついていけたのは、そのあたりまで。その後の三分の二強は、未知の固有名詞が頻出する約700年の詳細年表を読み上げるような読書だった。オイラト、北元(モンゴル)、後金(清)からジュンガルに至る氏族や部族の抗争がぼんやりと浮かぶ。
本書であらためて認識したのは、キリスト教ネストリウス派(景教)のモンゴルの地への浸透だ。431年のエフェソス公会議で異端とされたネストリウス派は東方に活路を開いたのである。
また、バト率いるヨーロパ遠征(1236年~)にイングランドから逃れてきたイギリス人貴族の将校が参加していたとの話に驚いた。著者は次のように述べている。
「キリスト教世界の事情に通じているフランス派のこのイギリス人がモンゴル軍の先鋒部隊に加わって道案内をつとめていたところから見て、モンゴル軍の遠征の最終目的が、大西洋にまで達する西ヨーロッパ全体の征服であったことは疑いない。」
あのとき、オゴデイ死去の知らせが届いていなければ――などと夢想してしまう。
反戦地主の家族の世代交代を描いた『カタブイ、2025』 ― 2025年12月01日
紀伊國屋ホールで『カタブイ、2025』(脚本・演出:内藤裕子、出演:升毅、佐藤直子、馬渡亜樹、当銘由亮、古謝渚、宮城はるの、山下瑛英)を観た。沖縄の基地問題をテーマにした三部作(『カタブイ、1972』、『カタブイ、1995』、『カタブイ、2025』)の最終公演である。
私は昨年3月沖縄に行っていて、上演中の『カタブイ、1995』を那覇市のひめゆりホールで観た。そのとき、この芝居が三部作の2作目だと知った。その3作目が東京で上演されると知り、行きがかり上、観劇せねばという気になった。
脚本・演出の内藤裕子氏は埼玉出身で、沖縄の人ではない。プロデューサーからこの作品を依頼されたときは固辞したが説得され、調査や取材を重ねて芝居を完成させた。2022年上演の1作目『カタブイ、1972』はハヤカワ「悲劇喜劇」賞と鶴屋南北戯曲賞を受賞したそうだ。私は2作目と3作目しか観ていないが、よくできた芝居だと思う。押しつけがましいメッセージ性を抑え、沖縄の状況を多面的に浮かび上がらせている。
「カタブイ」は「片降い」と書く。本土から見た沖縄を「遠い土砂降り」と見なしたタイトルのようだ。沖縄の反戦地主の家族を描いた家族劇である。三部作はそれぞれ本土復帰直前の1972年、米兵少女暴行事件の1995年、現在の2025年が舞台である。第1作から第2作目までの時間経過が23年、第2作から第3作目までの時間経過が30年――世代交代していく家族の物語でもある。
1972年、東京の「杉浦君」という大学生がサトウキビ刈りの援農に来る。この学生は一家の同世代の娘にプロポーズしたがフラれたようだ(2作目、3作目から推測)。2作目ではこの学生が突然23年ぶりに家族を訪問し、3作目ではその30年後にまたも唐突に訪問する。この学生、私とほぼ同世代だから3作目では70代だ。70代になっても「杉浦君」のままである。
2作目も3作目もサトウキビ刈りが背景にある。3作目の茶の間のセットのカレンダーは2月で、途中から3月になる。ちょっと気になって調べてみると、サトウキビ収穫の最盛期は1月から3月だそうだ。この芝居は2025年2月から3月の話なのだ。
反戦地主の家族が世代交代していく姿は、時代とともに変化していく人々の思いと持続する志のせめぎあいであり、それを包み込むのが三線とカチャーシーの祝祭時空である。飲んで歌って踊れば問題が解消するわけではない。だが、カチャーシーが言葉でとらえることのできないな何かを探る祈りか呪文のように見えてくる。
私は昨年3月沖縄に行っていて、上演中の『カタブイ、1995』を那覇市のひめゆりホールで観た。そのとき、この芝居が三部作の2作目だと知った。その3作目が東京で上演されると知り、行きがかり上、観劇せねばという気になった。
脚本・演出の内藤裕子氏は埼玉出身で、沖縄の人ではない。プロデューサーからこの作品を依頼されたときは固辞したが説得され、調査や取材を重ねて芝居を完成させた。2022年上演の1作目『カタブイ、1972』はハヤカワ「悲劇喜劇」賞と鶴屋南北戯曲賞を受賞したそうだ。私は2作目と3作目しか観ていないが、よくできた芝居だと思う。押しつけがましいメッセージ性を抑え、沖縄の状況を多面的に浮かび上がらせている。
「カタブイ」は「片降い」と書く。本土から見た沖縄を「遠い土砂降り」と見なしたタイトルのようだ。沖縄の反戦地主の家族を描いた家族劇である。三部作はそれぞれ本土復帰直前の1972年、米兵少女暴行事件の1995年、現在の2025年が舞台である。第1作から第2作目までの時間経過が23年、第2作から第3作目までの時間経過が30年――世代交代していく家族の物語でもある。
1972年、東京の「杉浦君」という大学生がサトウキビ刈りの援農に来る。この学生は一家の同世代の娘にプロポーズしたがフラれたようだ(2作目、3作目から推測)。2作目ではこの学生が突然23年ぶりに家族を訪問し、3作目ではその30年後にまたも唐突に訪問する。この学生、私とほぼ同世代だから3作目では70代だ。70代になっても「杉浦君」のままである。
2作目も3作目もサトウキビ刈りが背景にある。3作目の茶の間のセットのカレンダーは2月で、途中から3月になる。ちょっと気になって調べてみると、サトウキビ収穫の最盛期は1月から3月だそうだ。この芝居は2025年2月から3月の話なのだ。
反戦地主の家族が世代交代していく姿は、時代とともに変化していく人々の思いと持続する志のせめぎあいであり、それを包み込むのが三線とカチャーシーの祝祭時空である。飲んで歌って踊れば問題が解消するわけではない。だが、カチャーシーが言葉でとらえることのできないな何かを探る祈りか呪文のように見えてくる。
観る前に読んだ『火星の女王』は物足りなかった ― 2025年11月28日
小川哲の新作SFを読んだ。
『火星の女王』(小川哲/早川書房/2025.10)
5年前この作家の『ゲームの王国』に圧倒されて以来、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』、『君が手にするはずだった黄金について』をどれも面白く読んだ。だが、書店の店頭に積まれている『火星の女王』を手にしたとき、露骨なSFタイトルに少し躊躇した。タイトルから連想するようなスペース・オペラではなく、近未来の火星と地球を舞台にしたリアルな物語のようだ。いずれ読むにしても後回しでいいやと思って平積み棚に戻した。
後日、この小説がNHKのTVドラマで年末に放映されると知った。ドラマを観てから読むより読んでから観る方がいいので、あわてて入手して読んだ。小説を映像化した作品の面白さが小説を超えることはあまりない。特にSF場合、ドラマや映画の映像を小説の「挿絵」のひとつとして楽しむのがいいと私は感じている。だから、映像を観る前に小説を読んでおくのがいい。「SFは絵だねぇ」という言葉もある。
『火星の女王』は面白いSFだったが、物足りなさを感じた。いままでどこかで読んだSFの寄せ集めのようにも思え、やや期待外れだった。
この小説を読み進めながら私が連想した小説は『さよならジュピター』(小松左京)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介)、『三体』(劉慈欣)、『ユートロニカのこちら側』(小川哲)などだ。と言っても、もちろん独自性はあり、100年後の世界の日常がリアルに感じられる。火星と地球との間の通信において発生する5分以上のタイムラグの描き方は巧みだ。このタイムラグは小説全体のテーマに関わっている。
この小説には、火星のコロニーを運営する会社のCEOであるルーク・マディソンという人物が登場する。地球でも指折りの大富豪だったが、ある日突然火星に移住してきた変わり者である。イーロン・マスクを連想させるようにも見えるが、よくわからない人物だ。私は最後までルークの人物像をイメージできなかった。それが不満である。私の読解力の問題もある。だが、ルーク・マディソンという奇妙な人物をより深く造型すれば、この小説はもっと面白くなったと思う。
『火星の女王』(小川哲/早川書房/2025.10)
5年前この作家の『ゲームの王国』に圧倒されて以来、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』、『君が手にするはずだった黄金について』をどれも面白く読んだ。だが、書店の店頭に積まれている『火星の女王』を手にしたとき、露骨なSFタイトルに少し躊躇した。タイトルから連想するようなスペース・オペラではなく、近未来の火星と地球を舞台にしたリアルな物語のようだ。いずれ読むにしても後回しでいいやと思って平積み棚に戻した。
後日、この小説がNHKのTVドラマで年末に放映されると知った。ドラマを観てから読むより読んでから観る方がいいので、あわてて入手して読んだ。小説を映像化した作品の面白さが小説を超えることはあまりない。特にSF場合、ドラマや映画の映像を小説の「挿絵」のひとつとして楽しむのがいいと私は感じている。だから、映像を観る前に小説を読んでおくのがいい。「SFは絵だねぇ」という言葉もある。
『火星の女王』は面白いSFだったが、物足りなさを感じた。いままでどこかで読んだSFの寄せ集めのようにも思え、やや期待外れだった。
この小説を読み進めながら私が連想した小説は『さよならジュピター』(小松左京)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介)、『三体』(劉慈欣)、『ユートロニカのこちら側』(小川哲)などだ。と言っても、もちろん独自性はあり、100年後の世界の日常がリアルに感じられる。火星と地球との間の通信において発生する5分以上のタイムラグの描き方は巧みだ。このタイムラグは小説全体のテーマに関わっている。
この小説には、火星のコロニーを運営する会社のCEOであるルーク・マディソンという人物が登場する。地球でも指折りの大富豪だったが、ある日突然火星に移住してきた変わり者である。イーロン・マスクを連想させるようにも見えるが、よくわからない人物だ。私は最後までルークの人物像をイメージできなかった。それが不満である。私の読解力の問題もある。だが、ルーク・マディソンという奇妙な人物をより深く造型すれば、この小説はもっと面白くなったと思う。
『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?』は難しかった ― 2025年11月25日
先日読んだ『進化論はいかに進化したか』(更科功)が面白く、もう少し進化論を勉強してみようと思い、昨年出た次の新書を読んだ。
『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?:進化の仕組みを基礎から学ぶ』(河田雅圭/光文社新書)
著者は東北大名誉教授の進化学者である。研究者の現場報告の趣がある『進化という迷宮』(千葉聡)には、本書の著者・河田雅圭氏の名が何度か登場する。
サブタイトルに「進化の仕組みを基礎から学ぶ」とあり、最新の研究成果をふまえた一般向きの解説書だろう思って読み始めた。読み進めるに従って頭がついて行けなくなった。分子遺伝学のゴチャゴチャした話が私には難しいのだ。大学の専門課程の講義のようにも感じられた。もちろん、大学の講義内容を私が知っているわけではないが…。
本書にはアレルという用語が頻出する。本書冒頭の用語解説には「ゲノム上の同じ位置にある、変異を構成する配列。DNAの1塩基の変異によるアレルはSNPアレル、同一遺伝子の複数のタイプの1つであるアレルは対立遺伝子である」とある。何のコッチャという気分になる。わかりにくい所を読み飛ばしつつ何とか読了した。
著者は生真面目な研究者だと思う。用語の意味を厳密に検討するし、さまざまな事例に基づいた推論を紹介したうえで「不確かだ」「今後の研究が期待される」と表現することも多い。研究者としては当然の姿勢だろうが、読者は森の中の迷路を彷徨っている気分にもなる。
本書は4章から成る。「第1章 進化とは何か」「第2章 変異・多様性とは何か」「第3章 自然選択とは何か」「第4章 種・大進化とは何か」という構成だ。各章末には簡潔な「まとめ」があり、迷路を抜けて「まとめ」に辿り着くとホッとする。この「まとめ」をあらかじめ読んだうえで、本文をじっくり時間をかけてパズルを解くように再読すれば、多少はわかった気分になるかもしれない。
各章末の「まとめ」から、私が興味深く思った事柄は以下の通りだ。
・遺伝的多様性は、集団や種を存続させるために、維持されているわけではない。
・「種を存続」させるように自然選択などの進化プロセスが作用することはない。
・ドーキンス流の利己的遺伝子の見方は進化のプロセスを正しく表していない。
・小進化の機構を理解することなく、大進化は説明できない。進化機構には、依然として未解明なことも多く、今後の研究が期待される。
著者は、今西進化論や福岡伸一の「動的平衡」には、サイエンスの立場から批判的である。次の指摘が興味深い。
「現在、今西進化論を信奉する進化学者はいない。しかし、細胞が入れ替わっても個体は維持されるという「動的平衡」の考えを種に当てはめ「種の保存こそが生命にとって最大の目的」とする福岡伸一氏の思想は、西田哲学や今西進化論が形を変えて継承されているといえる。」
『ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか?:進化の仕組みを基礎から学ぶ』(河田雅圭/光文社新書)
著者は東北大名誉教授の進化学者である。研究者の現場報告の趣がある『進化という迷宮』(千葉聡)には、本書の著者・河田雅圭氏の名が何度か登場する。
サブタイトルに「進化の仕組みを基礎から学ぶ」とあり、最新の研究成果をふまえた一般向きの解説書だろう思って読み始めた。読み進めるに従って頭がついて行けなくなった。分子遺伝学のゴチャゴチャした話が私には難しいのだ。大学の専門課程の講義のようにも感じられた。もちろん、大学の講義内容を私が知っているわけではないが…。
本書にはアレルという用語が頻出する。本書冒頭の用語解説には「ゲノム上の同じ位置にある、変異を構成する配列。DNAの1塩基の変異によるアレルはSNPアレル、同一遺伝子の複数のタイプの1つであるアレルは対立遺伝子である」とある。何のコッチャという気分になる。わかりにくい所を読み飛ばしつつ何とか読了した。
著者は生真面目な研究者だと思う。用語の意味を厳密に検討するし、さまざまな事例に基づいた推論を紹介したうえで「不確かだ」「今後の研究が期待される」と表現することも多い。研究者としては当然の姿勢だろうが、読者は森の中の迷路を彷徨っている気分にもなる。
本書は4章から成る。「第1章 進化とは何か」「第2章 変異・多様性とは何か」「第3章 自然選択とは何か」「第4章 種・大進化とは何か」という構成だ。各章末には簡潔な「まとめ」があり、迷路を抜けて「まとめ」に辿り着くとホッとする。この「まとめ」をあらかじめ読んだうえで、本文をじっくり時間をかけてパズルを解くように再読すれば、多少はわかった気分になるかもしれない。
各章末の「まとめ」から、私が興味深く思った事柄は以下の通りだ。
・遺伝的多様性は、集団や種を存続させるために、維持されているわけではない。
・「種を存続」させるように自然選択などの進化プロセスが作用することはない。
・ドーキンス流の利己的遺伝子の見方は進化のプロセスを正しく表していない。
・小進化の機構を理解することなく、大進化は説明できない。進化機構には、依然として未解明なことも多く、今後の研究が期待される。
著者は、今西進化論や福岡伸一の「動的平衡」には、サイエンスの立場から批判的である。次の指摘が興味深い。
「現在、今西進化論を信奉する進化学者はいない。しかし、細胞が入れ替わっても個体は維持されるという「動的平衡」の考えを種に当てはめ「種の保存こそが生命にとって最大の目的」とする福岡伸一氏の思想は、西田哲学や今西進化論が形を変えて継承されているといえる。」
45年前のユーモア小説アンソロジーが心地よい ― 2025年11月22日
『筒井康隆自伝』がきっかけで『盗まれた街』を読んだのに続いて、次のアンソロジーを読んだ。
『12のアップルパイ:ユーモア小説フェスティバル』(筒井康隆・編/立風書房/1980.8)
かなり以前に古書で入手し、そのままになっていた本だ。『筒井康隆自伝』は本書について次のように述べている。
「『12のアップルパイ』というのは、その前に出した『異形の白昼』という恐怖小説のアンソロジーが好評だったので、次こそはわが本来の笑いのアンソロジーでと意気込んで出したものだったが、さほど評判にならなかった。やはり日本文学はユーモアやギャグと相容れないらしい。」
12人の現役(刊行当時)作家のアンソロジーである。作者と作品名は以下の通りだ。
遠藤周作「初春夢の宝船」
星新一「はだかの部屋」
田辺聖子「びっくりハウス」
五木寛之「美しきスオミの夏に」
北杜夫「友情」
吉行淳之介「悩ましき土地」
新田次郎「新婚山行」
生島治郎「最後の客」
豊田有恒「地震がいっぱい」
野坂昭如「ああ水中大回天」
筒井康隆「トラブル」
小松左京「本邦東西朝縁起覚書」
76歳の私にとっては懐かしき面子だ。SF作家4人(星、豊田、筒井、小松)の作品は記憶にある。他の8人も私が若い頃の同時代作家なので、その作品のいくつかは読んでいるが、本書収録作は初読だと思う。
12作品を続けて読み、それぞれの作家の多様な個性を感じた。私が一番面白いと思ったのは筒井康隆「トラブル」であり、二番目は小松左京「本邦東西朝縁起覚書」だ。どちらも雑誌(SFマガジン)で読んだときの強烈な印象が残っている。前者は、昼下がりの日比谷公園で突如勃発したサラリーマン族とTV業界族の人体パイ投げバトルを描いたシュールで突き抜けた作品だ。後者は、南朝が時空を超えて現代に蘇り、ついには東西朝時代に移行するという話で、果敢な天皇制ジョークに唖然とする。
その他で面白いのが五木寛之「美しきスオミの夏に」だ。あの頃の五木寛之的なカッコよさを維持しつつ、何ともおかしな展開になる。作家とは本来的に諧謔の人種だと思う。
このアンソロジーの異色は新田次郎「新婚山行」だろう。新田次郎の山岳小説の一つであり、彼はユーモア作家ではない。そんな作家の作品にユーモアを見出す筒井氏の鑑識眼に感心した。
このアンソロジーに往時のオールスター戦を観るような懐かしさと心地よさを感じるのは、私が年を取ったせいだろうと思う。
『12のアップルパイ:ユーモア小説フェスティバル』(筒井康隆・編/立風書房/1980.8)
かなり以前に古書で入手し、そのままになっていた本だ。『筒井康隆自伝』は本書について次のように述べている。
「『12のアップルパイ』というのは、その前に出した『異形の白昼』という恐怖小説のアンソロジーが好評だったので、次こそはわが本来の笑いのアンソロジーでと意気込んで出したものだったが、さほど評判にならなかった。やはり日本文学はユーモアやギャグと相容れないらしい。」
12人の現役(刊行当時)作家のアンソロジーである。作者と作品名は以下の通りだ。
遠藤周作「初春夢の宝船」
星新一「はだかの部屋」
田辺聖子「びっくりハウス」
五木寛之「美しきスオミの夏に」
北杜夫「友情」
吉行淳之介「悩ましき土地」
新田次郎「新婚山行」
生島治郎「最後の客」
豊田有恒「地震がいっぱい」
野坂昭如「ああ水中大回天」
筒井康隆「トラブル」
小松左京「本邦東西朝縁起覚書」
76歳の私にとっては懐かしき面子だ。SF作家4人(星、豊田、筒井、小松)の作品は記憶にある。他の8人も私が若い頃の同時代作家なので、その作品のいくつかは読んでいるが、本書収録作は初読だと思う。
12作品を続けて読み、それぞれの作家の多様な個性を感じた。私が一番面白いと思ったのは筒井康隆「トラブル」であり、二番目は小松左京「本邦東西朝縁起覚書」だ。どちらも雑誌(SFマガジン)で読んだときの強烈な印象が残っている。前者は、昼下がりの日比谷公園で突如勃発したサラリーマン族とTV業界族の人体パイ投げバトルを描いたシュールで突き抜けた作品だ。後者は、南朝が時空を超えて現代に蘇り、ついには東西朝時代に移行するという話で、果敢な天皇制ジョークに唖然とする。
その他で面白いのが五木寛之「美しきスオミの夏に」だ。あの頃の五木寛之的なカッコよさを維持しつつ、何ともおかしな展開になる。作家とは本来的に諧謔の人種だと思う。
このアンソロジーの異色は新田次郎「新婚山行」だろう。新田次郎の山岳小説の一つであり、彼はユーモア作家ではない。そんな作家の作品にユーモアを見出す筒井氏の鑑識眼に感心した。
このアンソロジーに往時のオールスター戦を観るような懐かしさと心地よさを感じるのは、私が年を取ったせいだろうと思う。
ハヤカワ・SF・シリーズ第1作の『盗まれた街』で1950年代に浸る ― 2025年11月20日
『筒井康隆自伝』がきっかけで古い翻訳SFを読んだ。かの銀背表紙「ハヤカワ・SF・シリーズ」の記念すべき1番目の作品である。発行日は1957年12月31日だ。なぜか3001番からスタートしている。
『盗まれた街』(ジャック・フィニィ/福島正実訳/ハヤカワ・ファンタジー/早川書房)
「ハヤカワ・SF・シリーズ」は刊行当初の何十点かは「ハヤカワ・ファンタジー」という名だった。背表紙の白抜き赤の表示も「SF」でなく「HF」だ。1959年12月の『SFマガジン』創刊後に「ハヤカワ・ファンタジー」から「ハヤカワ・SF・シリーズ」に変わり、初期の作品も重版時には「ハヤカワ・SF・シリーズ」になった。
『筒井康隆自伝』には次の記述がある。
「実は役者をやめた時以来、ミステリー作家を狙ってもいたのだ。だからハヤカワのポケット・ミステリで外国の新しいミステリーが出るたびに熟読し、『盗まれた街』を読んだのもそうした作業の一環だったのである。(…)『盗まれた街』の福島正実のあとがきには、大戦中に大発展したアメリカのSFのことが書かれていた。」
これを読み、福島正実の文章を確認したくなって書架の『盗まれた街』を引っ張り出したが、福島正実の「あとがき」はない。都築道夫の解説があるだけで、その末尾に「現代のアメリカ・サイエンス・フィクションについては、本シリーズ二冊め以後の作品解説にゆずることにする」とある。筒井氏は別の本と混同したようだ。
――で、大昔の『盗まれた街』を引っ張り出した私は、このSFを読まねばと思ったのである。私はこの有名作の内容を知っているが、実は本書は未読だったのだ。私が中学のとき(1961~1963年)に購読していた『中学〇年コース』には、薄い文庫本の付録がついていた。私はその付録文庫本で『盗まれた街』を読んだ。とても怖いSFで印象に残った。訳者は福島正実だったと思う。高校生になって内外のSFを読むようになり、中学の時に読んだ『盗まれた街』はダイジェストだと認識し、ハヤカワ版を入手した。いずれ読もうと思いつつ、内容を知っているので後回しになり、半世紀以上の月日が流れた。
2025年になって読んだ『盗まれた街』は馥郁たるノスタルジックな空気が流れるクラシックなSFだった。21世紀の現代からは遠い昔の1950年代の米国西部の小さな町が舞台だ。サスペンスからSFへと展開していく侵略モノである。原著の刊行は1955年なので、2年後の訳書刊行はかなり早い。
中学生のとき、大きな豆の莢(さや)から複製人間が生まれてくるシーンを読んで背筋が寒くなったが、多様なSFに馴れた現代の目から見ればさほどでもない。侵略者が何となくマヌケに見えてきて、古きよき時代の長閑さまで感じてしまう。と言っても十分に楽しめた。1950年代の雰囲気を味わえる古典的名作だと思う。
『盗まれた街』(ジャック・フィニィ/福島正実訳/ハヤカワ・ファンタジー/早川書房)
「ハヤカワ・SF・シリーズ」は刊行当初の何十点かは「ハヤカワ・ファンタジー」という名だった。背表紙の白抜き赤の表示も「SF」でなく「HF」だ。1959年12月の『SFマガジン』創刊後に「ハヤカワ・ファンタジー」から「ハヤカワ・SF・シリーズ」に変わり、初期の作品も重版時には「ハヤカワ・SF・シリーズ」になった。
『筒井康隆自伝』には次の記述がある。
「実は役者をやめた時以来、ミステリー作家を狙ってもいたのだ。だからハヤカワのポケット・ミステリで外国の新しいミステリーが出るたびに熟読し、『盗まれた街』を読んだのもそうした作業の一環だったのである。(…)『盗まれた街』の福島正実のあとがきには、大戦中に大発展したアメリカのSFのことが書かれていた。」
これを読み、福島正実の文章を確認したくなって書架の『盗まれた街』を引っ張り出したが、福島正実の「あとがき」はない。都築道夫の解説があるだけで、その末尾に「現代のアメリカ・サイエンス・フィクションについては、本シリーズ二冊め以後の作品解説にゆずることにする」とある。筒井氏は別の本と混同したようだ。
――で、大昔の『盗まれた街』を引っ張り出した私は、このSFを読まねばと思ったのである。私はこの有名作の内容を知っているが、実は本書は未読だったのだ。私が中学のとき(1961~1963年)に購読していた『中学〇年コース』には、薄い文庫本の付録がついていた。私はその付録文庫本で『盗まれた街』を読んだ。とても怖いSFで印象に残った。訳者は福島正実だったと思う。高校生になって内外のSFを読むようになり、中学の時に読んだ『盗まれた街』はダイジェストだと認識し、ハヤカワ版を入手した。いずれ読もうと思いつつ、内容を知っているので後回しになり、半世紀以上の月日が流れた。
2025年になって読んだ『盗まれた街』は馥郁たるノスタルジックな空気が流れるクラシックなSFだった。21世紀の現代からは遠い昔の1950年代の米国西部の小さな町が舞台だ。サスペンスからSFへと展開していく侵略モノである。原著の刊行は1955年なので、2年後の訳書刊行はかなり早い。
中学生のとき、大きな豆の莢(さや)から複製人間が生まれてくるシーンを読んで背筋が寒くなったが、多様なSFに馴れた現代の目から見ればさほどでもない。侵略者が何となくマヌケに見えてきて、古きよき時代の長閑さまで感じてしまう。と言っても十分に楽しめた。1950年代の雰囲気を味わえる古典的名作だと思う。
現役老大家の『筒井康隆自伝』を一気読み ― 2025年11月18日
91歳の筒井康隆氏は現在も文芸誌に掌編を発表し続けている現役作家である。その老大家が『文學界』に2024年から2025年にかけて連載した自伝が単行本になった。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
3年後に滅亡する世界の日常を描いた『マイクロバスと安定』 ― 2025年11月16日
本多劇場で竹生企画第四弾『マイクロバスと安定』(作・演出:倉持裕、出演:竹中直人、生瀬勝久、飯豊まりえ、他)を観た。竹生企画とは竹中直人と生瀬勝久の芝居を倉持裕の作・演出で上演する企画で、今回が4作目だそうだ。
演出家(竹中直人)の屋敷が舞台である。この屋敷にはアトリエ公演もできる稽古場がある。舞台は玄関に連なる応接室のような空間で、奥の稽古場は見えない。稽古場では女優の一人芝居の練習が始まっている。演出家の旧友(生瀬勝久)が娘(飯豊まりえ)を連れて数十年ぶりに演習家の屋敷を訪れる場面から芝居が始まる。旧友は、かつて演出家と共に劇団をやっていたことがあり、現在は学習塾の経営者である。
日常生活的ドラマを予感させるが、この世界は3年後に滅亡することになっている。小惑星が衝突するのだ。人々は皆その事実を知っている。
『マイクロバスと安定』という意味不明のタイトルの含意は芝居を観ているうちに見えてくる。
旧友(塾経営者)の車がマイクロバスであり、旧友はこのマイクロバスで娘を演出家の稽古場に送り迎えすることになる。部屋の窓に時おり映るテールランプの赤い光が印象深い。
「安定」は怒涛の混乱期を経た後の平穏なひとときの時間を示しているようだ。小惑星衝突という未来を知った世界は大混乱に陥り暴動も発生する。そんな混乱の時代を経て、世界滅亡を受け容れ、残された時間を坦々と過ごそうとする人々が増てきたのだ。
非日常的設定のなかの日常のなかで、人々はどのように時間を過ごしていくのか。もちろん、人それぞれだろうが、不思議な緊張感を秘めた日常が切ない時間を刻んでいく。演出家と旧友は仲がよくない。過去の確執をかかえている。だが、旧友は女優志望の娘の要望を容れて演出家を訪ねたのだ。演出家と旧友の奔放に変転するやり取りが面白い。
この芝居は、死すべき運命を抱えた人間がもつ記憶の作用を語っているように見える。30年前の記憶を掘り起こす演出家と旧友との会話に、現在を生きる人間は、現在と共に記憶の世界にも生きているとの感を強くした。
演出家(竹中直人)の屋敷が舞台である。この屋敷にはアトリエ公演もできる稽古場がある。舞台は玄関に連なる応接室のような空間で、奥の稽古場は見えない。稽古場では女優の一人芝居の練習が始まっている。演出家の旧友(生瀬勝久)が娘(飯豊まりえ)を連れて数十年ぶりに演習家の屋敷を訪れる場面から芝居が始まる。旧友は、かつて演出家と共に劇団をやっていたことがあり、現在は学習塾の経営者である。
日常生活的ドラマを予感させるが、この世界は3年後に滅亡することになっている。小惑星が衝突するのだ。人々は皆その事実を知っている。
『マイクロバスと安定』という意味不明のタイトルの含意は芝居を観ているうちに見えてくる。
旧友(塾経営者)の車がマイクロバスであり、旧友はこのマイクロバスで娘を演出家の稽古場に送り迎えすることになる。部屋の窓に時おり映るテールランプの赤い光が印象深い。
「安定」は怒涛の混乱期を経た後の平穏なひとときの時間を示しているようだ。小惑星衝突という未来を知った世界は大混乱に陥り暴動も発生する。そんな混乱の時代を経て、世界滅亡を受け容れ、残された時間を坦々と過ごそうとする人々が増てきたのだ。
非日常的設定のなかの日常のなかで、人々はどのように時間を過ごしていくのか。もちろん、人それぞれだろうが、不思議な緊張感を秘めた日常が切ない時間を刻んでいく。演出家と旧友は仲がよくない。過去の確執をかかえている。だが、旧友は女優志望の娘の要望を容れて演出家を訪ねたのだ。演出家と旧友の奔放に変転するやり取りが面白い。
この芝居は、死すべき運命を抱えた人間がもつ記憶の作用を語っているように見える。30年前の記憶を掘り起こす演出家と旧友との会話に、現在を生きる人間は、現在と共に記憶の世界にも生きているとの感を強くした。








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