エジプト史を反芻しながら古代エジプト展を観た2025年03月02日

 六本木ヒルズの森アーツセンターギャラリーで開催中の『特別展 古代エジプト』を観た。米国のブルックリン博物館所蔵の遺物約150点の展示である。

 150点と言っても指輪や円筒印章(転がすハンコ)などの小物も多く、比較的コンパクトな印象の展示会である。1時間ほどで回れるこの規模の展示会が私には最も心地いい。

 先日、古代エジプト史も含んだ『人類の起源と古代オリエント(世界の歴史1) 』を読了したばかりだったので、あまり馴染みのないエジプト史を反芻する気分で展示会場を巡った。ラメセス2世やアクエンアテン王(アメンヘテプ4世)など、わが頭にまだ多少の記憶をとどめている王に関連した遺品に遭遇すると、少しうれしくなった。

 会場に入ってすぐの場所に展示していた「貴族の男性のレリーフ」は、端正で魅力的な美術品である。描かれた人物については何もわからないそうだが、印象に残るレリーフだった。

 エジプトと言えばミイラである。展示しているミイラの棺には、数千年の時間を隔てた迫力を感じた。会場では、ミイラ作成の工程解説のアニメを上演していて勉強になった。展示品のなかには内臓(胃、肺、肝臓、腸)を別々に保管する壺があり、ミイラ作りのリアルを感じた。

最古のメソポタミア史にすでに人類の経験が凝縮2025年03月04日

『古代メソポタミア全史:シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』(小林登志子/中公新書)
 先月、『人類の起源と古代オリエント』(世界の歴史1) を読んで、頭が多少は古代史モードになっているので、未読棚の次の新書を読んだ。

 『古代メソポタミア全史:シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで』(小林登志子/中公新書)

 一昨年、同じ著者の『古代オリエント全史』を読んだ直後に本書を購入した。メソポタミアはオリエントの一部なので、オリエント史の後にメソポタミア史を読むのはズームアップ読書になる。『古代メソポタミア全史』の刊行は2020年10月、『古代オリエント全史』の刊行は2022年11月だから、刊行順に読むならズームアウト読書になる。どちらがいいか、よくわからない。

 本書の主要部分の目次は以下の通りである。

 第1章 シュメル人とアッカド人の時代――前3500年~前2004年
 第2章 シャムシ・アダト1世とハンムラビ王の時代――前2000年紀前半
 第3章 バビロニア対アッシリアの覇権争い――前2000年紀後半
 第4章 世界帝国の興亡――前1000年~前539年

 古代メソポタミア史とは、前3500年頃のシュメル人の都市国家に始まり前539年の新バビロニア王国滅亡で終わる約3000年の歴史である。第1章は約1500年、第2~4章は約500年ずつを記述している。第4章の「世界帝国」は新アッシリアを指す。序章と終章では、この3000年史の以前と以後を概説している。

 チグリス河とユーフラテス河にはさまれたメソポタミアは古代文明発祥の地である。その周辺にはエジプト、シリア、アナトリア、イランなどの文化や文明がある。本書の記述は、当然ながらそれら周辺諸国との関わりにも及んでいる。

 前3500年頃からの3000年は、現代までの歴史の半分以上の時間だ。とても長い。当然ながら様々な事象に満ちている。遠い昔のできごとは史料が少ないのでボヤけているように思えるが、粘土板に刻まれた楔形文字の解読で意外に細かいことまでわかっているようだ。著者はこの3000年について「ただ長ければ良いということではありませんが、短い歴史にくらべて、ありとあらゆるできごとがつまっていて、おもしろいです」と述べている。

 丸山真男は「ローマ史には人類の経験が凝縮されている」と語ったそうだ。本書を読むと、古代ローマ以前の古代メソポタミア史に、すでに人類の経験が凝縮されていると思える。門外漢には馴染みのない固有名詞(人名、地名、集団名)が頻出するので、歴史像を思い描きにくいのが難点である。

 メソポタミア史の把握には時間軸だけなく空間軸が重要だ。年代ごとの地理を知らねばならない。メソポタミア3000年の歴史では、メソポタミアという限られた地域の中で多様な都市が興亡し、多様な人々が移動する。この地理がかなりややこしい。地図と年表による三次元で世界の動きを捉えなければ歴史像を描けない。

 遠い昔の歴史なので、史料が整っているわけでなく、判明している知見にはデコボコがある。空白の部分や不明の点は周辺史料から推測することになる。

 三次元でダイナミックに歴史像を描くことや、史料の読み解きといった点で、メソポタミア史は歴史を学ぶ教材としても面白いと思う。メソポタミア3000年の歴史をきちんと把握できれば、その後の現代までの2500年の歴史がちゃちな繰り返しに見えてくるかもしれない。

自分のエッシャー鑑賞がいかにずさんだったかを知った2025年03月06日

『エッシャー完全解読:なぜ不可能が可能に見えるのか』(近藤滋/みすず書房)
 日経新聞(2025.1.25)や朝日新聞(2025.2.22)の書評が取り上げていた次の本を読んだ。

 『エッシャー完全解読:なぜ不可能が可能に見えるのか』(近藤滋/みすず書房)

 エッシャーの「不可能建築」と呼ばれる『物見の塔』『上昇と下降』『滝』などについて、視覚をごまかすためにどんな仕掛けが施されているかを読み解いた本である。とても面白い。著者は発生学・理論生物学の研究者である。本書の論考は著者の専門領域とも一部重なり合っている。

 私は約半世紀前にエッシャーの画集を入手した。それなりにエッシャーの版画に親しんできたつもりだ。本書は、その画集をめくりながら読み進めた。私が気づいていなかった指摘が次々に出てきて、自分がいかに観ていなかったかを認識した。同時に、エッシャー鑑賞の新たな醍醐味を知った。

 エッシャーの「不可能建築」は錯視を利用したトリック画である。錯視は面白い。私は、ペンローズの三角形(エッシャーは、これを『滝』に応用)の模型をペーパークラフトで作ったこともある。だが、エッシャーのトリック画を観て、フムフム面白いなと思うだけでそれ以上踏み込んで考えたことはなかった。

 著者は、単なる錯視トリックではエッシャーの作品のようなリアリティは得られないと指摘し、エッシャーが仕掛けたさまざまな仕掛けを解き明かしている。

 本書によって認識を新たにしたのは、錯視と遠近法の関係である。作品をリアルに表現するには遠近法が有効である。エッシャーの作品も遠近法を多用している。だが、遠近法を強調すると錯視効果が減衰する。錯視には遠近感のごまかしが関連しているのだ。私は、ペンローズの三角形の模型を作ったにもかかわらず、本書を読むまでその点に考えが及ばなかった。

 本書の最大のポイントは、遠近法と錯視を両立させるためにエッシャーが仕掛けた工夫の解明である。ナルホドと感心した。

 だが、私が最も驚いたのは『画廊』という作品が再帰的なドロステ画だとの指摘である。画面が極端に歪んでいくこの作品を、私は半世紀前に画集で観て、単純に「面白いな」と感じただけだった。これが再帰的な作品だとは昔から知られていたそうだ。あらためて画集の作品解説を読むと、ちゃんと書いてあった。検索すると、分かりやすい動画もあった。私は半世紀の年月を経て初めて気づいた。情けないが仕方ない。

 著者が指摘するように、内側の世界と外側の世界を融合させるために螺旋構造を用いるというアイデアは秀逸である。著者は、螺旋を描いて成長する結晶がヒントになったのではと推測している。サイエンスの世界である。

女歌舞伎『新雪之丞変化』は華やかなアングラ劇2025年03月09日

 下北沢ザ・スズナリでProject Nyx公演・女歌舞伎『新雪之丞変化』(原作:三上於菟吉、作:白石征、構成:水嶋カンナ、演出:金守珍、出演:水嶋カンナ、寺田結美、森岡朋奈、小谷佳加、佐野美幸、もりちえ、浜田えり子、染谷知里、紅日毬子、本間美彩、いまいゆかり、他)を観た。

 『雪之丞変化』は、1934年(昭和10年)に『朝日新聞』に連載された人気時代小説で、何度も映画化・舞台化されてきた。だが、私は題名を知っているだけで、これまでに読んだことも観たこともなく、ほとんど予備知識なしに観劇した。休憩なしの2時間、アングラと歌舞伎が融合した妖しくも華やかな舞台に魅了された。

 江戸末期、大塩平八郎の乱の後の12代将軍家慶の頃の話である。歌舞伎の花形女形役者・雪之丞が、長崎で殺された親の仇を江戸で討つ復讐譚である。その復習譚に、雪之丞に惚れる奥女中、女盗賊、悪徳役人、悪徳商人などが絡んで話が展開する。どんでん返しもある。

 ストーリーも面白いが、場面転換ごとに繰り広げられる舞踏パフォーマンスが素晴らしい。あでやかな和服の女性たちがロックで乱舞する。幕間の暗闇でマッチの灯りをかざし、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」(寺山修司)と朗詠したりもする。

 女歌舞伎と銘打っている通り、出演者は全員女性である。雪之丞は花形女形役者なので男性だが、それを女性が演じているからややこしくて面白い。髑髏や狐面が頻出し、不気味な気配を盛り上げている。

 士部山斎という悪党には迫力があった。片目を黒い仮面で覆い、髑髏を手に怪しく笑う異形は、いかにもアングラという雰囲気だ。演じた女優・小谷佳加が、昨年末に観た文化座の『しゃぼん玉』で気のいいオバチャンを演じていた俳優だと知って驚いた。

青年座の『Lovely wife』はブラック・コメディ2025年03月11日

  本多劇場で劇団青年座公演『Lovely wife』(作・演出:根本宗子、出演:高畑淳子、岩松了、他)を観た。

 根本宗子は35歳の劇作家・演出家・元女優である。私はこの芝居のチラシで初めてこの人を知った。『Lovely wife』は彼女が青年座のために書いた新作だそうだ。チラシには、芝居の内容に関する記述が全くない。題名と出演者だけの情報でチケットを購入したのは、未知の若い作家の新作に接するのも一興だと思ったからである。

 題名とチラシの写真から、ホーム・コメディだろうと想像した。確かにホーム・コメディに近かった。笑える場面が多い。だが、かなり苦い。ブッ飛んだ展開もある。チラシ写真のようなラーメンを食する場面はなかった。演劇ならではの仕掛けを駆使した面白い芝居だった。

 65歳になった夫婦を巡る話である。妻の秋江(高畑淳子)は編集者、夫(岩松了)は作家である。昔、若い女性編集者(秋江)が若い作家を担当し、二人は結婚する。夫は売れっ子作家となり、他の若い女性編集者との浮気をくり返す。いまや、夫婦の間は冷え切っている――という設定である。

 芝居の冒頭近く、秋江と幼馴染の親友(伊勢志摩)との会話シーンがある。独身の親友は売れっ子の装丁家である。気の置けない親友同士の楽しげな会話だが、その内容は尋常でない。装丁家は自身が同性愛者だとカミングアウトし、恋愛対象が親友の秋江だったと告白する。同性愛者でない秋江は、65歳になってからの幼馴染の告白に驚く――といっても、スゴク驚いているようには見えない。

 装丁家は秋江に「あんな亭主と別れて自分と一緒に暮らそう」と提案する。秋江にとっても検討の余地のある提案のようだ。この導入部を観て、一体どんな展開になるのやらと驚いた。だが、同性愛方向に話が進展するわけではなく、装丁家は芝居全体のコミカルな舞台回しだった。

 この芝居は、現在の場面に過去の追憶場面が重なる。追憶場面では若い役者が夫婦を演じる。だが、装丁家だけは現在も追憶場面も同じ役者である。過去と現在を自在に行き来するのだ。

 舞台回しだけでなく回り舞台も活用している。舞台が回ると「夫妻の居間」「カフェ」「ホテルの宴会場」に場面が転換する。夫は、都合が悪くなると舞台の回転を命じて自ら場面転換を図る。だから、舞台は何度も回る。場面転換と現在・過去を錯綜させながらテンポよく芝居が進行する。こんな方法があったのだと感心した。

アッシリア帝国はその後の帝国の原型2025年03月13日

『アッシリア全史:都市国家から世界帝国までの1400年』(小林登志子/中公新書)
 2カ月前(2025年1月)に出た次の新書を読んだ。

 『アッシリア全史:都市国家から世界帝国までの1400年』(小林登志子/中公新書)

 同じ著者の『古代メソポタミア全史』を読んだばかりで、1年前には『古代オリエント全史』を読んだ。ゴチャゴチャした複雑な歴史だから、読んでも内容の大半は頭に残っていない。同じ著者の似た内容の本を続けて読めば、多少なりとも記憶に留まる部分があるだろうと思ってこの新刊を読んだ。

 オリエント > メソポタミア > アッシリアという関係だから、徐々に詳しくなってくる。実は、昨年末に『沈黙する神々の帝国:アッシリアとペルシア』(本村凌二)も読んでいる。アッシリアについては、この辺で十分という気がする。ただ、アッシリアという言葉には紀元前の古代史の象徴を感じる。

 アッシリアには「最古の帝国」「強圧の帝国」のイメージがある。文明発祥の地とされるメソポタミアには、アッシリア以前にアッカド王国、ウル第三王朝という領域国家があったが、帝国と呼ばれるのは、メソポタミア全体とエジプトを支配したアッシリが最初だ。

 と言っても、いきなり帝国が誕生したわけではない。それ以前の都市国家、領域国家の時代を含めて1400年の歴史がある。帝国となった新アッシリア時代は前1000年頃から前609年までの約400年である。帝国末期の30年については記録が残ってなく、どのように滅亡したかは不明確だそうだ。『旧約聖書』には、神を恐れぬ行動ゆえに滅ぼされたとあるらしい。

 本書はアッシリア帝国の構成について、かなり詳しく記述している。国家中枢の官僚組織、州行政、属国統治、交通・通信網などが整備されていたそうだ。まさに帝国の原型が出来上がっていたのだと感心した。その後に興亡する数多の帝国(アケメネス朝、ローマ、漢、ビザンツ等々)の統治形態はアッシリア帝国をなぞっただけに思えてくる。人間の集団が拡大していく様は、遠い古代からさほど変わっていないのかもしれない。

 本書には数多くの人名が出てくる。そのなかで、高校世界史にも登場するアッシリア王はアッシュル・バニパルとサルゴン2世ぐらいだ。

 アッシリア帝国全盛期の王アッシュル・バニパルに関する本書の記述は興味深い。読み書きができる「学者王」であることを自慢している。粘土板文書を収集した図書館も作っている。戦争の命令は下すが親征はしない。戦場が怖かったらしい。強圧の帝国の王らしからぬ人である。

 高校世界史に登場する最古の個人名は、アッカド王国のサルゴン王だそうだ。アッシリア帝国のサルゴン2世は、アッカド王国に同名の王がいたから2世だと思っていたが、私の勘違いだった。考えてみれば、違う王朝なのに2世はあり得ない。本書のアッシリア王名一覧には古アッシリア時代にサルゴン1世が載っていた。ちなみに、サルゴンは「真の王」という意味で、簒奪王が名乗ることが多いらしい。

アガサ・クリスティーと中島敦をまとめ読みしたわけ2025年03月16日

『メソポタミヤの殺人』(アガサ・クリスティー/田村義進訳/ハヤカワ文庫)、文字禍・牛人』(中島敦/角川文庫)
 次の2冊の小説をたて続けに読んだ。

 『メソポタミヤの殺人』(アガサ・クリスティー/田村義進訳/ハヤカワ文庫)
 『文字禍・牛人』(中島敦/角川文庫)

 アガサ・クリスティーと中島敦、かなり異質の取り合わせだが関連がある。先日読んだ『アッシリア全史』が『メソポタミヤの殺人』と『文字禍』に触れていたのだ。二つの小説の共通項はアッシリアである。私はどちらも読んでいないので、ネット書店で入手して読んだ。ゴチャゴチャした歴史で疲れた頭をミステリー小説でほぐしたくなったのである。

 『アッシリア全史』では、メソポタミアの遺跡発掘に関連して、考古学者として発掘に携わると同時に英国の諜報活動をしていた「アラビアのロレンス」に触れ、「女王」と呼ばれた二人の英国人女性に言及している。ひとりはガートルード・ベルである。女性版ロレンスと言われたりするが、ロレンスより20歳年長だ。「砂漠の女王」「イラク建国の母」と呼ばれる考古学者・紀行作家・英国特使である。私は8年前、彼女を描いた映画『アラビアの女王』を観た。

 もうひとりの女王がアガサ・クリスティーである。クリスティの再婚相手は14歳年下の考古学者のマックス・マロワンで、メソポタミアの遺跡発掘に参加していた。カルフでの発掘にはクリスティも同行し、発掘作業を手伝いながら『メソポタミヤの殺人』を執筆したそうだ。

 そんな事情を知ったうえで『メソポタミヤの殺人』を読んだ。遺跡発掘隊を舞台にしたミステリーである。遺跡名は架空のようだが、実際の地名もいくつか出てくるので、およその場所は見当がつく。遺跡発掘隊の話を読みながら、実体験に基づいたであろう描写を楽しんだ。イラクに思いをはせながら発掘現場を疑似体験できた。ただし、ミステリーとしてはやや強引な無理筋に思えた。

 中島敦の『文字禍』はアッシリアを舞台にした小説である。33歳で夭折したこの作家の『山月記』は教科書で読んだ。『李陵』など中国を舞台にした短篇をいくつ読んだ記憶はあるが、アッシリアの話は読んでいない。入手した角川文庫の『文字禍・牛人』は、6つの短篇を収録していた。『狐憑』『木乃伊』『文字禍』『牛人』『斗南先生』『虎狩』である。

 『文字禍』はアッシュルバニパル王の時代の老学者の話である。19世紀にニネヴェ遺跡で発掘された「アッシュルバニバル」の図書館が登場する。楔形文字を刻んだ粘土板を収集した図書館を、中島敦は「書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」と表現している。文字の発明によって人間が失ったものを考察した端正な短篇である。面白かった。

 『狐憑』はスキタイ人の話、『木乃伊』の舞台は古代エジプトである。中国のイメージが強い中島敦の視野の広さと教養の深さに驚いた。『牛人』は中国の奇譚、『斗南先生』と『虎狩』は私小説風だが、私にとっては異世界の話だ。久々に漢字を多用した中島敦の短篇を読み、異境感に浸った。

『ワインの世界史』は西欧文化史2025年03月19日

『ワインの世界史』(山本博/日経ビジネス人文庫)
 私は人並に酒を飲む。主にビールや日本酒だが、焼酎、ウイスキー、ワインも飲む。ワインの良し悪しはよくわからない。数多あるワイン本などは読んだことがない。ワインに関する知識はない。にもかかわらず、次の文庫本を読んだ。

 『ワインの世界史』(山本博/日経ビジネス人文庫)

 昨年読んだ『砂糖の世界史』『コーヒーが廻り世界史が廻る』で、産品をテーマにした歴史書は面白いと思った。その延長でワインの世界史も読んでみたくなったのだ。

 本書の著者は歴史学者ではなくワイン通の弁護士である。弁護士として活躍しながら40冊以上のワイン関連本を書いているそうだ。世界ソムリエコンクール日本代表審査委員、日本輸入ワイン協会会長も務めている。

 軽い歴史エッセイと思って読み始めたが、コクのある歴史書だった。全10章の各章末には、数十冊の参考文献リストがあり、〇(重要)や□(一般向け)などを付している。広範な知識をベースにした親切な本である。

 本書は古代から現代までのワインの歴史を概説している。メソポタミアで生まれ、エジプトで育てられたワインは、ギリシアでひとまず完成する。ヘレニズムの世界、ヘブライズムの世界、新約聖書の世界でもワインは重要は役割を担う。ローマ世界で貴族のワインと庶民のワインに分化したワインは、中世には多様化し、ルネサンスの時代には知と理性のワインとなり、フランス革命を経てワインの理想美が作られる。

 ワインを視座にした西欧文化史の変遷は興味深い。私が特に注目したのは、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』に関する言及である。私は、ちくま学芸文庫版の『衰亡史』(全10巻)をのんびり再読中なので、ギボンに関する記述に目が行くのだ。著者は次のように指摘している。

 「ローマ皇帝ユリアヌスがペルシャに遠征した時の状況が有名なギボンの『ローマ帝国衰亡史』にも書かれているが、その中で「ワインの使用だけは固く禁じ」とある節がしばしば誤解されて引用されている」

 ユリアヌスは兵士の食用に大量の酢(vinegar)を用意したがワイン(wine)の使用を禁じた、とギボンは書いている。著者によれば、この場合の酢(vinegar)は「酸っぱい下級ワイン」、ワイン(wine)は「貴族用の高級ワイン」を指すそうだ。ユリアヌスは将校も兵士と同じ「下級ワイン」で我慢させた、というのがギボンの記述の主旨のようだ。

 ちくま学芸文庫版(中野好夫訳)で該当箇所(第4巻P30)を確認すると、vinegarは「酢」、wineは「酒類」と訳している。特に訳註はない。著者の指摘が正しければ誤訳に近い。この指摘を知っただけでも、本書を読んだ価値があった。

 本書の終盤の現代世界のワイン状況の話は、あまりに細かな話になり、ワイン門外漢の私には馬の耳に念仏に近かった。ワインについて少し勉強して読み返せば面白いのだろうが、そんな日がくるかどうかはわからない。