草彅剛の『ヴェニスの商人』はオーソドックスで現代的 ― 2024年12月13日
日本青年館ホールでシェイクスピアの『ヴェニスの商人』(訳:松岡和子、演出:森新太郎、出演:草彅剛、野村周平、佐久間由衣、大鶴佐助、長井短、華優希、小澤竜心、忍成修吾、他)を観た。森新太郎演出のシェイクスピアを観るのは『ジュリアス・シーザー』、『ハムレットQ1』に次いで3本目である。
草彅剛がシャイロックを演じるせいか劇場ロビーは女性客であふれ、グッズ売り場は長蛇の列だった。開演30分前には行列への参加が打ち止めになっていた。アイドルのコンサート会場のようだ。
事前にネットで観た舞台写真のシャイロックはシックなコートにネクタイ姿の現代衣装である。上演時間は2時間20分(休憩を除く)と、さほど長くない。現代風にアレンジした圧縮版だろうと予感した。だが、そうではなかった。
観劇前に新潮文庫の『ヴェニスの商人』(福田恆在訳)を読み返した。上演台本の松岡和子訳とは異なるが、今回の上演はほとんど省略のない原文通りの台詞のようだ。若い溌剌とした役者たちがシェイクスピアのゴチャゴチャした台詞を軽快にこなしているのに感心・感動した。やはり、読むより聞く方がいい。
『ヴェニスの商人』は誰でもが知っている展開のエンタメ劇である。ユダヤ人であるが故に蔑視されるシャイロックから見れば悲劇とも言えるが、大筋は悪役シャイロックを懲らしめる喜劇である。今回の上演も、そんなオーソドックスな造りだと感じた。
と言うものの、かなりユニークな舞台である。装置はシンプルな抽象空間で、役者の衣装は古今を混合して超時代的である。そして、役者全員(17人)が常に舞台上にいるという演出が面白い。
開幕時に役者全員が下手から一列になって舞台に登場する(ここで客席から拍手がわくのが不思議)。舞台に上がった役者たちは後方ホリゾントの横一列の長椅子に正面を向いて座り、出番になると舞台中央に出て来てる。舞台転換が迅速なテンポのいい芝居になる。
複数の役を演じる役者や途中で衣装が変わる役者もいるが、衣装替えも後方の長椅子で行う。と言っても、長椅子は楽屋ではない。あくまで舞台である。裁判で負けた後のシャイロックは終幕まで長椅子で俯いている。
この舞台は『ヴェニスの商人』を上演すると同時に、それを演じる役者もまた演じられているという入れ子構造を感じさせる。16世紀に上演された『ヴェニスの商人』の舞台を相対化すると同時に普遍化する仕掛けかもしれない。
ユダヤ人差別やキリスト教の傲慢を反映した『ヴェニスの商人』という喜劇の普遍性とは何か。そんなことに思いをはせると、現代と16世紀が溶融する混沌に引き込まれていく。
草彅剛がシャイロックを演じるせいか劇場ロビーは女性客であふれ、グッズ売り場は長蛇の列だった。開演30分前には行列への参加が打ち止めになっていた。アイドルのコンサート会場のようだ。
事前にネットで観た舞台写真のシャイロックはシックなコートにネクタイ姿の現代衣装である。上演時間は2時間20分(休憩を除く)と、さほど長くない。現代風にアレンジした圧縮版だろうと予感した。だが、そうではなかった。
観劇前に新潮文庫の『ヴェニスの商人』(福田恆在訳)を読み返した。上演台本の松岡和子訳とは異なるが、今回の上演はほとんど省略のない原文通りの台詞のようだ。若い溌剌とした役者たちがシェイクスピアのゴチャゴチャした台詞を軽快にこなしているのに感心・感動した。やはり、読むより聞く方がいい。
『ヴェニスの商人』は誰でもが知っている展開のエンタメ劇である。ユダヤ人であるが故に蔑視されるシャイロックから見れば悲劇とも言えるが、大筋は悪役シャイロックを懲らしめる喜劇である。今回の上演も、そんなオーソドックスな造りだと感じた。
と言うものの、かなりユニークな舞台である。装置はシンプルな抽象空間で、役者の衣装は古今を混合して超時代的である。そして、役者全員(17人)が常に舞台上にいるという演出が面白い。
開幕時に役者全員が下手から一列になって舞台に登場する(ここで客席から拍手がわくのが不思議)。舞台に上がった役者たちは後方ホリゾントの横一列の長椅子に正面を向いて座り、出番になると舞台中央に出て来てる。舞台転換が迅速なテンポのいい芝居になる。
複数の役を演じる役者や途中で衣装が変わる役者もいるが、衣装替えも後方の長椅子で行う。と言っても、長椅子は楽屋ではない。あくまで舞台である。裁判で負けた後のシャイロックは終幕まで長椅子で俯いている。
この舞台は『ヴェニスの商人』を上演すると同時に、それを演じる役者もまた演じられているという入れ子構造を感じさせる。16世紀に上演された『ヴェニスの商人』の舞台を相対化すると同時に普遍化する仕掛けかもしれない。
ユダヤ人差別やキリスト教の傲慢を反映した『ヴェニスの商人』という喜劇の普遍性とは何か。そんなことに思いをはせると、現代と16世紀が溶融する混沌に引き込まれていく。
劇団文化座の『しゃぼん玉』を沖縄で観た ― 2024年12月06日
いま、沖縄に滞在中である。先日観た『花売の縁オン(ザ)ライン』と同じ那覇文化芸術劇場なはーと小劇場で、劇団文化座の沖縄公演『しゃぼん玉』(原作:乃南アサ、脚本:斉藤祐一、演出:西川信廣、出演:佐々木愛、藤原章寛、ほか)を観た。
劇団文化座の芝居を観るのは初めてである。この劇団は佐々木愛の父親らが設立した古い劇団で、現在は佐々木愛が代表を務めている。『しゃぼん玉』は2017年に東京で初演、その後、全国122ステージを巡演し、今回の沖縄公演がファイナルだそうだ。
肉親の愛情に恵まれなかった都会の孤独な青年が、大学を中退して行き場を失って犯罪に走り、逃亡の果てに見知らぬ山村に迷い込む。そこで出会った老婆や村人との時間を過ごすなかで再生する。わかりやすい人情話とも言えるが、結構面白かった。よくある話とは言え、笑えるシーンや泣かせるシーンの役者の演技は堂に入り、演劇のベーシックな醍醐味を味わえた。
この芝居には可動スクリーンが頻繁に登場し、山村の風景や祭りの光景の実写動画が投影される。この装置で場面転換のテンポがいい芝居になっている。
最初のシーンで、ヒッチハイクしたトラックの運転手を脅した青年は、見知らぬ夜中の山道に置き去りにされる。青年は、その場所を四国の山奥だと思っている。ところが、迷い込んだ山村は宮崎県だという。この設定に超現実的な仕掛けが潜んでいるのかと予感したが、そのままリアリズムで最後まで進行した。釈然としないので、原作を確認したくなった。
この芝居に登場する山村や祭りはフィクションと思いながら観劇していたが、スクリーンに投影される映像を観て実在のものに思えてきた。観劇後にネット検索し、宮崎県椎葉村の「椎葉平家まつり」が実在することを確認した。
劇団文化座の芝居を観るのは初めてである。この劇団は佐々木愛の父親らが設立した古い劇団で、現在は佐々木愛が代表を務めている。『しゃぼん玉』は2017年に東京で初演、その後、全国122ステージを巡演し、今回の沖縄公演がファイナルだそうだ。
肉親の愛情に恵まれなかった都会の孤独な青年が、大学を中退して行き場を失って犯罪に走り、逃亡の果てに見知らぬ山村に迷い込む。そこで出会った老婆や村人との時間を過ごすなかで再生する。わかりやすい人情話とも言えるが、結構面白かった。よくある話とは言え、笑えるシーンや泣かせるシーンの役者の演技は堂に入り、演劇のベーシックな醍醐味を味わえた。
この芝居には可動スクリーンが頻繁に登場し、山村の風景や祭りの光景の実写動画が投影される。この装置で場面転換のテンポがいい芝居になっている。
最初のシーンで、ヒッチハイクしたトラックの運転手を脅した青年は、見知らぬ夜中の山道に置き去りにされる。青年は、その場所を四国の山奥だと思っている。ところが、迷い込んだ山村は宮崎県だという。この設定に超現実的な仕掛けが潜んでいるのかと予感したが、そのままリアリズムで最後まで進行した。釈然としないので、原作を確認したくなった。
この芝居に登場する山村や祭りはフィクションと思いながら観劇していたが、スクリーンに投影される映像を観て実在のものに思えてきた。観劇後にネット検索し、宮崎県椎葉村の「椎葉平家まつり」が実在することを確認した。
現代風にアレンジした組踊は思った以上に現代的だった ― 2024年11月30日
那覇文化芸術劇場なはーと小劇場で『花売の縁オン(ザ)ライン』(原作:組踊『花売の縁』、作・演出:兼島拓也、演出・振付:白神ももこ、出演:山内千草、大山瑠紗、井上あすか、北山結、垣花拓俊、安和学治)を観た。
組踊は歌舞伎に似た沖縄の歌舞劇である。何本かは観たが、その中に『花売の縁』はない。本公演のチラシには「組踊『花売の縁』を新たな視点で読み解いて現代演劇として再構築した」とある。未見の組踊ではあるが、それをどうアレンジしているのかに興味がわいた。
2時間の舞台は私の予想を超えた現代演劇だった。原作は、幕末の琉球王国で母と息子が、出稼ぎのため家を出たまま12年間音信不通の父(下級武士)を探す旅に出る話である。そんな大筋よりは、そこから派生したサブストーリーが奔放で、時代を超えた奇怪な劇世界を構築している。
音信不通の父はフランス人とイギリス人の宣教師を隔離・接待するという極秘の任務についていたのだ。そこには幕府の隠密も同居している。その接待所には電信機があり、怪しげな略語のモールス信号で世界と交信している。人物たちは実在しているのかバーチャルなのか、よくわからない。ナンセンス・コメディのようでもある。
ギャグやダジャレが飛び交う舞台に圧倒され、話の半ばまでは設定や状況を把握できず、頭が混乱した。だが、後半になってペリーが登場するあたりから面白くなった。
終盤、母子と父が再会し、三人が楽しく踊るシーンになる。父が躍りながら「夢ではなかろうか」と語ると、「夢だよ~」と息子が応答し、母子は消え去る。あっけに取られるシーンだ。
幕末を舞台にした芝居の役者が、遠い未来世界の観客に語りかけているように思わせるシーンも秀逸だ。賑やかで楽しく、そしてやや苦い舞台だった
組踊は歌舞伎に似た沖縄の歌舞劇である。何本かは観たが、その中に『花売の縁』はない。本公演のチラシには「組踊『花売の縁』を新たな視点で読み解いて現代演劇として再構築した」とある。未見の組踊ではあるが、それをどうアレンジしているのかに興味がわいた。
2時間の舞台は私の予想を超えた現代演劇だった。原作は、幕末の琉球王国で母と息子が、出稼ぎのため家を出たまま12年間音信不通の父(下級武士)を探す旅に出る話である。そんな大筋よりは、そこから派生したサブストーリーが奔放で、時代を超えた奇怪な劇世界を構築している。
音信不通の父はフランス人とイギリス人の宣教師を隔離・接待するという極秘の任務についていたのだ。そこには幕府の隠密も同居している。その接待所には電信機があり、怪しげな略語のモールス信号で世界と交信している。人物たちは実在しているのかバーチャルなのか、よくわからない。ナンセンス・コメディのようでもある。
ギャグやダジャレが飛び交う舞台に圧倒され、話の半ばまでは設定や状況を把握できず、頭が混乱した。だが、後半になってペリーが登場するあたりから面白くなった。
終盤、母子と父が再会し、三人が楽しく踊るシーンになる。父が躍りながら「夢ではなかろうか」と語ると、「夢だよ~」と息子が応答し、母子は消え去る。あっけに取られるシーンだ。
幕末を舞台にした芝居の役者が、遠い未来世界の観客に語りかけているように思わせるシーンも秀逸だ。賑やかで楽しく、そしてやや苦い舞台だった
チャペックの『ロボット』の21世紀上演 ― 2024年11月24日
シアタートラムで世田谷パブリックシアター企画制作の『ロボット』(原作:カレル・チャペック、潤色・演出:ノゾエ征爾、出演:水田航生、朝夏まなと、渡辺いっけい、他)を観た。100年以上昔の1920年に書かれた芝居である。
私は観劇に先立って岩波文庫版の千野栄一訳を読み、60年前の『SFマガジン』に載った深町真理子訳にも目を通した。今回の上演は栗栖茜訳を潤色している。
ロボットという言葉がチャペックの『RUR』という作品に由来していると知ったのは、SFにはまった高校生の頃だ。当時の私にとって『RUR』は幻の作品だった。だから、『SFマガジン』(1964年8月臨時増刊号)に『RUR』が載ったときには驚喜して読み、この作品が戯曲なのに驚いた。そして、やはりクラシックな内容だなと感じた。あのとき、この作品を舞台で観る機会が訪れるとは夢にも思わなかった。半世紀以上昔のことだ。
今回の観劇では、あのクラシックな作品を21世紀に向けてどんな形で提示しているかに興味があった。
原作戯曲は序幕&三幕であり、「序幕と第二幕のあとで休憩」というこまかな指示まで入っている。今回の上演は休憩なしの2時間に圧縮していて、テンポがいい。笑えるシーンも織り込まれている。原作を大きく改変しているわけではないが、古臭い雰囲気は薄れている。シンプルで抽象的な舞台装置が現代的だ。だがやはり、人物造型や状況設定にクラシックなものを感じる。普遍的な作品と言い換えられるかもしれないが。
労働のために造ったロボットをより人間に近づけるように改造していくと、ロボットたちは人間に対して反乱を起こす。ロボットという言葉の誕生と同時に、ロボットのそんな側面が宿命づけられていたことに、あらためて感じ入った。
この舞台は、生き残った最後の人間がロボットのアダムとイブを世界に送る出すシーンで終わる。だが、今回の上演のラストシーンにはアダムやイブという言葉は出てこない。聖書にしばられた西欧文化的な見方の克服に見え、感心した。
だが、「愛は生命工学を凌駕する」「愛こそが再生への希望」といったやや陳腐なメッセージには少し鼻白んだ。別の終わり方のアイデアが私にあるわけではない。だが、もう一工夫ほしいと感じた。
カーテンコールになって、舞台装置が「最後の人間」の墓碑に組み換えられていくのには驚き、ナルホドと思った。再生するのは人間ではなくロボット(AI)なのだ。
私は観劇に先立って岩波文庫版の千野栄一訳を読み、60年前の『SFマガジン』に載った深町真理子訳にも目を通した。今回の上演は栗栖茜訳を潤色している。
ロボットという言葉がチャペックの『RUR』という作品に由来していると知ったのは、SFにはまった高校生の頃だ。当時の私にとって『RUR』は幻の作品だった。だから、『SFマガジン』(1964年8月臨時増刊号)に『RUR』が載ったときには驚喜して読み、この作品が戯曲なのに驚いた。そして、やはりクラシックな内容だなと感じた。あのとき、この作品を舞台で観る機会が訪れるとは夢にも思わなかった。半世紀以上昔のことだ。
今回の観劇では、あのクラシックな作品を21世紀に向けてどんな形で提示しているかに興味があった。
原作戯曲は序幕&三幕であり、「序幕と第二幕のあとで休憩」というこまかな指示まで入っている。今回の上演は休憩なしの2時間に圧縮していて、テンポがいい。笑えるシーンも織り込まれている。原作を大きく改変しているわけではないが、古臭い雰囲気は薄れている。シンプルで抽象的な舞台装置が現代的だ。だがやはり、人物造型や状況設定にクラシックなものを感じる。普遍的な作品と言い換えられるかもしれないが。
労働のために造ったロボットをより人間に近づけるように改造していくと、ロボットたちは人間に対して反乱を起こす。ロボットという言葉の誕生と同時に、ロボットのそんな側面が宿命づけられていたことに、あらためて感じ入った。
この舞台は、生き残った最後の人間がロボットのアダムとイブを世界に送る出すシーンで終わる。だが、今回の上演のラストシーンにはアダムやイブという言葉は出てこない。聖書にしばられた西欧文化的な見方の克服に見え、感心した。
だが、「愛は生命工学を凌駕する」「愛こそが再生への希望」といったやや陳腐なメッセージには少し鼻白んだ。別の終わり方のアイデアが私にあるわけではない。だが、もう一工夫ほしいと感じた。
カーテンコールになって、舞台装置が「最後の人間」の墓碑に組み換えられていくのには驚き、ナルホドと思った。再生するのは人間ではなくロボット(AI)なのだ。
『ロボット(R.U.R.)』を半世紀ぶりに再読した ― 2024年11月19日
今週末『ロボット』という芝居を観る予定だ。チャペックの有名作『RUR』の上演である。ロボットという言葉は、チェコ語のrobota(賦役)が語源で、1920年に発表されたこの作品から生まれた。
私は半世紀以上昔、この戯曲を『SFマガジン』で読んでいる。内容はほとんど失念している。ロボットの反乱の話だとの記憶はある。この作品が戯曲という珍しい形式だったことが強く印象に残っている。
観劇前に岩波文庫版を入手して再読した。
『ロボット(R.U.R.)』(チャペック/千野栄一訳/岩波文庫)
この文庫を読んだ後、念のために本棚の奥底の古いSFマガジンを探索した。処分した号も多いのだが『RUR』が載った1964年8月臨時増刊号(60年前だ)は残っていた。「名作古典」と紹介されている。深町真理子訳なので重訳かもしれない。岩波文庫版と突き合わせてみて、多少の食い違いに気づいた。SFマガジン版が簡略化されている箇所があり、その逆のケースもある。戯曲は上演のたびに変化することもある。いくつかの版があるのだと思う。
チャペックの元祖ロボットは機械人形ではなく合成人間である。その工場は薬品などを駆使する化学工場だ。昔読んだときは、フランケンシュタインに近いクラシックで古臭い設定だとの印象を受けた。だが、生命工学が発展しつつある現在では、合成人間製造の生化学工場の方が機機械工場より新しいと感じる。
この戯曲を読みながら、半世紀以上昔の初読のときの印象が少しよみがえってきた。私はロボットを労働者の寓意だととらえ、この作品は寓話SFだと思った。『RUR』が発表されたのはロシア革命の数年後だった。
今回の再読で、単純な寓話とは言えないと感じた。ロボットの反乱によって、ただ一人を除いてすべての人間が殺されてしまう。しかし、ロボットたちは自身の再生産の手段を知らず、ロボットも絶滅の危機を迎える。そしてラストシーンで、ロボットのアダムとイブが人間として再生すると予感させる。寓話というよりは神話である。
このやや不自然な設定の物語は、小説ではなく舞台でなければ表現しにくいだろうと思えた。観劇予定の『ロボット』のチラシには「2024年に生きる人々に向けて、シニカルかつ不条理なドラマとして転換し、現代の物語としてお届けします。」とある。百年前の戯曲をどう料理するのか楽しみである。
私は半世紀以上昔、この戯曲を『SFマガジン』で読んでいる。内容はほとんど失念している。ロボットの反乱の話だとの記憶はある。この作品が戯曲という珍しい形式だったことが強く印象に残っている。
観劇前に岩波文庫版を入手して再読した。
『ロボット(R.U.R.)』(チャペック/千野栄一訳/岩波文庫)
この文庫を読んだ後、念のために本棚の奥底の古いSFマガジンを探索した。処分した号も多いのだが『RUR』が載った1964年8月臨時増刊号(60年前だ)は残っていた。「名作古典」と紹介されている。深町真理子訳なので重訳かもしれない。岩波文庫版と突き合わせてみて、多少の食い違いに気づいた。SFマガジン版が簡略化されている箇所があり、その逆のケースもある。戯曲は上演のたびに変化することもある。いくつかの版があるのだと思う。
チャペックの元祖ロボットは機械人形ではなく合成人間である。その工場は薬品などを駆使する化学工場だ。昔読んだときは、フランケンシュタインに近いクラシックで古臭い設定だとの印象を受けた。だが、生命工学が発展しつつある現在では、合成人間製造の生化学工場の方が機機械工場より新しいと感じる。
この戯曲を読みながら、半世紀以上昔の初読のときの印象が少しよみがえってきた。私はロボットを労働者の寓意だととらえ、この作品は寓話SFだと思った。『RUR』が発表されたのはロシア革命の数年後だった。
今回の再読で、単純な寓話とは言えないと感じた。ロボットの反乱によって、ただ一人を除いてすべての人間が殺されてしまう。しかし、ロボットたちは自身の再生産の手段を知らず、ロボットも絶滅の危機を迎える。そしてラストシーンで、ロボットのアダムとイブが人間として再生すると予感させる。寓話というよりは神話である。
このやや不自然な設定の物語は、小説ではなく舞台でなければ表現しにくいだろうと思えた。観劇予定の『ロボット』のチラシには「2024年に生きる人々に向けて、シニカルかつ不条理なドラマとして転換し、現代の物語としてお届けします。」とある。百年前の戯曲をどう料理するのか楽しみである。
ギリシア悲劇をアレンジした『テーバイ』 ― 2024年11月12日
新国立劇場小劇場で『テーバイ』(原作:ソポクレス、構成・上演台本・演出:船岩祐太、出演:植本純米、今井昭彦、他)を観た。
ソポクレスのギリシア悲劇三作品「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」を一本に再構成した芝居である。
私は「オイディプス王」を2回観ている。4年前の海老蔵(当時)の『オイディプス』と昨年の三浦涼介の『オイディプス王』である。海老蔵のオイディプスは背広姿で、設定は感染症で閉ざされた近未来都市だった。三浦涼介のオイディプスはかなりオーソドックスでギリシア悲劇の雰囲気を味わえた。
因縁物語の原型のような「オイディプス王」は何度観ても楽しめる芝居である。他のギリシア悲劇は戯曲を読んだだけで舞台を観たことはない。ソポクレスの現存戯曲は7編だけで、文庫本1冊に収められている。4年前に読んだが、すでに記憶は朧だ。今回の『テーバイ』を観る前に上演台本の元になる3編を読み返した。これらの作品に限らずギリシア悲劇の多くは、作者のオリジナル創作というよりは伝承の再構成である。だから、同じ人物があちこちに登場する。
「オイディプス王」は、スフィンクスを倒してテーバイの王となったオディプスが、自分が殺したのが実の父、結婚相手が実の母と知って絶望する話である。母は首を吊り、オイディプスは自ら両目を潰し、自身をテーバイから追放する。
「コロノスのオイディプス」はその後日譚である。盲目のオイディプスは娘アンティゴネに手を引かれ、各地をさまよった末にアテネ郊外のコロノスにたどり着き、その地で生涯を終える。
「アンティゴネ」はさらなる後日譚だ。オイディプス後、テーバイを統治するオイディプスの二人の息子は諍いによる相打ちで二人とも死ぬ。王妃の弟クレオンが王になり、オイディプスの息子兄弟の弟は埋葬するが兄の埋葬を禁ずる。反逆者と見なしたからである。しかし、妹(オイディプスの娘)アンティゴネは禁を破って兄を埋葬しようとし、クレオンの怒りを買う、という話である。
「コロノスのオイディプス」と「アンティゴネ」は戯曲を読んでもさほど面白くはない。いまいち納得しがたいのだ。だが、今回の再構成作品『テーバイ』は、三作品をテンポのいい一つの舞台(2時間40分。休憩15分を含む)にまとめている。結果的にクレオンが軸になり、統治の悲劇が繰り返される物語という形で、何となく納得させられた。
開演時間前から芝居を始める趣向は面白い。客席の照明がまだ灯っていて、携帯電話オフの注意アナウンスが流れる中で、舞台には俳優が登場し、台詞のないプロローグのような場面を演じ始める。なしくずし的に劇中に誘われていく。
舞台装置や衣装は古代ギリシアでなく現代風である。オイディプスの王宮は19世紀頃の植民地インド総督府のオフィスのような雰囲気だ。オイディプスは白いスーツ姿で、彼が発する布告は傍らの秘書がカシャカシャとタイプライターに打ち込む。
王宮オフィス以外の舞台はシンプルで抽象的だ。台詞はソポクレスをそのまま使用している。コロスはなく、わかりやすい対話のストレートプレイになっている。ギリシア悲劇の骨格の普遍性を表現するアレンジである。
王宮オフィス舞台の正面には大扉があり、多くの役者はそこから出入りする。外界のニュースも大きなノック音とともにその扉からもたらされる。王宮オフィスが世界から孤絶した空間のようにも感じられた。
ソポクレスのギリシア悲劇三作品「オイディプス王」「コロノスのオイディプス」「アンティゴネ」を一本に再構成した芝居である。
私は「オイディプス王」を2回観ている。4年前の海老蔵(当時)の『オイディプス』と昨年の三浦涼介の『オイディプス王』である。海老蔵のオイディプスは背広姿で、設定は感染症で閉ざされた近未来都市だった。三浦涼介のオイディプスはかなりオーソドックスでギリシア悲劇の雰囲気を味わえた。
因縁物語の原型のような「オイディプス王」は何度観ても楽しめる芝居である。他のギリシア悲劇は戯曲を読んだだけで舞台を観たことはない。ソポクレスの現存戯曲は7編だけで、文庫本1冊に収められている。4年前に読んだが、すでに記憶は朧だ。今回の『テーバイ』を観る前に上演台本の元になる3編を読み返した。これらの作品に限らずギリシア悲劇の多くは、作者のオリジナル創作というよりは伝承の再構成である。だから、同じ人物があちこちに登場する。
「オイディプス王」は、スフィンクスを倒してテーバイの王となったオディプスが、自分が殺したのが実の父、結婚相手が実の母と知って絶望する話である。母は首を吊り、オイディプスは自ら両目を潰し、自身をテーバイから追放する。
「コロノスのオイディプス」はその後日譚である。盲目のオイディプスは娘アンティゴネに手を引かれ、各地をさまよった末にアテネ郊外のコロノスにたどり着き、その地で生涯を終える。
「アンティゴネ」はさらなる後日譚だ。オイディプス後、テーバイを統治するオイディプスの二人の息子は諍いによる相打ちで二人とも死ぬ。王妃の弟クレオンが王になり、オイディプスの息子兄弟の弟は埋葬するが兄の埋葬を禁ずる。反逆者と見なしたからである。しかし、妹(オイディプスの娘)アンティゴネは禁を破って兄を埋葬しようとし、クレオンの怒りを買う、という話である。
「コロノスのオイディプス」と「アンティゴネ」は戯曲を読んでもさほど面白くはない。いまいち納得しがたいのだ。だが、今回の再構成作品『テーバイ』は、三作品をテンポのいい一つの舞台(2時間40分。休憩15分を含む)にまとめている。結果的にクレオンが軸になり、統治の悲劇が繰り返される物語という形で、何となく納得させられた。
開演時間前から芝居を始める趣向は面白い。客席の照明がまだ灯っていて、携帯電話オフの注意アナウンスが流れる中で、舞台には俳優が登場し、台詞のないプロローグのような場面を演じ始める。なしくずし的に劇中に誘われていく。
舞台装置や衣装は古代ギリシアでなく現代風である。オイディプスの王宮は19世紀頃の植民地インド総督府のオフィスのような雰囲気だ。オイディプスは白いスーツ姿で、彼が発する布告は傍らの秘書がカシャカシャとタイプライターに打ち込む。
王宮オフィス以外の舞台はシンプルで抽象的だ。台詞はソポクレスをそのまま使用している。コロスはなく、わかりやすい対話のストレートプレイになっている。ギリシア悲劇の骨格の普遍性を表現するアレンジである。
王宮オフィス舞台の正面には大扉があり、多くの役者はそこから出入りする。外界のニュースも大きなノック音とともにその扉からもたらされる。王宮オフィスが世界から孤絶した空間のようにも感じられた。
やっと三人吉三を舞台で観た ― 2024年11月09日
十一月歌舞伎座特別公演を観た。11月恒例の顔見世ではなく、「ようこそ歌舞伎座へ」と題した新観客開拓をめざした特別公演である。冒頭、映像による歌舞伎座の舞台裏紹介や入門的イベントがあり、面白かった。続く演し物は若手役者中心の『三人吉三巴白浪』と『石橋(しゃっきょう)』である。客席には高校生や外国人観光客の団体が目立った。
私の目当ては『三人吉三巴白浪』だ。私は、まだ歌舞伎で「三人吉三」を観たことがなく、観劇の機会を窺っていたのである。
「三人吉三」を知ったのは約60年前の中学生の頃だ。1963年、橋幸夫の「お嬢吉三」が大ヒットし、テレビやラジオで繰り返し流れた。当時、橋幸夫は大スターだった。私は橋幸夫の青春歌謡は好んで聴いたが、股旅モノは苦手だった。「お嬢吉三」も好みではなかった。古臭いと思った。しかし、なぜか耳に馴染み、歌詞も自然に頭に残ってしまった。お嬢吉三が何者かを知らないままに、その名前は記憶に刻まれた。
いま「お嬢吉三」を聴き返すと、軽快でいい曲である。歌詞の調子もいい。最後まで聴くと、お嬢吉三・お坊吉三・和尚吉三の三人が順番に登場し、頭の中に芝居の情景が浮かんでくる。
三人吉三がどんな話か確認するため、歌舞伎台本『三人吉三廓初買』(河竹黙阿弥)を読んだのは6年前だ。しかし、観劇の機会がないまま月日が過ぎた。
今回の公演は「大川端庚申塚の場」のみである。七五調の名調子「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」で始まり三人が出会う、という最も有名な場だ。和尚吉三が中心の三角形の見得を観ると、歌舞伎を観たという気分になり、それだけで満足した。
それにしても、夜鷹を川に突き落として「やれ可哀そうなことをした」と言いつつも「こいつあ春から縁起がいいわえ」とは、非道い話である。死をもてあそぶような舞台に「痴呆の芸術」(谷崎潤一郎)という言葉を想起した。痴呆が芸術にとどまっている限りは結構なことなのだが。
私の目当ては『三人吉三巴白浪』だ。私は、まだ歌舞伎で「三人吉三」を観たことがなく、観劇の機会を窺っていたのである。
「三人吉三」を知ったのは約60年前の中学生の頃だ。1963年、橋幸夫の「お嬢吉三」が大ヒットし、テレビやラジオで繰り返し流れた。当時、橋幸夫は大スターだった。私は橋幸夫の青春歌謡は好んで聴いたが、股旅モノは苦手だった。「お嬢吉三」も好みではなかった。古臭いと思った。しかし、なぜか耳に馴染み、歌詞も自然に頭に残ってしまった。お嬢吉三が何者かを知らないままに、その名前は記憶に刻まれた。
いま「お嬢吉三」を聴き返すと、軽快でいい曲である。歌詞の調子もいい。最後まで聴くと、お嬢吉三・お坊吉三・和尚吉三の三人が順番に登場し、頭の中に芝居の情景が浮かんでくる。
三人吉三がどんな話か確認するため、歌舞伎台本『三人吉三廓初買』(河竹黙阿弥)を読んだのは6年前だ。しかし、観劇の機会がないまま月日が過ぎた。
今回の公演は「大川端庚申塚の場」のみである。七五調の名調子「月も朧に白魚の篝も霞む春の空」で始まり三人が出会う、という最も有名な場だ。和尚吉三が中心の三角形の見得を観ると、歌舞伎を観たという気分になり、それだけで満足した。
それにしても、夜鷹を川に突き落として「やれ可哀そうなことをした」と言いつつも「こいつあ春から縁起がいいわえ」とは、非道い話である。死をもてあそぶような舞台に「痴呆の芸術」(谷崎潤一郎)という言葉を想起した。痴呆が芸術にとどまっている限りは結構なことなのだが。
林芙美子の戦中・戦後を描いた『太鼓たたいて笛ふいて』 ― 2024年11月03日
紀伊国屋サザンシアターでこまつ座公演『太鼓たたいて笛ふいて』(作:井上ひさし、演出:栗山民也、出演:大竹しのぶ、高田聖子、福井晶一、天野はな、近藤公園、土屋佑壱)を観た。
林芙美子の半生を描いた音楽劇である。林芙美子が『放浪記』で売れっ子作家になったのは1930年、27歳のときだった。戦時中は多くの作家と同じように軍の要請で戦地に赴いて現地報告などを発表する。戦後も精力的に作品を発表するが、1951年、心臓麻痺で急逝した。
1935年から1951年までの林芙美子邸がメイン舞台である。満州事変が日中戦争に拡大していく時代から、敗戦後6年の林芙美子急逝までを描いている。登場人物は6人、その6人による合唱で幕が上がる。登場人物の紹介のような合唱に、「ドン」「ピッ」という間の手のような掛け声が入る。芝居がかなり進行してから、あの「ドン」「ピッ」は太鼓の音と笛の音だったのだと気づいた。
この芝居は10年ぶりの5度目の上演で、初回(2002年)から大竹しのぶが主演だそうだ。私は初見である。戯曲も読んでいない。
カンパのために芙美子邸を訪れた女性が島崎藤村の姪・島崎こま子なのには驚いた。やがて、芙美子邸に同居する。観劇後、どこまでが史実に基づいているのか気になり、少し調べた。多少の接点はあったようだがフィクションだと思う。こんな設定を考え出した井上ひさしの作劇の才に感服した。
観劇前に林芙美子について検索した際、急逝のときのエピソードを知った。売れっ子作家の原稿を取りにきた編集者は、締め切り逃れの嘘だと思って「死んだふりはやめてください」と遺体の面布を剥がしたそうだ。このエピソードは芝居の取り入れられているだろうと推測したが、ハズレた。ラストはコメディではなくシリアスだった。
この芝居は、従軍作家として戦争宣伝の文章を発表していた林芙美子が、戦地を巡るなかで戦争の実情を知り、太鼓をたたいて笛をふくことをやめる決断に至る話である。音楽劇にこめられたメッセージはシリアスだ。
林芙美子の半生を描いた音楽劇である。林芙美子が『放浪記』で売れっ子作家になったのは1930年、27歳のときだった。戦時中は多くの作家と同じように軍の要請で戦地に赴いて現地報告などを発表する。戦後も精力的に作品を発表するが、1951年、心臓麻痺で急逝した。
1935年から1951年までの林芙美子邸がメイン舞台である。満州事変が日中戦争に拡大していく時代から、敗戦後6年の林芙美子急逝までを描いている。登場人物は6人、その6人による合唱で幕が上がる。登場人物の紹介のような合唱に、「ドン」「ピッ」という間の手のような掛け声が入る。芝居がかなり進行してから、あの「ドン」「ピッ」は太鼓の音と笛の音だったのだと気づいた。
この芝居は10年ぶりの5度目の上演で、初回(2002年)から大竹しのぶが主演だそうだ。私は初見である。戯曲も読んでいない。
カンパのために芙美子邸を訪れた女性が島崎藤村の姪・島崎こま子なのには驚いた。やがて、芙美子邸に同居する。観劇後、どこまでが史実に基づいているのか気になり、少し調べた。多少の接点はあったようだがフィクションだと思う。こんな設定を考え出した井上ひさしの作劇の才に感服した。
観劇前に林芙美子について検索した際、急逝のときのエピソードを知った。売れっ子作家の原稿を取りにきた編集者は、締め切り逃れの嘘だと思って「死んだふりはやめてください」と遺体の面布を剥がしたそうだ。このエピソードは芝居の取り入れられているだろうと推測したが、ハズレた。ラストはコメディではなくシリアスだった。
この芝居は、従軍作家として戦争宣伝の文章を発表していた林芙美子が、戦地を巡るなかで戦争の実情を知り、太鼓をたたいて笛をふくことをやめる決断に至る話である。音楽劇にこめられたメッセージはシリアスだ。
100年以上昔の芝居に英国風を感じた ― 2024年10月23日
わが家から徒歩30分のせんがわ劇場で『ドクターズジレンマ』(作:バーナード・ショー、翻訳:小田島創志、演出:小笠原響、出演:佐藤誓、大井川皐月、他)を観た。
19世紀から20世紀にかけての高名な文学者バーナード・ショーの作品を読んだことはない。ノーベル文学賞受賞者で多くの戯曲を書いたそうだが、その演劇を観たこともない。100年以上前にロンドンで初演された『ドクターズジレンマ』も初耳である。
今回の戯曲は小田島創志氏による新訳だそうだ。チラシを見てもどんな話かよくわからない。近所の劇場での上演であり、バーナード・ショーはどんな芝居を書いているのか興味がわき、チケットを購入した。
せんがわ劇場は客席百数十の小さな劇場である。以前に観劇したレイアウトとはかなり違っていた。舞台は台形で、それを囲む三方に客席をしつらえている。正面は2列、左右は7列だ。役者は四方から出入りする。客席と舞台が近いのがいい。役者の熱気が直に伝わってくる。稽古場で芝居を観ているような気分になる。
2時間30分(休憩10分を含む)の芝居だった。6人の医師と若くて貧しい画家夫婦の話である。主人公はナイトの称号を得た高名な医師である。多忙なので新たな患者は受け付けない。そこに、画家の妻が結核の夫の診察を依頼に来る。医師は若い妻の魅力に惹かれて診察を受諾するが――というのが話の発端である。
当初はコメディかなと思っていたが、そうでもない。シリアスとも言えない。100年以上前の英国の風俗習慣がわからないので、目の前のシーンが誇張なのかリアルなのか判断し難くなったりもする。
エリート医師たちは患者が死ぬのは仕方ないと考えているようだ。患者を何人殺したかがステータスと思っているフシもある。作者のアイロニーだろう。観劇を終えて、この芝居は皮肉な悲喜劇だと思った。そして、これが英国風か、と感じた。
19世紀から20世紀にかけての高名な文学者バーナード・ショーの作品を読んだことはない。ノーベル文学賞受賞者で多くの戯曲を書いたそうだが、その演劇を観たこともない。100年以上前にロンドンで初演された『ドクターズジレンマ』も初耳である。
今回の戯曲は小田島創志氏による新訳だそうだ。チラシを見てもどんな話かよくわからない。近所の劇場での上演であり、バーナード・ショーはどんな芝居を書いているのか興味がわき、チケットを購入した。
せんがわ劇場は客席百数十の小さな劇場である。以前に観劇したレイアウトとはかなり違っていた。舞台は台形で、それを囲む三方に客席をしつらえている。正面は2列、左右は7列だ。役者は四方から出入りする。客席と舞台が近いのがいい。役者の熱気が直に伝わってくる。稽古場で芝居を観ているような気分になる。
2時間30分(休憩10分を含む)の芝居だった。6人の医師と若くて貧しい画家夫婦の話である。主人公はナイトの称号を得た高名な医師である。多忙なので新たな患者は受け付けない。そこに、画家の妻が結核の夫の診察を依頼に来る。医師は若い妻の魅力に惹かれて診察を受諾するが――というのが話の発端である。
当初はコメディかなと思っていたが、そうでもない。シリアスとも言えない。100年以上前の英国の風俗習慣がわからないので、目の前のシーンが誇張なのかリアルなのか判断し難くなったりもする。
エリート医師たちは患者が死ぬのは仕方ないと考えているようだ。患者を何人殺したかがステータスと思っているフシもある。作者のアイロニーだろう。観劇を終えて、この芝居は皮肉な悲喜劇だと思った。そして、これが英国風か、と感じた。
『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は不気味で面白い ― 2024年10月07日
吉祥寺シアターで劇団青年座公演『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』(作:別役実、演出:金澤菜乃英、出演:山路和弘、山本龍二、他」を観た。おかしくて不気味な別役ワールドを堪能した。
舞台には「移動簡易宿泊所」の看板がある。面白い看板だ。旅人にとって、地図で確認できる灯台のような「固定宿泊所」こそが頼りだと思う。だが、考えてみれば、移動(遍歴)する人とともに移動する宿泊所の方が便利かもしれない。と言っても、どこに出現するかわからない宿泊所はあやふやで頼りない。この看板は、不思議世界に誘い込まれる秀逸な空間設定だ。
『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は、ドン・キホーテとは大きく異なり、騎士は二人、従者も二人である。騎士はかなり年老いてヨボヨボである。そのくせに大食漢で、人殺しの技には長けている。しかも、ドン・キホーテとは逆に、従者より醒めた存在に見える。風車に突撃するのは騎士ではなく従者である。
騎士と従者の他に、宿の亭主と娘、医師と看護婦、牧師が登場する。医師と看護婦は患者を求めてさすらい、牧師は葬儀を求めて医師たちの後を追うようにさすらっている。これらの人物が遭遇する移動宿泊所で最後まで生き残るのは、遍歴に疲れ果て、死に場所を求めているようにさえ見える騎士二人である。不条理というよりは、人の世のアイロニーが浮かび上がってくる。
舞台には「移動簡易宿泊所」の看板がある。面白い看板だ。旅人にとって、地図で確認できる灯台のような「固定宿泊所」こそが頼りだと思う。だが、考えてみれば、移動(遍歴)する人とともに移動する宿泊所の方が便利かもしれない。と言っても、どこに出現するかわからない宿泊所はあやふやで頼りない。この看板は、不思議世界に誘い込まれる秀逸な空間設定だ。
『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』は、ドン・キホーテとは大きく異なり、騎士は二人、従者も二人である。騎士はかなり年老いてヨボヨボである。そのくせに大食漢で、人殺しの技には長けている。しかも、ドン・キホーテとは逆に、従者より醒めた存在に見える。風車に突撃するのは騎士ではなく従者である。
騎士と従者の他に、宿の亭主と娘、医師と看護婦、牧師が登場する。医師と看護婦は患者を求めてさすらい、牧師は葬儀を求めて医師たちの後を追うようにさすらっている。これらの人物が遭遇する移動宿泊所で最後まで生き残るのは、遍歴に疲れ果て、死に場所を求めているようにさえ見える騎士二人である。不条理というよりは、人の世のアイロニーが浮かび上がってくる。
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