アンティオキア千年の歴史は視点を変えた古代ローマ史2026年09月07日

『地中海都市の興亡:アンティオキア千年の歴史』(G・ダウニー/小川英雄訳/新潮選書/1986.8)
 かつて小アジアにあった都市アンティオキアに関する歴史書を読んだ。古書で入手して積んでいた古い翻訳書である。

 『地中海都市の興亡:アンティオキア千年の歴史』(G・ダウニー/小川英雄訳/新潮選書/1986.8)

 アンティオキアは前300年にセレウコス朝創始者のセレウコス1世が建設したヘレニズムの都市である。その後ローマ帝国のシリア属州の中心都市として栄え、キリスト教の五本山の一つにもなる。ビザンツ時代には、ペルシアやイスラムに占領されていた時期もある。第1回十字軍はこの都市をセルジューク朝から奪還し、アンティオキア公国とした(1098年)。現在はトルコ南部の小さな町アンタキヤである。

 私が本書を読もうと思ったのは、『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)のささやかな輪読会が十字軍のアンティオキア攻囲戦に差しかかったからである。18世紀の人ギボンは次のように書いている。

 「われわれがアンティオキアの描写に際して、アレクサンドロスやアウグストゥスの後継者たちの時代の古典的な壮麗さと、トルコ人による今日の荒廃の光景の中間状況を定義することは必ずしも容易でない。」(中野好之訳)

 この文章の「今日の荒廃」は18世紀のオスマン帝国による荒廃を指す。ギボンは、ヘレニズムやローマ時代の壮麗と18世紀の荒廃の中間にあたる十字軍時代のアンティオキアの姿に思いをはせている。この文章を読んで、以前に購入した本書を思い出したのである。

 本書の著者は1908年生まれの米国の歴史家で、1930年代にアンティオキアの発掘にも関わっている。全12章の本書はアンティオキアを含むシリア地域のやや詳しい歴史解説である。「オリエントの麗しい冠」と題する第10章は他の章と趣が異なり、モザイク画などの発掘物を紹介している。

 本書のプロローグには、18世紀にアンティオキアを訪れたフランス人画家が描いた銅版画6枚が載っている。廃墟の光景である。「それらの廃墟の絵は何世代もの旅行家や学者たちを魅了した」と解説している。ギボンも見たかもしれない廃墟の絵に感動した。

 本書は前300年のアンティオキア建設から7世紀半ばまでの約千年を記述し、それ以降については「アラブ人、十字軍、トルコ人のもとにおけるアンティオキアの歴史は本書の範囲外」としている。11世紀の十字軍時代に関心のある私にはやや期待外れだ。だが、十分に面白かった。

 著者が対象としているのは「ギリシア・ローマ的な都市としてのアンティオキア」であり、それはアラブ軍(イスラム)によるアンティオキア占領で終焉をむかえる。「ギリシア・ローマ的」という表現に西欧中心的な見方の匂いをかすかに感じる。アンティオキア市民は、自分たちの先祖はアテネからの入植者だという言い伝えを誇りにしていたそうだ。

 山を背にした平地にあるアンティオキアは城壁で囲まれた難攻不落の都市と言われた。だが、山側の城壁が弱点だったそうだ。意外である。

 本書のメインはシリア属州視点のローマ史であり、私の知らないことや失念している事項が頻出する。勉強になった。ゼノビアやユリアヌスなど興味深い人物への言及が楽しい。

 キリスト教の異端とされたアリウス派や単性論の状況の説明も詳しい。シリアで単性論が根強く普及した状況が興味深い。260年、サモサタのパウロがアンティオキアの司教に選出されたとの記述に少し驚いた。かすかに記憶がある名前だ。かなり以前、7~9世紀のキリスト教の異端パウロ派について調べたことがある(これもギボンの輪読会のせいだ)。あのとき、パウロ派という名の起源の一説に3世紀のサモサタのパウロという記述があった。本書はその3世紀の人物を詳述している。パルミラの女王ゼノビアとも関連しているそうだ。ヘェーと思った。

『古事記』は奔放な昔話2026年09月02日

『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫)
 角川ソフィア文庫の『古事記』を読んだ。

 『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫) 

 『古事記』は、子供時代にジュニア版を読んだ気がするが、大学時代(半世紀以上昔)に読みかけた岩波文庫版は途中で投げた。

 そのうち読もうと思いつつ先伸ばしにしていた『古事記』を読む気になったのは、来週『朗読劇 古事記(白石加代子・風間杜夫)』を観劇予定だからだ。正確には、この朗読劇のチケットを購入した動機が、これを機に『古事記』を読むことだった。何らかのきっかけがなければ古典に手が伸びない。

 日本最古の書物『古事記』の成立は奈良時代初めの715年、上中下の3巻にわかれている。天地創造から推古天皇までを書いた神話を含む歴史書と言われる。

 古い岩波文庫版は本棚に見つからず、角川ソフィア文庫版を購入した。この文庫は、原文(漢文)と「漢文の読み下し」に加えて「現代語訳」も収録している。冒頭の「読み下し」部分に訳注が付いている。ページの下部が訳注欄なので、訳注を参照するときページをめくる手間がない。

 まずは「現代語訳」で読み始めたが、わかりにくい言葉は訳注を参照したくなり、そのたびに「読み下し」に飛ぶのがわずらわしい。途中から、「訳注」を参照しながら「読み下し」を読み進め、わかりにくい部分は「現代語訳」を参照する読み方になった。

 『古事記』を読了しての感想は「なんじゃ、これは」だ。昔の出来事の記録だろうが、歴史書とは言い難い。神話+昔話で、別世界譚の趣が強い。登場人物たちの奔放な行動に唖然とする。現代の感覚からズレているのは当然だが、神々も天皇たちも、美女には次々と手を出し、醜女は容赦なく追放する。あっさりと人を殺す場面も多い。おおらかに大便・尿・女陰なども頻出する。神話研究の材料としては興味深かろうと推測する。

 天皇の系図説明のような退屈な部分は仕方ないとしても、意味不明の話も多い。物語として面白いのは、やはり一般によく知られている話である。イザナギ、イザナミの話、天照大御神とスサノウ、ヤマタの大蛇、海彦山彦、因幡の白ウサギと大国主命、ヤマトタケルの冒険などだ。登場人物たちは善玉悪玉を超えた奇妙なキャラが多い。出雲の国譲り至るためだろうが、大国主命のイメージも分裂している。

 神と人間の関係があいまいで、おびただしい数の神が登場するのにも驚いた。天孫降臨だから天皇の先祖は神であり、天皇自身が神に見えるのはいいとしても、有力豪族たちの先祖もまた神である。八百万の神とはよく言ったもので、あらゆる所に安易に神が現れる。

 終盤の雄略天皇のくだりに興味深いエピソードが二つあった。

 天皇が行列で葛城山を登っていると、向かいの尾根を同じような行列が登っている。この国に自分以外の王はいないはずだと訝って声をかけると、相手も同じように声をかけてくる。自身の複製が出現する超現実譚の面白さを予感したが、期待はずれだった。相手が「葛城之一言主之大神である」と名乗ると、天皇は「大神が人の姿をしておいでなので気づきませんでした」と引き下がる。天皇は神ではなかったのかと思いつつ、天皇より上位の神がいろいろ存在することを認識した。

 もう一つは赤猪子の話である。天皇は出かけた先で非常に美しい乙女の出会う。名を赤猪子と言う。「おまえは結婚するな。ほどなく宮廷に召しいれる」と言って帰る。赤猪子は天皇からのお召しを待ち続け、何と80年が経過する。80年待ったすえに天皇に会いに行く。天皇は忘れていて「おまえはどこの婆さんか」と言うが、やがて思い出す。なぜか80年経っても天皇は若いままだが、相手が老いていてもはや結婚できないことを哀れむ――というヒドイ話である。

 雄略天皇は『古事記』によれば124歳で亡くなっている。この天皇は、存在が確認できる最古の天皇とも言われ、『日本書紀』では479年に62歳で没したとされている。

19世紀を知りたくて『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』を読んだ2026年08月31日

『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』(谷川稔・北原敦・鈴木健夫・村岡健次/中央公論社/1999.2)
 19世紀ヨーロッパを概説した中公版『世界の歴史』第22巻を読んだ。

 『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』(谷川稔・北原敦・鈴木健夫・村岡健次/中央公論社/1999.2)

 私は19世紀に関心がある。どんな時代だったか体感できればとも思う。日本なら幕末・維新を含む江戸末期から明治、77歳の私には曾祖父母あるいはその父母の時代であり、かろうじて現代と地続きに感じられる時代なのだ。

 19世紀を知りたいと思った契機は、ピケティが『21世紀の資本』で21世紀は19世紀のような格差社会になるかもしれないと指摘していたからだ。最近読んだ『新書 世界現代史』は、現代の世界が弱肉強食のジャングルの掟が通用する19世紀に向かっていると警告していた。19世紀がどんな時代だったか把握したくなる。

 『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』と題する本書は4人の筆者が地域別に執筆する4部構成になっている。

 第1部 フランスとドイツ――国民国家へのはるかな道(谷川稔)
 第2部 自由を求める南ヨーロッパ(北原敦)
 第3部 19世紀ロシアの嵐(鈴木健夫)
 第4部 ヴィクトリア時代イギリスの光と影(村岡健次)

 ナポレオン後のウィーン体制の崩壊から第一次世界大戦前夜までのヨーロパを「英独」「伊」「露」「英」に分けて概説している。第2部を「イタリア」でなく「南ヨーロッパ」としているのに含蓄がある。近代国家形成という主題は共通だが、4人の筆者が奏でる4つの地域の歴史のトーンはかなり異なる。四者四様の壮大な変奏曲のような1巻だ。

 第1部は新たな希望に見えた国民国家の功罪、第2部はバラバラ統合の悲喜劇、第3部は皇帝と農奴の国の革命前夜の苦悩、第4部は産業革命の帝国の繁栄が秘めた陰影――そんな論議を奏でている。フランス・ドイツの理念のカラ回り、イタリアの情念のカラ回り、ロシアの苦悩のカラ回り、イギリスの帝国主義傲慢のカラ回りにも見えて、かなり面白い。

 本書を読んでいて、5カ月前に拾い読みしていたのを思い出した。ドーデの『最後の授業』に関する部分で、その一部を以下のようにわがブログに引用していた。

 《『最後の授業』批判の根底には、国民を構成する要素は言語や人種だというドイツ的な考え方があるそうだ。それに対してフランスでは、国民の観念を「国家がかかげる基本原理を共有しようとする意志」に求める考え方が有力だそうだ(谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』より)》

 ドイツ語方言のアルザス語を話すアルザス地方はフランスかドイツかという国民国家の課題である。ドイツ的な考え方もフランス的な考え方も、自国を正当化するイデオロギー性がある。19世紀は「イデオロギー」「理念」「神話」の力が歴史を大きく動かした時代かもしれない。

 谷川氏の指摘で初めて知ったのだが、19世紀なかばを過ぎても国語としてのフランス語は成立していなかったそうだ。フランス語とはまったく異なる少数言語地帯がフランス国内に多数存在し、識字率も低かったらしい。

 ヨーロッパの19世紀を読みながら、日本の19世紀とさほど変わらないなと感じた。日本がヨーロパを手本にした面が大きいのだろうが、ヨーロッパも日本もそれぞれにストラッグルしている。雑駁な印象だが。

 本書には時代を表現した19世紀文学がいくつか登場する。ピケティはバルザックやオースティンを援用して19世紀の格差社会を描出していた。バルザック、ユゴー、デュマなど「パリの王様」を始め、ゾラディケンズドストエフスキーなど19世紀文学は大物が目白押しだ。ヴィクトリア朝を知るにはシャーロック・ホームズも欠かせない。歴史書とフィクションの双方から19世紀を探るのが興味深い。

 で、21世紀を見通すのに19世紀の歴史は役立つか。役立つと思うが、具体的にはよくわからない。ヒントは山積している。ヒントが多すぎて、私のたよりない頭では整理が難しい。

11年ぶりにキツツキ襲来2026年08月29日

 1カ月ぶりに八ケ岳南麓の山小屋へ行くと、畑は草茫々で、ベランダの階段に木クズが散らばっていた。当初は庭の雑草に気を取られ、階段の汚れは気にならなかった。

 だが、散らばった木クズをぼんやり眺めていて、十数年前の記憶がよみがえった。これはキツツキの仕業ではないか。あわてて上方のひさしに目をやったが、よくわからない。

 常駐していないわが山小屋は十数年前からキツツキ被害に悩まされていた。直径10センチほどの穴をひさしに7個空けられた。11年前、地元の工務店に依頼して幅30センチ程の鋼板をひさしに張ってもらった。それ以来、キツツキ被害はない。鋼板の威力である。

 キツツキのことはまったく失念していたが、階段の木クズはどう見てもキツツキの痕跡だ。2階に上がり、ひさしを点検すると、被害箇所が確認できた。鋼板の内側(ひさしから遠い側。写真参照)がやられている。穴が空くまでには至っていないが、かなり頑張ってツツいたようだ。鋼板を押さえる木枠の一部が削り取られている。

 キツツキがどんな姿勢でツツいているかは知らないが、ひさしの端でなくても足場を確保できるようだ。10年以上経って襲来した理由もよくわからない。進化したのだろうか。被害の拡大が心配だが、打つ手が思いつかず、何もせずに帰京した。

シアトリカル・リーディング『火のようにさみしい姉がいて』を観た2026年08月28日

 南青山のライブハウスMANDALAで『火のようにさみしい姉がいて』(作:清水邦夫、演出:富澤正幸、出演:磯部勉、都築香弥子、垂水みる、大島宇三郎、南谷朝子、他)を観た。木冬舎出身の南谷朝子によるNANAYA-SHIP清水邦夫上演シリーズの公演である。私は、5月の『あの、愛の一群たち』に続いて、このシリーズ二度目の観劇になる。

 『火のようにさみしい姉がいて』は1978年の初演以来何度か上演されてきたが、私は観ていない。今回が初見だ。戯曲は先週読んだ。

 今回の公演はシアトリカル・リーディングなので大道具や舞台装置はない。音楽や効果音はある。台本を手にした役者たちは最小限の動きだけで演劇空間を紡ぎ出す。

 ト書きを読む「語り」は二人で、その一人の南谷朝子は腹話術の人形の扮装である。腹話術師と人形の二人が分担してト書きを語る趣向だ。

 私は、戯曲を読んだとき、次のような読後感を書いた。

 《「火のように…」は、心を病んだ中年の俳優夫婦が癒しを求めて夫の故郷を訪れ、異様な体験をする話だ。田舎の床屋に迷い込むという設定が面白い。本当の姉だか偽物なのかわからない人物とのかけあいで話が進展していく。演技なのか異常心理なのか判然としない世界に「オセロ」のシーンが重なってくる。少しだけ安部公房の香りがする清水邦夫世界だ。》

 メイン舞台である田舎の床屋には鏡がある。その鏡のなかに別世界が現れる。主人公の俳優の追憶の光景などである。そんな多重世界を表現するために、語りを人間と人形の二人が分担しているようだ。

 鏡はこの芝居のキーアイテムで、終盤にはミラーハウスを主人公が彷徨う場面もある。どんな舞台装置で表現するのか興味深いが、今回の公演では頭の中で想像するしかない。無数の鏡に同じ顔が映っている情景には圧倒されそうに思う。

 鏡で自分の姿を見るのが好きな少年が、やがて俳優になり、あるとき鏡に映った自分の姿の老いに気づき「こんなうす汚れたおいぼれは早く死ね」と叫ぶ。自己陶酔と日常的演技に生きる俳優の姿に人間世界の普遍的なものを投影した芝居である。

 オセロの台詞を多用したこの芝居は、俳優がオセロを演じながらオセロの世界が現実世界に浸透してくる。やはり、俳優が語るシェイクスピアの芝居がかった台詞には迫力がある。それは戯曲の黙読では味わえない。

2冊を並行読書した気になる『オリエント世界の発展(世界の歴史4)』2026年08月25日

『オリエント世界の発展(世界の歴史4)』(小川英雄・山本由美子/中央公論社/1997.7)
 中央公論社が1996年から1999年にかけて刊行した『世界の歴史』(全30巻)を古書で安価に購入したのは約10年前、気ままに関心が向いた巻を読んでいる。全巻読破は不透明だが、次の第4巻を読んだ。実は第1~3巻と第5~11巻は既読で、第4巻の穴あきが気がかりだったのだ。

 『オリエント世界の発展(世界の歴史4)』(小川英雄・山本由美子/中央公論社/1997.7)

 オリエント史としては『人類の起源と古代オリエント(世界の歴史1) 』が新バビロニア帝国までを描いていて、本巻はアケメネス朝からサーサーン朝までと地中海アジア(アナトリアからパレスチナあたり)の歴史を描いている。穴埋め気分で読み始めたが、意外と面白く読めた。

 年初に『ペルシア帝国』(足利惇氏)を読んだばかりだし、この数年で『古代メソポタミア全史』(小林登志子)、『古代オリエント全史』(小林登志子)、『ペルシア帝国』(青木健)なども読んでいたので、比較的スムーズに読めたのだろう。と言っても、読んだ本の内容の大半は蒸発している。時々、遠い微かな記憶がよみがえる気分になった。ヘェーと思う新たな知見も多かった。それも以前に読んだ内容かもしれない。失念していれば、私にとっては新たな知見だ。

 本書の著者・小川英雄氏(1935-2016)の『ローマ帝国の神々』や訳書『ミトラの密儀』(キュモン)、山本由美子氏(1946-)の『マニ教とゾロアスター教』は以前に読んだことがある。本書は二人の分担執筆で、章ごとに執筆者が交代する構成である。

 本書を読了して、二冊の別々の本を並行して読んだ気分になった。章ごとの執筆者を意識しながら読んだせいかもしれない。章ごとに関連してるのだが、二人のトーンは少し異なる。

 小川氏が担当しているのはアナトリアとシリア・パレスティナ地域で、それを「地中海アジア」と呼んでいる。ユダヤ教やキリスト教が発生した場所であり、その歴史にウエイトを置いている。「一神教発生の地、地中海アジアの歴史」とでも題するような内容だ。

 山本氏が担当しているのはイラン地域である。エラム、メディア、アケメネス朝、パルティア朝、サーサーン朝やゾロアスター教について解説している。「ペルシア帝国の歴史」と題する内容だ。

 山本氏が担当したペルシアに関しては、ペルシア人が書き残した史料は少ない。碑文やヘロドトスの『歴史』など外部の史料が手掛かりになる。『歴史』などギリシア人視点の史料を批判的に相対化して解説しているのが興味深い。パルティアは後続のサーサーン朝によって意図的に評価が貶められたとの指摘も面白い。サーサーン朝がパルティアの文化や宗教を承継していることを実証的に解説している。

 小川氏はイスラエルで発掘調査にも携わった考古学者である。本書でも発掘調査に関する記述が多い。ユダヤ人の歴史に関しては旧約聖書に基づく記述が多いのが気になった。多少は旧約聖書を史料批判的に扱ってもいいのではと思った。

 エジプトが一神教を採用したアマルナ時代がユダヤ教につながっているという指摘には少し驚いた。両者に関連があるとは知らなかった。

 本書の末尾で、小川氏はローマのミトラス教に言及し、次のように述べている。

 「ポントス王ミトリダテス6世の軍隊の敗残兵の中には地中海の諸民族の出身者がいたが、その中にはミトラスの信仰に詳しい者がいて、海賊に加わった後にミトラス教を興したと推測されている。」

 これは、ミトラス教がローマの新興宗教だという指摘に思える。昨年、『異教のローマ:ミトラス教とその時代』(井上文則)で驚いた点である。30年前からわかっていたようだ。キュモンの翻訳者である小川氏は、井上氏が紹介した「キュモンの定説の崩壊」を認識していたのだろうか。門外漢の私には、よくわからない。

『コーランを知っていますか』(阿刀田高)は読みやすくて面白い2026年08月22日

『コーランを知っていますか』(阿刀田高/新潮文庫)
 先日読んだ『中央アジアのイスラーム』が消化不良気味だったので、口直し気分で次の文庫本を読んだ。

 『コーランを知っていますか』(阿刀田高/新潮文庫)

 阿刀田氏の解説本シリーズは読みやすく、古典の眼目を把握した気にしてくれる。至芸だと思う。今後の人生でコーランを読むことはないと思っている私にとって、本書は手頃な解説書だ。

 本文の前に読んだ巻末の解説で、イスラム研究者の池内恵氏が「要を得た入門書」「私自身がいつかこういう本を書いてみたかった」と太鼓判を押している。

 本書を読むと、コーランが旧約聖書や新約聖書の内容をどのような形で取り込んでいるかがわかる。と言っても、コーランは旧約聖書や新約聖書に比べるとストーリー性が乏しいそうだ。

 著者は「旧約聖書は古代ユダヤ王国の建国史」「新約聖書はイエス・キリストの伝記」としたうえで、「コーランは親父の説教」と喝破している。親父と言ってもただの親父ではない。「神」である。

 親父の説教はくどい。あまり論理的でなく、いきなりドカンとくる。事実誤認や牽強付会もある。断片的な言いようは、わかりにくい。しかし、親の意見と冷酒はあとになって効く――こんな例えを読むだけで、コーランの世界が何となく見えてくる。

 ナルホドと感心したのは「コーランは詩歌、神の音楽」という指摘である。このくだりで、万葉の女流歌人・額田王の歌を取り上げ、詩歌は内容が月並みで非論理的でも、言葉の美しさ、調子の快さ、イメージのすばらしさで名歌になると述べている。説得的だ。コーランのアラビア語からの翻訳が禁じられてきた理由もわかる。詩歌の翻訳は難しい。原語の朗誦でなければつかめないものがあるのだろうと思う。

 本書はコーランの内容を紹介・解説しつつ、マホメッドの生涯を語り、正統カリフ時代からウマイヤ朝、アッバース朝へのイスラム史を概説し、スンニ派やシーア派などの成立にも言及している。行き届いた入門書だ。

 原典に触れたことのない私が言うのは変だが、コーランの概要と雰囲気をつかめた気がした。

観劇準備で清水邦夫の古い戯曲集を読んだ2026年08月20日

『わが魂は輝く水なり―源平北越流誌―』(清水邦夫/講談社/1980.2)
 46年前に出版された清水邦夫の戯曲集を古書で入手して読んだ。

 『わが魂は輝く水なり―源平北越流誌―』(清水邦夫/講談社/1980.2)

 次の3編を収録している。

 (1)「わが魂は輝く水なり ――源平北越流誌」
 (2)「火のようにさみしい姉がいて」
 (3)「戯曲冒険小説 ――歳月よ、おいさらばえた姫たちよ」

 私は来週「火のようにさみしい姉がいて」を観劇予定である。だから、本書を入手して戯曲を読んだ。事前に戯曲を読まない方が芝居を楽しめるとも言えるが、私は可能ならば事前に戯曲を読むようにしている。戯曲読書と観劇はかなり異質の体験で、戯曲を読んだだけではつかめない世界を体験できるのが観劇の面白さだ。

 3編の戯曲を読み、観劇予定の「火のように…」が一番面白いと感じた。次が「戯曲冒険小説」、「わが魂は…」はよくわからなかった。

 作者が「後記」で述べているように、3編はそれぞれにタイプが違う。「わが魂は…」は平家物語に材を取り、謡曲「実盛」で有名な斎藤実盛が主人公である。その方面の知識に乏しい私が没入できなかったのは仕方ない。戯曲を読んだ後で登場人物について調べ、「そういうことか」と思った。

 「火のように…」は、心を病んだ中年の俳優夫婦が癒しを求めて夫の故郷を訪れ、異様な体験をする話だ。田舎の床屋に迷い込むという設定が面白い。本当の姉だか偽物なのかわからない人物とのかけあいで話が進展していく。演技なのか異常心理なのか判然としない世界に「オセロ」のシーンが重なってくる。少しだけ安部公房の香りがする清水邦夫世界だ。

 「戯曲冒険小説」小さな町の夜の食堂で出会った人々が紡ぎ出す不思議な世界だ。主人公の男は婦人靴の万引き犯、客の一人は盗まれた靴屋の親父、もう一人の客は旅人で、主人公の妻の前の夫の弟のようだ。少しだけ別役実の香りがする清水邦夫世界だ。

 本書巻末には3編の初演記録が載っている。

 (1) 1980年2月 民芸公演
 (2) 1978年12月 木冬社公演(紀伊国屋ホール)
 (3) 1979年7月 文学座アトリエ公演

 演出家や出演者も載っていて、錚々たるメンバーだ。当時、清水邦夫は40代前半、脂が乗った時期だったのだと思う。