女帝(孝謙=称徳)はなぜ道鏡を天皇にしたかったのか?2020年07月22日

『女帝と道教:天平末葉の政治と文化』(北山茂夫/講談社学術文庫)
 先日読んだ『奈良の都(日本の歴史 3)』(青木和夫)の終章のタイトルは「道鏡と女帝」だが、道鏡についてさほど詳しくは書いていない。宇佐八幡の二つ神託の話に続いて次のように述べている。

 「この事件から半年とたたないうちに女帝は病気となり、ついに後継者を指名しないままに死んだ。道鏡は同時に没落した。/後継者の推薦のいきさつや、広虫・清麻呂姉弟および道鏡のその後は、第4巻の話題であり、また解釈でもある。」

 「以下次号」なのである。次号の『平安京(日本の歴史 4』(北山茂夫)の冒頭をパラパラと拾い読みしたが、いま、平安時代にまで手を伸ばす気はない。シルクロードやソグド人への関心から平城京に興味をもったのであり、日本史の泥沼に踏み込むのは危険だ。当面は関心領域を平城京にとどめておきたい。だが、道鏡の「その後」は気になる。『第4巻』の著者が書いたコンパクトな本を見つけたので、それを読んだ。

 『女帝と道教:天平末葉の政治と文化』(北山茂夫/講談社学術文庫)

 著者は天武・持統の時代を古代王朝の黄金期としており、次のように述べている。

 「古代国家の上昇カーブは、持統・文部の共治の大宝時代に、極点に達し、文部の末の慶雲期を境として、緩やかな下降をたどるようになる。」

 女帝(孝謙=称徳)と道鏡の時代は、その下降線の行き着いた果ということになる。本書で面白く感じたのは、道鏡に対してやや同情的な点である。また、「道鏡を天皇へ」の神託を創作した宇佐八幡の人々に関する考察も興味深い。著者は、九州地方では朝廷への反発心が根強かったとし、次のように述べている。

 「宇佐地方の土豪と考えられる田麻呂、杜女らは、朝廷を利用しようという考えは熾烈であったが、忠誠という点になるとたいへん疑わしい。まま子扱いされてきた西辺の土豪の根性が強い。だからこそ、中央の王臣や朝廷と関係の深い他の地方の土豪からみれば、ゆるしがたいだいそれた思想を大胆に、神託の形で表明しえたのである。

 その神託は、道鏡を天皇にしたいという女帝の心境におもねったものである。そもそも、そんな女帝の考えが妄執と乱心に思えるが、本書を読んで女帝の心境が納得できた。聖武・光明の子である女帝は、親から受け継いだ仏教を貴ぶ精神を発展させただけなのである。仏法の世界の最高位者・法王が俗界の王・天皇になることこそが理想世界に思えたようだ。

 著者は本書の末尾近くで、道鏡と玄昉を並べて取り上げ、次のように締めくくっている。

 「二人とも天平期の大きな内乱をくぐりぬけ、玄昉は、内乱で傷つき、道鏡は、内乱の波にのって、政界に登場した。この二僧の晩年は、落莫たるものであり、同時代ならびに後世の史家から不当に筆誅をうけて現代に及んでいるが、やはり天平仏教の宮廷的側面を代表する才物であった、といわねばなるまい。」