帝国になって行く姿を描いた『「われらが海」の覇権』2026年01月27日

『「われらが海」の覇者:地中海世界の歴史6 地中海世界帝国の成立』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家・本村凌二氏の『地中海世界の歴史(全8巻)』の第5巻に続いて第6巻を読んだ。

 『「われらが海」の覇権:地中海世界の歴史6 地中海世界帝国の成立』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 グラックス兄弟の悲劇に始まる内乱の1世紀からネロ帝までの約200年を描いている。主な登場人物は、グラックス兄弟、マリウス、スッラ、ポンペイウス、カエサル、アントニウス、アウグストゥス、カリグラ、ネロなどだ。ローマが帝国へと発展していく時期であり、ローマ史の最も華やかで面白い時代である。

 本村氏の『地中海世界の歴史』シリーズは一般的な通史と言うよりは心性史に近い。だが、この巻は心性史的な記述のウエイトはさほど大きくない。前巻に引き続いて「父祖の遺風」が心性のキーワードだ。ローマ人の特異性は「父祖の遺風」を行動規範にした点にあり、それが世界帝国につながったとしている。似たような心性をもちながら帝国に発展しなかった国も多いのでは、という気もする。

 概して本村氏の語り口は軽妙だが、特に本巻は肩の力を抜いてローマを語っているように感じた。人物描写のたとえにプレスリーや石原慎太郎が登場し、絶世の美女と言われたクレオパトラの容貌を「笑われてもいいが、少なくとも筆者の好みではない」と述べたりする。また、現代のローマ市街に残る古代ラテン語碑文巡りなど、史跡散策エッセイの趣もある。1960年のローマ五輪でアッピア街道を駆け抜けた裸足のアベベも登場する。著者と同世代の私には懐かしい話題だ。

 本書を読んでいると所々にデジャブを感じる。本村氏には多くの著作があり、それらの記述と部分的に重なるからである。本村氏の考察の集成が本書なので当然だと思う。歴史概説書は一度や二度読んでも頭に定着しないので、こんな集成本は私にはありがたい。

 本書を読みながら思い出したのは『教養としてのローマ史の読み方』『古代ポンペイの日常生活』である。前者を読んだときにも思ったが、ネロのキリスト教徒迫害に関する本村氏の見解は興味深い。

 本村氏は、ネロのキリスト教徒迫害は疑わしいと言う。「クレスト」というユダヤ人騒乱者の記録が「キリスト教徒」と誤伝されたとの説である。本村氏の解説に説得力を感じるが、史学の世界ではどう評価されているのだろうか。本村氏は次のように述べている。

 〔「ネロのキリスト教徒迫害」という話がこれほど根強く残っているのは、中世以降、「ヨーロッパの歴史」は常に「キリスト教徒の歴史」として描かれ、そのなかで暴君ネロによる弾圧というドラマティックな物語には覆しがたい魅力があったからだろう。〕

 西欧中心史観とは、ある意味ではキリスト教中心史観なのだと思う。

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『地中海世界の歴史(全8巻)』の既読分は以下の通り。
 (1)オリエントの文明『神々のささやく世界』
 (2)アッシリアとペルシア『沈黙する神々の帝国』
 (3)エーゲ海とギリシアの文明『白熱する人間たちの都市』
 (4)ヘレニズム文明『辺境の王朝と英雄』
 (5)共和政ローマ『勝利を愛する人々』

共和政ローマは「祖国」を発明した2026年01月23日

『勝利を愛する人々:地中海世界の歴史5 共和政ローマ』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家・本村凌二氏の『地中海世界の歴史(全8巻)』は2024年4月に刊行が始まり、先月(2025年12月)完結した。私は昨秋までに次の前半4巻を読んだ。

 (1)オリエントの文明『神々のささやく世界』
 (2)アッシリアとペルシア『沈黙する神々の帝国』
 (3)エーゲ海とギリシアの文明『白熱する人間たちの都市』
 (4)ヘレニズム文明『辺境の王朝と英雄』

 年明けの月末になって、積んだままの後半4巻に取り組もうという気分になった。前半4巻はオリエント史、ギリシア史だった。後半4巻は、いよいよ著者の専門のローマ史である。

 『勝利を愛する人々:地中海世界の歴史5 共和政ローマ』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 本書はローマ建国(BC753年?)から第三次ポエニ戦争(BC146年)までを扱っている。頻出する言葉は「父祖の遺風」である。著者は、ローマ人の心性を特徴づけるものが「父祖の遺風」への固執だとしている。それは「武士道」にも通じる古来の伝統を重んじる精神で、子弟教育のよりどころだった。私には、いまひとつ把握しにくい概念である。

 本書が興味深いのは、ギリシアやカルタゴとの比較でローマを論じている点である。タイトルの「勝利を愛する人々」はプラトンの『国家』に依拠しているそうだ。プラトンは「知を愛する人」「勝利を愛する人」「利得を愛する人」を人間の基本的な三分類とした。著者によれば、ギリシア人は「知を愛する人」、ローマ人は「勝利を愛する人」、カルタゴ人は「利得を愛する人」と見なせる。この見方をベースに、なぜローマのみが世界帝国へ発展したかを探っている。

 ギリシア人は羊飼いの子孫で遊牧民的な尻軽さがあり、人口過剰になると海の彼方に植民都市を作る。カルタゴはフェニキアの植民地から発展した海洋通商国家である。ローマは愚直な農民の国で、何よりも故国の地にこだわった。人口が過剰になると、ねばり強く故国の地を広げていく。それが、帝国への序曲だった。ナルホドと思える。

 共和政ローマの時代を記述した本書で、著者はローマの共和政を「共和政ファシズム」としている。この言葉の名づけ親は著者だそうだ。ファシズムという言葉はローマのファスケス(斧と棒の束)に由来する。「共和政ファシズム」はローマの強さを表す適切な用語だと思う。

 ローマは、真善美を追究する文化では「知を愛する人」ギリシアには及ばなかった。だが、ギリシア人が創り出せなかったローマ人の発明品があったと著者は言う。それは「祖国」である。「祖国」こそがローマ人の唯一の発明品だと指摘している。ナショナリズムは近代以降の概念だと思っていたが、似たものが古代にもあったのかもしれない。

『ネタニヤフ調書』を観て暗澹たる気分2026年01月20日

 渋谷のシアター・イメージフォーラムで『ネタニヤフ調書:汚職と戦争』(製作総指揮:アレックス・ギブニー、監督・製作:アレクシス・ブルーム)を観た。ネタニヤフ首相の汚職事件やガザ攻撃に関するドキュメンタリー映画である。製作は「イスラエル・アメリカ」となっているがイスラエルでは上映禁止、アメリカでも限られて形でしか公開されていない。

 私は、ネタニヤフ首相が自身の権力維持のために極右政党を連立してパレスチナ攻撃を続けているとの話は何となく知っていたが、イスラエルの状況をさほど知っているわけではない。この映画に接するまで、彼が汚職の裁判で起訴され、その裁判が継続中だとは知らなかった。

 この映画は、贈収賄事件に関わったネタニヤフを始め多くの関係者への取り調べ映像で構成されている。流出映像である。映画製作者に、ある「情報源」からもたらされたものだ。取り調べの様子を記録した映像は約1000時間だという。

 ネタニヤフの取り調べは彼のオフィスで行われたそうだ。背景の中東地図やデスク回りの品々が興味深い。他の関係者の取り調べ映像は警察の取り調べ室のように見える。いずれも、一般の目に触れることを想定していない様子の映像なので生々しい。贈賄側として取り調べられた人物の一人はハリウッドの大物プロデューサーである。この映画の上映を阻止したくなる関係者の気持ちがわかる。

 この映画のメッセージは明快だ。ネタニヤフが極右政党と組んで戦争を続けているのは、自身の延命のためである。戦時下では首相への裁判は延期されている。裁判になればネタニヤフは刑務所に入ることになるかもしれない。それを避けるため、司法の弱体化を画策すると同時に戦争を継続しなければならない。極右は、国連が可決した二国(イスラエルとパレスチナ)建国を認めず、イスラエルのみの一国を目指している。極右と連立したニタニヤフの戦争はパレスチナが完全に消滅するまで終わらない……この映画は、そんな状況を警告している。

 ネタニヤフは困った人物だが、それを取り調べることが可能な国家体制に少し驚いた。当たり前のことが通用しなくなりつつある世界のなかで、多少の希望に思えた。

戦争をリアリズムで考える「地政学」は苦い2026年01月18日

『日本人のための地政学原論』(橋爪大三郎/ビジネス社/2026.1)
 地政学には前世紀の遺物のウロンな「学問」というイメージがある。だが、書店に地政学コーナーができていて、いくつかの本が並んでいた。そのなかの次の1冊に興味がわいた。

 『日本人のための地政学原論』(橋爪大三郎/ビジネス社/2026.1)

 私と同世代(団塊世代)の社会学者・橋爪大三郎の著書は『はじめての構造主義』『世界は四大文明でできている』など何冊か読んでいる。本書と関連するのは『戦争の社会学』だろう。印象に残っているのは、橋爪氏が編者の『小室直樹の世界』収録の対談での橋爪氏の次の発言だ。

 「どうも私は、自分のノーマルな部分に退屈しているので、ちょっと危ない知性にひかれる傾向があるみたいです。」

 そんな橋爪氏が、ちょっと危ない感じががする「地政学」を概説したのが本書である。巻末の「おわりに」では次のようの述べている。

 「最近ビジネスかいわいで「地政学」が話題だという。何冊か見たがピンと来ない。それなら自分で教科書を書こう。そう決めて、2025年9月に原稿を書き始めた。(…)勤務先の大学院大学至善館では野田智義学長はじめ、いろいろな皆さんからいつもビジネス現場の熱気を伝えていただいている。この環境がなかったら、本書は書けなかったろう。」

 橋爪氏は東工大教授を退任した後、大学院大学至善館の教授になっている。この学校については、知り合いの若いビジネスマンから面白いビジネススクールだと聞いたことがある。彼は勤務先の企業から派遣されて、業務のかたわらこの大学院大学に通っていた。単なる米国風のMBA養成ではなく、アジアの文化、哲学、思想などリベラルアーツにもウエイト置いているそうだ。竹田青嗣西研平田オリザなども教授に名を連ねている。

 本書は、そんなビジネススクールの教材の一つかもしれない。学者の著作というよりは教育者の著作である。

 地政学とは「戦争が起こったらどうなるか」をリアリズムで考えることであり、地理学、軍事学、国際関係論などを土台にしている。ちゃんとした学問とは言えないが、土台となる諸学を踏まえなければ、地政学を理解することも、使いこなすこともできない。戦争の気配が近づくと地政学がブームになる。

 戦争はイヤだが、無視すれば済むものではない。地政学も無視すればいいというものではない。本書を読んで、国家とは戦争をするものだという苦いリアリズムの認識を得た。

 地政学を習得したからと言って、世界への対処方法の正解が得られるとは限らない。本書にも「……悩ましい問題である」「……今後に注目したい」「……読み切れない」などの述懐がある。

 と言っても、さまざまな知見をベースに合理的な正解を追究する営為は必要だ。19世紀以降のさまざまな戦争を検討している本書は、地政学を十分に理解していなかった故に過去の指導者たちが犯した判断ミスをいろいろ指摘している。

 太平洋戦争の開戦において、日本には政略も軍略もなく、最後通牒と言われたハルノートを読解できず、戦争に突入してしまったとの指摘にナルホドと思った。中国のナショナリズムは日本が育んだとの見解も、社会学的で面白い。

イランの深層にはペルシア帝国がある2026年01月15日

『ペルシア帝国(世界の歴史 9)』(足利惇氏/講談社/1977.7)
 イラン旅行準備で『イランを知るための65章』に続いて次の歴史概説書を読んだ。

 『ペルシア帝国(世界の歴史 9)』(足利惇氏/講談社/1977.7)

 本書を読んでいる途中でイラン旅行中止が決まったが、読みかけた本なのでそのまま読了した。

 約半世紀前に出た講談社版『世界の歴史』(全25巻)の1冊である。著者は足利尊氏の末裔で日本のイラン学の泰斗・足利惇氏(1901-1983年)である。私は高校生のとき(1965年頃)に読んだ何かの座談会でこの人の名を知った。戦前の少年時代、歴史の授業で足利尊氏が登場する前、教師に呼ばれて「君の先祖の尊氏を逆臣として語るが悪く思わないように」と言われたそうだ。記憶に残る話だった。

 最近になって、その足利惇氏がイラン学の学者だったと知った。著者への興味から、イラン史勉強の一環として本書を読もうと思い、古書で入手した。足利惇氏は昭和天皇と同い年の学友で、本書が出たとき76歳だった。

 本書は、アーリア民族の移動や文明の形成から、アケメネス朝ペルシア、ヘレニズム時代、アルケサス朝パルティアを経てササン朝ペルシアに至る歴史を概説している。私は2年前、本書と同じ時代と地域を扱った新書『ペルシア帝国』(青木健)を読んでいるが、その内容はほとんど蒸発している。本書を読んでいても、未知の地名や人名が頻出し、読み進めるのに時間を要した。

 パルティアの王子といわれた仏教僧・安世高という人物も本書で初めて知った。弟に位を譲って出家し、後漢の洛陽に赴いて仏教経典を漢訳したそうだ。仏教がパルティアにまで広がっていたことに驚いた。

 1973年にイランで建国2500年の祭典がキュロス2世(大王)の墓前で行われたという話にも驚いた。アケメネス朝のキュロス2世(大王)はマッサゲタイの女王の軍との戦いで戦死する(前530年)。その墓は、かつてアレクサンドロスも参拝したと言われている。1973年は、イラン革命前のパフラヴィー国王の時代だ。イランの建国をアケメネス朝としていたようだ。イスラムとは別のイランのナショナリズムを感じる。現在はどうなっているのだろうか。

 イランがイスラムになる直前までを記述した本書は、イスラム化した後もイランの伝統は継続したと強調している。ササン朝滅亡に関しては次のように述べている。

 「しかし、イラン人は、ササン王朝の滅亡と古代宗教の喪失のいかんにかかわらず、依然として存在し、古来から基本的に伝わる民族精神は死滅することなかった。そして文化の面においても、バグダードのイスラム政権下のものからしだいに離脱独立し、近代ペルシアの絢爛たる文化を開花させていった。」

イラン旅行中止2026年01月13日

 2月末に予定したイラン旅行が中止になった。残念だが仕方ない。

 私がイラン旅行を検討していた昨年11月頃、一般の旅行会社のイランツアーはなかった。外務省が出す危険レベルは3(渡航中止勧告)だった。だが、友人のツテでイラン旅行の企画があると知り、参加を決めた(参加者は8人)。外務省は昨年は11月26日、イランの危険レベルを3(渡航中止勧告)から2(不要不急の渡航はやめろ)に引き下げた。

 イランは古代からの長い歴史をもつ国で、日本との関わりも深い。調べるほどに魅力的な国だと思えた。イラン旅行への参加を決め、頭の中はイラン・モードになり、『バンダルの塔』『イランを知るための65章』などの関連書も読んだ。

 昨年6月にイスラエルとの12日間戦争があったが、当分は小康状態が続くと思っていた。だが、見通しは外れた。イラン通貨の急速な下落が引き金で抗議活動が始まったのは昨年12月28日、それが体制変換を迫る動乱にまで発展する可能性があるという。イラン国民の多くが現体制には批判的で、政権も一枚岩ではないらしい。そこにイスラエルや米国などの外部勢力がいろいろな形で介入し、先行きは不透明である。

 外務省は一昨日(2022年1月11日)、イランの危険レベルを2から3に引き上げた。今後の情勢を注視していくしかない。私の老体が動くうちにイラン旅行が実現することを期待しているが。

オール男性の宮本亜門演出『サド侯爵夫人』を観た2026年01月11日

 紀伊國屋サザンシアターで『サド侯爵夫人』(作:三島由紀夫、演出:宮本亜門、出演:成宮寛貴、東出昌大、三浦涼介、大鶴佐助、首藤康之、加藤雅也)を観た。三島戯曲の最高峰と言われる芝居である。

 昨年1月の「三島由紀夫生誕百年のつどい」というイベントをネット動画で観た。このイベントで村松英子と対談した宮本亜門が「今年は『サド侯爵夫人』に挑戦する」と述べていたので心待ちにしていた。宮本亜門演出の三島作品を観るのは『ライ王のテラス』に続いて2本目である。

 この芝居の登場人物6人は全員女性である。今回の公演はそれを男性が演じている。私は14年前に蜷川幸雄演出の『サド侯爵夫人』を観たが、あのときも男優が6人の女性を演じていた。18世紀末フランスの貴婦人たちの会話劇という異世界めいた舞台を構築するには、リアルな女優より異形の男優の方が適しているのかもしれない。

 開幕時刻、まだ客席の灯りが点いているとき、舞台中央に男が現れ、何かアナウンスをする気配で立つ。客席のざわめきが次第におさまるが、男は無言のまま数分間立ち続ける。そして「三島由紀夫自決5年前の作品」と叫び、舞台後方へ去る。彼は家政婦シャルロット役の首藤康之だった。もちろん戯曲にはない趣向だ。

 この前口上を聞いたとき、私はドキッとした。観劇前日、この戯曲の執筆時期が気になり、自決(1970年11月)の5年前の1965年だと確認した。そして、この時期は文学者・三島由紀夫の最盛期だったのではと感じたばかりだった。

 『サド侯爵夫人』は『文芸 1965年11月号』に発表された。私が高校2年のときだ。私はこの雑誌で『サド侯爵夫人』を読んだ。その雑誌はいまも保管している。古書で入手した雑誌なので、読んだのは発表から1年ほど経ってからのような気がする。戯曲発表と同時に『サド侯爵夫人』は劇団NLTで上演(出演:丹阿弥律子、村松英子、他)、新聞などで大きく取り上げられた。当時の好評が記憶に残っている。

 あらためて1965年という時期を振り返ってみる。三島由紀夫はまだ自衛隊に体験入隊していないし、盾の会も発足していない。川端康成のノーベル文学賞受賞(1968年)の3年前で、三島由紀夫は日本人初のノーベル文学賞受賞者になると目されていた。自作を自ら脚色・監督・主演した映画『憂国』を完成させ、ライフワーク『豊穣の海』の第1作『春の海』の連載を開始したのが1965年である。

 そんな時期に発表した『サド侯爵夫人』は、優雅で華麗な台詞を交錯させながら時代と状況が変転していく三幕劇である。この芝居にサド侯爵は登場しない。ほぼ全編、サド侯爵の行状や人間像を巡る女性たちの会話で成り立っている。

 第1幕は1772年、サド侯爵は逃亡中である。第2幕は6年後の1778年、サド侯爵は獄中にいる。第3幕は12年後の1790年、フランス革命勃発後の騒然とした時代である。革命によってサド侯爵は牢獄から解放され帰ってくる。老いたサド侯爵が屋敷の戸口に到着したと家政婦が告げるシーンで幕になる。よくできた構成だ。

 貴婦人を演じる男優たちに違和感はまったくない。衣装はやや抽象的なロングドレスである。サド侯爵夫人のルネ(成宮寛貴)は白、他の夫人たちは黒と色分けしている。ルネの妹アンヌ(三浦涼介)だけはドレスでなく露出度の高いエロチックな衣装だ。アンヌの位置づけを鮮明にする仕掛けだろう。

 この公演のラストシーンには驚いた。帰還したサド侯爵を拒絶したルネは修道院に向かう。舞台中央に立ったルネは客席に背を向けて舞台奥へ歩いて行く。そのとき。白いドレスを脱ぎ捨てて全裸になるのだ。この世の俗事を脱ぎ捨て、男も女も超えた人間ならざる者へ脱皮する姿を表しているようにも見える。男優起用ならではの演出だと思った。

ファド歌手ROCAシリーズの完全版を読んだ2026年01月09日

 いしいひさいちが自費出版した『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』を読んだのは2年前だった。その後、朝日新聞の「ののちゃん」に吉川ロカが登場することはなく、このシリーズは終了しているのだと思っていた。だが、その後も書き下ろし自費出版などで継続していた。そして、昨年6月には一般書籍としてコンプリート版が出版されていた。

 出版から半年以上経ってこの本に気づき、すぐに入手して読んだ。

 『ROKAコンプリート』(いしいひさいち/徳間書店)

 わが故郷・岡山県玉野市がモデルの「たまのの市」出身のファド歌手・吉川ロカを描いたマンガである。このコンプリート版は自費出版した次の3冊をまとめて1冊にしている。

 (1)『ROCA 吉川ロカ ストーリーライブ』
 (2)『花の雨が降る――ROCAエピソード集』
 (3)『金色に光る海――ROCA短編集』

 (1)と(2)は4コマが中心だが、いずれも最後の1編だけは数ページの話になっている。(3)は4コマではなく、すべてが数ページのマンガだ。

 既読の(1)は、ファド歌手を目指す女子高生・吉川ロカと、彼女の友人で年上の同級生・柴島美乃の話である。姉御肌の柴島美乃は港の運搬業者の娘で落第をくり返している暴力的な不良である。柴島美乃の祖父が経営する柴島商会は暴力団に近い。(1)のラストでは、音楽事務所と契約してプロ歌手への足がかりをつかんだ吉川ロカに柴島美乃からメールが届く。そこには「潮時だと思う。ウチはヤバイ筋だからいずれ問題になる。まだ間に合う。オレとかいなかったことにしろ。もう連絡するな。じゃあな。」とあった。吉川ロカは音楽事務所の窓から外に向かって「ゴメンナサイ」とうつむく。泣かせる惜別シーンだ。

 (2)(3)は(1)の続編ではなく、(1)とほぼ同じ時代設定の話になっている。それでも面白い。(1)(2)(3)はそれぞれ印象的なラストシーンで終わる。(1)と(3)は1頁1コマ、(2)は見開きで1コマの大画面だ。

 その(2)の見開き大画面に驚き、感動した。著者は「映画『天国と地獄』のモノマネです。」と述べている。あのモノクロ映画は、煙突から赤い煙が出るシーンだけ、煙がカラーになっていた。マンガでその手法を使っているのだ。ページを開いた瞬間、色の着いたゴミが挟まっていると思って指でこすり、それが着色印刷だと気づき、ドキッとした。

 この見開き大画面がスゴイのは、(1)のラストシーンと見事につながっている点である。(2)のラストシーンを見てはじめて、(1)の懐旧的なラストシーンの背後にある事情を知ることができた。いしいひさいちの構想力に感心した。

 私は本書を読むまで「吉川→よしかわ」「柴島→しばじま」と思っていたが、本書冒頭の人物紹介のフリガナで「吉川→きっかわ」「柴島→くにじま」だと知った。(1)にフリガナはなかったと思うが「鬼吉川」などの言葉が登場するので注意深く読めば「きっかわ」とわかったはずだ。いしいひさいちは細かい所にイロイロ忍ばせている。