『大いなる遺産』に格差社会のアレコレを感じた2024年12月02日

『大いなる遺産(上)(下)』(ディケンズ/加賀山卓朗訳/新潮文庫)
 ディケンズの『大いなる遺産』を読んだ。今年の年頭、『20の古典で読み解く世界史』を読んだとき、そこで紹介していたこの長編を読みたくなり、すぐに購入した。だが、読み始めるのは年末になってしまった。

 『大いなる遺産(上)(下)』(ディケンズ/加賀山卓朗訳/新潮文庫)

 ディケンズは、子供の頃にジュニア版の『クリスマス・キャロル』を読んだだけだ。この高名な作家についてほとんど何も知らなかったが、本書を読了して「やはり、英国人作家だ」と感じた。フランス、ドイツ、ロシアなどの作家とは異なる独特の英国風イメージをまとっている。

 ディケンズは19世紀の作家である。9年前、21世紀は19世紀になるかもしれないというピケティの『21世紀の資本』の指摘に接し、19世紀西欧文学が表出する社会・経済への関心が高まった。『大いなる遺産』からも19世紀世界を窺うことができる。

 この小説から得たイメージは「格差社会」のアレコレである。労働者社会と資産家社会を行き来する主人公の心境や視線の変遷が、19世紀英国の格差社会を見事に描き出している。20世紀には前時代的に見えたものが、21世紀になると同時代的に思えるとすれば暗然とする。私は、この小説は前時代のクラシックなものと捉えているのだが…。

 『大いなる遺産』は、やや不自然でご都合主義に感じる設定はあるものの、プロットの芯は秀逸で、面白い物語になっている。アレコレの伏線の回収や因果めいた展開が造りものめいていても、そこにクラシックな歌舞伎のような雰囲気を感じた。

 この小説の主人公がどの程度まで読者の共感を得られるか、私にはよくわからない。だが、ラストシーンの余韻に深みを感じた。

光州事件を描いた『少年が来る』は生々しい2024年12月04日

『少年が来る』(ハン・ガン/井出俊作訳/クオン)
 今年のノーベル文学賞受賞者ハン・ガンの『菜食主義者』に続いて『少年が来る』を読んだ。これも慄然とする小説だった。

 『少年が来る』(ハン・ガン/井出俊作訳/クオン)

 光州事件を扱った小説だとは聞いていたが、想定以上に生々しい内容だった。そして、沈沈たる空気をたたえた文学作品だった。

 光州事件とは、軍事政権下で民主化を求める学生・市民を軍が武力で制圧した事件である。武器を携えた学生・市民もいて、多数の死傷者が出た。死者の数は170人と発表されたが、その数倍とも言われている。この小説にも多くの死体が登場する。死者が主人公とも言える。先日観た映画『シヴィル・ウォー』を連想した。

 この小説は記録に基づいているのだと思う。登場人物にモデルがいるのかもしれない。エピローグには、著者を思わせる「私」が登場人物の縁者から執筆の許可を得る場面もある。だが、この小説は記録文学というよりは内面の物語である。

 本書からは、軍事政権から民主化へ転換してきた韓国現代史の壮絶な面が伝わってくる。安保闘争や全共闘の日本の戦後史がヤワに見えてしまう。壮絶な同時代史の当事者がその体験を文学に昇華するのは容易でない。語り得ぬこと、伝え難きことの一人称での言語化は難しい。

 光州事件が起きたのは1980年5月、著者が10歳のときである。10歳の「私」の見聞も語られているが、著者は当事者ではない。同時代の空気を知っている「後世の人」だ。本書の「5章 夜の瞳」は、当時の体験の証言を求められた当事者が何度も拒絶しつつ逡巡する話である。死を賭した闘争・革命・熱狂・熱情の後の虚脱・諦観に人の世の酷薄を感じる。光州事件の現場と当事者のその後を描いた『少年が来る』は二人称を多用している。作者が「後世の人」だからこそ描き得た物語に思える。

 本書のエピローグの印象に残った一節を引用する。

「その経験は放射能被曝と似ています、と語る拷問を受けた生存者のインタビュー読んだ。骨と筋肉に付着した放射性物質が数十年間、体内にとどまって染色体を変形させる。細胞をがんにして生命を攻撃する。」

P.S.
 この読後感をポストするとき、「韓国で戒厳令発令」のニュースが流れ、目を疑った。タイムスリップ感覚だった。すぐに解除されたようだが。

劇団文化座の『しゃぼん玉』を沖縄で観た2024年12月06日

 いま、沖縄に滞在中である。先日観た『花売の縁オン(ザ)ライン』と同じ那覇文化芸術劇場なはーと小劇場で、劇団文化座の沖縄公演『しゃぼん玉』(原作:乃南アサ、脚本:斉藤祐一、演出:西川信廣、出演:佐々木愛、藤原章寛、ほか)を観た。

 劇団文化座の芝居を観るのは初めてである。この劇団は佐々木愛の父親らが設立した古い劇団で、現在は佐々木愛が代表を務めている。『しゃぼん玉』は2017年に東京で初演、その後、全国122ステージを巡演し、今回の沖縄公演がファイナルだそうだ。

 肉親の愛情に恵まれなかった都会の孤独な青年が、大学を中退して行き場を失って犯罪に走り、逃亡の果てに見知らぬ山村に迷い込む。そこで出会った老婆や村人との時間を過ごすなかで再生する。わかりやすい人情話とも言えるが、結構面白かった。よくある話とは言え、笑えるシーンや泣かせるシーンの役者の演技は堂に入り、演劇のベーシックな醍醐味を味わえた。

 この芝居には可動スクリーンが頻繁に登場し、山村の風景や祭りの光景の実写動画が投影される。この装置で場面転換のテンポがいい芝居になっている。

 最初のシーンで、ヒッチハイクしたトラックの運転手を脅した青年は、見知らぬ夜中の山道に置き去りにされる。青年は、その場所を四国の山奥だと思っている。ところが、迷い込んだ山村は宮崎県だという。この設定に超現実的な仕掛けが潜んでいるのかと予感したが、そのままリアリズムで最後まで進行した。釈然としないので、原作を確認したくなった。

 この芝居に登場する山村や祭りはフィクションと思いながら観劇していたが、スクリーンに投影される映像を観て実在のものに思えてきた。観劇後にネット検索し、宮崎県椎葉村の「椎葉平家まつり」が実在することを確認した。

『地中海世界の歴史』全8巻の第1巻を読んだ2024年12月08日

『神々のささやく世界:地中海世界の歴史1 オリエントの文明』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 ローマ史家の本村凌二氏による全8巻のシリーズ『地中海世界の歴史』の第1巻、第2巻が刊行されたとの新聞記事を読んだのは今年の春だった。その後すでに4巻まで刊行されている。その第1巻を読んだ。

 『神々のささやく世界:地中海世界の歴史1 オリエントの文明』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 本村氏の一般向けの歴史書は語り口が親しみやすく、私は愛読している。『地中海世界の歴史』シリーズは、ローマ史という専門領域を越えてメソポタミア文明から古代末期までの4000年の通史を一人の史家の視点で描くという試みである。

 『神々のささやく世界』を読んで、碩学の楽しい講義を聞いている気分になった。時おりつぶやきめいた感想が漏れるのが面白い。雑談や脱線は講義の魅力だ。本書には繰り返しがある。それも講義のようだ。強調したい事項は繰り返し語るのだと思う。頭に残りやすい。

 第1巻はシュメールから古バビロニア、ヒッタイトにいたるオリエント史、古王国から新王国にいたるエジプト史、オリエントとエジプトに挟まれた地帯のヘブライ人やフェニキア人の歴史を語っている。

 本書が強調しているのは、書名が表しているように、古代とは人々が神々のささやきを聞くことができた世界だ、ということである。そんな世界は前1000年頃まで続いたそうだ。神々のささやきを聞くことができた古代人の精神構造は現代人とはかなり異なっていたとの指摘が興味深い。彼らには、現代人がもっている「意識」というものが希薄だったそうだ。神々のささやきが聞こえなくなったときに「意識」がめばえたという。それが一神教の誕生に関連していく。

 本書は、著者が『多神教と一神教』(岩波新書)で述べた見解を敷衍した内容になっているようだ。馬がひく戦車が登場する場面などでは著者の『馬の世界史』(中公文庫)を想起した。『地中海世界の歴史』シリーズは、著者のこれまでの著作を集大成した史書になるのだと予感した。これから読み進めていくのが楽しみである。

前1000年頃の人類史の変容を示唆する『沈黙する神々の帝国』2024年12月10日

『沈黙する神々の帝国:地中海世界の歴史2 アッシリアとペルシア』(本村凌二/講談社選書メチエ)
 本村凌二氏の全8巻シリーズ『地中海世界の歴史』の第1巻『神々のささやく世界』に続いて第2巻を読んだ。

 『沈黙する神々の帝国:地中海世界の歴史2 アッシリアとペルシア』(本村凌二/講談社選書メチエ)

 本書は全4章で、第1章と第4章は大局的な考察になっていて、それに挟まれた第2章と第3章でアッシリア帝国とアケメネス朝ペルシア帝国の歴史を記述している。二つの世界帝国の具体的歴史を俯瞰的文明論で挟んだサンドイッチのような構成だ。

 第2章と第3章のタイトルは「強圧の世界帝国アッシリア」「寛容の世界帝国ペルシア」である。これを見て本村氏の旧著『地中海世界とローマ帝国』(2007年8月刊行)を想起した。あの本が冒頭で、アッシリアを「強圧の帝国」、アケメネス朝を「寛容の帝国」と簡潔に紹介していたのが深く記憶に残っている。それが私のアッシリアとアケメネス朝のイメージを定着させた。あの本では、この二つの帝国に続くアレクサンドロスの帝国を「野望の帝国」とし、ローマ帝国は先行する三つの世界帝国の要素すべてをもっているとしていた。

 本書によってアッシリアからアケメネス朝に至るオリエント史の概要を復習・整理できたが、そんな歴史概説が本書の主旨ではない。本書は「心性史」にウエイトを置いていて、その部分が肝要なのだ。語り口はやさしいが「心性史」を理解・納得するのはさほど容易ではない。

 著者は前1000年前後に歴史の大きな変容があったとしている。それを「神々のささやきが聞こえて時代」から「聞こえなくなった時代」への移行と表現し、それを示唆するものとして「アルファベット」「一神教」「貨幣」の登場を挙げている。著者が指摘する変容とは「精神的存在としての人間」の登場である。

 著者は、心性史の立場の歴史記述は事態を示唆できても実証することはできないと述べている。実証は難しいとされている旧約聖書に基づいた記述が多いのも、心性史ならではと思う。私は旧約聖書をきちんとは読んでいない。宗教史は苦手である。著者の描く心性史を十分に納得できたわけではないが、大きな物語には魅力を感じる。

草彅剛の『ヴェニスの商人』はオーソドックスで現代的2024年12月13日

 日本青年館ホールでシェイクスピアの『ヴェニスの商人』(訳:松岡和子、演出:森新太郎、出演:草彅剛、野村周平、佐久間由衣、大鶴佐助、長井短、華優希、小澤竜心、忍成修吾、他)を観た。森新太郎演出のシェイクスピアを観るのは『ジュリアス・シーザー』『ハムレットQ1』に次いで3本目である。

 草彅剛がシャイロックを演じるせいか劇場ロビーは女性客であふれ、グッズ売り場は長蛇の列だった。開演30分前には行列への参加が打ち止めになっていた。アイドルのコンサート会場のようだ。

 事前にネットで観た舞台写真のシャイロックはシックなコートにネクタイ姿の現代衣装である。上演時間は2時間20分(休憩を除く)と、さほど長くない。現代風にアレンジした圧縮版だろうと予感した。だが、そうではなかった。

 観劇前に新潮文庫の『ヴェニスの商人』(福田恆在訳)を読み返した。上演台本の松岡和子訳とは異なるが、今回の上演はほとんど省略のない原文通りの台詞のようだ。若い溌剌とした役者たちがシェイクスピアのゴチャゴチャした台詞を軽快にこなしているのに感心・感動した。やはり、読むより聞く方がいい。

 『ヴェニスの商人』は誰でもが知っている展開のエンタメ劇である。ユダヤ人であるが故に蔑視されるシャイロックから見れば悲劇とも言えるが、大筋は悪役シャイロックを懲らしめる喜劇である。今回の上演も、そんなオーソドックスな造りだと感じた。

 と言うものの、かなりユニークな舞台である。装置はシンプルな抽象空間で、役者の衣装は古今を混合して超時代的である。そして、役者全員(17人)が常に舞台上にいるという演出が面白い。

 開幕時に役者全員が下手から一列になって舞台に登場する(ここで客席から拍手がわくのが不思議)。舞台に上がった役者たちは後方ホリゾントの横一列の長椅子に正面を向いて座り、出番になると舞台中央に出て来てる。舞台転換が迅速なテンポのいい芝居になる。

 複数の役を演じる役者や途中で衣装が変わる役者もいるが、衣装替えも後方の長椅子で行う。と言っても、長椅子は楽屋ではない。あくまで舞台である。裁判で負けた後のシャイロックは終幕まで長椅子で俯いている。

 この舞台は『ヴェニスの商人』を上演すると同時に、それを演じる役者もまた演じられているという入れ子構造を感じさせる。16世紀に上演された『ヴェニスの商人』の舞台を相対化すると同時に普遍化する仕掛けかもしれない。

 ユダヤ人差別やキリスト教の傲慢を反映した『ヴェニスの商人』という喜劇の普遍性とは何か。そんなことに思いをはせると、現代と16世紀が溶融する混沌に引き込まれていく。

オーソドックスな魅力の『桜の園』2024年12月16日

 世田谷パブリックシアターでシス・カンパニー公演『桜の園』(作・アントン・チェーホフ、上演台本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ、出演:天海祐希、井上芳雄、大原櫻子、緒川たまき、峯村リエ、池谷のぶえ、荒川良々、鈴木浩介、山中崇、藤田秀世、山崎一、朝の和之、他)を観た。

 シス・カンパニーとKERA(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)氏はチェーホフの4大戯曲上演に取り組み、『かもめ』(2013年)、『三人姉妹』(2015年)、『ワーニャ伯父さん』(2017年)を上演してきたそうだ。2020年上演予定の『桜の園』はコロナで中止となり、今回はキャストをかなり変更してのリベンジ公演である(中止になった公演には、大竹しのぶ、宮沢りえ、黒木華らが出演予定だった)。

 私はKERA氏のチェーホフを観るのは初めてである。上演台本もKERA氏なので、かなりアレンジした『桜の園』を予想したが、オーソドックスな舞台だった。古典の魅力を感じた。まさにチェーホフを観たという気分だ。

 昨年観たショーン・ホームズ演出の『桜の園』は時代を現代に設定した抽象的で超現実的な舞台空間だった。今回の公演の舞台装置や衣装はリアリズムである。ロシアの大地主の壮麗な屋敷の奥には桜の木が何本もある。入念に制作した舞台装置を眺めていると、なぜか懐かしさを感じ、ワクワクしてきた。終演後に読んだパンフレットで、この舞台装置はモスクワ芸術座での初演時(1904年)のセットがモデルだと知った。ナルホドと思った。

 天海祐希のラネーフスカヤ夫人と荒川良々のロパーヒンは適役である。ラネーフスカヤ夫人は立ち姿が美しい永遠のお譲さんだ。「私、バカだから」と繰り返し、破産を嘆きつつも能天気に毅然としている。農奴の倅から成りあがった商人ロパーヒンは地主一家とのコミュニケーション・ギャップを克服できない。

 チェーホフがあえて「喜劇」と明記したこの芝居は、コミュニケーション・ギャップの喜劇かもしれない。人はみなそれぞれの世界の中で生きているから、異なる世界の人とのコミュニ―ケーションが難しく、そこに喜劇が発生する。普遍的な事象に思える。

 この芝居は「到着」で始まり「出発」で終わる。残される人もいる。出発は到着につながる。チェーホフの芝居は、繰り返しという人の営みの一コマを愛おしく切り取っている。

中世を舞台にした『バウドリーノ』は奇怪な小説2024年12月19日

『バウドリーノ(上)(下)』(ウンベルト・エーコ/堤康徳訳/岩波文庫)
 あの『薔薇の名前』のウンベルト・エーコに十字軍を扱った小説があると知り、読みたくなった。ビザンツ史や神聖ローマ皇帝フェデリコ2世は私の関心領域なので、どんな話か興味がわいたのである。

 『バウドリーノ(上)(下)』(ウンベルト・エーコ/堤康徳訳/岩波文庫)

 この小説はさほど衒学的ではなく難解でもない。エンタメに近いと思う。読み始めてしばらくは、サラサラと読了できそうな気がした。だが、思った以上に時間を要した。頭がゴチャゴチャすることも多かった。10年前の私なら途中で投げていたと思う。西欧中世史やビザンツ史に関する多少の知識がないと、この小説の世界には入り込みにくい。私はこの10年で多少は歴史の本に親しんできたので、何とか読み進めることができた。

 上巻のカバー裏には次の惹句がある。

 「時は中世、十字軍の時代――。神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサに気に入られて養子となった農民の子バウドリーノが語りだす数奇な生涯とは……。言語の才に恵まれ、語る嘘がことごとく真実となってしまうバウドリーノの、西洋と東洋をまたにかけた大冒険がはじまる。」

 確かにこの惹句通りの内容だが、歴史小説や冒険小説とは呼び難い。面妖で奇怪な小説である。前半と後半で雰囲気が異なる。前半は、中世の史実をベースに想像力をふくらませたフィクションの趣だが、後半になるとプリニウスが描くような怪人が登場し、妖怪小説になる。ゲゲゲの鬼太郎のような展開に面食らった。終盤はシャーロック・ホームズである。波長が合えば楽しめるが、波長がずれると「何じゃこれは」という気分になる。私は、波長を合わせる努力をしながら読み進めた。

 特異な才をもつ農民の子バウドリーノは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(1122年~1190年)に拾われ、側近として皇帝が没するまで仕える。その後、第4回十字軍がコンスタンティノープルを攻撃したとき(1204年)、バウドリーノはビザンツの歴史家ニケタス(実在の人物)を救出する。

 この小説の大部分は、バウドリーノがニケタスに語る自身の半生の物語である。バウドリーノは、自分には嘘を語る才があると述べている。だから、彼が語る物語(この小説の大部分)のどこまでが事実かが不明という趣向になっている。

 虚実の混じった物語ではあるが、私が歴史書で興味を抱いた人物への言及に出会うとうれしくなった。アレクサンドリアの女性学者ヒュパティアが出てきたのには驚いた。彼女は古代末期の人だから、登場するのはその末裔のヒュパティア一族である。キリスト教を批判するヒュパティアの神談義も興味深い。理解できたわけではないが…。