岩波新書の『ナポレオン』は読みやすくて面白い2023年12月20日

『ナポレオン:最後の専制君主、最初の近代政治家』(杉本淑彦/岩波新書)
 フランス革命の概説書(『革命と皇帝』『フランス革命』)を読んだ流れでナポレオンの本を読んだ。いま公開中の映画『ナポレオン』の影響もある。近いうちにこの映画を観たいと思っている。

 『ナポレオン:最後の専制君主、最初の近代政治家』(杉本淑彦/岩波新書)

 研究者による読みやすい評伝である。「はじめに」で次のように述べている。

 「本書は、歴史研究のこれまでの成果を取り入れながら、文学者のひそみにならい、人物の心理に踏みこもうとした。したがって、歴史研究では忌避されることが多い、おもしろさが先だっている裏話や逸話も、あえて取り上げた。」

 ナポレオンは普通は4年程かかる士官学校を11カ月という最短記録で卒業し、16歳で少尉になる。勤勉で優秀だったが、経済的事情で早く任官したらしい。数学が得意で歴史書を耽読、文学や美術への関心は薄かった。ヴォルテール、モンテスキュー、ルソーなど啓蒙思想家の著作を読んでいる。

 本書は冒頭で、近代民主主義論の古典と評価されるルソーの『社会契約論』を紹介し、ルソーの「一般意思」が「独裁」につながる可能性を指摘している。フランス革命の継承・伝道から独裁に至ったナポレオンは、彼が若い頃に読んだルソーの思想を体現したのかもしれない。

 ナポレオンは「時代に遅れていると同時に、時代に先駆けてもいた人物」と評される。本書は、サブタイトル「最後の専制君主、最初の近代政治家」にあるように、評価が錯綜する人物の生涯を逸話をまじえて興味深く描いている。

 肖像画などの絵画を自己宣伝に利用した話が面白い。初期の肖像画『アルレコ橋のボナパルト将軍』を発注したのはジョセフィーヌで、当初、ナポレオンは乗り気でなかったらしい。ナポレオンが熱愛して結婚した年長の貴族婦人ジョセフィーヌは、若い夫を政界に売り込むプロデューサーだった。

 ジョセフィーヌを含めて当時の貴族社会の女性に愛人が多いのにあきれるが、本書の次の指摘を読んで納得した。

 「夫とはべつに愛人を持つというのは、彼女が育ったフランス貴族社会では特段とがめられることでもなかった」

 考えてみれば、バルザックの小説はどれもそんな世界だった。そんな貴族社会に馴染んでいなかった新参者には大変な世界だったのかもしれない。エルバ島の領主に封じられたナポレオンは、エルバ島を訪れた愛人を追い返して、2番目の妻マリー=ルイーズ(ハプスブルク家皇女)の到着を待つ。だが、マリーは護衛の貴族と愛人関係になりエルバ島行きを取りやめる。ナポレオンがちょっと気の毒になる。

『フランス革命:歴史における劇薬』は熱い本2023年12月18日

『フランス革命:歴史における劇薬』(遅塚忠躬/岩波ジュニア新書)
 フランス革命を概説した『革命と皇帝(大世界史14)』に続いて、次の岩波ジュニア新書を読んだ。

 『フランス革命:歴史における劇薬』(遅塚忠躬/岩波ジュニア新書)

 岩波ジュニア新書は中高生が対象だと思うが、シニアに有益なものも少なくない(ジュニアを冠すると敬遠する高校生もいそう)。本書冒頭、青春を表現したロダンの彫刻「青銅時代」を写真で紹介し「私は、この本を、いま青銅時代にある皆さんに読んでもらうために書きました」とある。そこまで言われると、75歳の私は場違いな居心地の悪さを多少感じてしまう。

 この新書を入手したのは2年前だ。高校世界史の教師で『岩波講座・世界歴史』の編集委員でもある小川幸司氏が『世界史との対話(上)』の「まえがき」で紹介していたので、興味がわいて購入した。読むまでに2年が経過した。遅塚忠躬氏は小川氏の恩師だそうだ。

 本書はフランス革命の概説ではなく、革命をどう評価するかを論じている。サブタイトルにある通り、フランス革命を「劇薬」に例えている。劇薬は作用がはげしく、使い過ぎると生命が危うくなる。服用するには覚悟が必要だ。でも、薬だから効果はある。

 フランス革命には、多くの人(2万人?)をギロチンに送った恐怖政治のイメージがある。1989年にフランス革命200周年を祝おうという計画が立てられたとき、あんな流血の恐怖政治を祝うのかという反論が出て、もっぱら1989年の「人権宣言」を祝うということになったそうだ。

 著者はフランス革命の成果を高く評価している。そして、フランス革命の偉大と悲惨は切り離せない一体と見なし、フランス革命は劇薬にならざるを得なかったとしている。本書全体がその論拠の展開である。本書の末尾近くでは次のように述べている。

 「フランス革命は、リーダーも大衆も含めて、偉大でもあり悲惨でもある人間たちがあげた魂の叫びであり、巨大な熱情の噴出であった、と私は思います。」

 若い読者に向けた熱い本である。本書を読んだ青少年は、理想を抱いて世の中を変革する意思を鼓舞されるかもしれない。それは結構なことである。だが、多少の懸念もある。熱情に駆られて熱狂するとロクでもない結果になることも多い。ジュニア新書を読んだシニアの感慨だ。

フランス革命時代の激流に唖然とさせられる『革命と皇帝』2023年12月14日

『革命と皇帝(大世界史14)』(柴田三千雄/文藝春秋/1968.7)
 西洋史の大事件と言えばフランス革命、そのあらましは知っている気がしていたが、考えてみれば、ぼんやりと高校世界史程度の内容が浮かぶだけで、よく把握できていない。少し勉強しようと思い、次の概説書を読んだ。

 『革命と皇帝(大世界史14)』(柴田三千雄/文藝春秋/1968.7)

 半世紀以上昔の本である。冒頭に1968年の「五月革命」が出てきて驚いた。私たち団塊世代には懐かしい「革命」だ。本書刊行2カ月前の出来事である。フランス革命、パリコミューンを経て「五月革命」――パリはホットな舞台だ。

 本書のタイトル『革命と皇帝』は「フランス革命と皇帝ナポレオン」を指す。財務総監チュルゴーの失脚(1776年)を前奏曲として、バスチーユ襲撃(1789年)、ルイ16世処刑(1793年)、テルミドール9日のクーデタ(1794年)、ブリューメル18日のクーデタ(1799年)、ナポレオン皇帝即位(1804年)、ワーテルローの戦い(1815年)などを経てナポレオンがセント・ヘレナ島で没するまで(1821年)の半世紀足らずを概説している。

 本書を読み終えて、あらためて疾風怒涛の激動の時代だったとの感慨がわく。フランス革命の始まりは 1789年7月のバスチーユ襲撃、その後何度か「革命は終った」と言われるが、本当に終わったと見なせるのは10年後の1799年12月である。第一統領になったナポレオンは「市民諸君。革命はその発端となった諸原則に定着した。革命は終った」と布告する。その後、ワーテルローまでの16年間はナポレオン時代になる。

 バスチーユからワーテルローまでの26年、75歳の私はこの26年間を長いとは思わない。現在(2023年)から26年前の1997年は拓銀や山一証券が破綻した年、私にとってはつい昨日のように思える。たった26年の間にめまぐるしい有為転変があり、多くの人物が死に、生き延びた人もいる。時代の激流に唖然とする。

 フランス革命史を読んでいると、ギロチンに送られた人のあまりの多さに息をのむ。革命が進行する過程で「革命」「反革命」の基準は揺れ動き、「昨日の友は今日の敵」やその逆がくり返される。革命家たちと民衆が織りなすドラマは、理念、打算、陰謀が渦巻いて複雑だ。変動の時代のうねりの怖さを感じる。

 本書には「革命家の活動歴」と題した図が載っている。22人の革命家(?)の1789年から1818年までの活動をグラフで表している。ダントンやロベスピエールなど早々に処刑される人もいれば、タレイランやフーシェなどはしぶとく生き延びる。著者は生き延びたこの二人を「陰謀と無節操を生命とする男」と表現している。『第三身分とは何か』のシエイエスも生きながらえている。革命の時代の酷薄がしのばれるグラフである。

『零の発見』は私が予感した内容ではなかったが……2023年12月08日

『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)
 古代インド史の概説書(『ガンジスの文明』『古代インドの文明と社会』)を続けて読み、「インドで生まれたアラビア数字」への関心がわき、未読棚の次の新書を読んだ。

 『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)

 岩波新書の「古典」である。本書の存在は60年以上昔の中学生の頃から承知していたが、入手したのは数年前だ。奥付によれば、初版は1939年(昭和14年、太平洋戦争前夜)、1978年に改訂、私の手元にあるのは2016年発行の111刷である。

 本書を購入したのは、今年101歳になる伯父がきっかけである。数学の著書もある合理的思考をする人である。伯父の暮すホームでは、100歳を迎えた人の百寿を祝う。だが、伯父は99歳が百寿だと主張し、99歳で百寿を祝った。「数え年」を是としているのか思ったが、伯父の話をよく聞くと、少し違う。人間に「0歳」を設定するのはおかしいという考えなのだ。言われてみれば、0は不思議で特殊な数字である。

 「0歳」などあり得ないと語る伯父の話のなかで『零の発見』への言及があった。書名だけを知っていて内容を知らない本書を読んでおかねばと思い、ネット古書店で入手した。だが、そのまま未読棚に積んでいた。

 「零」という数についていろいろ考察する内容を想像したが、そんな内容ではなかった。インドの数学を論じた本でもない。数学の誕生を語る数学史エッセイである。世界史の解説がかなり詳しい。期待した内容ではなかったが、面白く読めた。

 本書は「零の発見――アラビア数字の由来」「直線を切る――連続の問題」という2篇のエッセイから成る。「連続」を扱った後者の方がスリリングで面白かった。

 数と図形の調和を夢見ていたピュタゴラス教団が、有理数で表せない数の存在に気づいたたときの動揺が特に面白い。直角二等辺三角形の対辺のような不通約量をアロゴン(口にしえざるもの)と名付け、その存在を教団の外部に洩らすことを禁じたそうだ。造化の妙の欠陥を意味するからである。ピュタゴラス教団の狼狽に同情した。

箱館戦争で敗れた武士が明治の浮世絵師に……2023年12月05日

 町田市立国際版画美術館で幕末明治の浮世絵師『揚州周延(ようしゅうちかのぶ)』の展覧会を観た。この絵師の名は、本展示を紹介した日経新聞の記事(2023.11.18朝刊)で初めて知った。

 私が興味を抱いたのは揚州周延の経歴である。高田藩士で本名は橋本直義、第二次長州戦争に幕府側兵士として参戦、戊申戦争で彰義隊として戦った後、榎本武揚の艦隊に加わって箱館へ行く。榎本軍の降伏で江戸に送られ、その後、浮世絵師になったそうだ。私は榎本武揚ファンなので、展覧会に行けば榎本武揚や箱館戦争に関する新たな知見が得られるかもしれないと期待したのである。

 この展覧会の正式名称は『揚州周延 明治を書き尽した浮世絵師』、数百枚の明治浮世絵を展示している。題材は多岐にわたる。美人画や役者絵だけでなく、西南戦争、日清戦争、日露戦争を描いたものや、江戸時代を題材にした絵もある。しかし、私が期待した箱館戦争の絵は確認できなかった。

 幕府側で最後まで戦った武士が明治になって浮世絵師に転身したのだから、何等かのこだわりで箱館戦争を描かなかったのかなと思った。だが、考えてみれば、揚州周延は職業絵師である。箱館戦争は売れる題材ではなかったのかもしれない。

 展示の中で榎本武揚を描いた絵が1枚あった。明治19年の「扶桑高貴鏡」という絵だ。天皇・皇后らしき人物の回りに12人の重臣の肖像画を配している。その肖像の一つが「逓信大臣榎本武揚公」である。揚州周延がどんな思いで榎本武揚を描いたのかはわからない。

 購入した図録にはやや詳しい揚州周延紹介が載っている。それによれば、武士らしい気性をまとった人だったらしい。「酒の席ではその過去を得意談とし、箱館戦争が面白かったなどと話すおおらかさを持っていたようだ。」ともある。その得意談を絵で残してほしかった。

『古代インドの文明と社会(中公版世界の歴史3)』で古代インド史復習2023年12月03日

『古代インドの文明と社会(中公版 世界の歴史3)』(山崎元一/中央公論社/1997.2)
 46年前に出た講談社版世界の歴史の『ガンジスの文明』(中村元)を読み、その記憶が消滅する前に類書を読んでおこうと思い、次の本を読んだ。

 『古代インドの文明と社会(中公版 世界の歴史3)』(山崎元一/中央公論社/1997.2)

 講談社版の20年後の本である。と言っても26年前だ。中公版の『世界の歴史(全30冊)』は何年か前に古書で一括購入したが大半が未読、いつになったら全巻読破できるかわからない。

 古代から現代に至るまでインドはヒンドゥー教だ。カースト制も残っている。本書はヒンドゥー教とカースト制の二つを軸にインドの古代史を概説し、インドの現状(26年前の)にも言及している。

 著者は冒頭近くで「正統派」とは何かについて、次のように述べている。

 「(…)しかしインド思想全体の流れからみれば、主流は明らかにバラモン教(ヒンドゥー教)であるため、本書ではこの宗教を正統派と呼び、仏教・ジャイナ教の側を「異端」ではなく「非正統派」と呼ぶことにしたい。」

 バラモン教と言えば司祭階級バラモンが最上位のカースト制である。アーリア人が西北インドに進入してきたのはインダス文明発祥から約1000年後のBC1500年頃、そんな大昔から司祭階級バラモン(アーリア人)は存在したらしい。そのバラモンを最上位とする階級制度が紆余曲折を経て現代まで存続しているのは不思議だ。

 だが、それを不思議と思うのではなく、その理由を把握しなければならない。本書を読むと、それが見えてくる。バラモン教は非アーリア的な民間信仰を取り入れてヒンドゥー教として広がり、仏教は部分的にヒンドゥー教に取り込まれつつ消滅していく。そこにはさまざまな必然的事情があった。著者は、その大きな流れを次のように総括している。

 「カースト制度も、ヒンドゥー教も、さらに仏教も、決して固定したものではなく、時代の要請に応じつつ自己を変革し、ときにはその根本とみられる部分にも変革のメスを入れつつ今日に伝えらえた。そして、今日なおその変革の過程にあるのである。」

 本書でアンベードカルという興味深い人物を知った。古代の人ではなく、インド独立時の共和国憲起草委員会の委員長でネール内閣の労働大臣・法務大臣などを務めた人物である。この人は、カースト最下層の不可触民出身で、1956年にインド仏教再興の大衆運動を起こし、600万人以上の信徒をもつ今日の仏教の生みの親になる。彼は、全インドの仏教化を構想していたそうだ。

仏教がインドでほろびた理由を考察した『ガンジスの文明』2023年11月28日

『ガンジスの文明(講談社版 世界の歴史5)』(中村元/1977.3)
 私の頭のなかの世界史はまだら模様で、特にインド史は空白に近い。『ゆかいな仏教』『ブッダが説いた幸せな生き方』で仏教の成り立ちに多少の関心がわき、ずいぶん昔に入手した古代インド史の概説書を読んだ。

 『ガンジスの文明(講談社版 世界の歴史5)』(中村元/1977.3)

 46年前の本である。当時、インド哲学&仏教学の権威・中村元氏(1912-1999)のテレビ講座を視聴し、この先生の話が面白いので本書を購入した。しかし、拾い読みしただけで通読していない。テレビ講座の内容は何も覚えていない。

 本書は、紀元前3000年のインダス文明から6世紀のグプタ朝衰退までの古代インド史を概説している。バラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教の動向もよくわかる。特に大乗仏教にかなりのページを割いている。『ゆかいな仏教』の前に本書のような歴史書を読んでおけば、仏教への理解も多少は深まっただろうと思った。読む順番は大事だ。

 大乗仏教の解説のなかで、般若心経を翻訳した玄奘を批判しているのが興味深い。大乗仏教は、原始仏教が禁じていた呪句(陀羅尼)を教化に用いた。社会的事情をふまえた民衆との妥協である。中村氏は、それが大乗仏教堕落の遠因になったとし、呪術的な一例として般若心経末尾の次の翻訳をあげている。

 原文「往き往きて、彼岸に往き、彼岸に到達せる覚りよ。幸あれ。」
 漢訳「羯諦羯諦(ぎゃていぎゃてい)、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」

 訳者は玄奘である。中村氏は、玄奘は原典の意味をすっかりかくし、呪術的効果をねらった、としている。日本人だから「ぎゃていぎゃてい」を異様に感じるのかと思っていたが、中国人も同様だったようだ。

 インドで生まれた仏教はマウリヤ朝のアショカ王(BC3世紀)の時代に大いに発展するが、その後、インドでは衰退する。本書は「仏教はなぜインドでほろんだか」を考察、その理由として「民衆から乖離した合理主義」「民衆を無視して上層階級と結託」「深遠な哲理の思索に没頭」などいろいろあげている。そのなかで、私が面白いと思ったのは、ローマ帝国衰亡との関連である。ローマ帝国との交易で興隆した豪商たちは仏教の支持基盤だった。ローマ帝国が衰亡し、インドの豪商が没落し、仏教は支持基盤を失ったという話である。

 本書は、私にとって新たな知見を得る読書体験だった。しかし、本書読了後、読書記録のExcelを検索していて、同じ著者の類書『ガンジスと三日月(大世界史6)』を2年前に読んでいたことに気づいた。その本をめくると、本書と重なる解説も少なくないが、まったく失念していた。おのれの記憶保持力の薄弱を嘆くしかない。

ブッダは合理的でプラグマティックな考えの経験論者2023年11月23日

『ブッダが説いた幸せな生き方』(今枝由郎/岩波新書/2021.5)
 『ブッダが説いた幸せな生き方』(今枝由郎/岩波新書/2021.5)

 さる人からいい本だと紹介されて購入したのが2年前、『ゆかいな仏教』を読んで未読の本書を思い出した。『ゆかいな~』がゴチャゴチャと難解なのに比べて本書はわかりやすい。わかりやす過ぎるぐらいだ。

 著者は1947年生まれのチベット歴史文献研究者、フランスの研究機関に長く在籍し、ブータンの国立図書館顧問として現地に10年在み、現在は日本在住らしい。

 著者は、日本の仏教をブッダの教えからかけはなれた「奇形」とし、もしブッダが日本仏教の現状を知ったら、まちがいなく「私は『仏教徒』ではない」と言うだろうと述べている。

 紀元前5世紀頃、シッダールタが「覚り」を得てブッダとなり、仏教を開いた。著者は「覚り」という言葉を使わず、一貫して「目覚めた人」ブッダと表現している。

 ブッダは人々に乞われて「目覚めた人」になる方策を語る。その教えは数世紀にわたって口承で伝えられ、初めて文字になったのはブッダから約500年後の紀元前後のパーリ語の記録である。その後、サンスクリット語で記されるようになる。経典の原文はサンスクリット語と思っていたが、それ以前にパーリ語があったとは知らなかった。

 著者は、ブッダ自身のことばに可能な限り近づくため、主にパーリ語のテキストに基づいて本書を著している。著者が長年研究してきたチベット・ブータン仏教も著者の見解に反映されていて「多分に個人的な「仏教」理解です」とことわっている。

 本書が紹介するブッダの教えは難解な哲学ではなく、自己啓発セミナーの指南のようだ。わかりやすいが、容易に実践できるわけではない。ブッダに関する次の指摘が意外だった。

 「ブッダは経験論者で、生涯を通じてすべて自分で経験したことだけを話す人であり、思弁的、形而上学的なことがらはいっさい問題にしませんでした。」

 ブッダは徹底した合理主義者でプラグマティックな考え方をしたとも述べている。その教えを簡単にまとめることはできないが、ある種の精神修養を説いている感じだ。

 仏教において「目覚めた人」になる(さとりをひらく)のは至難だとのイメージがある。だが、ブッダが生きた時代には、多くの弟子たちが「目覚めた人」になったそうだ。後世になって、「目覚めた人」になるのはとっても困難と見なされるようになったらしい。ありそうな話だ。

 著者は、ニーチェやアインシュタインの次のような言葉も紹介している。

 「仏教は、歴史が我々に提示してくれる、唯一の真に実証科学的宗教である(ニーチェ)」

 「仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教である(アインシュタイン)」

 私は宗教にさほどの関心はないが、仏教に期待してもいいのかな、と思わせる本である。

『ゆかいな仏教』で自分が仏教を知らないと悟った2023年11月21日

『ゆかいな仏教』(橋爪大三郎・大澤真幸/サンガ新書/(株)サンガ)
 大澤真幸氏の『社会学史』を読了し、未読棚に積んでいた同じ著者の次の本が気になり、何とか読了した。

 『ゆかいな仏教』(橋爪大三郎・大澤真幸/サンガ新書/(株)サンガ)

 10年前の2013年11月に出た「サンガ新書」である。サンガとは仏教の出家集団を指す言葉だ(本書で知った)。仏教書の出版社の新書のようだ。

 社会学者・橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談本で、橋爪氏はこの対談をジャズのジャムセッションのようだと述べている。両氏は本書の前に『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)という対談本を出している。『ふしぎなキリスト教』がとても面白かったので仏教の本書も購入したものの、そのまま積んでいた。

 タイトルに「ゆかいな~」とあり、仏教の楽しげな解説を予感したが、かなり哲学的で難解な対談だった。『ふしぎなキリスト教』ほどわかりやすくない。仏教の入門編・初級編ではなく中級編か上級編である。自分が仏教について何も知らないと気づかされ、本書の前に入門書を読んでおくべきだったと思った。

 理解しやすくはないが、碩学二人の掛け合いが面白く、 「覚り」や「空」に関して頭の中に「??」を浮かべつつ読み進めた。何とか読了したと感じた由縁である。

 本書は初期仏教(紀元前5世紀頃)から大乗教(ブッダの死後500年の紀元前後に発祥)までを論じ、最後に密教に触れている。インドにおける仏教の展開の解説であり、中国や日本の仏教にはほとんど言及していない。日本の仏教の上澄みをチラリと見てきただけの私にとっては初めて接する世界である。仏教ってこんな宗教だったのかとの思いを新たにした。

 本書が『ふしぎなキリスト教』よりわかりにくいのは、仏教の方がキリスト教より複雑で難解だからだと思う(キリスト教もわかりやすくはないが)。キリスト教やイスラム教と仏教を比較・検討する箇所が多く、仏教が最も捉えにくいと感じた。それは、私の頭が西欧的思考に馴らされているせいかもしれない。反省。

 難解な対談のなかで二人が展開する「たとえ話」が面白い。覚りを開いた後の釈迦を「退職後のボランティア」、修行を積むことを「ポイントを貯める」などと説明している。大学、予備校、入学試験、模擬試験などのたとえが頻出するのも興味深い。一例をあげれば、仏になる以前の大菩薩を「ニルヴァーナ大学の入試に合格し、入学許可を得ているのに、わざと入学手続きをせず、予備校でアルバイトしたり、家庭教師をしたりして、後輩たちの受験勉強のめんどうをみている」と説明している。

 ゆかいな「たとえ話」の部分だけでもじっくり読み返せば、本書の理解が少しは深まりそうな気がする。

講義の実況中継『社会学史』は面白いが難解2023年11月17日

『社会学史』(大澤真幸/講談社現代新書)
 4年前に新刊を購入、いずれ読もうと思いつつ時間が経過した次の新書をやっと読了した。

 『社会学史』(大澤真幸/講談社現代新書)

 通常の新書2冊分の630頁、その厚さにたじろぐが、読み始めると引き込まれた。講談社の会議室で数人の編集者相手に実施した講義をまとめた「講義の実況中継」本なので読みやすい。とは言っても抽象的・学術的で理解できない難解な箇所も多く、頭が疲れた。先人の業績への大澤先生のツッコミが面白い。

 私が大澤真幸氏の著作に初めて接したのは13年前の『量子の社会哲学』 である。この奇書にはぶったまげた。社会学門外漢の私は、社会学者怖るべしの感慨を抱いた。その後、『不可能性の時代』 など何冊かを読み、この人の本は「難しくてよくわからないのに、何故か面白い」と思った。本書も同じだ。

 社会学の歴史を語る講義だが、社会学の入門書に近い。冒頭で「社会学の歴史は、それ自体が一つの社会学になる」と述べている。ナルホドと思った。社会学を志す学生には刺激的な本だと思う。私のような高齢者は、大澤氏の包丁さばきに「ヘェー」と感心するだけだ。その先に進む気力はない。

 大澤氏は、社会学の主題は「社会秩序はいかにして可能か」を問うことだとし、本書は一貫してこの主題を巡って解説している。本書の目次概略は次の通りだ。

Ⅰ 社会学の誕生――近代の自己意識として
  1・古代の社会理論 アリストテレス
  2・社会契約の思想 社会学前夜
  3・社会科学の誕生
  4・マルクス――宗教としての資本主義
Ⅱ 社会の発見
  1・フロイト 無意識の発見
  2・デュルケーム 社会の発見
  3・ジンメル 相互行為としての社会
  4・ヴェーバー 合理化の逆説
Ⅲ システムと意味
  1・パーソンズ 機能主義の定式化
  2・〈意味〉の社会学
  3・意味構成的なシステムの理論 ルーマンとフーコー
  4・社会学の未来に向けて

 概ね時系列に話を進めつつ、考察を深化させていく展開になっている。頁が進むにつれて難解になり、私の頭ではついて行けず読み飛ばした所もある。

 社会学史だから多くの学者が登場する。と言っても、網羅的ではなくポイントを絞って解説し、マルクスやフロイトのように社会学者とな見なされない人物にもかなりのページを割いている。本書が肖像つきで紹介している人物は次の20人である。

 グロティウス、パスカル、ホッブス、ロック、ルソー、アダム・スミス、コント、スペンサー、マルクス、フロイト、デュルケーム、ジンメル、ヴェーバー、パーソンズ、レヴィ=ストロース、デリダ、ブルデュー、ハーバーマス、ルーマン、フーコー

 私が名前も知らなかった人物が3割(6人)、多少なりとも著作に触れたことがあるのは3人だけ。そんな私にとって本書が難物なのはいたしかたない。

 肖像画が最初に登場するグロティウスは、先日読んだ『物語オランダの歴史』 に登場する興味深い人物である。かの本には肖像が載ってなかったので、本書で尊顔に触れてうれしかった。本書の理解には関わりないことである。