『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』は追憶を刺激する2012年06月22日

『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(監督:若松孝二)
 若松孝二監督の新作映画『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』をテアトル新宿で観た。ウィークデイの昼間だが、そこそこに客が入っていた。私と似た中高年の男女だけでなく、若い観客も目立った。若い頃のさまざまなコトが想起される映画を、若い頃によく通った映画館で観るのも何かの縁のように思えた。

 三島由紀夫が盾の会を結成する頃から自決するまでの日々を、淡々とも言える抑揚で描いた映画だが、ドキュメンタリー的ではない。際限なく繰り返される「三島由紀夫はなぜ死んだのか」という問題と同時に「熱かったあの1960年代とは何だったのか」を考える材料をゴロンと提示した映画だ。

 この映画に描かれた時代は私の青春時代に重なるから、アレやコレやの映像から生々しい昔が甦ってくる。三島由紀夫自決の日の記憶はかなり鮮明だが、あの頃の日々の記憶をたどり始めると収拾がつかなくなる恐れがある。ヤワな追憶を綴るのはやめておく。

 映画は浅沼稲次郎刺殺犯の山口二矢が拘置所で自殺するシーンから始まる。1960年10月のテロ事件である。意表をつく冒頭だ。三島由紀夫の自決は1970年11月だから、1960年代の10年間を舞台にした映画とも言える。私にとっては12歳から22歳までの10年間だ。60余年の人生の中で最も長く感じられる10年だったと思える。

 小学6年のときに体験した浅沼稲次郎刺殺の日の記憶は、三島由紀夫自決の日と同じように鮮明に残っている。下校後、一人でテレビの六大学野球中継を観ていると、浅沼委員長が刺されたという臨時ニュースが流れた。それから時をおかず、浅沼委員長が死亡しましたというニュースになった。
 小学6年の私は衝撃を受けた。浅沼稲次郎という政治家に好感をいだいていたし、それまで、人の死に接するという体験がほとんどなかったので衝撃は大きかった。
 小学6年の私は、浅沼委員長刺殺の大見出しの新聞を保管した(今でも実家の押し入れに残っているはずだ)。

 その時から私は、大見出しの重大ニュースの新聞を保管する趣味を持った。しかし、大学生になると、新聞への関心が褪せてしまい、保管しなくなった。1960年代の10年間はそんな歳月でもあった。

 だから、三島由紀夫自決の日の新聞は保管していない。その日のテレビニュースもほとんど見ていない。友人から「三島由紀夫が自衛隊に乱入して切腹」と聞いて大きな衝撃を受けたのは確かだが、ナマイキにも「新聞やテレビで事件の真実がわかるはずがない」という思いに駆られていたのだと思う。

 それでも印象に残っているのは、バルコニーで演説している三島由紀夫が自衛隊員たちにヤジられているシーンだ。帰宅した深夜のテレビ画面に流れていた。三島由紀夫に共感する気持はまったくなかったが、「いくら気張っても、所詮は蒙昧な自衛隊員にヤジられるだけだなあ」という同情心のようなイヤ気分が残った。

 『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』で最も印象に残ったのも、ヤジの中での三島由紀夫の最後の演説シーンだった。壮絶な割腹に至るための必須のセレモニーが、観念と現実の乖離の残酷さを見せつける場になっていた。
 演説の内容は独りよがりで説得力がない。そして、聴衆は最低だ。最期の晴れ舞台にしては、気の毒なほどミジメなシーンである。アナクロニズム的なトンチンカンが露呈してしまっている。

 しかし、ついには予定通りの切腹という自己表現を遂げ、三島由紀夫は後世に残る大きな謎になってしまった。文芸評論家やノーベル賞選考委員(そんな委員がいるかどうか知らないが)が追いかけて捉えることができない所へ転移してしまった。
 今になって、これは正解だったのだ、と思えてくる。21世紀になっても映画化される忘れ得ぬ「作家」になったしまったのだから。

 この映画で不思議な存在感を出しているのが瑤子夫人役の寺島しのぶだ。
 自衛隊に入隊した三島由紀夫が訓練するシーンは富士の裾野である。往年の若松監督のピンク映画を連想させる荒涼とした場所だ。そこへ、どこからともなく瑤子夫人が登場する。シュールな光景である。
 事件後のラストシーンにも瑤子夫人が現れる。三島由紀夫の妻というよりは、異界から男たちを眺めている超越者のように見える。

 現実の三島夫人がどんな人だったかは知らないが、夫人の反対で緒方拳主演の『MISHIMA』が日本で上映できなかったという話を聞いたことある。すでに夫人は故人なので今回の映画が上映できたのだろうが、存命でもOKしたのでは…などと妄想した。