「ミシマダブル」で三島由紀夫の肉声を聞いた2011年02月18日

 シアターコクーンで『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』を観た。三島由紀夫の代表的な芝居である。演出は文化勲章の蜷川幸雄、役者は東山紀之、生田斗真、平幹二朗、木場勝己など。「ミシマダブル」というタイトルで、同じ役者が二つの芝居を交互に演ずる公演だ。

 2作品とも発表当時の1960年代末に戯曲を読んだ記憶はある。舞台を観るのは初めてだ。かねがね機会があれば観たいと思っていたので、蜷川幸雄演出で上演されると知り、発売初日にチケットを入手した。予約専用電話は朝から話中で、2時間ほど電話をかけ続け、さほどよくはない席を入手できた。

 蜷川幸雄の演出で『サド侯爵夫人』や『わが友ヒットラー』を観ていると、ついノスタルジックな感慨にとらわれる。
 蜷川幸雄の芝居を初めて観たのは40年以上昔の学生時代だ。当時、新宿アートシアターで、映画上演後の夜の時間、清水邦夫作・蜷川幸雄演出の『想い出の日本一万年』『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』などを観た。「紅テント」や「黒テント」をはじめとする多様な「同時代演劇」が活気づいていた熱い時代だった。
 そんな時代だったから、古臭い「新劇」の魅力は相対的に低下していた。三島由紀夫の新作戯曲は読んだが、あえて高い金を払って劇場まで行く気にはなれなかった。三島作品は戯曲を読むだけで十分という気分もあった。

 あの頃、蜷川幸雄が文化勲章受章者になるとは夢にも思わなかった。蜷川幸雄も変貌しただろうが、日本の文化状況も変わったのだと思う。菅直人が落選を続けていた頃、彼が総理大臣になるとは予想できなかったことに似ている。60年以上生きているといろいろなことが起こる。

 「ミシマダブル」の特徴は同じ役者が2本を交互に演ずる点にある。『サド侯爵夫人』は女性6人だけの芝居、『わが友ヒットラー』は男性4人だけの芝居だ。役者は全員男性だから『サド侯爵夫人』では男性が女性を演ずることになる。
 どんな芝居になるかと思っていたが、意外に違和感はなかった。平幹二朗も東山紀之もフランス貴婦人の衣装とカツラで登場する。歌舞伎の女形のように声音を変えるわけではないが、不思議なことに男の声でも女性に見えてきた。

 むしろ『わが友ヒットラー』の生田斗真(ヒトラー)や東山紀之(レーム)に、女性がヒトラーやレームを演じているような違和感を憶えた。これは『サド侯爵夫人』を先に観たせいではなく、ヒトラーやレームのように元々芝居がかった強烈な人物を美形タレントが演ずるのが難しいということかもしれない。

 いずれにしても、舞台俳優の平幹二朗、木場勝己らの芝居に貫録と余裕が感じられたのに対して、東山紀之や生田斗真は長広舌の膨大な科白をこなすが精一杯という印象だ。よくやっているとは思うが。

 『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』を同じ役者で交互に演ずることには、二つを重ね合わせて一つの世界を浮かび上がらせる効果があるのだと思う。おぼろげに見えるその世界が何であるかは表現しにくい。華麗な科白で紡ぎあげる演劇空間であることは確かだが。
 3幕ずつの二つの芝居、計6幕が共通の一つのセットで違和感なく上演できるというのは発見だった。

 私は『サド侯爵夫人』→『わが友ヒットラー』の順で別々の日に観た。これは三島由紀夫の執筆順でもある。しかし、セットで観るとしたら『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』が正解のようだ。
 マチネーの日の昼と夜の組み合わせも、日によって違うので順番をつける意図はないかもしれない。しかし、演出には『わが友ヒットラー』→『サド侯爵夫人』という順番の意図があるように思えた。

 そう考えた理由の一つは、最終場面の背景音の違いである。
 
 この二つの芝居は、二つとも開始場面と最終場面に面白い同じ仕掛けがある。芝居の始まる前、舞台上にセットはなく、舞台奥の大扉が明け放たれている。そこからは、楽屋のさらに奥の外界が見えている。人通りや車の出入りも見える。その状態から、セットが組まれ幕が降りたり上がったりして芝居の空間が作られて行く。
 芝居の最終場面では、役者が舞台に立っている状態で開始場面の逆が繰り返される。役者の世界と外界が地続きになって行くのだ。
 芝居とは観客を異世界にさらって行くものである。開始時と終了時の風変わりな演出は、その「さらわれ感」をことさら強調することで、逆に芝居空間と日常現実空間を通底させようとしているように思える。

 で、『サド侯爵夫人』の最終場面では、セットが片付けられて外界と地続きになって行く中で、騒音のようなざわめきが流れる。それは、三島由紀夫の最後の演説である。市ヶ谷の自衛隊のバルコニーで甲高い声で叫んでいた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
 これは、芝居空間をさらに別の空間に変えようとする演出であり、三島由紀夫へのオマージュかもしれない。

 ただし、私はこの最終場面で少々鼻白んだ。何年か前に蜷川幸雄が三島由紀夫の「近代能楽集・弱法師」を演出したとき、同じテを使っていたからだ。あの時は、その効果にびっくりし、感心した。今度は「またかよ」という気がした。
 『わが友ヒットラー』も同じテを使うかと思っていたら、こちらの最終場面の効果音は「ジーハイル」のうねりのような歓声だった。
 
 『わが友ヒットラー』と『サド侯爵夫人』を比べたとき、前者の方がわかりやすいが、戯曲としての完成度は後者の方が高い。
 『わが友ヒットラー』は、1970年11月25日に割腹自殺した三島由紀夫の世界への一つの入口であり、『サド侯爵夫人』は三島由紀夫が築きあげた華麗な伽藍であり、三島演劇の真打である。だから、この順番が正解で、最終場面に三島由紀夫の肉声を出したのだと思う。

 三島由紀夫が『わが友ヒットラー』を書いたとき、すでに「盾の会」を結成していた。「三島由紀夫の兵隊ごっこ」と揶揄された私兵である。『わが友ヒットラー』では、主人公である突撃隊幕僚長レームを「三度の飯より兵隊ごっこが好き」と揶揄する科白がある。レームの軍服や兵隊へのこだわりかたには「盾の会」を連想させる箇所が多い。しかし、この芝居においてヒトラーに粛清されるレームに三島由紀夫が感情移入しているようには見えない。作者はあくまで冷徹である。
 ということは、自身で「盾の会」を主催しながら、その自分を客観視する劇作家の目も備えていたのである。
 だから、この芝居は三島由紀夫世界への入口になり得るのだ。

 『サド侯爵夫人』は、科白の多い芝居だ。三島美学の反映のような修辞を延々としゃべる場面も多い。役者は大変だろう。男性が演じてもあまり違和感を感じなかったのは、所作を観るより科白を聞く方に神経が行くからかもしれない。いずれにしても、芝居は「芝居がっかっている」方が面白いし、「決め科白」が多い方が楽しい。

 そんなことを考えながら、「ミシマダブル」を観ていると、あらためて、あの芝居がかった三島事件こそが三島由紀夫作・演出・主演の三島演劇だったのだと感じられた。集大成とか総決算と言えるほどの芝居ではなかったかもしれないが、芝居という媚薬に魅せられた劇作家は劇作家にとどまることができなかったのだろう。

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