小説に続いて胡桃沢耕史のシルクロード紀行記を読んだ2025年06月12日

『天山・絲綢之路(シルクロード)行』(胡桃沢耕史、写真:正木信之/徳間文庫)、『タクラマカン砂漠2500キロの旅』(胡桃沢耕史、写真:正木信之/光文社文庫)
 ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠を舞台にした胡桃沢耕史(清水正二郎)の小説『天山を越えて』『肉の砂漠』に続けて、彼のシルクロード紀行記2冊を読んだ。

 『天山・絲綢之路(シルクロード)行』(胡桃沢耕史、写真:正木信之/徳間文庫/1987.7)
 『タクラマカン砂漠2500キロの旅』(胡桃沢耕史、写真:正木信之/光文社文庫/1989.6)

 どちらもカラー写真をふんだんに載せた文庫オリジナルの紀行記である。

 NHKの『シルクロード』が放映された1980年代初頭、一般の人がシルクロード地域を旅行するのは難しかった。しかし、中国は次第に限られた場所で観光客を受け入れるようになる。そんなシルクロード観光初期、胡桃沢耕史はシルクロードを踏破しようと考える。ある程度の人数がまとまらなければ受け入れてもらえないので、知人を集めたツアーを計画する。一度でシルクロードを踏破するのは無理である。何回かにわけた約2週間ずつの踏破計画を組む。その1回目と2回目の記録がこの2冊である。

 1回目の参加者は15名。出発は1986年9月。旅程は、北京→西安→蘭州→酒泉→敦煌→トルファン→ウルムチである。酒泉までは飛行機を乗り継ぎ、その先はゴビ砂漠を車で行く。酒泉付近には万里の長城の終点・嘉峪関がある。

 2回目の参加者は24名。出発は1988年9月。当初、ウルムチからカシュガルへのコースを予定していた。出発直前になってホータンが「解放都市」になり観光可能になるとの知らせがあり、当初とは逆回りに変更する。ホータンまで飛行機、その先はタクラマカン砂漠の外縁を車で時計回りに、ホータン→カシュガル→アクス→クチャ→ウルムチと巡る。

 2年を経た2回のシルクロード紀行記を続けて読むと、ひとつの一連の旅を追体験した気分になる。私はこの地域に行ったことはないが、観光客を受け入れ始めたばかりの頃の中国の状況がいろいろわかって面白い。トイレ事情などもタイヘンだ。現在の敦煌は観光地化していて興ざめだと聞いたことがあるが、著者は40年近く前の敦煌を、すでに観光地化していると述べている。

 この2冊で、著者は若い頃の自身のシルクロード体験を断片的に語っている。終戦2年前の1943年、18歳だった著者は蒙古人になりきって、パオトウ(包頭)経由で嘉峪関まで歩いたそうだ(千数百キロメートル)。また、ウルムチから天山の山中の天池へ徒歩往復8日で行ったとも語っている。旅の目的は軍事に関わるとしてボヤかしているが、盛世才に関連していると匂わしている。

 1回目も2回目も、紀行の最終場面は天山の山中の天池である。そこは1943年に18歳の著者が訪れた場所であり、『天山を越えて』のラストシーンの場所でもある。著者によれば、18歳でこの地に来たとき、40年近く後に『天山を越えて』となる物語の大体の構想を得ていたそうだ。

 著者はシルクロードの旅の目的を「ぼくが書いた『天山を越えて』という小説の後をなぞることにあった」と述べている。あの小説には、執筆時点では著者が訪れていないカシュガルやホータンなども登場する。著者にとっての2回の紀行は、自身の遠い記憶をなぞるとともに、自身が想像した情景ををなぞる旅でもあった。

 この2冊の紀行記のどちらにも馬仲英への言及があるのも興味深い。著者にとっては砂漠の英雄だったのかもしれない。

『チンギス・カンとモンゴル帝国』は目配りのいい概説書2025年06月03日

『チンギス・カンとモンゴル帝国』(ジャン=ポール・ルー、杉山正明監修/「知の再発見」双書/創元社)
 先日読んだ『クビライ・カアンの驚異の帝国:モンゴル時代史鶏肋抄』は、かなり歯ごたえがあり、やや消化不良だった。いつの日か再挑戦するかもしれない。それまでに、わが頭にモンゴル史の基本を整理定着させたいものだ。そんなこと思いつつ、口直し気分でコンパクトな次の本を読んだ。

 『チンギス・カンとモンゴル帝国』(ジャン=ポール・ルー、杉山正明監修/「知の再発見」双書/創元社)

 「知の再発見」双書は画像がメインで読みやすい。この双書のなかでも本書は比較的ページ数が少なく、短時間で読了できた。だが、得るものは大きかった。モンゴルへの肯定的な記述が多いのが意外だった。

 監修者の杉山正明は序文で次のように評価している。

 「フランスのアジア史家ジャン=ポール・ルー氏による本書は、イスラーム美術にくわしい氏の特徴をそなえた平易で簡便な入門書である。欧米におけるモンゴル帝国史研究の成果もよくとり入れられており、日本人研究者の成果も、最近のものも含め、予想以上に参照されている。」

 モンゴルの戦争・戦闘に関する記述などは、多くの人が漠然と抱いているイメージとは少し異なる。モンゴルの遠征はすべて注意深く計画され、巧妙かつ正確に遂行された。大規模な戦闘は避け、小競り合いの繰り返しで相手を疲労させ、士気を喪失させることを狙った。奸計も駆使し、相手に大いなる恐怖心を植え付け、戦わずして征服することをよしとしていたのだ。その目的のため、モンゴルの恐ろしさを流布する組織的プロパガンダを展開した。

 モンゴルが宗教に寛大で、モンゴル支配下の地域では信教が自由だったことはよく知られている。本書には「モンケの受洗」の絵が載っている。第4代カアンのモンケがキリスト教に改宗したことを伝える絵である。もちろん誤報だが、当時のヨーロッパでは大きな反響を呼んだそうだ。

 宗教や交易だけでなく、モンゴルにおける科学や芸術の振興にもページを割いていて興味深い。目配りのいい概説書である。

研究者の世界が垣間見える“モンゴル時代史鶏肋抄”2025年05月31日

『クビライ・カアンの驚異の帝国:モンゴル時代史鶏肋抄』(宮紀子/ミネルヴァ書房)
 先々月の新聞広告で見た次の本が気になった。昨年Eテレで放映した『3か月でマスターする世界史』に出演していたモンゴル史研究者の新刊である。

 『クビライ・カアンの驚異の帝国:モンゴル時代史鶏肋抄』(宮紀子/ミネルヴァ書房)

 『モンゴル帝国の歴史』(デイヴィッド・モーガン)を読んで頭が少しモンゴル史モードになったので、この新刊を入手して読了した。

 宮紀子氏は1972年生まれの京大人文科学研究所助教、現役の研究者である。本文の前に巻末の「おわりに」を読み、研究現場の日常に圧倒された。研究者は、漢文・ペルシア語・イタリア語などの基本史料(『元史』『モンゴル秘史』『集史』『東方見聞録』など)をほとんど暗記するぐらいに読み込むのがベースのようだ。著者は『元史』を少なくとも二百回以上は通読し、ペルシア語やイタリア語の原典もボロボロらしい。

 本書は一般書である。ミネルヴァ書房のPR誌『究』に36回にわたって連載した記事をまとめたものである。私はこのPR誌を見たことはないが、PR誌連載記事なら読みやすそうだと思った。

 本書のサブタイトル「モンゴル時代史鶏肋抄」は雑誌連載時の表題である。「鶏肋」を辞書で引くと「鶏のあばらぼね。大して役に立たないが捨てるに惜しいもの」とある。論文にとりあげるほどの価値はないが棄てるには勿体ない小ネタを表している。歴史こぼれ話のような気楽なエピソード集だろうと予感した。だが、そんな生やさしい書ではなかった。

 36編の記事は確かに小ネタ集のようだが、想定以上に専門的で門外漢の私には歯が立たない記述が多い。原典史料の解説は研究入門者向けの雑談風講義のようでもあり、人名だか地名だが事項名だかよくわからないカタカナ単語に難儀した。読了したというよりは目を通しただけという気分である。でも、ハンコ偽造、ファッション、宴会料理、カラクリ時計など多岐にわたる興味深い話題が多く、十分に楽しめた。

 モンゴル帝国の首都カラコルムを訪れた西欧の使節としては修道士のカルピニやルブルクが有名である。彼らはカアンへの献上物を携えた使節ということで、モンゴル帝国のジャムチ(駅伝)を利用した無料で安全な往来ができたらしい。ルブルクの場合、手土産として葡萄酒・ビスケット・果物しか用意していなかったので各地で怒りや不満を買ったそうだ。面白いエピソードだ。

 本書の記事の何編かには、雑誌連載時の後に付加した「附記」がある。その一つに、ある研究者から記事の内容は自分の研究発表の剽窃とのクレームが来た話がある。著者は、記事の内容は研究者の間では以前からの共通認識であり、そんな初歩的なことがらを「発見」と自負する主張に驚いたと反論している。私には、このクレームや反論を評価・判断する能力はないが、研究者の世界の様子を垣間見ることができて面白かった。

『モンゴル帝国の歴史』は訳者のツッコミが興味深い2025年05月24日

『モンゴル帝国の歴史』(デイヴィッド・モーガン/杉山正明+大島淳子訳/角川選書/1993.2)
 何年か前、モンゴル史の碩学・杉山正明の一連の著作で「世界史」を作ったモンゴルの面白さを知った。だが、その知識もかなり霞んできている。モンゴル史の復習気分で、一昨年古書で入手した次の本を読んだ。

 『モンゴル帝国の歴史』(デイヴィッド・モーガン/杉山正明+大島淳子訳/角川選書/1993.2)

 この本は、ある若いモンゴル史研究者から「必読書です」と薦められたので入手した。読了して、その意味を了解した。訳者が述べているように「研究書に近い一般書」で、モンゴル史研究を目指す人のための手引書の趣もある。門外漢の私には多少歯ごたえがあったが、興味深く読了できた。

 著者モーガンは1945年生まれの英国人研究者。原著の刊行は1986年である。訳者は1952年生まれの杉山正明(2019年没)。訳書が出た1993年2月、著者は47歳、訳者は40歳だった。

 1993年当時、杉山正明の『大モンゴルの世界』(1992年)は刊行されていたが『モンゴル帝国の興亡』(1996年)はまだ出ていない。

 「訳者あとがき」では、本書を「現時点で欧米における最良のモンゴル帝国史の概説書」と評価したうえで、次のようにも述べている。

 「疑問点・問題点も、じつはかなりある。訳者にも、いろいろ異論があるところもある。しかし、それは当然のことであるし、またそれらに言及するのは別の機会にゆずりたい」

 この文章を読み、この訳書以降に刊行された杉山正明の一般向けの一連の著作は、この訳書への異論の敷衍という意味があったのかもしれないと感じた。

 モンゴル帝国にかかわる文献史料は、漢語とペルシア語の二大史料群をはじめ二十数か国語にわたるそうだ。日本・中国など「東方」の研究者は漢文史料などの「東方文献」を主に利用し、「西方」の研究者はペルシア語史料を中心にした「西方文献」を主に利用する。本書の著者は「西方」の研究者なので、訳者の眼で見て東方事情や元朝に関する部分が弱いそうだ。

 よって、本書には本文中に[ ]でくくった訳者の異論が随所に挿入されている。短文のツッコミのようなコメントで、これが読書の刺激になって面白い。同時代の研究者である著者と訳者の見解が衝突しているのだ。簡単なコメントなので、その論拠を展開しているわけではない。訳者の他の著書で論拠を確認したくなる。

 また、本書によって十字軍時代のモンゴル(イル・カン国)と西欧の交渉情況を知り、少々驚いた。西欧はイスラムに対抗するため、イル・カン国との提携をかなり本気で考えていたらしい。イル・カン国からはネストリウス派(古代キリスト教の一派)の教士が使節として西欧に赴き、フランスや英国の王に謁見し、教皇からも歓待されたそうだ。このとき、カトリックはネストリウス派を異端とは見なさなかった。この提携は、イル・カン国のイスラム化によって水泡に帰す。

コンパクトな概説書で十字軍の基本情報を整理2025年05月21日

 『十字軍:ヨーロッパとイスラム・対立の原点』(ジョルジュ・タート/池上俊一監修/「知の再発見」双書/創元社)
 『アラブが見た十字軍』『図説十字軍』を続けて読んだ流れで、「知の再発見」双書の『十字軍』も読んだ。

 『十字軍:ヨーロッパとイスラム・対立の原点』(ジョルジュ・タート/池上俊一監修/「知の再発見」双書/創元社)

 カラー図版中心のコンパクトな概説書で読みやすい。十字軍200年の歴史の基本情報の整理になる。

 本書は多様で細かな図版の他に見開きの写実的な絵画8点を掲載している。十字軍のさまざまな情景を描いた19世紀の西欧絵画である。4年前、ドレの精緻な版画をまとめた『絵で見る十字軍物語』に惹かれたが、カラー図版の油絵も迫力がある。歴史の一場面を描いた映像によって歴史が身近に感じられ、記憶の定着につながる。

 と言っても、これらの絵画は記録写真ではない。後世の画家の想像力が紡ぎ出した情景であり、フィクションに近いと思う。そこには、西欧から見た十字軍のイメージが反映されている。

 西欧絵画は読者を惹きつけるが、本書はヨーロッパ側とイスラム側の双方の視点からバランスよく十字軍を描いている。本書後半の資料編の最終章「十字軍に関する見解のまとめ」では『アラブが見た十字軍』のラストを紹介している。現代のアラブ視点による「十字軍が残した傷跡」の総括である。

 この資料編には、アラビアのロレンスが残したクロッキーも載っている。考古学者ロレンスは十字軍がシリアやパレスティナに築いた要塞をペン書きや鉛筆書きで記録している。興味深い絵だ。

 ビザンツ人やアラブ人にとってフランク(西欧)人は粗野で乱暴で無知な存在だった。当時のフランクの騎士は、文盲がよしとされ、教養は精神の堕落になると蔑視していたと、本書の記述で初めて知った。

 ビザンツ文化やイスラム文化は文書を基盤とするが、フランクは違った。両者の溝は深かった。第4回十字軍でコンスタンティノープルを占領したフランク兵は、さかんに筆を動かすふりをしながら街を歩き回ったそうだ。書くという行為は愚弄の対象だった。十字軍はそんな時代の出来事である。

 本書によれば、二つの文化(ビザンツ&イスラム文化とフランク文化)の溝が埋まり始めたの十字軍後半の13世紀から14・15世紀にかけてである。西欧は徐々に粗野・乱暴・無知を克服していったのである。

『図説十字軍』は想定とやや違う内容だった…2025年05月14日

『図説十字軍』(櫻井康人/ふくろうの本/河出書房新社)
 『アラブが見た十字軍』で当時のイスラム世界の様子を概観し、西欧視点の十字軍についてもザーッと再確認しておこうと思い、次の本を読んだ。

 『図説十字軍』(櫻井康人/ふくろうの本/河出書房新社)

 著者は十字軍研究の歴史学者である。図版を多用した入門書のつもりで読み始めたが、少し勝手が違った。本書は、現在のおける十字軍史研究をふまえた概説書である。現在、十字軍は次のように定義されているそうだ。

 「十字軍とはキリスト教会のために戦うことで贖罪を得ることであり、それは1095年からナポレオンによるマルタの占領(1798年)までの約700年間、いたる所で展開された。」

 この定義は、私たちが普通に考える「第1回十字軍(1096-1099)から約200年間のエルサレム奪回軍事遠征」よりかなり広い。本書はこの広い定義に基づいて、約700年間のさまざまな十字軍を概説している。少々面食らったが勉強になった。

 歴史家ピレンヌ(1862-1935)は、ヨーロッパの成立に関して「マホメットなくしてシャルルマーニュなし」というピレンヌ・テーゼを提唱した。本書冒頭、このテーゼは現在では否定されているとしている。驚いた。カロリング朝時代のイスラムの地中海進出が地中海貿易を途絶させ、ヨーロッパの貨幣経済は衰退し、自給自足的農業基盤生活となり、中世の封建社会が形成された、という説の否定である。現在では、イスラムの地中海進出によって地中海交易は活性化したと考えられているそうだ。

 また、イベリア半島に侵入したイスラム勢力をフランク王国が押しとどめたトゥール・ポアティエ間の戦い(732年)の際、フランクは相手をイスラムとは認識せず、異教徒の蛮族と見ていたらしい。ヨーロッパがイスラムを本格的に認識したのは第1回十字軍の後だそうだ。ヘェーと思った。

 十字軍に関しても「パレスチナの地に財産を求めて行った」「十字軍の参加者は家督を継げない次男・三男だった」という説を否定している。参加者の多くは、後に十字軍家系と呼ばれる特定の家系の者たちだったそうだ。その家系に属する者にとって、十字軍への参加は一種の通過儀礼であり、参加によって当該家系が多くの財産を失うことを承知で参加したという。認識を新たにする見解だ。

 本書はフリードリヒ2世がアイユーブ朝のアル・カーミルとの交渉でエルサレムを回復した「東方遠征」について、フリードリヒが破門状態だったため「彼の東方遠征は贖罪価値を伴う十字軍ではなかった」としている。フリードリヒの遠征を「第6回十字軍」とする見方も多いと思うが、現在の定義では十字軍にあたらないらしい。本書はルイ9世の1回目の十字軍を「第6回十字軍」としている。

 意外に感じたのは英仏百年戦争(1337~1453年)が十字軍戦争だとの指摘である。当時、教皇位が分裂し、ローマとアヴィニヨンに教皇が並立していた。それぞれの教皇が贖罪を得る十字軍特権を授けたため、百年戦争は互いに対する十字軍になったそうだ。

 ややリゴリズムとも感じられる本書だが、聖地巡礼の黄金期に関する指摘は興味深い。パレスチナの十字軍国家が消滅した後の14~15世紀が聖地巡礼の黄金期だった。十字軍国家が存在していた時期の巡礼は危険で、パレスチナがイスラム世界になってはじめて安全な巡礼ができるようになったのだ。歴史の皮肉である。

『アラブが見た十字軍』はイスラム世界のドタバタ劇か?2025年05月11日

『アラブが見た十字軍』(ミン・マールーフ/牟田口義郎、新川雅子訳/ちくま学芸文庫)
 『中世ヨーロッパ』(堀米庸三)、『ヨーロパ中世』(鯖田豊之)の2冊を続けて読んで頭が 中世モードになり、未読棚の次の本を引っ張り出して読んだ。

 『アラブが見た十字軍』(アミン・マアルーフ/牟田口義郎、新川雅子訳/ちくま学芸文庫)

 著者は1949年レバノン生まれのジャーナリスト。私より1歳若い。原書はフランス語、1983年の刊行だ。タイトル通り、アラブ視点で十字軍襲来を描いている。

 十字軍はヨーロッパ視点で語られることが多い。そもそも「十字軍」という概念や用語がヨーロッパ視点である。私は4年前に塩野七生の『十字軍物語』を読んだ。あの歴史小説も基本的にはヨーロッパ視点だが、イスラム側から見た十字軍の野蛮な後進性にも言及していた。

 本書のタイトルから、西方から襲来する蛮族の侵略行為を描いた本だろうと思った。だが、少し違っていた。もちろん、フランク(ヨーロッパから来た十字軍をイスラム側はフランクと呼ぶ)の蛮行も描いているが、フランク襲来の時代のイスラム世界の混迷ぶりの描写がメインである。混迷の後にサラディンらによる統一と反撃があるのだが、全般に不条理なドタバタ劇の印象が強い。

 最初の十字軍が小アジアに現れた1096年頃、セルジューク朝はすでに全盛期を過ぎ、分離傾向が強くなっていた。小アジアで最初に十字軍に対応したのは、バグダードから分離独立したルーム=セルジューク朝のスルタンである。

 第一回十字軍がエルサレム占拠に成功し、いくつかの十字軍国家が成立したのは、十字軍に対応するイスラム世界がバラバラだったせいだとは聞いていた。その実態を本書で知り、少々驚き、あきれた。

 本書の舞台となるイスラム世界は元来はアラブ人の土地で、セルジューク朝はトルコ系である。そんなところにもバラバラの要因があるだろうが、トルコ系の領主同士も相争っている。

 割拠する領主たちは兄弟であっても敵なのである。領主同士の合従連衡はあるが、いつ裏切られかわからない。フランクと戦っている領主への支援に駆け付け、手のひら返しで戦わずに引き返したりもする。フランクの勝利が自身に有利と判断したのである。相手を倒すためには、フランクと組むこともいとわない。

 バグダッドではセルジューク朝のスルタンが傀儡のカリフ(アッバース朝)を戴いている。このカリフが傀儡であることに不満で、支援者を糾合してスルタンに戦いを挑んだりもする。

 ビザンツとフランクの関係も複雑だ。共にキリスト教なのに、フランクはギリシア正教の村を略奪する。ビザンツがイスラムと組んでフランクに対峙することもある。

 イスラム世界には、ビザンツで弾圧された非カトリックのキリスト教徒(ヤコブ派、東方キリスト諸派)も住んでいる。イスラムは異教徒に寛容だからだ。彼らはフランクではなくイスラムを支援する。

 フランクも団結しているわけでなく、フランク同士の争いもある。そんな争いの一方にイスラム側が加担することもある。

 また、同じイスラムでもスンニ派のセルジューク朝とシーア派のファーティマ朝(エジプト)は敵対することが多い。そこに過激なシーア派の暗殺教団が絡み、スンニ派の要人を暗殺する。暗殺教団とフランクが組むこともある。

 マクロに見れば、キリスト教世界の十字軍とイスラム世界の争いなのだが、ミクロに見ると敵と味方が入り乱れて何でもありのゴチャゴチャした世界だ。人間の集団は宗教という理念で動くのではなく、己の利害や感情で動くことが多く、それが自然だろうとの思いにかられる。不条理なドタバタ劇は歴史の常態に近いのかもしれない。

 本書は面白いのだが、馴染みのない人名の頻出に難儀した。イスラムの似たような人名の識別が難しくて混乱するのだ。人名索引もない。仕方なく、主な登場人物をメモしながら読み進めた。読了後に数えるとイスラム側の人名だけで58人になった。そのうちの11名は、本書の記述のベースになった歴史家や年代記作家である。あらためて、当時のイスラム世界の文化レベルの高さを感じた。

ロングセラー『肉食の思想』は刺激的な本だった2025年05月03日

『肉食の思想:ヨーロッパ精神の再発見』(鯖田豊之/中公新書)
 56年前に出た『ヨーロパ中世(世界の歴史9)』(鯖田豊之)を読了し、この著者に次の話題書があると知った。古い本だがネット書店で注文できた。

 『肉食の思想:ヨーロッパ精神の再発見』(鯖田豊之/中公新書)

 1966年1月初版の中公新書である。私が入手したのは半年前の2024年10月に出た62版。初版以来58年間、改訂もせずに刊行が続いているようだ。驚きのロングセラーだ。1926年生まれの著者は2001年に亡くなっている。

 本書のタイトルに懐かしさを感じた。本書が出た1966年頃、高校生の私は『〇〇の思想』という表題の本が流行していると思った。

 『〇〇の思想』はありふれたタイトルかもしれないが、当時読んだ小松左京の「槍とヒョウタン――思想の流行について」(1966年9月刊行『未来図の世界』収録)というエッセイの印象が強いのだ。何冊もの『〇〇の思想』という本(『地図の思想』『戦後を拓く思想』『恥部の思想』『砂漠の思想』『饒舌の思想』『哄笑の思想』『テレビの思想』『核を創る思想』など)を取り上げたうえで、「思想の逆なでシリーズ」の続刊を提起し、「高橋和巳などの場合、『孤立無援の思想』より『思想の孤立無援』の方が、何やら彼のイメージがうかぶような気がします」と述べていた。

 あの時代に『肉食の思想』が刊行されたのかと思うと感慨深い。

 閑話休題。本書はとても面白かった。西洋中世史・比較史が専門の著者が、日本人とヨーロッパ人の考え方や感じ方の違いの由縁をマクロな視角で明解に論じている。目から鱗が落ちるようなスリリングな読書体験だった。ロングセラーなのも納得できる。

 ヨーロッパ人は肉食、日本人は穀物食、その違いには地理的歴史的な理由があり、その違いが両者の精神構造の違いを形成している――というのが本書の骨子だ。食生活の違いから社会意識の違いを論じる手際は華麗なアクロバットのようでもある。読者である私は、あっけにとられて感心するばかりだ。

 ヨーロッパは農業&牧畜、日本は農業のみ。その違いは気候にある。日本は温暖湿潤、それに比べてヨーロッパは寒冷だ。ヨーロッパと言えば三圃制だが日本に三圃制はないと思う。三圃制は春耕地、秋耕地、休耕地の3年周期であり、休耕地は牛などが草を食む牧畜地である。牧畜地は広い方が効率がいい。だからから耕地は集約されていく。

 三圃制は連作障害を避ける手段である。だが、水田には連作障害はない。また、日本の気候では夏の雑草の繁茂が激しくて牧畜の餌にならない。ゆえに、日本は米という穀物が主食の文化になる。

 日本に比べて牧畜のコストが低いヨーロッパでは農業と牧畜の併存が常態である。主食という概念もない。肉も乳も小麦も、入手可能なものは何でも食べる。小麦はそのままでは美味しくないので、粉にしてパンにして食べる。

 牧畜が身近な肉食文化が、人間と動物を峻別し、人間だけが特別な存在だとする独善的な人間中心主義を生み出す。ナルホドと思った。結婚や愛情表現に関する指摘も面白い。牧畜が身近だと子供の頃から動物の性交渉を日常的に目にすることになり、それがおおっぴらな愛情表現につながるとともに、「結婚」を「キリスト教の秘蹟」として公認しコントロールする考えが生まれたそうだ。

 そんな「人間中心主義のキリスト教」がヨーロッパの階層意識や社会意識を形成してきたと本書は説いている。人間中心主義は結構かもしれないが、その「人間」を「キリスト教徒のヨーロッパ人」だけと見なしているようなのだ。これはやっかいな問題である。

 本書が展開する議論は非常に面白い。推論の積み重ねなので、その妥当性は私にはわからない。本書がどう評価されているかも知らない。しかし、ヨーロッパ社会と日本社会を比較検討するうえでの刺激的な材料になるのは確かだと思えた。

『中世ヨーロッパ』に続いて『ヨーロパ中世』を読んだ2025年04月27日

『ヨーロパ中世(世界の歴史9)』(鯖田豊之/河出書房新社/1969.1)
 中央公論版「世界の歴史(旧版)」の『中世ヨーロッパ』に続いて、数十年も書架に眠っていた河出書房版「世界の歴史」の似たタイトルの巻を読んだ。

 『ヨーロパ中世(世界の歴史9)』(鯖田豊之/河出書房新社/1969.1)

 先日読んだ『中世ヨーロッパ』は1962年の本だった。本書の刊行は1969年1月。これも古い。挟み込み「月報」の「編集部だより」には、大学紛争のさなか執筆者との連絡が大変だったとある。私が学生の頃に出た本だ。時代を感じる。

 同じ題材の本を読んだ直後なので、本書は比較的すらすらと読めた。

 本書冒頭の導入部はシャーロック・ホームズの『赤髪連盟』の話だ。ヨーロッパでは髪の色、眼の色、鼻の形などの違う人が共存している。混血が進んでいるのだ。それゆえに、生まれてくる自分の子供の髪の色などを両親があらかじめ正確に知るのは難しいそうだ。混血のヨーロッ人にとってインターナショナルな関係は身近である。だが、その関係はヨーロッパ世界の内部にしかおよばない。そんなヨーロッパ世界はどのように形成されてきたか。その探究が本書のテーマである。

 まずはゲルマン民族の大移動である。ゲルマン人は、東ゴート、西ゴート、ヴァンダル、ブルグンド、ランゴバルド、スゥェビ、フランク、アングル、サクソンなど多様である。彼らが先住のケルト人やローマ人と混ざり合ってヨーロッパができていく。

 本書でヘェーと思ったのは、フランク人のカトリック化が早かった理由である。ゲルマン人の多くはキリスト教アリウス派だったとは知っていたが、フランクは遅れた部族だったのでアリウス派ではなく古ゲルマンの多神教世界だったそうだ。そのため、カトリックへ改宗が容易だった。フランク人の王クローヴィスがカトリックに改宗したため、彼の征服戦争は異端のアリウス派を倒す「聖戦」となり、支配領域が拡大した。と言っても、「遅れた部族」の改宗が生活態度にどれほどの影響をあたえたは、はなはだ疑わしいと著者は述べている。

 本書は随所で日本との比較をまじえてヨーロッパを語っている。仏教伝来とキリスト教化、武士道と騎士道などなどである。共通点もあれば違いもあり、ヨーロッパの姿がより鮮明に浮かび上がってくる。

 王族の血統に関する日本とヨーロッパとの比較も興味深い。ヨーロッパには血統権原理だけでなく選挙原理もあり、二つの原理の拮抗関係のなかで次期の王が決まってきたそうだ。豪族たちによる国王選挙が血統権をつきくずすこともあった。日本は血統権が万能だが、ヨーロッパはそうではない。

 ヨーロッパにおいても、国王に息子がいれば世襲相続は容易である。だが、直系の子孫が絶えた場合、何等かの血のつながりがある人物が当然に王になれるわけではない。当然に世襲相続できるのは直系の息子だけである。血統権原理の日本ならば、血のつながりがあれば直系でなくても世襲相続できる。

 本書は、イギリスにおけるノルマン朝からプランタジネット朝への移行を例に説明している。ノルマン朝のイギリス国王ヘンリー1世に息子がなく、娘のマチルダしかいなかった。マチルダとアンジュー伯ジョフロアの息子がイギリス国王ヘンリー2世となる。ヘンリー2世はプランタジネット朝(アンジュー家)の開祖となる。この件について、著者は次のように述べている。

 「日本的観念からすれば、イギリス国王になると同時に、ノルマン家の相続人になってもよさそうなものである。ところが、実際はそうでなかった。イギリス国王になったにもかかわらず、新しい王家の創始者になった。」

 この箇所を読んで、かすかな違和感をおぼえた。血統権原理の日本なら、血のつながりがあるのだから息子が母親の実家を相続できるという話だと思う。一般的には、息子がいなければ娘に婿をとり、その子が相続するというのはよくある話だ。だが、日本の喫緊の課題である天皇家に関して、現状では当てはまらない。男系男子に拘泥し、女系は認めていない。だから、上記の「日本的観念」にアレッと感じたのだ。1969年当時と現在で「日本的観念」が変わったとも考えにくい。

 日本が万世一系にこだわっているのに対して、インターナショナルで、かつ直系子孫のみを重視するヨーロッパは万世一系という考えが乏しく、王朝交代がフツーだったように見える。日本の万世一系は明治になって登場した概念にすぎないらしいが。

ビザンツの扱いが気になって昔の歴史概説書を読んだ2025年04月24日

『中世ヨーロッパ(世界の歴史3)』(責任編集:堀米庸三/中公文庫)
 中央公論社のシリーズ本『世界の歴史』は旧版(全16巻:1960年刊行開始)と新版(全30巻:1996年刊行開始)がある。その旧版第3巻の文庫版を古書で入手して読んだ。

 『中世ヨーロッパ(世界の歴史3)』(責任編集:堀米庸三/中公文庫)

 本書の原版の刊行は1961年2月。こんな古い本を読もうと思ったのは、ビザンツ史への関心がきっかけだ。ビザンツ史の概説書には、コンスタンティノープルの見聞記を残したクレモナ司教リュートプランドがよく登場する。この人物をウィキペディアで検索すると次の記述がある。

 「堀米庸三は、彼に匹敵するギリシア通が後世に現れなかったため、彼の東ローマに対する偏見が後世まで影響を及ぼしたと述べている。(『世界の歴史3 中世ヨーロッパ』)」

 半世紀以上昔、碩学・堀米庸三はビザンツ史が偏見で語られがちだと指摘していたようだ。彼がビザンツ史をどのように語っているかに興味がわき、本書を読んだ。

 読み終えて、小さな失望と大きな満足を得た。ビザンツ史に関しては、私が期待したような記述はなかった。だが、本書を読み進めながら中世ヨーロッパ史の多様な面白さを堪能できた。読みごたえのある歴史書だった。

 本書は前半四分の三を堀米庸三、残りの四分の一を弟子の木村尚三郎が執筆している。ウィキペディアが紹介している指摘の正確な引用は以下の通りだ。

 「リュートプランド以後には、彼に匹敵するギリシア通の使節はもはやあらわれず、かえって彼のビザンツに対する偏見があとあとまで影響した。」

 リュートプランドの複数回にわたるコンスタンティノープル訪問について、本書は約3ページを費やして記述している。全般的にリュープランドに同情的であり、ビザンツへの偏見をことさら話題にしているわけではない。

 本書は基本的に「ビザンツ」ではなく「東ローマ」という用語を使用している。この二つは同じだと思うが、あえて使い分けるなら、東ローマのギリシア化(7世紀頃)以降をビザンツと呼ぶこともあるようだ。本書はそんな使い分けはせず、東ローマで一貫しているが、以下のような文脈でビザンツという言葉が出てくる。

 「西方との接触がうすれていけば、それだけ東ローマは専制的な東洋風、ビザンツ風になっていく。」
 「サラセンの地中海制覇以来、東ローマが西方との関係を次第に薄くし、東方化、ビザンツ化を深めたことは否定できない。こういった理由から私は、東ローマをビザンツ世界としてヨーロッパから区別する。」

 「ビザンツ風」「ビザンツ化」「ビザンツ世界」とは何かの説明はない。読者には自明ということなのだろう。東ローマは「中世ヨーロッパ」と題する本書の対象外としているのである。東ローマから離脱することによってヨーロッパが成立したと見なしているようだ。だから、東ローマに関する記述はさほど多くない。

 と言っても、ヨーロッパの成立を語るには東ローマに言及せざるを得ない場面はいろいろある。あのアンナ・コムネナも「きこえた才媛」と紹介し、その著書の記述をかなり引用している。

 本書には、ビザンツ関連以外にも興味をひかれる話題が多い。私は9年前、『大聖堂』(ケン・フォレット)という小説を読んで中世ヨーロッパへの関心がわき、概説書を2冊読んだことがある。その1冊は堀米庸三の著作だった。だが、9年前に読んだ概説書の内容はほとんど蒸発していて、頭の中は白紙に近い。本書を読み進めながら、初めて中世ヨーロッパ史の概説書に取り組んでいるような新鮮な気分を味わった。

 例えば、カノッサの屈辱で知られるハインリヒ4世とグレゴリー7世の波乱に富んだ物語は、中世ヨーロッパのさまざまな事情が反映されていて、とても面白い。二人とも失意の最期をむかえるのも小説のようだ。あらためて、この時代への興味がわいた。

 いずれ、ゆっくり再読したい本である。