歴史学と歴史小説のちがいから「史観」へ2026年03月06日

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)
 佐藤賢一氏の『カペー朝』『ヴァロア朝』を読み、この作家への関心が高まり、昨年末に出た次の新書を読んだ。

『歴史小説のウソ』(佐藤賢一/ちくまプライマリー新書/筑摩書房)

 著者は西洋史研究者から歴史作家へ転身した人である。本書の「はじめに」では、小説を書き始めた経緯から大学院へ退学届けを出すまでの自身の体験を語っている。

 15世紀フランス史研究の合間に小説を書いた著者は、小説と論文の両方を書き続けるのは難しいと気づき、どちらを選ぶか悩む。小説を選んで大学院を退学、その翌年に『王妃の離婚』で直木賞を受賞する。

 そんな体験をふまえて歴史小説と歴史学のちがいを解説しているので臨場感がある。記述が具体的でわかりやすい。

 人間を書くのが歴史小説、時代を書くのが歴史学、どちらも過去の事実=ファクトを押させている。そのうえで、ファクトから人間の真実=トゥルースを引き出すのが歴史小説、時代の真実=トゥルースを引き出すのが歴史学――それが著者の見解だ。

 本書で面白いと思ったのは、歴史小説家は現地取材に熱心だが、インドア作業の文書学である歴史学の研究者にとって現地取材は必ずしも重要でないという指摘だ。両者の心構えのちがいの一端を覗えた気がする。

 歴史小説はSF(サイエンス・フィクション)との指摘には驚いた。著者は歴史学をサイエンスと捉えている。歴史学という文系の科学を土台にしたフィクションだから歴史小説はSFなのだ。ナルホドと思わされてしまう。

 本書の最終章は史観に関する議論である。とても興味深い話題だ。結論はやや常識的だが、そうなるしかないかなとも思える。

 著者は、俗に言う「司馬史観」を話題にしたうえで、「ジャコバン史観」「唯物史観」「アーリア史観」「皇国史観」などをイデオロギー史観としてしりぞける。そして、史観を打ち出すという行為は主観的なものだから、歴史学というサイエンスの役割ではないと結論する。

 史観が不要なわけではない。歴史小説は史観を語ることができる。だが、歴史小説や歴史書に接するそれぞれの個人こそが、自分が生きている時代を評価したうえで歴史(過去)との比較検討をふまえて、自分の史観をもたねばならない――それが著者の主張である。

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