ピースボートの広告からピースボートが消えた?2012年06月19日

2012年6月19日の朝日新聞朝刊の広告
 本日(2012年6月19日)の朝日新聞朝刊をパラパラとめくっていて「アレッ」と思った。ピースボートの新聞広告から「ピースボート」という見出しが消えているのだ。
 私は朝日と日経を読んでいるが、ピースボートの広告はよく目にする。新聞は今や中高年のメディアになりつつあり、新聞広告の営業はタイヘンらしいが、定年退職した中高年を主なターゲットとするピースボートにとって、新聞は恰好の媒体のようだ。

 私が乗船した4年前には「地球一周」と謳っていたが、少し以前から新聞広告の見出しが「世界一周」になったのは気付いていた。一般のクルーズと同じ表現の方が売りやすいと考えたのだろうが、「ピースボート」の見出しがない広告は初めて見た。以前から変わっているのを見落としていたのかもしれないが。

 新聞広告をよくよく見ると、小さい字で「第80回ピースボート地球一周の旅」という表記があった。正式名称は昔のままのようだ。
 とすると、集客のために「地球一周」ではなく「世界一周クルーズ」と謳い、「ピースボート」の文字を目立たなくしているようだ。「ピースボートとは何か」などという面倒なことに無関心な一般乗客を多く集めたいと考えているのだろう。

 企業の営業方針や集客活動にクレームをつけるつもりはないが、「参加者」ではなく「乗客」を集めるつもりなら、それなりの最低限度のサービスの提供には努力してほしいものだ。
 そうでなければ、スカイマークのように「接客業ではありません」的な居直り宣言文でも配布する方が無用なトラブルを招かないだろう。

 そんなことを思ったのは、私が乗船した後も私たちが体験したのと同様のトラブルを繰り返しているからだ。
 私のブログにも、最新の乗船者の方がコメントを寄せているし、62回と75回に乗船した人の報告もある。また62回の乗船者が中心に提訴した裁判も継続中だ。

歴史の勉強の難しさと面白さが伝わってくる『学校で習わない日本の近代史』2010年12月21日

『学校で習わない日本の近代史:なぜ戦争は起こるのか』(横内則之/文芸社/2010.8.15)
 『学校で習わない日本の近代史:なぜ戦争は起こるのか』(横内則之/文芸社/2010.8.15)を読んだ。「あとがき」で著者は「私は、専門家ではなく、浅学菲才の一介の歴史好きにすぎない」と述べている。これは謙遜で、該博な知識と知見に基づいた読みでのある本だった。
 巻末の著者プロフィールによれば、横内氏は1945年生まれ、トヨタ自動車に長く奉職し、トヨタ紡績の専務取締役、常勤監査役を歴任し2008年6月に退任している。

 そして、退任の3カ月後の2008年9月から4カ月間「地球1周の船旅」に参加している。実は私もこの船旅、つまり「第63回ピースボート地球一周の船旅」に参加した。ついでに言えば、私は著者より2歳下だが、著者と同じように2008年6月に仕事をやめ、その3カ月後に乗船した。
 そんなわけで、乗船中に著者の顔と名前は存知あげていたが、お話しをする機会はなかった。乗船中に知り合った別の人からのメールで、横内氏が本書を上梓したことを知った。

 著者が「はじめに」に書いているように、本書はピースボートの船内で著者が開設した自主企画講座『日本の近代(明治維新から東京裁判まで)』で12回にわたって話した内容を元にしている。
 ピースボート(著者は本書において「ピースボート」という言葉を使わず「地球1周の船旅」で通している)の乗客の約半数は20~30歳代の若者(あとの半分は中高年)で、この自主講座は「日本史をきちんと学んでいないであろう若者たち」を対象に開いたようだ。

 私は、船内で『日本の近代』という自主講座が開かれていることは知っていたが、一度も参加しなかった。今から思えば、残念なことをしたと悔やんでいる。
 この自主講座に参加しなかった理由の一つは、ピースボート・シンパによる進歩的文化人的・戦後民主主義擁護的な内容だろうと思って敬遠したのだ。やがて、参加した人の話から、そういう内容ではないということが分かった。ラバウル寄港の前に船上で開催された「戦没者慰霊祭」の仕掛け人が横内氏であることも聞いていた。しかし、船上で「お勉強」するのが億劫なこともあり、この講座に参加することはなかった。

 この講座の最終回のタイトルは「なぜ戦争は起こるのか」だった。参加した知人に「で、結論はどうだったんですか」と尋ねると「戦争はなくならない、という話だった」という答えが返ってきた。「戦争をなくそう」という理念をもっていると思われるピースボートの船内の自主講座でそんな結論を話すとは面白いなと思った。
 その知人は同時に「横内さんは、何であんなによく知っているのだろう。歴史資料にもずいぶん詳しい」と感心していた。

 ……そんな、ささやかな体験をふまえて本書を読んだ。
 明治維新からサンフランシスコ講和条約に至るまでの歴史をていねいに解説すると同時に、さまざまな歴史事項への著者の評価も織り込まれている。私の知人が著者の該博な知識と知見に感心したのも納得できる。また、今回の船旅も含めて、著者が歴史的な場所を訪れたときの感想や、著者のビジネスマンとしての見聞に基づいた感想なども挿入されていて興味深い。

 本書は10章で構成されている。各章末に「まとめ」というタイトルの箇条書きの要約が載っているのが親切でうれしい。
 第4章「第一次世界大戦と大正デモクラシー」の末尾には以下のような一節もある。
 「これ(社会主義思想、国家改造論、軍部主導の国家総動員体制の準備などの風潮)に対し、政治が本来の役割を果さず、無為無策を続ける内に、国民に政治不信がつのり、昭和の動乱の芽が育まれていった。平成の今日と、どこか似通ったところの多い時代であった。」
 
 私にとって、本書によって蒙を啓かれた気分になった事象がたくさんあった。いちいち挙げると煩雑になるので個別事象の紹介はしない。歴史的事象の背景にはさまざまな力学がはたらいていて、歴史を知るということは一筋縄ではいかないということを、本書のさまざまな事例からあらためて認識した。
 歴史とは常に勝者の視点で語られるものだから、歴史の実相を捉えるのは簡単ではない、ということは分かっているつもりだったが、本書を読みながら「歴史の勉強の難しさと面白さ」を感じることができた。

 私たちが過去の歴史を振り返るとき、すでにその後の展開を知っているので結果論から眺めることができる。日中戦争や太平洋戦争も、敗戦で終わることを知ったうえで、当時の事項を眺めることになる。だが、結果を知っているからと言って歴史を正しく評価できるわけではない。
 歴史上の人々の言動や行動についても、だれが正しくてだれが間違っているかの評価は人によって異なるだろう。「歴史が評価してくれる」という言葉もあるが、時間が経過したからと言って、評価が簡単に定まるわけではない。

 結局のところ、歴史を勉強するということは、歴史を掘り下げていくことによって歴史の見方を更新し、現代につながるさまざまな事象への自分なりの捉え方を構築していくことになるのだと思う。より多くの国民が「歴史好き」にならなければ、国も社会も危うくなるだろう。
 本書には、そんなことを考えさせてくれる教育的な効果もあり、それが表題の「学校で習わない・・・」につながっているように思えた。

ピースボートに乗る若者を分析した本が出た2010年08月30日

『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認共同体」幻想』(古市憲寿/光文社新書)
 新聞の広告で『希望難民ご一行様:ピースボートと「承認共同体」幻想』(古市憲寿/光文社新書)という本を見つけた。
 ピースボート体験者の一人として「これは読まねば・・・」と思った。タイトルからして、ピースボートを批判的に取り上げているようだ。
 すぐに本屋で入手し、その日のうちに読了した。ピースボート体験者にとっては「そうだ、そうだ」とうなづける部分が多い面白い本だったが、物足りなさもある。

 著者は25歳の東京大学院生。第62回ピースボート(2008年5月~2008年9月)」世界一周の船旅を体験している(乗船当時は23歳)。私はその直後の第63回ピースボート(2008年9月~2009年1月)に乗船した。私の体験記はこのブログに書いたが、第62回と第63回は船(クリッパーパシフィック号)の不具合で日程が大幅に遅延するなどのトラブルが発生した。乗客の有志(第62回の乗船者が中心)はピースボート相手の訴訟を起こしており、私は毎回傍聴に行っている(次回は9月1日)。---- が、そんなことは本書のメインテーマではない。

 本書は著者の修士論文をベースにした本で、社会学者の卵がピースボートに乗船した若者を対象に実施した社会調査の報告と考察である。元の修士論文のタイトルは『「承認の共同体」の可能性と限界:ピースボートに乗船する若者を事例として』だそうだ。つまり、本書は「若者論」がメインであり「ピースボート論」というわけではない。そこに、私は物足りなさを感じる。ないものねだりかもしれないが。

 私は、本書のタイトルはよくないと思う。「希望難民」がわかりにくい。難民になりたいと希望している人々かと思った。実は「現実と希望のギャップに苦しんでいる人」だそうだ。論文の尻尾を引きずっているのでこんなタイトルになったのだろうが、もう少し売れそうなタイトルはなかったのだろうか。

 著者は、ピースボートに乗船する若者たちを「共同性」「目的性」という二つの軸で四つの象限に分類し、それぞれ「セカイ型」(共同性・大、目的性・大)、「自分探し型」(共同性・小、目的性・大)、「文化祭型」(共同性・大、目的性・小)、「観光型」(共同性・小、目的性・小)と名付けている。分かりやすくて面白い分類だ。

 こういう分類を見ると、若者乗船者の一人である著者はどれに該当するのだろうと考えてしまう。社会調査をするという「目的性」をもって乗船したのだから、「目的性」の強い 「セカイ型」「自分探し型」になるはずだ。社会調査という行為は調査対象と深く関わる方がよさそうだから「共同性」も強かったのではなかろうか。だととすると、ピースボートの創設者が夢見た若者像である「セカイ型」ということになる。

 大学院生の若者として乗船した著者には、ピースボートに乗船して若者対象の社会調査をして若者論の修士論文を書くという明確な目的があリ、それは予定通り成就し、さらに新書本まで出版したのだから、著者はピースボートを享受・満喫したことになる。
 本書は、斜にかまえてピースボートを批判的にとらえているように見えるが、実はピースボートの「本当の」魅力を、主催者の思惑とは関係ない次元でクールに捉えたピースボート肯定の本かもしれない。

 若者像の分類などは面白いが、社会調査の多くがそうであるように、アンケートやインタビューで得られた知見は、画期的な事象の発見ではなく、直感的に何となく了解している知見の再確認のように思える。
 「6章 あきらめの船」において、帰国した若者たちの「社会的老化」「冷却」=「あきらめ」「大人になる」を指摘し、結論部の「7章 だからあなたはあきらめて」において、「目的性」が「共同性」によって冷却され、「コミュニティ」や「居場所」が「あきらめの装置」となることを評価しているのも、いかにも現代の若者的な認識だと思う。あたりまえのことを言っているだけのような印象を受ける。

 著者は「2章 旅の終焉と新しい団体旅行」において、社会学的考察をふまえて『一つの仮説を立てられるとしたら「旅」というもの自体が今、消滅しかかっているのかもしれない』と述べている。これはショッキングだが説得力もある指摘だ。「旅」は文学や学問や人生のメタファでもあるから、そう簡単にこの世から「旅」がなくなるとは思えないのだが、気になる問題提起だ。

 私が本書で面白かったのは「3章 ピースボートの秘密」「5章 ルポ・ピースボート」だ。ピースボートの体験者としては、すでに知っている話も多かったが、これらの「ピースボート論」の部分を掘り下げると、もっと面白いルポルタージュになるはずだ。

 著者のテーマが「若者論」なので、本書では中高年は考察対象になっていない。しかし、著者も指摘しているようにピースボートの特徴は「中高年と若者の混在」にある。若者は半数以下である。半数以上の中高年の多くは夫婦乗船ではなく単身乗船だ。また、中高年にはリピーターが非常に多い。若者にはリピーターはほとんどいない(リピーターになる若者はピースボートのスタッフ(=主催者)になってしまう)。
 ピースボートとは何かを分析するには、「ピースボートに乗る中高年」の考察が必須だと私は思う。私の予感では、若者より中高年の実態の方が複雑怪奇・多種多様である。不思議な人も多いので、単純なアンケートやインタビューで捉えるのは難しいかもしれない。
 元気すぎる中高年の「老人ホーム」と毎日の文化祭が同居しているピースボートを考察することは、われわれが突入しようとしている高齢者社会の様子を探るヒントになるような気がする。

 本書にTさんとして登場する方が、本書の感想をブログに書いている。面識はないが、Tさんもアクティブな中高年の一人である。

ピースボート批判の書籍『わが航路』のご紹介2009年03月13日

 第63回ピースボートに「おりづるプロジェクト」のメンバーとして乗船した長崎原爆の被爆者・山口廣治さんの体験記『わが航路  ある被爆者のピースボート体験、そして人生行路』が刊行されました。  私は、この本の編集・制作のお手伝いをしました。60ページ程度の薄い冊子ですが、ピースボートの売名行為に利用されたという著者の無念がよく分かるとともに著者のまじめな性格が伝わってくる内容です。第1部がピースボート体験記、第2部は著者の波乱の半生の記録です。

 『わが航路  ある被爆者のピースボート体験、そして人生行路』
  (著者:山口廣治  発行所:朝日クリエ  定価700円+税)

 この本は書店で注文できます。「アマゾン」「Yahoo! ブックス」「セブン アンド ワイ」「ブックサービス」や版元の「朝日クリエ」のページからオンラインでの購入もできます。以下のリンクをご利用ください。

アマゾンでの『わが航路』の購入画面
Yahoo! ブックスでの『わが航路』の購入画面
セブン アンド ワイでの『わが航路』の購入画面
ブックサービスでの『わが航路』の購入画面

朝日クリエのホームページ

私のピースボート体験(4)-終-2009年01月24日

◎火山灰に埋もれたラバウル(パプアニューギニア)

 ラバウルという名は「さらばラバウルよ、また来るまでは……」の歌で、子供のときから知っていたが、今回訪問するまでは、どこにあるのかもよく知らなかった。
 ラバウルは観光客が訪れるような場所ではなかった。観光客向けの設備など何もない。しかし、ピースボートが到着すると、港近くの道端にゴザを敷いた即席の売店がならぶ。売っているのは貝殻細工や木彫り彫刻などだ。
 驚いたことに、この町は火山灰に埋もれつつあった。近くに大きな活火山があり、噴火を続けているのだ。盛大に噴火をくり返している活火山を間近に見たのは初めての経験だった。浅間山や桜島しか知らない私は、その迫力に圧倒された。ラバウルに近づいたときから、船のデッキは火山灰でざらざらになった。
 1994年の大きな噴火で、ラバウルの町には5メートル以上の火山灰が降ったそうだ。そのため、ラバウルにあった政府機関などは別の町に移転した。現在も火山灰が降り続けているラバウルは、半ば放棄された町になっている。
 かつて、ここに日本軍の航空基地があった。山本五十六が最後に飛び立った滑走路の跡に行ったが、そこは火山灰の平原だった。爆撃機や零戦の残骸が保存されてはいるのたが、機体のほとんどは火山灰に埋もれている。人力で機体周囲の火山灰を取り除いて、かろうじて航空機の残骸と分かるようになっている。しかし、早晩、火山灰に埋もれてしまうのだろうと思った。
 ラバウルといえば、私の好きな漫画家・水木しげる氏が言う「南の島」でもある。現地の愛想のいい人々を見て、水木しげる氏はこういう人々に助けられて「南の島」に魅せられたのだろうと考えると、何となく彼らに親しみを感じた。

◎戦没者慰霊祭

 ラバウル(パプアニューギニア)寄港の前日、船上デッキで戦没者慰霊祭があり、「海ゆかば」を合唱した。もちろん、ピースボートの企画ではない。乗船者の企画である。企画者がピースボートに打診したとき、黙認するということになったそうだ。当初は「船内新聞」に案内は載せないという話だったが、どういう経緯からか簡単な案内は載った。
 戦没者慰霊祭は参加者も多く、盛況だった。「海ゆかば」は若い女性のトランペット奏者の伴奏で歌われた。参加者には歌詞を印刷したビラが配られた。歌詞は以下の通りだ。

  海ゆかば水漬く屍
  山ゆかば草むす屍
  大君の辺にこそ死なめ
  かへりみはせじ

 「海ゆかば」は旧軍隊を連想する歌で、「天皇のおそばに命を投げ出して悔いはない」という意味の歌詞がピースボートの船上で歌われるのは、ちょっとシュールな光景だった。
 戦後生まれの私にとっても「海ゆかば」の合唱は初体験だった。歌詞の意味が分かっていた若い人はほとんどいなかったのではないかと思う。すばらしいトランペット伴奏をした若い女性は、その日の朝食のとき、たまたま私の隣の席にいた。彼女は友人に「よくわからないけど、頼まれたので、これからトランペット吹くの」と言っていた。
 ピースボートの乗客は意外に多様だった。私は、そんなに多くの乗客と知り合いになったわけではないが、自民党の地区支部長だった人や自衛官だった人もいる。日本を代表する大企業の役員だった人や世界最大級の多国籍企業の副社長だった人もいる。多様な乗客がいたから「海ゆかば」を歌う戦没者慰霊祭もできたのだろう。

◎若者

 私は若者たちとはほとんどつきあわなかった。乗船前には、船の上では若者との多少の会話などもできるかなと考えていたが、友だちになりたい若者とは出会わなかった。断定はできないが、頼りにならない若者が多かったように思う。
 アンコールワットのツアーのとき「癩王のテラス」という遺跡を見た。昔、三島由紀夫がこの遺跡で着想を得て『癩王のテラス』という戯曲を書いたことを思い出した。昼食のとき若者二人組と一緒になり、「癩王のテラス」のことを話してみたくなった。「三島由紀夫って知ってる?」と軽く聞いてみると、「はあ?」という意外な反応が返ってきた。戯曲『癩王のテラス』を知らなくても、三島由紀夫の名前ぐらいは知っているだろうと思ったのだが、甘かった。そんなことも、若者と話すのが億劫になった一因だ。
 クルーズの後半になって、世界最大級の多国籍企業の副社長だった人から、ある依頼があった。その人は積極的に若者と接する人で、若者たちから就職相談を受ける企画をしていた。新聞記者になりたいという若者がいるので相談に乗ってくれないかという依頼だった。私は新聞記者ではないが、新聞社に長く勤めていた。新聞社の実情や知り合いの新聞記者たちの様子ぐらいは話せると考えて、気安く引き受けた。
 しばらくして、その若者から船室に電話があった。都合を聞くと、いつでもいいというので、翌日(イースター島上陸日)の夕食後に私の船室で会うことにした。翌日の夜、彼から電話があった。「今日、ぼくはとっても疲れてしまったんです。明日にしてくれませんか」という内容だった。あきれてしまい、この若者への期待感はなくなった。
 翌日の夜10時頃、若者は私の部屋に来た。遅い時間になったのは私の都合だった。缶ビールを飲みながら2時間ほど話した。大学を卒業して就職をせずにピースボートに乗ったそうで、船内企画のスタッフなどもしていたそうだ。いくつか質問してみて、本人がフラフラしたあいまいな考えしか持っていないことが分かった。まさに「自分さがし」の典型だ。いくつかアドバイスになりそうなことは話した。最後に、「疲れているなんて理由で人との約束をキャンセルするようでは、新聞記者になる以前に、社会人にもなれない。それだけで不合格」とも言ったが、どこまで通じたか。
 そんなわけで、不幸なことに私の出会った若者に魅力は感じなかった。こんな感想を抱くのは私が年を取ったせいだろう。

◎おりづるプロジェクト

 第63回ピースボートには、広島・長崎の原爆被爆者百二名が無料招待されていた。ピースボートが「ヒバクシャ地球一周証言の航海」(通称「おりづるプロジェクト」)という企画を立ち上げていたのだ。
 私が百二名の被爆者が無料招待されていることを知ったのは、ピースボートに乗船した後だった。その後、船内で知り合った人に聞いてみると、「おりづるプロジェクト」の案内が出航直前に郵送で届いたという人と、そんな案内は受け取っていないという人がいて、後者の方が多かった。このような連絡のずさんさは珍しくない。
 無料招待された被爆者たちは、各寄港地で被爆証言活動に参加することが義務付けられていた。ピースボートが無料で被爆者を招待するのは結構な話だが、費用負担は大変だろうと気になった。
 一般乗客の中には、「百人も無料招待したために、食事や各種イベントの費用が抑えられている」と憤慨する人もいた。私は初めての乗船なので分からないが、何度も乗船しているリピーターの乗客は「今までに比べて、今回はサービスの質もイベントの質も格段に低下している」と嘆いていた。
 それはさておき、実は「おりづるプロジェクト」の参加者にも不満が鬱積していたのだ。クルーズの終盤になって「おりづる」メンバーの数人と知り合いになり、彼らから不満を聞かされた。不満の要旨は「無料招待に惹かれて参加を申し込んだが、ピースボートの宣伝道具にされているだけで、まともな証言活動はさせてもらっていない。タダほど高いものはないと後悔している」といったことだった。

◎船の上ではDIY(Do It Yourself)

 船には船医が乗っている。若い内科医で人柄のいい人だった。2回ほど船医の所に行ったが2回とも成果はなかった。

 乗船して2週間ほどして奥歯の詰め物が取れた。国内なら、すぐに歯医者に行って修復してもらうのだが、船に歯医者はいない。ダメもとで船医の所へ行き「接着剤があれば自分で詰めてもいいが」と相談してみたが「そんなものはない」と言われた。帰国まで数カ月も不具合な歯で暮らすことになるのかと憂鬱になった。
 船上で知り合った獣医の方に歯の話をすると「歯は普通の瞬間接着剤で付けて大丈夫です」と言われた。船の売店に瞬間接着剤を売っていたので、さっそくそれを買ってきた。自分で歯の詰め物を付けるのは、そう簡単ではない。歯が濡れていたり、接着剤の量が多すぎるとうまく付かない。最初は何回か失敗したが、やがてコツが分かってきた。最初に詰めたときは翌日には取れた。次は1週間ほどで取れ、その次は1カ月弱で取れた。その後に詰めたのは3カ月以上もっている。
 船内で食事をしているとき、歯の詰め物が取れたという人がいたので「売店で瞬間接着剤を買ってきて、自分で付ければいいですよ」と教えてあげた。あの人はうまく付けることができただろうか。

 2回目に船医の所へ行ったのは、ガラパゴスから帰ってきて2週間ほど経った頃だ。ガラパゴスに行ったとき、左薬指の第1関節のあたりにキイチゴのトゲが刺さった。少し血が出たが大したことはないと思った。その日の夜、念のために消毒した針で傷あとをつついてみた。トゲが刺さった所が腫れていたので、トゲが残っていないか気になったからだ。トゲの残りはなかった。
 数日経っても第1関節は少し腫れたままで、そのせいか、第1関節の部分が少し内側に折れた状態になっていた。
 その後、痛みはなくなったが、左薬指の第1関節は少し内側に折れたままだった。傷あとはかすかに腫れているような気がした。で、2週間目に船医に診てもらった。状況を説明すると、針で傷をつついたことを、適切な処理だったと褒めてくれた。海外には日本にない毒性をもつ植物もあるので腫れがひきにくいのだろうと言って、抗生物質を出してくれた。
 その日の夜、船の居酒屋でガラパゴスに一緒に行った写真家で生物学の専門家でもある藤原幸一氏らと飲んだ。指の傷の話をすると、藤原氏は「キイチゴなんて日本にもある普通の植物だけどなあ」と言った。その酒席に、リタイアード・ドクターのK氏がいた。K氏は整形外科医だった。私の指を見たK氏は「これは関節の腱が切れています。このままだと指先は90度ぐらいまで曲がってしまいます」と即座に言った。そして「割り箸のようなもので支えてバンソコウで縛っておけば直るでしょう。でも1カ月以上かかりますよ」とアドバイスしてくれた。
 翌日、木切れを調達してバンドエイドで第1関節を固定した。K氏に見せると、「本当は、上に反った金具で支えるのだが、これでいいでしょう」と言った。そこで、ナイフを使って木切れにくぼみをつけて、反った金具と同じような形になるようにした。われながら満足のいくできばえだった。その木切れは、まだ私の指にバンドエイドでくっついている。すでに1カ月は経過したのだが、下船の頃になって、K氏から「2カ月ほどつけておく方がいいでしょう」と言われたのだ。指が元に戻るかどうかは、まだ分からない。

 今回のクルーズで私が習得したことは、歯の詰め物の応急措置、指の腱の直し方、それと南十字星の見つけ方だ。私は、この程度の収穫に満足している。

◎西回りの理由

 ピースボートに限らず他の多くのクルーズも西回りで地球を一周する。海流のせいかなと思っていたが、乗船してみて西回りの理由がよく分かった。
 船は飛行機のように速くないので船旅では時差ボケが発生しない。しかし、時差は発生する。西に航行していると、4、5日に1回の割合で1日が24時間ではなく25時間になる日がある。そんな日は深夜0時に時計を1時間戻すのだ。だから、1時間得した気分になる。夜飲んでいて、もう11時だと思っても、時差発生の日だと実はまだ10時なのだ。睡眠時間もゆっくりとれる。
 そんな25時間の日を20回以上もくり返していると、やがて日付変更線を通過して1日が消滅する。だから103日間地球一周と言っても、それは日本での日数であって、乗船者にとっては102日なのだ。その代わり、25時間の日が24回という勘定になる。
 これが東回りだと、23時間の日が24回になって日付変更線で1日増える。時差発生の日の夜は、まだ10時だと思っていたら、実はもう11時ということになる。これではせわしないし、睡眠不足にもなりかねない。ゆったりした時間を過ごしたい船旅には、東回りは不向きなのである。私にとっての小さな発見だった。

◎散髪

 3カ月以上のクルーズなので、途中で散髪することになるだろうとは考えていた。船内には美容室があり、散髪もしてくれる。料金は四千円だったが、船内の美容室には一度も行かなかった。
 イズミル(トルコ)で船が停泊をくり返しているとき、イズミルの床屋で散髪してもらったのだ。停泊が長引いたので、私たちは次第にイズミルの町になれてきた。イズミルは床屋の多い町だった。町の床屋を利用した人から「いい床屋だった」と聞き、そこに行こうとしたのだが、別の床屋に入ってしまった。床屋の亭主には英語が通じない。しかし、一人だけいた客が日本にも来たことがあるトルコ人で、英語も堪能だった。こちらは、値段の確認と散髪してほしいという意思疎通ができればいいので、何とかなった。値段は7ユーロで、洗髪も髭剃りもしてくれた。散髪そのものは日本の床屋とそんなに違わない。
 散髪の途中で「チャイ(トルコの紅茶)を飲むか」と聞かれた。せっかくだから「イエス」と答えた。しばらくすると、お盆に乗った出前のチャイが届いた。どうするのかと思っていると、散髪を中断して、亭主も私も待合席の人もみな一緒にチャイを飲み始めた。散髪の椅子に座ったまま、散髪の途中でお茶を飲むのは初めての経験だった。
 それから約2カ月後、もう一度髪を刈ってもらった。今度は寄港地ではなく船内だった。船内には闇の床屋が出現するのだ。理髪道具を持ち込んでいる理容師の乗客がいて、それぞれの船室で散髪してくれるのだ。船内での商売は禁止されているが、クチコミで情報が入ってくる。私も利用した。料金は1500円だった。もちろんカットだけだ。刈った髪が床に散らばらないコンパクトな道具があることを知った。他にも、私の知らない闇の船内サービスがいろいろあったのかもしれない。

◎噂話

 乗客700人が外界の情報から隔離されている船内は、いわば辺境の村のような所で、村内のいろいろな噂話が聞こえてくる。時間をもてあまして退屈している人も多いので、噂話には尾ひれがついて広まるようだ。噂話は噂話に過ぎないから、その信憑性は不明だ。私たち夫婦は、あまり人とはつきあわなかったので、船内の噂話にはうとい方だったが、それでもいろいろな話を聞いた。

 クルーズでは、毎回、強制下船になる人が何人かは出る。船長には船の安全な航海の妨げになる乗客を強制下船させる権限があるのだ。強制下船は公式に発表されるわけではないので、噂話として聞こえてくる。船室で煙草を吸ってボヤを出した人が下船させられた、船室でマリファナを吸っていた人が下船させられたと、などという話を聞いた。いろいろあって、酒を理由に強制下船になった人もいたが、これは知人で、本人から聞いたので噂話ではない。

 遅延によって4カ月を超える航海になったので、終盤ではみんなダレた気分になってくる。乗船直後のように、だれかれなく表面的な愛想を振りまいてお話をする気力はなくなり、噂話をネタに人間ウォッチングをする方が面白くなる。上品な趣味ではないが、中高年の男女の人間模様の行方を観察するのも面白かった。
 一人乗船の中高年男女の中には、ストーカーまがいもいれば、高校生に戻ったような純情な恋心をいだく人も、年相応の手練手管を発揮する人もいる。もちろん、真面目に交際する人もいる。
 ある日、A氏から「B氏とCさんが結婚するらしい」と聞いた。私は「そう言えば、こないだの寄港地でも二人で行動していたし、たまたま一緒になったレストランでも和気藹々でしたよ」と言った。その後、Dさんに「B氏とCさんが結婚するみたいですよ」と伝えた。Dさんは「本当、確かめてみる」と言った。しばらくして、Dさんから「まだ、そこまでは行ってないらしい。その話の出所はだれ?」と聞かれた。そこで、A氏に「B氏とCさんの話、だれから聞きました?」と確かめると「あれ、あなたから聞いたんじゃないかな」と言われてしまった。
 記憶力が減退してきている中高年の噂話なんてこんなものである。若者たちのおバカ企画の低俗さにはうんざりしているが、当方もいばれたものではない。

◎船での運動

 船旅では健康な生活を送りたいと考えていた。何もすることはないのだから、健康維持の運動ぐらいは心がけようと思った。また、多少でもゴルフの練習ができればと思い、中古ショップで買った100円の9番アイアインを持ち込んだ。素振りでもできれば思っていたのだ。テレビ番組を収録した太極拳の講座9回分のDVDとテキストも持ち込んだ。デッキを散歩するための小道具として万歩計も買った。
 しかし、ゴルフの素振りは一度もしなかった。適当な場所がなかったのだ。太極拳のDVDは数回見ただけで止めてしまった。
 最初のうちは万歩計をつけて運動靴でデッキを散歩し、1日1万歩を心がけていたが、1カ月ぐらいで万歩計を使わなくなり、散歩も面倒になってきた。
 船内企画では朝6時から太極拳、6時30分からラジオ体操をやっている。早朝の甲板でやるので、日の出を見るチャンスも多く、気持ちがいい。しかし、太極拳は最初の10日ぐらいで挫折した。ラジオ体操は2カ月ぐらいは続いたが、しだいに億劫になり、後半はときたま参加するだけになった。
 子供の頃の夏休みの計画と同じで、最初は計画通りにがんばるのだが、だんだんとサボるようになる。六十歳になっても進歩しないものである。

◎船での読書

 3カ月の船旅となると読書の時間も十分にとれそうな気がする。しかし、ガツガツ読書するよりは、のんびりした時間を過ごしたいとも考えた。だから、持って行く本は少なくしようと思った。すぐ読めそうな本ではなく、日常生活では読む気になりにくい本がいいと思った。結局、10冊ほどは持って行ったが、メインは数年前に購入した『磁力と重力の発見』(山本義隆)全3冊だった。これを含めて、持って行った本はすべて読了できた。
 今回のクルーズは停泊が長く、イライラがつのることも多かったので、船の図書館にあった面白そうな本で時間をつぶすことも多かった。図書館で調達した『モンテクリスト伯』全3冊、『沈まぬ太陽』全5冊などは、イライラ時間の解消に役立った。
 船で知り合った人々の本を聞いてみると、見かけによらず渋い本を読んでいる人が多かった。元船乗りでクルーやホテルマンにチップを弾んでいる豪快そうな人が読んでいたのは、島崎藤村の『夜明け前』だった。中小企業オーナーの乱暴者に見えた人は、西部邁の『国民の道徳』やマルコポーロの『東方見聞録』を読んでいた。ニヤけた中年男に見えた人は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』とモンテーニュの『エセー』を読んでいた。
 やはり、船に持って行くのは面白すぎる本ではなく、読みにくくて大部の本がいいように思える。読んでいて退屈すれば居眠りをすればいいのだし、読了しなくてもかまわないと思っていれば気楽である。
 仮にもう一度船に乗るとすれば何を持っていくか、きっと悩むだろう。

◎終盤の「仕事」

 のんびりと何もしないのが一番と思って乗船したのだが、クルーズの終盤で原稿書きの仕事のようなことをしてしまった。
 12月20日、「おりづる」で乗船している73歳のY氏から、今回のクルーズの記録を残したいとの相談を受けた。長崎原爆の被爆者であるY氏はピースボートのやり方には批判的で、自分が体験したことを記録に残しておきたいと言った。面白い話だと思い、自費出版を勧めた。本人もその気になった。
 翌日の12月21日の夜、私の船室を訪ねてきたY氏とワインを1本空けながら、さらに詰めた話を聞いていて、Y氏は自分で原稿を書くようなタイプの人ではないことに気づいた。そして、つい「テープにお話を吹き込んでいただければ、私が原稿にしましょうか」と言ってしまった。Y氏はすぐに乗り気になった。
 私が原稿書きを安請合いしたのは、ワインで酔っていたせいばかりではない。
 一つには、このクルーズでいろいろトラブルがあったので、ピースボート批判の本の手伝いをしてもいいと考えていたのだ。
 二つには、以前からY氏の一代記を聞いていて、本にできるぐらい面白い話だと思い、その一代記を原稿にすることに興味をもったのだ。だから、ピースボート体験だけでなく自分史を含めた本にするよう提案した。
 三つには、クルーズ終盤にさしかかった私は船内生活にも少々飽きはじめていて、原稿書きは手ごろな時間つぶしになると思ったのだ。
 Y氏とワインを空けたのは12月21日。その翌日は12月23日だった。日付変更線を通過したので12月22日は消滅した。その12月23日の午前、私の船室で約2時間のインタビューをテープに収録した。その日の午後から原稿に取りかかった。12月28日には、補足インタビューをさらに2時間テープに収録した。Y氏は12月30日にシドニーで下船した。
 テープを元にした原稿が一応できあがったのは1月2日だった。四百字詰め原稿用紙換算で約七十枚の分量になった。
 9月からの船内生活は基本的に早寝早起きだったのだが、この原稿書きの期間は、日本にいたときのような夜更かし生活になってしまった。原稿書きと健康な生活の両立は難しいと痛感した。

◎ピースボートのビジネスモデル

 ピースボートに乗船して分かったことは、ピースボートが特異な船だということだ。金を払った客に「参加者意識」をもたせて、ボランティアスタッフで運航するというのは、通常の商売ではなく新興宗教のようでもある。教義はもちろん「ピース」だ。
 乗客に対して「みんなで勝手に遊ぶ場」「みんなで勉強する場」だけでなく「楽しく働く場」までを提供し、その対価として金を取るのは一種のコミュニティ・ビジネスである。そのコミュニティに「地球一周」という付加価値もつくのだから魅力を感じる人も多いだろう。
 世界のクルーズ状況は知らないが、若者が多数乗船している世界一周クルーズは全世界を見ても例がないのではなかろうか。
 ボランティアの割引料金だとしても、乗船している若者の負担は少なくない。それを負担できるのだから、やはり日本の若者はゆたかなのだ。そして、日本の社会に閉塞感をもつ若者も多いのだろう。だから、ピースボートが成り立つのだ。「自分さがし」をしている若者にとっては、おバカで楽しいことと、社会的に意義のありそうなことが両立できるピースボートは、まさに「私の大学」なのかもしれない。
 そんな若者たちが集まるカジュアルな船に魅力を感じる中高年も少なくないだろう。
 ピースボートは、ゆたかで閉塞した日本の仇花のように見える。しかし、実はピースボートは卓越したビジネスモデルを発見しているのかもしれない。
 と言っても、ピースボートにホスピタリティの欠如という問題があるのは確かだ。だとすれば、ピースボートのコンペティターのようなクルーズ・ビジネスも成り立つような気がする。私は素人なのでよくは分からないが、ピースボートと「飛鳥」の中間のクルーズがあってもいいと思う。簡潔に言えば、ホスピタリティに問題がないカジュアルなクルーズである。主に中高年を対象にした生涯学習的なコミュニティ・ビジネスの要素も必要だろう。だれか、企画する人はいないだろうか。団塊の世代が大量に退職する時期だからマーケットはありそうだ。

(了)

       私のピースボート体験 (1) (2) (3) (4)

私のピースボート体験(3)2009年01月24日

◎船の引越し

 クリッパー・パシフィック号からモナリザ号への引越しは大変だった。乗客は自分の荷物を段ボール箱に梱包しなければならない。私たち夫婦の荷物は16箱になった。荷物の搬出は乗客の仕事ではなく、専門スタッフの仕事だと思っていた。ところが、ピースボートは乗客に「引越しボランティア」を呼びかけたのだ。船体トラブルによる引越しまでもお祭り騒ぎのイベントにしようというのだ。
 ボランティアだから強制ではない。と言っても、船の遅延でイラ立っている乗客も多いのに臆面もなく無神経なことをするものだと思った。しかし、呼びかけに応じて引越しを手伝う人も多かった。ボランティアにはお揃いのTシャツが支給されるので、だれがボランティアかはすぐ分かる。乗客とスタッフの中間のような立場の若者も多いので、多くの若者が引越しボランティアに参加していた。お揃いのTシャツ姿で張り切る中高年も少なくはなく、腰を痛めた人もいた。
 もちろん、ボランティアに参加しない人もいる。ボランティアに参加しない若者たちは引越しの期間、自分の船室に引きこもって本を読んでいたそうだ。お揃いのTシャツではない姿で船内を歩くのがはばかられる雰囲気だったのだ。
 サークル活動のノリで乗客に引越しを手伝わせるのを「素晴らしい」と思うか「ずるい」と思うかは人それぞれだろう。「乗客意識」と「参加者意識」の違いである。
 ただし、プロの業者を最小限に抑えて、素人のボランティア中心で引越しという大プロジェクトを強行すると、どこかに無理が出るものだ。案の定、船の引越しは予定通りには終わらなかった。
 引越し当日、乗客はモナリザ号のレストランで夕食をとり、引越し終了後すみやかに出港する予定だった。しかし、引越しが終了しないので、乗客の移動ができない。食材も引越し荷物の中だったのかもしれない。結局、その日のうちの乗客の移動は中止になり、夜遅くになって支給された簡単な弁当を食べさせられることになった。もちろん、出航は1日遅れた。
 こんな体験も、一部の乗客にとっては「大変だったけど、みんな頑張ったね」という、いい思い出になったのかもしれない。そんな乗客には、ピースボートのずさんさ、無責任さ、ずるさなどが見えないのだろう。

◎遅延を喜ぶ乗客たち

 乗客の中には船の遅延を歓迎する人々もいた。アンコールワットのツアーからの帰途、添乗員が「船が到着していないのでシンガポールではホテル泊になります」とアナウンスすると、ほとんどの乗客が歓声をあげて拍手をした。タダでホテルに泊まれて、市内観光までできると喜んでいるのだ。
 また、遅延が1カ月近くになってきた時点でも、怒るどころか「1カ月も無料で3食たべさせてくれるというのは大変なことですよ」と感謝する人や、「クリスマスも正月も船上で迎えられてよかった」と言い出す人も現れた。
 ピースボートを老人ホーム代わりに使っている人や帰国しても当面の予定のない人にとっては、遅延はたいした問題ではなかったのだ。また、予期せぬことが起こるから旅は面白いのだ、と考える人もいたかもしれない。
 七百人の乗客がいれば、考え方や感じ方がさまざまなのは仕方ない。しかし、乗客の感じ方の多様さに乗じて、ピースボートやジャパングレイスが自分たちの責任を軽く考えているように見えるのが腹立たしかった。

◎ジャパングレイスの責任

 私は、今回の遅延の最大の責任はジャパングレイスにあると考えている。一心同体のピースボートも同罪だ。悪いのは船会社であって、ジャパングレイスも被害者だと言う人もいるが、それは甘い考えだと思う。
 後から知ったのだが、前回の第62回の航海で、すでにエンジンのトラブルは発生していた。船のエンジンに大きなトラブルをかかえていて、それが解決していないことは、ジャパングレイスには分かっていたのだ。
 イズミルでの説明会のとき、ある乗客が「みなさん、9月7日の出航のとき、前回の乗客有志が桟橋で『その船はあぶない』と書いた看板を掲げていたのを知っていますか」と発言した。私は知らなかった。大半の乗客が気づいていなかったようだ。あまり大きな看板ではなかったのだろう。気づいたとしても出航直前では手遅れだったが、エンジントラブルは前回の乗客には周知だったのだ。
 にもかかわらず、ジャパングレイスは9月4日に横浜に入港したクリッパー・パシフィック号を9月7日には出航させた。船の安全運航を考えるなら、第63回ピースボートは大幅延期あるいは中止させるべきだった。それをしなかったジャパングレイスの無責任さと判断の甘さによって、第63回ピースボートの大幅遅延が発生したのだ。また、常に情報を隠蔽しようとするジャパングレイスの態度も非難されるべきである。
 謝罪するべきときに情報を隠蔽しようとするから事態の悪化がエスカレートするのだ。辻元清美の議員辞職のケースと同じである。
 長い航海を終えて私たちが東京・晴海に帰航したとき、桟橋の出口でビラを配っているグループがいた。前回の乗客有志だった。そのビラは「ジャパングレイスの対応・態度の改善を求めて交渉してきたが解決が展望できない。新たな動きを考えている」といった内容だった。
 そのビラが縁で、私は前回の乗客・竹野昇氏の『僕の地球一周の船旅 ピースボート 光と影』という本を入手し、第62回の航海の悲惨な状況を具体的に知ることができた。竹野氏は、私のようないいかげんな人間ではなく、熱心な平和活動家である。

◎世界遺産

 私は今回のクルーズを、世界遺産を巡る観光旅行とも考えていた。訪れた世界遺産は以下の通りだ。

 ・アンコールワットとアンコールトム(カンボジア)
 ・タージ・マハル(インド)
 ・アーグラ城(インド)
 ・カルナク神殿、ルクソール神殿、王家の谷(エジプト)
 ・ギザの三大ピラミッドとスフィンクス(エジプト)
 ・ヒエラポリスとパムッカレ(トルコ)
 ・カッパドキア(トルコ)
 ・イスタンブール歴史地区(トルコ)
 ・アクロポリス(ギリシャ)
 ・バレッタ市街(マルタ)
 ・ガウディの作品群(バルセロナ)
 ・ギアナ高地(ベネズエラ)
 ・サントドミンゴの植民都市(ドミニカ)
 ・キト市街(エクアドル)
 ・ガラパゴス諸島(エクアドル)
 ・クスコ市街(ペルー)
 ・マチュピチュ(ペルー)
 ・イースター島(チリ)
 ・シドニー・オペラハウス(オーストラリア)

 これらの世界遺産の多くは、一度眺めればそれで満足できてしまう。あえて、もう一度来たいとは思わない。「写真やテレビで見たのと同じだ」という妙な感動の仕方をして、現物を見たということに満足してしまうからだ。
 そんな中で、もう一度来たいと思ったのは「ガラパゴス諸島」だった。「ギアナ高地」も機会があれば再訪したい。また、「タージ・マハル」と「マチュピチュ」では、写真やテレビとは違う感動を得た。マルタ島の「バレッタ市街」は拾いものだった。

◎ガラパゴス諸島

 実は、旅行前には「ガラパゴス諸島」に行くのを躊躇していた。イグアナやゾウガメの映像はテレビで十分に見ている。観光客が増えて環境破壊が進んでいるため、世界遺産第1号が今や危機遺産に登録されている。そんな所に観光で行くのは後ろめたい。動物を見るだけの自然動物園のようなものだから、あえて行くほどでもないだろうという気もした。船の遅延の影響で「ガラパゴス6島クルーズ」が「島のホテル宿泊の4島巡り」に変更になったときも、ガラパゴスのキャンセルを検討した。
 しかし、実際に訪問してみると、想像以上に素晴らしい所だった。確かに環境破壊は進んでいる。あとどのくらいの期間、ガラパゴスが現在の姿を維持できるかは微妙だ。とは言え、やはり、美しい島々である。海もきれいだ。動物たちが自由に生息している様を間近に見ることができるのは、まさに別世界だった。
 再訪したいと思った理由の一つは、観光客が少なくて静かでのんびりできるからだ。確かに世界遺産指定後、観光客が急増し、環境破壊が深刻になっている。と言っても、アンコールワットやスフィンクスのように満員電車状態の観光客がいるわけではない。ガラパゴスの観光客には15人までに一人の現地ガイドがつく。1パーティは15人以下である。ガラパゴス諸島の多くは無人島だが、私たちの体験では、一つの島に同時に上陸しているのは1パーティで、たまに2パーティになることがある。その程度の観光客密度である。
 ガラパゴスでは、写真家の藤原幸一氏が私たちを引率してくれた。藤原氏は海洋生物の研究者から写真家になった人で、「ガラパゴス自然保護基金」を立ち上げている。『ガラパゴスがこわれる』という写真集も出している。藤原氏の要を得た説明つきだったことも、このツアーが実り多いものになった要因だった。 
 ガラパゴスでは観光客の量的制限は必要である。これ以上観光客が増えない方がいいと思う。しかし、今やガラパゴスの生態の特異性を維持するには膨大なコストがかかるのだ。外来種の植物や動物を駆除し続けなければ、ガラパゴスは他の大陸と同じ自然環境の島になってしまうからだ。ガラパゴスを維持するコストは主に観光客からの入島料でまかなわれている。入島料が適切に使われているか否かは問題だとしても、観光収入によって生態の維持を図っているのだ。何もせずに自然にまかせるとガラパゴスの特異性が失われる。特異性を維持するには人為的な介入が必要で、その財源は観光客なのだ。そういう事情を知って、私の当初の認識は少し変わった。

◎ギアナ高地

 ギアナ高地を再訪したいと思ったのは、滞在1泊ではもの足りなかったからだ。小型飛行機からエンゼルフォールを見ることはできた。もう1泊すれば、ボートで川を遡って下から見ることもできたのだ。テーブルマウンテンの上にも行ったみたい。登攀する人もいるそうだが、ヘリコプターで行くことも可能らしい。観光客がまばらで静かなのが魅力的だった。

◎タージ・マハル

 タージ・マハルの写真は小学生の頃から何度も見ていて、インドのシンボルとしてその形は頭に擦り込まれていた。実物を知らなくても、すでに何度も見た気分になっていた。しかし、実物には写真では分からない輝くような美しさがあった。多くの遺跡のように写真と同じだったのではない。写真をはるかに超えていたのだ。太陽の光の加減によって微妙に変化する大理石建築の美しさ、神々しさは、実際に見なければ分からない。

◎マチュピチュ

 マチュピチュの写真や映像も何度も見ていた。実物を眼下に眺めたときも、写真と同じだと思った。しかし、写真では分からないことがあった。高山の空気である。これは現場でなければ分からない。目だけでなく肌の感触がいいのだ。現場で360度を見渡し、視線を上下に動かすと、この空中都市遺跡の特異性を肌で感じることができる。周囲の山の高さ、谷の深さ、深山幽谷の趣……それは、現場に立ってはじめて感得できる霊気のようなものだった。

◎バレッタ(マルタ)

 あまり注目していなかったのに、訪れてみて好印象をもったのはマルタ共和国のバレッタだ。地中海の島国の小さな町である。十字軍の聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)が作った町で、町全体に城砦の趣がある。世界遺産に登録されているので一応は観光地かもしれないが、それほど観光地らしくないのがいい。石畳の路地を通して望める地中海も美しかった。
 マルタ騎士団総長館は入場料をとる博物館だが、マルタ共和国大統領府兼国会議事堂にもなっている。そんなに大きな建物ではない。観光客である私たちが通る廊下に接した部屋には国会議員の集団がいた。大きな扉は開けっ放しで、私たちもそのまま入って行けそうな感じだった。警備員が「さきほどまで、ここに大統領がいました」と言った。不思議な博物館である。

◎トルコの印象

 今回のクルーズで最も長く滞在した国はトルコだ。10月13日にクサダシに入港し、10月28日にイズミルを出航するまでの16日間滞在した。前半の5日間は、エフィソス遺跡、パムッカレ、カッパドキア、イスタンブールなどを巡るオーバーランドツアーで、後半はイズミルの街をうろつきながら出航を待ち続ける日々だった。
 オーバーランドツアーで感じたのはトルコ人のプライドの高さだ。私たちのツアーを担当したガイドの印象も大きいが、トルコ自慢が多かった。「遺跡の数はギリシャより多い」「ヨーグルトもピラフもサンタクロースもトルコ発祥だ」などという話は初めて聞いた。自給自足ができるゆたか国だと思った。
 エーゲ海に面した港町イズミルはいい街だった。雰囲気はほとんどヨーロッパだ。国民の大半はイスラム教徒なのだが、とてもそうは見えなかった。若い男女は公園のいたる所で抱き合っている。服装もしゃれている。
 ガイドブックに「イズミルは美人の産地」と書いてあったが、その通りだった。街ですれ違うのは美男美女ばかりだ。混血が多いので美人が多いらしい。トルコのファッションモデルの大半はイズミル出身だそうだ。
 建国の父・アタチュルクがいまだに英雄として扱われていることも、イズミルで確認できた。昔読んだ本で「アタチュルクは日露戦争に勝った日本を尊敬していて、机上には明治天皇の写真を置いていた」という逸話を知った。その記憶があったので、何となくアタチュルクに親近感を抱いていた。だから、街のいたる所にある彼の銅像や肖像の前で写真を撮った。みやげ物屋でアタチュルクの肖像入りの小物も買った。街頭ではアタチュルクの肖像を印刷した大きな国旗を売り歩いている人がいた。少し心が動いたが、さすがにそれは買わなかった。

◎まぼろしのような街

 オーバーランドツアーは航空機やホテルを利用する。船の遅延で日程が何度も延期になったので、オーバーランドツアーの航空機やホテルを何度も変更するのは大変だろうと心配した。結局、ほとんどのツアーが催行されたが、かなり無理なスケジュールに組み替えられているケースが多かった。通常のツアーでは考えられない深夜や早朝の移動も当たり前だった。早朝にチェックインしたホテルで仮眠をとって昼前にはチェックアウトするというケースもあった。募集時に明記した観光地を巡るのが第一優先で、客の健康は二の次の強行スケジュールになってしまったのだろう。
 そんな無理なスケジュールのおかげで、まぼろしのような印象しか残っていない都市がある。プノンペン(カンボジア)とカラカス(ベネズエラ)だ。
 航空機でプノンペンに到着したのは夜だった。9時頃にホテルにチェックインし、遅い夕食をとった。翌日は早い朝食をとり、7時30分にはチェックアウトして空港に向かった。だから、バスの窓から夜の街と早朝の街を眺めただけである。それしか知らないが、道路が広い美しい街だった。ホテルで眺めた朝日のメコン川もよかった。もっと滞在したかった。
 カラカス(ベネズエラ)は夜景しか知らない。船で夕食をとったあと、寄港地のラグアイラからバスでカラカスに向かった。ホテルにチェックインしたのは夜10時だった。翌日は午前3時にホテルを出発して空港に向かった。だから、ほんの短時間しか睡眠を取れなかった。素敵なホテルだったという記憶はあるが、食事はしていない。バスから眺めた街は夜景だけだ。それでも、産油国の首都らしい都会の雰囲気を感じた。港町のラグアイラがみすぼらしかったので、カラカスの立派な印象が意外だった。陽光の下ではどのように見えたかは分からないが。

       私のピースボート体験 (1) (2) (3) (4)

私のピースボート体験(2)2009年01月24日

◎寄港地とオーバーランドツアー

 第63回ピースボートの寄港地は22カ所だ。大半の寄港地では朝入港し、その日の夜には出港する。港で一泊して翌日出港する寄港地もいくつかあるが、滞在時間12時間以下の寄港地が多い。
 寄港地から離れた場所に行きたいなら、オーバーランドツアーを申し込むことになる。オーバーランドツアーとは、ある寄港地で下船し、航空機やバスで観光地などを巡り、次の寄港地で船に合流するツアーのことだ。
 私たち夫婦は、この機会に各地の世界遺産などを見ておきたいと思い、次のオーバーランドツアーを申し込んでいた。

 ・アンコールワット遺跡探訪(3泊)
 ・インド文化遺跡の旅(6泊)
 ・ルクソール遺跡とピラミッド観光(3泊)
 ・トルコ世界遺産の旅(4泊)
 ・ギアナ高地(1泊。同じ寄港地に帰るので正確にはオーバーランドツアーではない)
 ・ガラパゴスとマチュピチュ遺跡(10泊)

◎出航後の遅延

 第63回ピースボートの地球一周は、2008年9月7日から2008年12月18日までの103日の予定だった。しかし、帰航は2009年1月13日になった。予定より26日遅れて、129日間のクルーズになった。4カ月以上の船旅だった。
 こんなに遅れたのは、以下のように寄港地での足止めがくり返されたからだ(詳細は、別表「第63回ピースボートの寄港地と日程」参照)。

 ・ダナン(ベトナム)で2日停泊予定が4日停泊になり、2日遅延
 ・シンガポールで1日停泊予定が6日停泊になり、5日遅延
 ・寄港予定がなかったイズミル(トルコ)に15日停泊し、15日遅延
 ・ピレウス(ギリシャ)で1日停泊予定が8日停泊になり、7日遅延

 上記の遅延日数を合計すると29日になるが、実際の遅延は26日だった。航行速度を上げて洋上航海の日数を短縮したからだ。

◎私の体験した遅延

 横浜出航のときから遅延は始まっていたのだが、最初の寄港地・ダナンの到着も大幅に遅れた。入港は朝の予定だったので、私はミーソン遺跡日帰りツアーを申し込んでいた。入港が数時間遅れるというので、ジャパングレイスのデスクに様子を聞きに行った。多少遅くなってもツアーを催行するとのことだった。ツアーの帰着が深夜になるといやだと思い、その日帰りツアーはキャンセルした。結局、船の入港は午後になってしまい、ミーソン遺跡日帰りツアーは中止になった。これが、出航後の最初の遅延体験である。
 その後の私の遅延体験は、一般の乗客とは少し異なる。オーバーランドツアーに参加していたからだ。
 私は、ダナン停泊の2日目に「アンコールワット遺跡探訪(3泊)」に出発し、シンガポールで船に合流する予定だった。ところが、ツアーを終えてシンガポールに到着しても船が着いていない。シンガポールのホテルで2泊して船を待った。だから、ダナン4日停泊の遅延を船内では体験していない。
 船がシンガポールに入港すると、私たちは船室に帰って大急ぎで荷造りして、すぐに「インド文化遺跡の旅(6泊)」へ出発した。オーバーランドツアーのハシゴである。
 「インド文化遺跡の旅」はコーチン(インド)で船に合流する予定だった。ところがコーチンに到着しても船が来ない。シンガポールで足止めされていたからだ。コーチンではホテルに5泊することになった。だから、シンガポール6日停泊の遅延も船内では体験していない
。  「トルコ世界遺産の旅(4泊)」ではトルコの寄港地クサダシで下船した。合流予定はパレルモ(イタリア)だった。ところが、ツアー中に船が予定通りに運航していないとの情報が入ってきた。アジアからヨーロッパに赴く前に、予定外のイズミル(トルコ)に停泊し、船の整備を万全にするというのだ。ヨーロッパの方が船の検査が厳しいそうだ。そのため、ツアーの到着地はパレルモではなくイズミルになった。
 イズミルで船に合流したのは10月17日、すでに停泊4日目だった。翌日の10月18日に出港する予定だったが、10月18日になると「出港は20日18時に延期」のアナウンスがあった。
 20日以降は「本日は出港できません。出港予定は明日お知らせします」のアナウンスがくり返され、実際に出港したのは10月28日だった。イズミル停泊は15日に及んだ。
 イズミルを出港した船は、翌日にはピレウス(ギリシャ)に到着した。ピレウスでも予定通りに出港できず、ついに別の船に乗り換えることになった。引越し作業などもあり、ピレウス停泊は8日になった。
 このように、私たちが船内で遅延を体験したのはイズミルでの停泊4日目以降からである。

◎署名運動の欺瞞

 シンガポール停泊中にジャパングレイスの船内説明会が開かれ、かなり荒れたと聞いた。目撃していないので詳細は分からないが、大衆団交か債権者会議のような雰囲気だったらしい。
 イズミル停泊中に説明会が開かれたのは停泊14日目の10月27日だった。
 説明会ではジャパングレイスの責任者が状況説明をしたが、その内容は空疎で何も進展しなかった。何人かの乗客が、問題がある船を出航させたことの責任を質したが「当局の許可を得て横浜を出港したので問題ない」と回答するだけだった。遅延による旅行の質の低下への対応を求める要望にも明確な回答はなかった。
 この日の説明会で驚いたのは、冒頭にピースボートの責任者が出てきて、例の「こんにちはー」の後、「この状況への怒りをどこにぶつければいいのでしょうか」と言い出したことだ。「お前だろう」という当然の野次も飛んだが、この責任者は「地球一周をやりとげるため、私たちにできることは何でもやりましょう。私たちの声を船会社にぶつけるために、署名運動を始めます」と宣言した。
 問題のすりかえに唖然とし、腹が立った。こんな演説に拍手する乗客が少なくないことにも驚いた。
 ピースボートとジャパングレイスは、船の遅延を船会社のせいにして、自分たちも被害者だと言い張ろうとしているのだ。被害者は乗客であって、その責任を負うべきは、船会社を選定したピースボートとジャパングレイスなのに、それをごまかそうとしているように感じられた。
 船会社に対して「出港させろ」という乗客の署名を集めても、効果が期待できるとは思えない。ピースボートが児戯に等しい署名集めをしたのは、彼らが無邪気で真面目だからではない。ずる賢いからである。署名運動によって乗客の矛先を船会社に向けさせ、ピースボートやジャパングレイスに対する責任追及をかわそうとしたのだろう。
 後で分かった状況から見て、10月27日の時点で別の船会社の船に乗り換える交渉は進んでいたはずだ。船会社に対する署名集めが無意味なことを一番よく知っていたのはピースボートなのだ。そんな無意味な署名運動を始めたのは、乗客をバカにした欺瞞であり、彼らの狡猾な政治性を露呈させる行為だった。
 それでも、ボランティアを使った署名運動では、かなりの乗客の署名を集めたようだ。

◎社長説明会

 ピレウス停泊中の11月1日、日本からやって来たジャパングレイス社長の説明会が開催された。社長は原稿を読み上げる形で形式的な謝罪をし、以下のような主旨の説明をした。

(1) 代替船「モナリザ号」を手配した。ピレウスで船を乗り換える。
(2) 当初予定の12月18日帰航は不可能。12月18日に帰国したい人の航空券はジャパングレイスが負担する。

 その後の質疑では「途中下船者への代金返還」「遅延、旅行の質の低下に対する補償」などの要求が出て、社長は検討すると回答した。また、「12月18日に帰国した後、無料で再乗船できるか」の質問に対して「できます」と回答した。
 イズミルでの説明会とピレウスでの社長説明会で、何となく乗客の色分けが分かってきた。発言者のほとんどはジャパングレイスに対する批判者だが、特にまとまって組織的に動いているわけではなさそうだ。批判者に対して野次を飛ばす人もいるし、ジャパングレイスやピースボートの説明に拍手する人も少なくはない。

◎要望書の提出

 私たち夫婦は、説明会におけるジャパングレイスへの批判的発言に共感していたので、発言者の何人かに声をかけて知り合いになった。
 11月6日、代替船「モナリザ号」はピレウスを出港した。その後、この船は帰国までスケジュール通りに運航した。あたりまえのことなのだが、予定通りに入出港する航海が新鮮に感じられた。
 代替船で出港してから4日後の11月10日、説明会で批判発言をくり返していたM氏から相談を受けた。説明会では補償問題についての明確な回答がなかったので、ジャパングレイス社長あてに文書を提出し、期限付きで文書による回答を求めたいというのだ。地方の中小企業経営者であるM氏は、私に提出文書を作文してほしいと言った。
 私はM氏の話を聞きながら提出文書を作成した。どうせなら、M氏単独で提出するより、多くの乗客の署名を添えた連名の方がいいと思った。M氏以外の数人に集まってもらい、提出文書を検討した。
 集まったメンバーのK氏は、すでに単独の要望書をジャパングレイスに提出していた。M氏の意向に沿って私が作った文書は、ジャパングレイスの見解を質したうえで要望する形になっていて、やや長文だった。何人かの意見を取り入れて、より簡潔な要望書に作り変えた。
 文書の提出日は11月12日、回答期限は11月19日とした。行動は速いに越したことはないのだが、翌日の11月11日はバルセロナへの寄港日で、私を含めてほとんどの乗客が船にはいない。だから、翌々日の11月12日に提出することにしたのだ。要望書の内容は以下の通りだ。
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   要望書

 下記事項について、ご検討いただきたく要望いたします。
なお、ご検討結果を11月19日までに文書にて回答願います。

   記

1. 12月18日以降の下船者(地球一周船旅の未遂行部分)に
対する補償
2. 旅行遅延に伴う精神的苦痛等に対する対応

   以上
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 M氏は「最初の版の長い文書の方が自分の考えをよく反映しているので、自分はそれに署名して提出したい」との考えだった。そこで、乗船者有志一同の名で提出する要望書とM氏の文書の両方を提出することにした。
 11月12日の午前、私の船室に有志数名に集まってもらい、文書に署名した。腰の軽いT氏がその文書を持って船内を回り、短時間で20名の署名が集まった。時間をかければもっと集まると思ったが、速度を優先すべきだと判断し、昼過ぎには有志数名でその要望書をジャパングレイスの責任者に提出した。行きがかり上、私が最初に署名したので、回答は私あてにもらうよう要望した。

◎要望書への回答

 11月19日午前、ジャパングレイスの責任者から「本社から回答文書が届いた」との連絡があった。回答を受け取る場所を探してもらったが、どこも空いていないので、私の船室で受け取ることにした。連絡の取れる有志に船室に集まってもらうと、十数名になった。比較的広い船室だったが一杯になった。船室でジャパングレイス社長名の文書を受け取り、ジャパングレイスの責任者にその文書を読み上げてもらった。
 短くはない文書だったが、言い訳や居直りを連ねた内容で、要望への回答はなかった。要は「検討中です」という回答だった。その場で「検討結果がいつ出るかを早急に知らせてほしい」と要望した。
 翌日、ジャパングレイスの責任者から「近日中に社長名の回答をするが、有志あてではなく全乗客に対して回答する」との話があった。
 私たちは、前回の文書の無内容さから判断して期待はずれの回答が出る可能性が高いと考え、そのような事態に備えて、全乗客に呼びかける署名集めの準備を始めた。
 11月22日、社長メッセージが発表された。説明会が開催されたのではなく、各寄港地の到着前に開催される恒例の寄港地説明会の中で発表されたのだ。社長メッセージの主旨は以下の通りだった。

(1) 全乗客に300ドルを支払う
(2) 全乗客に12万円のジャパングレイスのクーポン券を支給する。このクーポン券は本人が今後2年以内の地球一周クルーズに参加する時にだけ使える
(3) 途中帰国を余儀なくされた乗客に対するクルーズ未遂分の補償として、未遂の寄港地1カ所について1万円を支払う
(4) 社長説明会で「途中帰国後、無料で再乗船できる」と回答したが、弁護士から無理だと指摘されたので撤回する

 私の妻が「300ドルやクーポン券を受け取る際『今回の件について今後、一切文句は言いません』という一札を入れるのか」と質問すると「そのような主旨の受取書にサインしていただく」という回答があった。
 社長メッセージをふまえ、私の船室に有志十数名に集まってもらい、さらなる要望に向けての署名集めをするか否かを検討した。「満足できる回答ではないが、これ以上の回答を引き出すための署名活動をするのは難しい」という意見が大半だった。
 ということで、私たちの「運動準備」は運動がスタートする前に終了した。「署名を集めようよ」と言った人もいたが共感を得られなかった。中には「こうなったからには『署名活動はしません』とピースボートに申し入れた方がいいのではないか」などとトンチンカンで卑屈なことを言い出す人もいた。「今後は個別交渉をする」と言う人もいたし、「日本に帰ってから個人で訴訟を起こす」と言う人もいた。有志といっても、何となく声をかけ合って集まった人々で、内実はバラバラだった。
 私たち夫婦は300ドルもクーポン券も受け取らなかった。受け取らなかったのは、ほんの少数だったようだ。クーポン券は受け取らず、300ドルだけ受け取った人もいた。

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私のピースボート体験(1)2009年01月24日

◎なぜピースボートに乗ったか

 ピースボートに乗ろうと言い出したのは妻だった。世界一周クルーズは魅力的だが、ピースボートでなくてもいいだろうとも思った。調べてみると、日本で世界一周をしている船は3隻ある。日本郵船の「飛鳥」、商船三井の「にっぽん丸」、日本クルーズ客船の「ぱしふぃっくびーなす」だ。それ以外に、チャーター船で世界一周をするピースボートがある。どの船も百数日で世界を一周する。
 ピースボートは年に3回ほど世界一周をしているが、他の3隻の世界一周は年に1回もしくは数年に1回だ。それ以外の時は近海クルーズや太平洋クルーズをしている。
 世界一周の費用に大きな差はない。ピースボートは他の船より多少安いが、極端に安いわけではない。もちろん、費用は船室のグレードで異なる。一番安い部屋だと、飛鳥が380万円、にっぽん丸が298万円、ぱしふぃっくびーなすが290万円だ。ピースボートの料金は、船室のグレードによって220万円から330万円だ。
 ピースボートは辻元清美が早稲田の学生時代に始めたクルーズで、左翼的な政治性のある船だという認識はあった。昔は社会党にシンパシーを感じていたこともあるが、すでに時代は変転している。今さら政治活動に関わる気はない。だから、ピースボートに乗るのはちょっと鬱陶しい気もした。
 ネットで過去の乗船者の手記などを拾い読みしてみると、次のような実態が見えてきた。

1.乗客は二十代の若者と退職後の中高年に大別され、人数は後者の方が多い。
2.平和活動に熱心な人やそのシンパもいるが、そんなことには無関心な人が大半。平和活動への参加の義務はない。
3.ボランティア・スタッフになると料金が割引になるので、低料金で世界一周をしたい若者が多く乗っている。
4.船室によって料金は異なるが、食事など他のサービスは平等(他の船だと、スイート客専用の食堂があったり、使えるデッキが異なるケースがある)
5.服装は自由(他の船はフォーマル、インフォーマル、カジュアルに分かれていて、フォーマル用のタキシード、カクテルドレスなども必要)
6.他の船と値段はあまり変わらないが、サービスの質や食事内容はよくない(ボランティア・スタッフを使っていることも一因か)。
7.ピースボートは他の船のように「世界一周」とは言わず、「地球一周」と言う。ある種のこだわりだろう。

 これらの情報をふまえてピースボートに乗ることを決めた。その理由は以下の通りだ。

1.同じ金を使うなら、ピースボートの高いランクの船室の方が、他の船の低いランクの船室よりはよさそうな気がする。
2.服装自由が気楽でいい。タキシードなど着たくない。
3.多少のサービスの悪さは我慢できるだろう。
4.出航時期2008年9月が好都合(私は2008年6月から自由の身になった)。他の船は2009年1月出航。

◎ピースボートとジャパングレイス、運航会社

 「ピースボート」はNGOの団体名で、船の名前ではない。私たちが申し込んだ「第63回ピースボート地球一周の船旅」で使用した船はクリッパー・パシフィック号である。
 このクルーズを実施しているのは、旅行業登録をしている株式会社ジャパングレイスで、旅行代金も同社に振り込んだ。同社はNGOであるピースボートが設立した株式会社のようだが、ピースボートとジャパングレイスの区分けはよく分からない。実態としては一つのものと見るべきだろう。クルーズのパンフレットには「coordinated by ピースボート」「旅行企画・実施 ㈱ジャパングレイス」とある。
 ピースボート、ジャパングレイスとは別に、船を所有し運航している船会社がある。私たちが乗船したクリッパー・パシフィック号の船会社はインターナショナル・シッピング・パートナーズという外国の会社だった。  船長や乗組員は船会社の人間だ。ホテル部門の人間も基本的には船会社の人間だが、一部ジャパングレイスの人間も関わっているようで、その区分けもよく分からなかった。レセプションにはジャパングレイスの人間と船会社の人間がいた。
 ピースボート、ジャパングレイス、船会社の関係が分かりにくいのは、このクルーズの問題点の一つだった。

◎出航前の遅延

 乗船を申し込んだ時点での第63回ピースボートの予定は、2008年8月28日出航、12月8日帰航だった。ところが、8月1日になって「出航が1週間延期になり、9月4日になります」との電話連絡があった。理由は「第62回クルーズ中の船に2.5センチの穴が見つかり、米国フロリダのドックで修理するので帰航が1週間遅れるため」とのことだった。
 3カ月以上のクルーズとなると準備も大変だ。大半の荷物は段ボールで事前に送ることになる。出航1週間前の8月27日、夫婦の荷物約10個を送り出した。
 その翌日の夕方「出航が9月4日から9月7日に延期になります」との電話連絡があり、あまりのずさんさに驚いた。長期の不在に備えて冷蔵庫の中は空に近い。荷物も発送済みだ。すでに気分は海の上になっている。出航延期によって帰港予定は12月18日になり、年末が忙しくなりそうだが、今さら旅行を取りやめるという決断はつかなかった。
 出航は9月7日正午。その前日はジャパングレイスが有料で手配した横浜のホテルに泊まった。朝、ホテルをチェックアウトしようとすると「出航が17時に延期になりました」との案内があり、げんなりした。
 出航当日、横浜在住の友人が大桟橋まで見送りに来てくれた。出航が17時に遅れたので、一緒に昼飯を食べたり散歩したりして時間をつぶした。私たちが乗船した後、彼はデッキに立つ私たちの写真を大桟橋から撮ってくれた。そして、出航を待たずに帰宅した。出航時間の遅延は、乗船者より見送りの人への大迷惑だったと思う。出航時間が遅延した理由の説明は、乗船前にも乗船後にもなかった。

◎ピースボートのスタッフ

 ピースボートには、ピースボートのスタッフとジャパングレイスのスタッフが乗船している。ジャパングレイスは船内サービスや寄港地ツアーを担当し、ピースボートが船内企画を担当している。どちらのスタッフも若い。
 ピースボートの責任者U氏は28歳だ。彼の肩書は「クルーズ・ディレクター」、「第63回ピースボート地球一周の船旅」の最高責任者のようであった。スキンヘッドの元暴走族で、演説を始める前や船内で人とすれ違うときに「こんにちはー」と大声であいさつする。最初のうちは元気な人だと思っていたが、やがて、そのわざとらしい大声が耳障りになってきた。
 ジャパングレイスの責任者H氏の年齢は知らないが30代前半に見えた。いつも、乗組員と同じような肩章のついた白い制服を着ていた。

 ピースボートのスタッフの多くはボランティアだ。CC(コミュニケーション・コーディネーター)と呼ばれる通訳が何人かいるが、ほとんどが学生(帰国子女?)で、みんな無報酬だそうだ。外国人講演者(水先案内人と呼ぶ)の講演の時などに、彼らが逐次通訳をするが、かなり稚拙な通訳だった。語学ができても一般教養が少々不足しているからだ。
 船内では有料の語学学校(英語、スペイン語)が開催されていて、ネイティブの教師が十人近く乗っていた。その教師たちもボランティアだ。
 ピースボートがいう「ボランティア」の意味が正確には分からないが、CCや語学教師たちは、無報酬だが乗船料も無料だったのかもしれない。
 そのような「専従のボランティア?」の他に、スタッフの仕事をすることの見返りに乗船料を割り引いてもらっている若者もいる。また、一般乗客として乗船した人でも、ピースボートの呼びかけに応じてスタッフの仕事に従事している若者や年配者もいた。
 だから、ピースボートでは乗客とスタッフの境界があいまいである。それがいいのだと感じている乗客もいるが、それが一般乗客へのサービス低下やホスピタリティ欠如の一因になっていたのだと思う。

 ジャパングレイスとピースボートはスタッフを融通しあっていた。寄港地のツアーはジャパングレイスの仕事であり、ツアーには添乗員がつく。本来、添乗員はツアーのプロのはずだが、人手不足のときはピースボートのスタッフが添乗員になる。また、現地で日本語ガイドが調達できなくて英語ガイドがついたときは、ピースボートのCCが通訳になる。そんなわけでツアーの質は低下する。

 エジプトのオーバーランドツアーに参加したとき、私たちのバスの添乗員はピースボートの若い愛嬌のあるスタッフだった。このオーバーランドツアーは、スエズ運河のかなり手前のサファガで下船し、スエズ運河を渡り終えたポートサイドで船に合流する。だから、スエズ運河を見ることはあきらめていた。
 ツアーの最終日、バスで街道を走っていると、右手に大きな船が見えたので驚いた。走るにしたがって次々に船が見えてくる。水面は見えないが大きな川が並行して流れているのだと思い、添乗員に「ナイル川ですか」と質問すると、「そうですね」という答えが返ってきた。
 帰船後、何気なく地図を眺めていて、私たちがバスで走った街道にスエズ運河が並行しているのに気づいた。ナイル川は全然違う場所を流れている。あれはスエズ運河だったのだ。そう言えば、熱心にビデオカメラを回している乗客もいた。普通の添乗員であれば「スエズ運河ですよ」と客の注意を促すのが当然だ。
 そんなわけで、私はせっかくスエズ運河を眺めていながら、その時にはそれと認識できなかった。ジャパングレイスのツアーにはこのようなお粗末な瑕疵が少なくない。

◎ピースボートの乗客

 第63回ピースボートの乗客数は約七百名だった。その内の約百名は「おりづる」と呼ばれる無料招待の原爆被爆者だった(「おりづる」については後述)。だから、一般乗客は約六百名だった。前回の第62回ピースボートの乗客数は九百名以上だったそうだから、今回はかなり減少している。後で考えると、第62回の船体トラブルが乗客減少の一因だったのだろうが、乗船のときには気づかなかった。
 ピースボートの乗客の半数以上は六十代以上の中高年だ。三カ月以上の船旅だから現役の職業人はほとんどいない。
 若者の大半は二十代の学生もしくは無職のモラトリアム人間だ。三十代の男性は少ないが、三十代の女性はかなりいる。彼女たちの多くは看護師だ。看護師は再就職が容易なので、退職して乗船しているのだ。四十代、五十代の乗客は少ない。
 私たちのように夫婦で乗船している客は意外と少ない。夫婦者は中高年乗客の二割以下だったと思う。大半の乗客は一人で乗船している。男女の数は同数ぐらいだ。「飛鳥」などは乗客の大半が夫婦者だそうだから、一人乗船の中高年が多いのはピースボートの特徴だろう。
 中高年乗客の中にはリピーターが多い。中高年乗客の三割がリピーターだとも聞いた。リピーターの中にはピースボートを「わが家」、乗客たちを「わが家族」と感じている人もいるようだ。
 そんな雰囲気がピースボートのサービスの質の悪さを見えにくくしている。ピースボートは乗客を「参加者」と呼ぶ。乗客の中にも「参加者意識」が高い人がいて、ジャパングレイスにクレームをつける人に対して「乗客面をして文句ばかり言う人がいる」などと筋違いの非難をする。「乗客」のつもりで高い金を払って乗船してきた人は戸惑うしかない。

◎老人ホーム+学園祭

 ピースボートの船内の雰囲気は、老人ホームと学園祭をゴチャ混ぜにしたようなものである。老人ホームと言っても大半は元気すぎる中高年だ。学園祭と言っても硬派の企画は少なく、素人の自己満足的な企画やテレビのおバカ番組を真似た企画が多い。
 また、クルーズの後半になって気づいたのだが、ピースボートは中高年の合コンの場でもあった。

 クリッパー・パシフィック号の後方にはフリースペースという共用のパノラマラウンジがあり、図書室も兼ねていた。私はこのラウンジの椅子を読書場所にしていた。本から目を上げると、いつでも広いガラス窓越しに180度の視界で水平線が見える。それが気持ちいいのだ。
 ただし、共用スペースなのでいろいろな人がいる。椅子の後方では年寄りたちが囲碁や将棋をしている。和室部分では詩吟のグループが朗々と吟詠している。その奥のドアから人が出入りするたびに、隣室のサロンでロックを奏でている若者の騒音が聞こえてくる。天井の上のデッキからは和太鼓の練習の音が響く。詩吟が終わると、交代したグループが賛美歌を歌い始める。別のコーナーでは南京玉すだれを練習している一団が「サテ、サテ、サテサテサテサテ……」と囃している。ホワイトボードの前ではおばさんが大声で若いスタッフと社交ダンス練習の日程取りの交渉をしている。どこからか「若く明るい歌声に……」と若くない中高年たちの合唱が聞こえてくる。
 こんなゴチャゴチャした環境の中で、ぼんやりと水平線を眺めていると、若者が定期的に訪問してくるリゾート地の老人ホームにいるような気分になってきた。

 ピースボートには半端でない年寄りも乗っている。杖をついてヨタヨタしているくせに結構元気な人もいる。出港のとき、最高齢乗客の紹介があった。92歳の男性で、しっかりしたスピーチもした。この人は出港から数週間後に船室で亡くなっているのが発見された。地球一周クルーズでは死亡者が出るのは日常茶飯事と聞いていたが、少し驚いた。船を死に場所と心得て乗ってくる老人もいるのだろうか。

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