『すばらしい新世界』はブラック・コメディ2026年09月16日

『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリイ/松村達雄訳/世界SF全集/早川書房/1968.10)
 オルダス・ハックスリイの『すばらしい新世界』を読んだ。この反ユートピア小説の古典を入手したのは半世紀以上昔である。早川書房が1968年に刊行開始した『世界SF全集』の第1回配本が第10巻『ハックリイ/オーウェル』だった。この巻の刊行は10代のSFファンだった私には事件だった。当時、高名なのに入手困難だった『1984年』と『すばらしい新世界』を収録していたのだ。

 本書を入手して『1984年』はすぐに読んだが、『すばらしい新世界』は後回しにした。人工授精で人間を生産する未来社会の話と聞いて、何となくイメージをつかんだ気分になって後回しにし、そのまま半世紀以上が経過した。

 77歳になって遠い昔の宿題を思い出したのは、Eテレの「100分で名著」で『ハクスリー すばらしい新世界』が始まったからである。番組は録画したまま再生せず、古い『世界SF全集』を繙いた。

 『すばらしい新世界』(オルダス・ハックスリイ/松村達雄訳/世界SF全集/早川書房/1968.10)

 著者は名門の出である。祖父は「ダーウィンの番犬」と呼ばれた生物学者トマス・ハクスリイ、弟ジュリアン・ハクスリイも生物学者だ。この弟が書いた『進化とは何か』(ブルー・バックス)を学生時代に読んだ記憶がある。

 オルダス・ハックスリイ(1984-1963)は江戸川乱歩と同い年で、『すばらしい新世界』が出たのは第一次大戦と第二次大戦の狭間の1932年である。第二次大戦後に出た『1984年』より17年早い。

 この古い未来小説を読んで、反ユートピア小説には違いないがシニカルなブラック・コメディだと思った。「人間が人工授精で工場生産されるようになれば」という思考実験を展開し、その結果を英国風の皮肉なタッチで描いている。

 社会から家族という概念がなくなり、万人が万人に尽くす社会となる。結婚がない社会は、万人が万人と恋愛するフリーセックスの社会である。ただし、社会を安定的に運営するため、アルファからエプシロンまで五段階の階層社会になっている。人間を出荷する工場の操作によって生まれる子の階層はあらかじめ決められる。各階層の人間は、自分にとって自分の階層がベストと感じる条件反射を埋め込まれている。下の階層は一卵性多胎児(96子!)である。

 社会の安定には激情の抑制が必要だ。そのための薬品が配布されていて、個人は日常的に自主的にその薬品を服用している。

 かなり面白い設定だ。現代の格差社会に通じるものもあり、「100分で名著」がこの小説を取り上げる理由もわかる。

 著者は、こんな社会にわれわれと同じ感性の人間がまぎれ込んだらどうなるかを描いている。結果は悲喜劇である。ドタバタ悲劇とも言える。

 この小説は作者の茶目っ気があふれている。宗教も神も存在しない社会において「ゴッド」の代用は「フォード様」だ。あの自動車王である。「フォードは自ら助ける者を助ける」という台詞も出てくる。多くの登場人物の名は、マルクス、ダーウィン、ヘルムホルツなど著名人の名を借用している。その含意はよくわからない。前半では反逆のヒーロー役だったバーナード・マルクスは後半で腰砕けになる。これも英国流ユーモアか。

歌舞伎座「昼の部」と「夜の部」を続けて観た2026年09月14日

 歌舞伎座で秀山祭九月大歌舞伎の「昼の部」と「夜の部」を観た。演目は以下の通りだ。

【昼の部】
 一、春調娘七種
   三社祭
 二、ひらかな盛衰記
     大津宿屋
     笹引き
     逆櫓
【夜の部】
 一、雛鶴三番叟
 二、伊賀越道中双六
     沼津
 三、銘作左小刀
     京人形
 四、一條大蔵譚
     奥殿

 午前11時から午後8時50分までの観劇は、昼食・夕食・休憩をはさみながらとは言え少々きつい。印象が混濁したり眠くなったりもする。

 昼の部のメインディッシュ「ひらかな盛衰記」は初見だと思う。木曽義仲が討たれた後、鎌倉方(梶原景時)に追わる義仲の遺児たちの話である。番場の忠太という名の悪役が登場する。聞き覚えのある名だが、何か変だなと感じた。よく考えると、私がうろ覚えだったのは『瞼の母』の番場の忠太郎で、まったく関係ない人物だった。まぎらわしい名前だ。何か関連があるのだろうか。

 義仲の幼い遺児が船頭の倅と取り違えられ船頭の倅が首を落とされる、という歌舞伎らしいヒドい話である。

 「逆櫓」という段がメインだが、これは「梶原景時の逆櫓」のパロディになっているそうだ。梶原景時は登場しない。「船頭松右衛門 実ハ 樋口治郎兼光(幸四郎)」が多数の船頭たちを相手に立ち回りを演じるシーンが壮観だった。互いに大きな櫓をかついでいて、それを武器として振り回すのだ。

 夜の部のメインディッシュは「伊賀越道中双六」の「沼津」である。私は10年以上前に国立劇場で坂田藤十郎出演の「沼津」を観ていて、その際に台本も読んだはずだが、内容はほとんど失念していた。かすかなデジャブがあるものの先の展開をまったく思い出せない。引き込まれる舞台だが、歌舞伎らしい強引な展開である。

 「銘作左小刀」の「京人形」は上演時間30分の面白い舞台だった。名工・左甚五郎が廓で見初めた太夫に生き写しの人形を作成し、人形相手に酒を飲んでいると人形が動き出す。ぎこちない動きが面白い。歌舞伎は人形浄瑠璃を元にした台本も多く、役者が人形の動きをするのは珍しくない。だが、「京人形」の人形は癒し系ロボットに重なっている。現代的な設定の人形のようにも感じられた。

練達の二人による『朗読劇 古事記』2026年09月12日

 北千住のシアター1010で『朗読劇 古事記』(上演台本・演出:笹部博司、出演:白石加代子、風間杜夫)を観た。

 舞台上にはベンチが一つ。両脇にモダンな街頭が立っている。朗読劇だが、多少の小道具は使う。生の効果音もある。風間杜夫はサメの着ぐるみをまとったりもする。

 朗読は天地の創生から始まる。簡略化した口語でテンポよく進行する。風間杜夫が語る会話部分は、ときに関西なまりになる。スサノウがアマテラスを「お姉ちゃん」と呼んだりもする。

 私は先日『古事記』に目を通したので、およその概略はつかめている。1時間半の朗読劇は面白い部分のダイジェストだろうと予感した。実際の舞台は上巻の内容をほぼ忠実に追っていて、神武天皇の名が出て終わる。ヤマトタケルや神功皇后は登場しない。

 上巻・中巻・下巻とわかれている古事記は、やはり上巻がいちばん面白い。朗読劇を観て、あらためてそう思った。

 冒頭のイザナギ・イザナミの国生みでは、イザナギとイザイナミがビビッと来るとき、背後の街灯が激しく点滅する。他にも街頭が点滅するシーンがいくつかあった。

 黄泉の世界で醜い姿をイザナギに見られたイザナミが怒ってイザナギを追ってくる場面、イザナミを演じる白石加代子の迫力が怖い。かつての小劇場を思い出す。

 朗読の合間にトークが入ることもある。風間杜夫が白石加代子をかつての早稲田小劇場の女王とたたえたり、自身をスチュワーデス物語の教官と語ったりもする。観客は総じて年輩に見えたが、彼らの来歴を知らない若い客もいるだろうなと思った。

 風間杜夫は、激しく動き回りながら朗読するとき「77歳にもなって…」とアドリブ風につぶやいていた。そう言えば白石加代子もいい年のはずだと思い、観劇後にネット検索すると84歳だった。とても元気な84歳だ。

小林恭二17年ぶりの新作小説の主人公は俳人・西東三鬼だが…2026年09月09日

 『三鬼』(小林恭二/講談社)
 小林恭二氏が久々に小説を発表した。私は30年以上前に小林氏の小説をかなり読んだ。『ゼウスガーデン衰亡史』『瓶の中の旅愁』『カブキの日』など独特の異世界を現世に絡めて織り上げる長編に魅せられた。この十数年小説発表は途絶え、大学教授に専念しているのだろうと思っていた。

 新作のタイトルが『三鬼』と知り、一瞬、鬼の世界を書いたのかと驚いた。西東三鬼の「三鬼」と気づき、なあんだと感じた。

 『三鬼』(小林恭二/講談社)

 新作が俳人・西東三鬼の話と知って拍子抜けしたのは、まさに小林氏のテリトリーの自家薬籠中の素材に思えたからだ。

 私は30年ほど昔に俳句関連の本を集中的に読んだことがあり、少しだけ句作もした。それ以前に桑原武夫が俳句は一流文学になりえないとした『第二芸術』に共感していた。いまも、基本的には変わらない。

 にもかわらず俳句に入れ込んだ時期があったのは、俳句のゲーム性に気づいたからである。それを教えてくれたのは小林氏の著作『俳句とは何か』『青春俳句講座』『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』などだった。あの頃、西東三鬼にも魅せられ『神戸・続神戸・俳愚伝』(西東三鬼/講談社文芸文庫)も読んだ。この文庫本の解説の筆者は小林氏だった。

 そんなわけで、小林氏と西東三鬼は「つきすぎ」と感じつつ、西東三鬼は興味深い人物なので、読まないわけにはいかないと思い、本書を繙いた。

 小林流に料理した西東三鬼伝を想定して読み始めたが、まったく違っていた。あらためて、オビをよく見ると「史実とフィクションを融合させた、ノンストップ・歴史エンタ-テインメント」とある。事前に見落としていたこの惹句通りの小説である。

 真珠湾攻撃を翌年にひかえた昭和15年の西東三鬼を描いたこの小説は、時おり時空が拡大し、鎌倉時代にまで時間が遡り、さらには東シナ海を跳梁する倭寇の歴史からマレー半島などをめぐるオランダやイギリスの争いにまで話が及ぶ。鄭成功の父親やチャンドラ・ボースなども顔を見せる。そんな世界と西東三鬼を絡ませるのが小林氏の幻術的な離れ業である。

 それだけでなく、ノンフクション評伝風に高浜虚子を頂点とする俳句世界の政治空間を的確に描き、京大事件にはじまる俳句弾圧の背後にあるものの正体を妄想的に探っている。

 著者の西東三鬼への愛と小説家としての虚構力を十全に発揮した小説だ。

アンティオキア千年の歴史は視点を変えた古代ローマ史2026年09月07日

『地中海都市の興亡:アンティオキア千年の歴史』(G・ダウニー/小川英雄訳/新潮選書/1986.8)
 かつて小アジアにあった都市アンティオキアに関する歴史書を読んだ。古書で入手して積んでいた古い翻訳書である。

 『地中海都市の興亡:アンティオキア千年の歴史』(G・ダウニー/小川英雄訳/新潮選書/1986.8)

 アンティオキアは前300年にセレウコス朝創始者のセレウコス1世が建設したヘレニズムの都市である。その後ローマ帝国のシリア属州の中心都市として栄え、キリスト教の五本山の一つにもなる。ビザンツ時代には、ペルシアやイスラムに占領されていた時期もある。第1回十字軍はこの都市をセルジューク朝から奪還し、アンティオキア公国とした(1098年)。現在はトルコ南部の小さな町アンタキヤである。

 私が本書を読もうと思ったのは、『ローマ帝国衰亡史』(ギボン)のささやかな輪読会が十字軍のアンティオキア攻囲戦に差しかかったからである。18世紀の人ギボンは次のように書いている。

 「われわれがアンティオキアの描写に際して、アレクサンドロスやアウグストゥスの後継者たちの時代の古典的な壮麗さと、トルコ人による今日の荒廃の光景の中間状況を定義することは必ずしも容易でない。」(中野好之訳)

 この文章の「今日の荒廃」は18世紀のオスマン帝国による荒廃を指す。ギボンは、ヘレニズムやローマ時代の壮麗と18世紀の荒廃の中間にあたる十字軍時代のアンティオキアの姿に思いをはせている。この文章を読んで、以前に購入した本書を思い出したのである。

 本書の著者は1908年生まれの米国の歴史家で、1930年代にアンティオキアの発掘にも関わっている。全12章の本書はアンティオキアを含むシリア地域のやや詳しい歴史解説である。「オリエントの麗しい冠」と題する第10章は他の章と趣が異なり、モザイク画などの発掘物を紹介している。

 本書のプロローグには、18世紀にアンティオキアを訪れたフランス人画家が描いた銅版画6枚が載っている。廃墟の光景である。「それらの廃墟の絵は何世代もの旅行家や学者たちを魅了した」と解説している。ギボンも見たかもしれない廃墟の絵に感動した。

 本書は前300年のアンティオキア建設から7世紀半ばまでの約千年を記述し、それ以降については「アラブ人、十字軍、トルコ人のもとにおけるアンティオキアの歴史は本書の範囲外」としている。11世紀の十字軍時代に関心のある私にはやや期待外れだ。だが、十分に面白かった。

 著者が対象としているのは「ギリシア・ローマ的な都市としてのアンティオキア」であり、それはアラブ軍(イスラム)によるアンティオキア占領で終焉をむかえる。「ギリシア・ローマ的」という表現に西欧中心的な見方の匂いをかすかに感じる。アンティオキア市民は、自分たちの先祖はアテネからの入植者だという言い伝えを誇りにしていたそうだ。

 山を背にした平地にあるアンティオキアは城壁で囲まれた難攻不落の都市と言われた。だが、山側の城壁が弱点だったそうだ。意外である。

 本書のメインはシリア属州視点のローマ史であり、私の知らないことや失念している事項が頻出する。勉強になった。ゼノビアやユリアヌスなど興味深い人物への言及が楽しい。

 キリスト教の異端とされたアリウス派や単性論の状況の説明も詳しい。シリアで単性論が根強く普及した状況が興味深い。260年、サモサタのパウロがアンティオキアの司教に選出されたとの記述に少し驚いた。かすかに記憶がある名前だ。かなり以前、7~9世紀のキリスト教の異端パウロ派について調べたことがある(これもギボンの輪読会のせいだ)。あのとき、パウロ派という名の起源の一説に3世紀のサモサタのパウロという記述があった。本書はその3世紀の人物を詳述している。パルミラの女王ゼノビアとも関連しているそうだ。ヘェーと思った。

『古事記』は奔放な昔話2026年09月02日

『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫)
 角川ソフィア文庫の『古事記』を読んだ。

 『新版 古事記:現代語訳付き』(中村啓信・訳注/角川ソフィア文庫) 

 『古事記』は、子供時代にジュニア版を読んだ気がするが、大学時代(半世紀以上昔)に読みかけた岩波文庫版は途中で投げた。

 そのうち読もうと思いつつ先伸ばしにしていた『古事記』を読む気になったのは、来週『朗読劇 古事記(白石加代子・風間杜夫)』を観劇予定だからだ。正確には、この朗読劇のチケットを購入した動機が、これを機に『古事記』を読むことだった。何らかのきっかけがなければ古典に手が伸びない。

 日本最古の書物『古事記』の成立は奈良時代初めの715年、上中下の3巻にわかれている。天地創造から推古天皇までを書いた神話を含む歴史書と言われる。

 古い岩波文庫版は本棚に見つからず、角川ソフィア文庫版を購入した。この文庫は、原文(漢文)と「漢文の読み下し」に加えて「現代語訳」も収録している。冒頭の「読み下し」部分に訳注が付いている。ページの下部が訳注欄なので、訳注を参照するときページをめくる手間がない。

 まずは「現代語訳」で読み始めたが、わかりにくい言葉は訳注を参照したくなり、そのたびに「読み下し」に飛ぶのがわずらわしい。途中から、「訳注」を参照しながら「読み下し」を読み進め、わかりにくい部分は「現代語訳」を参照する読み方になった。

 『古事記』を読了しての感想は「なんじゃ、これは」だ。昔の出来事の記録だろうが、歴史書とは言い難い。神話+昔話で、別世界譚の趣が強い。登場人物たちの奔放な行動に唖然とする。現代の感覚からズレているのは当然だが、神々も天皇たちも、美女には次々と手を出し、醜女は容赦なく追放する。あっさりと人を殺す場面も多い。おおらかに大便・尿・女陰なども頻出する。神話研究の材料としては興味深かろうと推測する。

 天皇の系図説明のような退屈な部分は仕方ないとしても、意味不明の話も多い。物語として面白いのは、やはり一般によく知られている話である。イザナギ、イザナミの話、天照大御神とスサノウ、ヤマタの大蛇、海彦山彦、因幡の白ウサギと大国主命、ヤマトタケルの冒険などだ。登場人物たちは善玉悪玉を超えた奇妙なキャラが多い。出雲の国譲り至るためだろうが、大国主命のイメージも分裂している。

 神と人間の関係があいまいで、おびただしい数の神が登場するのにも驚いた。天孫降臨だから天皇の先祖は神であり、天皇自身が神に見えるのはいいとしても、有力豪族たちの先祖もまた神である。八百万の神とはよく言ったもので、あらゆる所に安易に神が現れる。

 終盤の雄略天皇のくだりに興味深いエピソードが二つあった。

 天皇が行列で葛城山を登っていると、向かいの尾根を同じような行列が登っている。この国に自分以外の王はいないはずだと訝って声をかけると、相手も同じように声をかけてくる。自身の複製が出現する超現実譚の面白さを予感したが、期待はずれだった。相手が「葛城之一言主之大神である」と名乗ると、天皇は「大神が人の姿をしておいでなので気づきませんでした」と引き下がる。天皇は神ではなかったのかと思いつつ、天皇より上位の神がいろいろ存在することを認識した。

 もう一つは赤猪子の話である。天皇は出かけた先で非常に美しい乙女の出会う。名を赤猪子と言う。「おまえは結婚するな。ほどなく宮廷に召しいれる」と言って帰る。赤猪子は天皇からのお召しを待ち続け、何と80年が経過する。80年待ったすえに天皇に会いに行く。天皇は忘れていて「おまえはどこの婆さんか」と言うが、やがて思い出す。なぜか80年経っても天皇は若いままだが、相手が老いていてもはや結婚できないことを哀れむ――というヒドイ話である。

 雄略天皇は『古事記』によれば124歳で亡くなっている。この天皇は、存在が確認できる最古の天皇とも言われ、『日本書紀』では479年に62歳で没したとされている。

19世紀を知りたくて『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』を読んだ2026年08月31日

『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』(谷川稔・北原敦・鈴木健夫・村岡健次/中央公論社/1999.2)
 19世紀ヨーロッパを概説した中公版『世界の歴史』第22巻を読んだ。

 『近代ヨーロッパの情熱と苦悩(世界の歴史22)』(谷川稔・北原敦・鈴木健夫・村岡健次/中央公論社/1999.2)

 私は19世紀に関心がある。どんな時代だったか体感できればとも思う。日本なら幕末・維新を含む江戸末期から明治、77歳の私には曾祖父母あるいはその父母の時代であり、かろうじて現代と地続きに感じられる時代なのだ。

 19世紀を知りたいと思った契機は、ピケティが『21世紀の資本』で21世紀は19世紀のような格差社会になるかもしれないと指摘していたからだ。最近読んだ『新書 世界現代史』は、現代の世界が弱肉強食のジャングルの掟が通用する19世紀に向かっていると警告していた。19世紀がどんな時代だったか把握したくなる。

 『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』と題する本書は4人の筆者が地域別に執筆する4部構成になっている。

 第1部 フランスとドイツ――国民国家へのはるかな道(谷川稔)
 第2部 自由を求める南ヨーロッパ(北原敦)
 第3部 19世紀ロシアの嵐(鈴木健夫)
 第4部 ヴィクトリア時代イギリスの光と影(村岡健次)

 ナポレオン後のウィーン体制の崩壊から第一次世界大戦前夜までのヨーロパを「英独」「伊」「露」「英」に分けて概説している。第2部を「イタリア」でなく「南ヨーロッパ」としているのに含蓄がある。近代国家形成という主題は共通だが、4人の筆者が奏でる4つの地域の歴史のトーンはかなり異なる。四者四様の壮大な変奏曲のような1巻だ。

 第1部は新たな希望に見えた国民国家の功罪、第2部はバラバラ統合の悲喜劇、第3部は皇帝と農奴の国の革命前夜の苦悩、第4部は産業革命の帝国の繁栄が秘めた陰影――そんな論議を奏でている。フランス・ドイツの理念のカラ回り、イタリアの情念のカラ回り、ロシアの苦悩のカラ回り、イギリスの帝国主義傲慢のカラ回りにも見えて、かなり面白い。

 本書を読んでいて、5カ月前に拾い読みしていたのを思い出した。ドーデの『最後の授業』に関する部分で、その一部を以下のようにわがブログに引用していた。

 《『最後の授業』批判の根底には、国民を構成する要素は言語や人種だというドイツ的な考え方があるそうだ。それに対してフランスでは、国民の観念を「国家がかかげる基本原理を共有しようとする意志」に求める考え方が有力だそうだ(谷川稔『近代ヨーロッパの情熱と苦悩』より)》

 ドイツ語方言のアルザス語を話すアルザス地方はフランスかドイツかという国民国家の課題である。ドイツ的な考え方もフランス的な考え方も、自国を正当化するイデオロギー性がある。19世紀は「イデオロギー」「理念」「神話」の力が歴史を大きく動かした時代かもしれない。

 谷川氏の指摘で初めて知ったのだが、19世紀なかばを過ぎても国語としてのフランス語は成立していなかったそうだ。フランス語とはまったく異なる少数言語地帯がフランス国内に多数存在し、識字率も低かったらしい。

 ヨーロッパの19世紀を読みながら、日本の19世紀とさほど変わらないなと感じた。日本がヨーロパを手本にした面が大きいのだろうが、ヨーロッパも日本もそれぞれにストラッグルしている。雑駁な印象だが。

 本書には時代を表現した19世紀文学がいくつか登場する。ピケティはバルザックやオースティンを援用して19世紀の格差社会を描出していた。バルザック、ユゴー、デュマなど「パリの王様」を始め、ゾラディケンズドストエフスキーなど19世紀文学は大物が目白押しだ。ヴィクトリア朝を知るにはシャーロック・ホームズも欠かせない。歴史書とフィクションの双方から19世紀を探るのが興味深い。

 で、21世紀を見通すのに19世紀の歴史は役立つか。役立つと思うが、具体的にはよくわからない。ヒントは山積している。ヒントが多すぎて、私のたよりない頭では整理が難しい。

11年ぶりにキツツキ襲来2026年08月29日

 1カ月ぶりに八ケ岳南麓の山小屋へ行くと、畑は草茫々で、ベランダの階段に木クズが散らばっていた。当初は庭の雑草に気を取られ、階段の汚れは気にならなかった。

 だが、散らばった木クズをぼんやり眺めていて、十数年前の記憶がよみがえった。これはキツツキの仕業ではないか。あわてて上方のひさしに目をやったが、よくわからない。

 常駐していないわが山小屋は十数年前からキツツキ被害に悩まされていた。直径10センチほどの穴をひさしに7個空けられた。11年前、地元の工務店に依頼して幅30センチ程の鋼板をひさしに張ってもらった。それ以来、キツツキ被害はない。鋼板の威力である。

 キツツキのことはまったく失念していたが、階段の木クズはどう見てもキツツキの痕跡だ。2階に上がり、ひさしを点検すると、被害箇所が確認できた。鋼板の内側(ひさしから遠い側。写真参照)がやられている。穴が空くまでには至っていないが、かなり頑張ってツツいたようだ。鋼板を押さえる木枠の一部が削り取られている。

 キツツキがどんな姿勢でツツいているかは知らないが、ひさしの端でなくても足場を確保できるようだ。10年以上経って襲来した理由もよくわからない。進化したのだろうか。被害の拡大が心配だが、打つ手が思いつかず、何もせずに帰京した。