われわれの身近に潜む現代史の「陰謀論」2012年07月07日

『陰謀史観』(秦郁彦/新潮新書)、『検証・真珠湾の謎と真実:ルーズベルトは知っていたか』(秦郁彦 編/中公文庫)
 次の本を続けて読んだ。

『陰謀史観』(秦郁彦/新潮新書)
『検証・真珠湾の謎と真実:ルーズベルトは知っていたか』(秦郁彦 編/中公文庫)

 『陰謀史観』を読もうと思ったのは、少し前に『世界の陰謀論を読み解く』(辻隆太郎/講談社現代新書)という新書本を読んだので、関連本によって知見の相乗効果が図れるかなと考えたからだ。

 しかし、想定したような内容の本ではなく、日米関係の近現代史をおさらいするような本だった。本書によって興味を引かれ『検証・真珠湾の謎と真実』をネットで注文し、続けて読んだ。

(読書中に、そこで紹介されている関連図書に興味をもつと、ネットですぐに検索・注文ができてしまい、その本の読了前に注文した本が手元に届いたりする。便利な世の中になったが、書店や古書街で本を探すという娯楽が失われつつあるとも感じる)

 秦郁彦氏の高名は存知あげていたが、著書を読むのは初めてである。実は、かなり昔、知人の結婚式で秦郁彦氏を見かけたことがある。氏は主賓の一人でスピーチをした。大学の先生だから話はうまいし内容も面白かった。しかし、司会者泣かせの長いスピーチだった。本題(新婦紹介と祝辞)になかなか入らず、延々と前置きが続くので、ハラハラしながら聞いていた。

 『陰謀史観』を読みながら、あのときのスピーチがよみがえった。明治から戦後までの日米対立の歴史の解説が続き、なかなか陰謀論の話が出てこないのだ。この歴史解説の部分には私にとって未知の事項も多く、面白く読み進めながらも、陰謀論はどこに行ったのだとハラハラした。
 それでも、後半の章ではきちんと陰謀論をさばいていて、ユダヤやフリーメーソン関連の陰謀論にも言及し、陰謀史観のトリックを破る方法も開示している。あのときのスピーチと同じでシメは見事だ。

 本書の冒頭で著者は陰謀史観を次のように定義している。

 「特定の個人ないし組織による秘密謀議で合意された筋書の通りに歴史は進行したし、進行するだろうと信じる見方」

 著者はそのような陰謀史観を否定している。歴史の解明には被害者意識や思い込みは不要で、史料による実証が必須だとの立場のようだ。

 本書は幕末の史料紹介から始まる。攘夷を唱えながら開国・維新を遂げた日本には幕末から維新にかけてさまざまな対外膨張策(攘夷論)があった。策定者は佐藤信淵、吉田松陰、島津斉彬、橋本左内、松平慶永、佐田白茅、江藤新平、西郷隆盛、桐野利秋、伊地知正治、山県有朋、桂太郎、小川又次、岡本柳之助などなど多様で多彩だ(知らない人もいるが)。これらの対外膨張策には空論に近いものもあり、そのまま実施されたわけではないので、これらを陰謀論とは呼べない。著者は陰謀史観が発生する前景としての政治思想の風潮を知るために、このような史料を紹介しているようだ。

 ここからスタートして、太平洋戦争から戦後までの歴史を概説しているが、その中で著者が述べた次の感慨には考えさせられる。

 「最近になって史家の間では日米が戦わねばならぬ必然性があったのか、と疑問を呈する人がふえてきた。もっともな疑問で、私も内外のプロとアマが寄ってたかって三十年近くも太平洋戦争の空想ゲームに熱中しているうち、本物の戦争にしてしまったのではないかと疑っている。」

 架空戦史が現実化するSFのような話ではあるが、陰謀史観が現実の歴史を動かすこともあり得ると考えると、われわれは何と危うい世界に生きているのかと思うと同時に歴史変動を検証する興味にも駆り立てられる。

 本書ではいろいろな陰謀論が紹介されているが、その中の「ルーズベルト陰謀説」に興味をもった。ルーズベルトは真珠湾攻撃を察知していたが、対ドイツ戦参入へのきっかけを作るため、それを阻止しようとしなかったという説である。私自身、この説は何度か耳にしたことがあり、「そんなこともあり得ただろうな」という感想をもっていた。
 米国ではこの陰謀説の本が繰り返し出版されているそうだ。著者はそれらの陰謀説をのすべてを実証主義的に検証したうえで否定している。

 よりくわしく知りたいと思い『検証・真珠湾の謎と真実』も読んだ。2001年7月に出版され、2011年11月に文庫化された本書は、『真珠湾の真実:ルーズベルト欺瞞の日々』(スティネット/文藝春秋/2001.6:原題はDAY OF DECEIT)という本の批判本である。

 『真珠湾の真実』は、私自身いつか読もうと思っていた本だ。いくつかの論評から、現代史を知るうえでの重要な本だとの思いがあった。しかし、『検証・真珠湾の謎と真実』を読むと、『真珠湾の真実』は読むに値しない本に思えてきた(ネットの古本屋に発注はしたが)。本書の筆者たち(須藤眞志、今野勉、左近允尚敏、秦郁彦)の論考には説得力があり、ルーズベルトが事前に真珠湾攻撃を知っていたとは言えないようだ。

 私がルーズベルト陰謀説に対して「さもありなん」と思っていたのは、真珠湾攻撃が結果的にルーズベルトの思惑通りの効果をもたらしたように思えるからだ。また、国際政治のリアリズムの中では非情な選択も十分にあり得そうに思えた。
 私たちは、状況証拠(「得をしたのは誰か?」など)から歴史変動の要因を判断したくなることがある。しかし、歴史変動はさまざまな要因がからみあって起きる。だから、その要因をつきとめるの難しい。
 そんな当たり前のことをあらためて認識した。

 『世界の陰謀論を読み解く』を読んだときは、荒唐無稽なトンデモ主張が陰謀論のように思っていたが、『陰謀史観』を読むと、もっと身近な多様な言説の中にも陰謀論が潜んでいるのだと気付いた。私自身が「陰謀論」と呼ばれるものを信じたり生み出したりする可能性も小さくはない。
 そんな自己不信も認識した。

63歳にして念願のダイビングを初体験2012年07月11日

 先日、63歳にして初めてスキューバダイビングをした。以前からやってみたいと思っていたことが、やっと実現した。

 ダイビングをしたいと思ったのは、ずいぶん昔だ。20代か30代の頃だろう。ダイビングをやってみたいなあと思っていたその頃、たまたまテレビでダイビング講座の番組があった。書店でテキストを購入し、そのテレビ講座を視聴した。
 しかし、テレビ講座を視たからといって、実際にダイビングをすることはなく、いたずらに齢を重ねてしまった。あの時のテキストは紛失しているし、テレビ講座の内容もほとんど憶えていない。

 テキストを紛失しても、ダイビングをしたいという気持が失せたわけではなく、いつかやってみたいという気分は頭の片隅に残り続けていた。気分が残っていても行動に移すことがないまま、またたく間に数十年が経った。
 今回、ついに尻を上げたのは、友人の娘が沖縄在住でダイビングに入れ込んでいると知ったからだ。その娘の手をわずらわせて体験ダイビングをすることができた。

 人生には、「やろうやろう」と思いつつ実施できないままにうかうかと時間が経っている課題が多い。私にはダイビングもそんな課題の一つだった。このような「そのうちやろう課題」の多くは、結局は未達成のままに終わってしまいそうだ。「ダイビング」をかろうじて実施できたのは、上記のようなちょっとしたきっかけがあったからだ。

 「そのうちやろう課題」が実施できるか否かは、意欲や計画性によるのではなく、単にちょっとしたきっかけによるのだと思う。いいかげんに聞こえるかもしれないが、周到な計画に基づく予定表をこなしていくのが人生だとは思えない。計画は必要だろうが、さほど有効ではない。

 で、きっかけに恵まれて人生初のダイビングをした場所は、沖縄恩納村の真栄田岬だった。好天に恵まれ、サンゴ礁の海にはたくさんの魚がいた。40分弱の体験ダイビングだったが十分に楽しめた。

 30年来の夢がかなったのだから満足はしている。しかし、体験してしまうと、やや物寂しいあっけなさも感じる。

 ダイビングごときで大袈裟に考える必要はないが、人間にとっては、物事を達成した喜びより達成するまでのワクワク感の方が重要なのかもしれない。
 「そのうちやろう課題」をあれこれ練り上げていくのと、「未達成リスト」をひとつひとつこなして行くのと、どちらが楽しくてどとらが空しいのだろうか。ケースバイケースだからゴチャゴチャ考えても無意味か。

ウナギの謎から学術研究の世界のワクワクドキドキをうかがう2012年07月17日

『ウナギ 大回遊の謎』(塚本勝巳/PHPサイエンス・ワールド新書)
 長年謎とされていたニホンウナギの産卵場がグァム沖であることが判明した、というニュースが新聞やテレビで大きく取り上げられたのは2006年2月だった。そのニュースに接するまで、私はウナギの産卵場にかんする謎や「世界的ウナギ博士」塚本勝巳教授のことは知らなかった。
 あのニュース以来、ウナギの生態に興味をもった。ウナギはおいしいだけでなく、なかなかに謎の多い生物のようなのだ。

 ウナギの産卵場発見のニュースから6年経って、塚本勝巳教授による一般向けの解説本が出た。
 本書を読んで、あらためて2006年に報じられた発見の意味がわかり、それ以降の研究の進展状況を知った。また、学術研究の世界の面白さの一端をうかがうことができた。

 本書はウナギに関する解説書であると同時に、私と同世代の塚本教授の修業時代から現在に至る研究生活の報告書でもある。私には縁のない学術研究の世界の話ではあるが、私たちが生きてきたあれこれの時代に、このような研究に打ち込んでいた人物もいたのかと、手前勝手に心強く思った。

 ウナギの世界には、宇宙や素粒子の謎とはまた別種のさまざまな不思議があり、その謎を解明するためにさまざまな新しい研究手法が開発されている。そんなことを知って、世の中に謎解きのネタが尽きることはなく、われわれの前には解明されることを待っている謎がいくらでもあるのだと認識した。
 この世のいたるところにフロンティアがあると感じると、いささかの閉そく感が蔓延しているようにも見える世界が別の様相を呈してくる。見えている人々にとっては、世界はワクワクとドキドキに包まれているのだ。

「謎に満ちたモアイ」を読み、わが頭の硬さを再認識2012年07月22日

『ナショナルジオグラフィックス日本版 2012年7月号』表紙、上空に雲をいだくイースター島(ラパヌイ)全景
 『ナショナルジオグラフィックス日本版 2012年7月号』の巻頭記事は「謎に満ちたモアイ」だ。イースター島(現地名:ラパヌイ)へは4年前に行き、モアイもたっぷり見ているので、興味をもって読んだ。そして、びっくりした。

 イースター島を訪れる前に簡単な解説本に目を通していたし、現地での説明も受けたので、この島の歴史について多少は知っているつもりだった。とは言っても、イースター島の歴史は実はよくわかってはいない。

 イースター島は、ポリネシア人が移植してくる以前はヤシの木が繁る緑豊かな島だった。イースター島の緑が失われたのは人口増加による乱開発と部族間の抗争(モアイ倒し戦争)だった。それが、私の乏しい知識のあらましだった。

 『ナショナルジオグラフィックス』は、その通説(?)に対抗する新たな説を紹介している。イースターの森林破壊は人間によるものではなく、人間がもちこんだネズミによるものであり、文明破壊的な部族抗争はなかった、とするのが新設だそうだ。この記事だけでは詳しいことはわからないし、もちろん真実は不明だが、安易に通説(?)を信じていた自身の頭を反省した。

 イースター島に関しては、訪問直前に得たヘイエルダールに関する最近の知見に驚いた体験もある。
 ヘイエルダールの『コン・ティキ号探検記』に接したのは小学生の頃だと思う。昔の筏を復元したコン・ティキ号で大陸からどこかの島までの航海を敢行し、大陸から島への文明伝播をついに証明した……そんな感動的な冒険成功航海記という記憶があった。
 イースター島訪問直前に、コン・ティキ号が目指したのはイースター島だったと知った。ヘイエルダールはポリネシア文明の起源をインカ文明とする説を証明するため、南米からイースター島に航海したのだ。航海は成功したが、ポリネシア文明の起源を南米とする説は現在では否定されている。DNA調査などによりアジア起源とされている。
 このことを知り、学説のはかなさを感じた。にもかかわらず、別の学説は疑うことなく受け容れていたのだ。頭を柔らかくするのは難しい。

 『ナショナルジオグラフィックス』の記事で衝撃を受けたのには、そんな背景もある。

 それはともかく、この記事を読んで、4年前のイースター島訪問の記憶がよみがえり、船の甲板から眺めた島の全景がまぶたに浮かんできた。

 離島のとき、後部甲板からイースター島を眺めた。大海に浮かぶ島の上空だけが雲に覆われていた(写真参照)。湿った空気が山にぶつかると上昇気流によって雲が発生する。そんなことは頭では知っていたが、実景でその様を眺めると感動した。
 イースター島に高い山はない(せいぜい海抜500メートル程度)。しかし、絶海の孤島である。360度の大海原に浮かぶ低いイースター島の上空だけに雲が密集している光景に、大自然の摂理の顕れを感じた。

 遠い昔のポリネシアの人々が、カヌーのような船でどのようにして何千キロメートルもの大航海していたかは知らない。島の上空に発生する雲がひとつの道標になったのかもしれないと想像した。

ゾラの世界から帰還して2012年07月26日

『居酒屋』(ゾラ/古賀照一訳/新潮文庫)、『ナナ』(ゾラ/川口篤・古賀照一訳/新潮文庫)、『ジェルミナール(上)(下)』(エミール・ゾラ/川内清訳/中公文庫)
 ゾラの長編を3作続けて読んだ。63歳にしてゾラ初体験である。「世界文学全集」的な近代小説・古典小説は、学生時代を逃すと読むチャンスが減る。長大名作に挑む気力が減退するうえに、どうしても同時代の作品に興味がいくからだ。

 今回ゾラを読もうと思ったきっかけは、朝日新聞で連載が始まった筒井康隆さんの『聖痕』である。連載に先立つ記事で、筒井さんは新たな新聞小説を「本来の意味でのゾラ的実験」と語っている。それを読んで、連載を読み進めるにあたって、ゾラを読んでおこうと考えたのだ。

 ゾラと言えば『ナナ』と『居酒屋』が有名だ。どちらにしようかなと調べていて、ゾラの残した作品群は「ルーゴン・マッカール叢書」という連作だと知った。1870年から1893年の23年間に20の長編を発表していて、7作目が『居酒屋』、9作目が『ナナ』だ。娼婦ナナは『居酒屋』の主人公の娘だそうだ。そういうことなら『居酒屋』『ナナ』の順序で両方読もうと思った。

 で、『居酒屋』も『ナナ』も面白く読めた。読んでいるうちにマネのいろいろな絵が浮かんできた。マネは私の好きな画家で、一昨年東京で開催された「マネとモダン・パリ」展では、マネの有名作品「エミール・ゾラの肖像」の実物も見ている。
 今回、ゾラを読み始めるにあたって、マネのことは失念していた。しかし、小説を読み進めていくうちに、自然とマネの世界が頭の中に現れてきた。マネの絵がゾラの小説の挿絵というわけではないが、この二人の相乗効果は抜群である。マネが描いた人物がゾラの小説の中で動き出すように感じられた。同時代を生きた画家と作家が同じ世界を見ていたのは当然なのかもしれないが、それ以上の相性を感じた。

 『居酒屋』『ナナ』と読み進めると、この作品世界がクセになり、『ジェルミナール』も読むことにした。『ジェルミナール』はルーゴン・マッカール叢書」の13作目で、主人公は『居酒屋』の主人公の息子(ナナの義兄)である。
 『居酒屋』『ナナ』のどちらを読もうかと思案しているとき、大昔の高校時代に読んだ『文学入門』(桑原武夫/岩波新書)の巻末に名作リストがあったことを思い出した。桑原武夫はどちらを採っているのだろうかと、巻末の「世界近代小説五十選」を確認すると、ゾラは『居酒屋』でも『ナナ』でもなく『ジェルミナール』だった。意外ではあったが、フランス文学者の桑原先生が推しているのだから傑作なのだろうと、少し気になった。それも、『ジェルミナール』に手を伸ばした理由の一つだ。

 『居酒屋』は19世紀パリの片隅に生きる下層の人々を描いていて、主人公は洗濯女だ。『ナナ』は高級娼婦たちを取り巻く上層の人々を描いている。どちらも、勤勉な人々や真面目な人々が次第に怠惰や享楽にとりつかれて破滅していく物語だ。文学作品を単純化して語るのがナンセンスだと承知であえて言えば、いつの時代にも通じる普遍的なストーリーだ。
 しかし、『ジェルミナール』はかなり趣が異なる。舞台はパリではなく、炭坑町である。炭坑労働者の悲惨な姿とストライキを描いている。これはマネの世界ではない。強いて言えば、日本初の世界記憶遺産「山本作兵衛の筑豊炭鉱画」の世界だ。
 マネの世界の続編のつもりで読み始めると少々とまどう。古くさい社会主義リアリズム小説なのだろうかとの懸念もわいてきたが、それは懸念に終わった。重層的に時代と人間を描いている。さすが大作家だ。

 この小説を読んで、あらためてゾラが生きた時代と描いた時代に思いを馳せた。

 「ルーゴン・マッカール叢書」(1870年から1893年に刊行)の舞台はナポレオン3世のフランス第二帝政の時代(1852年~1870年)である。日本だと幕末・維新、19世紀末である。歴史年表を眺めると19世紀末はいろいろなことが胎動していた時代だ。『ジェルミナール』にはカール・マルクスやダーウィンの名前も出てくる。この小説が扱っているのはパリコミューン(1871年)直前の時代だ。
 20世紀は革命と戦争の世紀と言われている。『ジェルミナール』はそんな20世紀の予兆のような小説だ。そう思いなが読み進めていくと、小説のラストで、次のように高らかと明記されていた。

 「この若々しい朝に、太陽の燃えるような光をあびて、田野はまさにこのざわめきをみごもっていた。人間が、復讐をもとめる真っ黒な軍勢が、芽ぶき、徐々に畝の間に芽生え、来たるべき世紀に取り入れられるために生長していた。その芽生えでこの大地はやがて張り裂けようとしていた。」

 ロシア革命、二つの世界大戦、ソビエト連邦の崩壊などの20世紀を経て、『蟹工船』がブームになったりもする21世紀を生きるわれわれの目から、この19世紀末の小説を眺めると、革命からスターリニズムまでのいろいろなものが胚胎されているようにも見えてくる。
 おそらくはゾラ自身も想定していなかったであろう20世紀のさまざまな予兆を幻視できてしまうのは、小説というメディアの不思議だ。ゾラの「実験小説」という意図を超えて、小説には普遍的に実験的な効果があるのだと思われた。19世紀末に、フィクションの時空では20世紀を実験していたのだ。

 『居酒屋』『ナナ』『ジェルミナール』の3つを読んで、どれが一番かを自分なりに判断しようと思っていた。『居酒屋』と『ナナ』を読了した時点では、より複雑な『ナナ』の方が現代的かなと考えた。『ジェルミナール』の上巻が終わった時点では、やはり『居酒屋』か『ナナ』のどちらかで、『ジェルミナール』は3蕃だと感じていた。しかし、3作品を読了すると、よくわからなくなってきた。それぞれが独自の世界であり、なおかつ混ざっていて、読了直後の混沌とした頭では判断できない。