追悼・村上龍 ― 2026年10月26日
村上龍の訃報にはとても驚いた。私より4歳若い同時代作家だった。後期高齢者になれば、自分より若い人の訃報に接することは少なくないが、やはり暗然とする。
村上龍のデビューは鮮烈だった。芥川賞受賞前から注目を浴びていた。群像新人賞を受賞した『限りなく透明に近いブルー』がメディアで話題になり、普段は文芸誌など手にしない私も『群像 1976年6月号』を購入した。社会人3年目だった。この作品で村上龍は芥川賞を受賞し、スター作家になる。
その後、主な作品は読んできた(全部ではない)。いつ頃からか、ダブル村上と呼ばれる時代になる。私は「春樹」よりは「龍」が好みだ。骨太で面白い。書架の村上作品を眺めながら、その作品世界に思いを馳せた。
一番印象深いのは『愛と幻想のファシズム』である。『半島を出でよ』も迫力があった。
いま思うと、『愛と幻想のファシズム』は現代のフェイク動画を先取りしていたし、『オールド・テロリスト』はドローンが主戦力となる戦闘を先取りしていた。と言っても、村上龍はSF作家とは言い難く、技術の先見性を作品に取り入れる手際はどうでもいい気がする。時代や世界と格闘するパッションが魅力の作家だった。「小」説を経由して「大」説を望見する作家だったように思える。
だが、晩年(いまや、そう言わざる得ない)の『MISSING 失われているもの』や『ユーチューバー』では、作風が変化していた。いずれ、作品を読み返し、わが同時代作家・村上龍とは何者だったかを考えてみたいと思う。いつになるか、わからないが。
村上龍のデビューは鮮烈だった。芥川賞受賞前から注目を浴びていた。群像新人賞を受賞した『限りなく透明に近いブルー』がメディアで話題になり、普段は文芸誌など手にしない私も『群像 1976年6月号』を購入した。社会人3年目だった。この作品で村上龍は芥川賞を受賞し、スター作家になる。
その後、主な作品は読んできた(全部ではない)。いつ頃からか、ダブル村上と呼ばれる時代になる。私は「春樹」よりは「龍」が好みだ。骨太で面白い。書架の村上作品を眺めながら、その作品世界に思いを馳せた。
一番印象深いのは『愛と幻想のファシズム』である。『半島を出でよ』も迫力があった。
いま思うと、『愛と幻想のファシズム』は現代のフェイク動画を先取りしていたし、『オールド・テロリスト』はドローンが主戦力となる戦闘を先取りしていた。と言っても、村上龍はSF作家とは言い難く、技術の先見性を作品に取り入れる手際はどうでもいい気がする。時代や世界と格闘するパッションが魅力の作家だった。「小」説を経由して「大」説を望見する作家だったように思える。
だが、晩年(いまや、そう言わざる得ない)の『MISSING 失われているもの』や『ユーチューバー』では、作風が変化していた。いずれ、作品を読み返し、わが同時代作家・村上龍とは何者だったかを考えてみたいと思う。いつになるか、わからないが。
映画を観る前に『オデュセイア』を読んだ ― 2026年10月25日
『イリアス』を読んだのは3年前、続編にあたる『オデュセイア』もいつか読もうと購入し、書棚に積んだままだった。先月、クリストファー・ノーラン監督の映画『オデュッセイア』が公開された。いずれ映画を観ると思うので、その前に読まねばと思った。
かなり昔、ジュニア版は読んだのであら筋は頭に残っている。トロイ戦争の英雄オデッセウスの帰郷物語である。オデッセウスは海神ポセイドンの怒りを買ったため、艱難辛苦の旅となり帰郷に20年を要する。故郷のイタケ島では、王であるオデッセウスの不在につけこんで、オデッセウスの妻に求婚する者たちが押しかけ、飲食を強要し妻や息子たちを悩ましている。帰郷を果たしたオデッセウスは求婚者たちに復讐をとげる――という話である。西欧では、日本の桃太郎みたいに広く知れ渡った物語らしい。
『オデュセイア(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)
オデッセウスはトロイの木馬を考案した策略家である。トロイ戦争と言えば木馬だが、トロイ戦争の一部を描いただけの『イリアス』に木馬は出てこない。トロイ滅亡の話もない。オデュセイアは帰郷譚なので、こちらにも木馬は登場しないだろうと思っていた。だが、違っていた。
オデュセイアのかなりの部分はオデッセウスが語る「思い出話」や楽人たちが歌う「叙事詩」である。オデッセウスが黄泉の世界に赴いて死者たち(アキレウス、アガメムノンなど)の話を聞いたりもする。その中で、木馬の話、トロイ滅亡、アガメムノン殺害からオディプス王の話までいろいろな昔話が語られる。
本書を読んで感じたのは、『イリアス』『オデュセイア』の世界はギリシア悲劇やギリシア神話と同じ地平にあり、これらを一体で把握してこそ面白く鑑賞できるのだろうということだ。ギリシア神話という呼称が全体を統括する概念かもしれないが。
『イリアス』と同じように『オデュセイア』も神様が人間と一緒になって動き回る。オデッセウスを贔屓するアテネ神はほとんど出ずっぱりである。先月読んだ『古事記』も神と人間が混然一体の世界だった。洋の東西の昔話は似ているとも言えるし、やや異なっているようにも思える。
ローマ史家の本村凌二氏は、『オデュセイア』は『イリアス』より百年以上後に成立した作品と推測していた(『20の古典で読み解く世界史』)。登場人物の心性が違うとの指摘である。『イリアス』の登場人物が単刀直入で迷いがないのに対して『オデュセイア』の登場人物は用心深く、アレコレ考える。前者は「神々のささやき」が聞こえた時代、後者はそれが聞こえなくなった時代に成立したという推論だ。『オデュセイア』を読み終えてナルホドと感じた。
策略家オデッセウスは確かに疑り深い。帰郷に際しても乞食に変装して館に入る。本村氏によれば「最初の近代人」といわれているそうだ。
本書を読んでいて「飲食」と「睡眠」に関する描写が印象に残った。食欲をそそられたり、心地よい眠りに誘われたりする。いつの時代でも、人間にとってこの二つが大切だったのだと思う。
かなり昔、ジュニア版は読んだのであら筋は頭に残っている。トロイ戦争の英雄オデッセウスの帰郷物語である。オデッセウスは海神ポセイドンの怒りを買ったため、艱難辛苦の旅となり帰郷に20年を要する。故郷のイタケ島では、王であるオデッセウスの不在につけこんで、オデッセウスの妻に求婚する者たちが押しかけ、飲食を強要し妻や息子たちを悩ましている。帰郷を果たしたオデッセウスは求婚者たちに復讐をとげる――という話である。西欧では、日本の桃太郎みたいに広く知れ渡った物語らしい。
『オデュセイア(上)(下)』(ホメロス/松平千秋訳/岩波文庫)
オデッセウスはトロイの木馬を考案した策略家である。トロイ戦争と言えば木馬だが、トロイ戦争の一部を描いただけの『イリアス』に木馬は出てこない。トロイ滅亡の話もない。オデュセイアは帰郷譚なので、こちらにも木馬は登場しないだろうと思っていた。だが、違っていた。
オデュセイアのかなりの部分はオデッセウスが語る「思い出話」や楽人たちが歌う「叙事詩」である。オデッセウスが黄泉の世界に赴いて死者たち(アキレウス、アガメムノンなど)の話を聞いたりもする。その中で、木馬の話、トロイ滅亡、アガメムノン殺害からオディプス王の話までいろいろな昔話が語られる。
本書を読んで感じたのは、『イリアス』『オデュセイア』の世界はギリシア悲劇やギリシア神話と同じ地平にあり、これらを一体で把握してこそ面白く鑑賞できるのだろうということだ。ギリシア神話という呼称が全体を統括する概念かもしれないが。
『イリアス』と同じように『オデュセイア』も神様が人間と一緒になって動き回る。オデッセウスを贔屓するアテネ神はほとんど出ずっぱりである。先月読んだ『古事記』も神と人間が混然一体の世界だった。洋の東西の昔話は似ているとも言えるし、やや異なっているようにも思える。
ローマ史家の本村凌二氏は、『オデュセイア』は『イリアス』より百年以上後に成立した作品と推測していた(『20の古典で読み解く世界史』)。登場人物の心性が違うとの指摘である。『イリアス』の登場人物が単刀直入で迷いがないのに対して『オデュセイア』の登場人物は用心深く、アレコレ考える。前者は「神々のささやき」が聞こえた時代、後者はそれが聞こえなくなった時代に成立したという推論だ。『オデュセイア』を読み終えてナルホドと感じた。
策略家オデッセウスは確かに疑り深い。帰郷に際しても乞食に変装して館に入る。本村氏によれば「最初の近代人」といわれているそうだ。
本書を読んでいて「飲食」と「睡眠」に関する描写が印象に残った。食欲をそそられたり、心地よい眠りに誘われたりする。いつの時代でも、人間にとってこの二つが大切だったのだと思う。
「ルーヴル美術館展」でルネサンス絵画を鑑賞 ― 2026年10月22日
新国立美術館で開催中の「ルーヴル美術館展」に行った。さほど大規模でなく、観て回るのにちょうどいい点数の展示だった。
目玉はダ・ヴィンチの『《女性の肖像》、誤って付された別称《美しきフェロニエール》』である。やたらと長いタイトル表示だ。最後の展示室に特別扱いで展示されていた。サイズは63.5×44.5㎝、さほど大きくはない。
この目玉作品、チラシには目元を超拡大した写真があり、細かなひび割れまで写っている。サイズが小さいので、本物を眼前で眺めても写真のようなひび割れを容易には視認できない。目力(めぢから)のある肖像画である。視線が合うと、「何見てんのよ」と些末なひび割れを確認しようとする態度を𠮟られた気がした。
今回の展示には、ダ・ヴィンチ作と混同されていた『《女性の肖像》、通称《美しきフェロニエール》』(ロンバルディアの画家)という作品も展示している。「美しきフェロニール」はフランス国王フランソワ1世(在1515-1547)の愛妾とされた女性だが、今日では架空の人物と見なされているそうだ。
展示場に入って最初に目に飛び込むのは『ヴェネツイア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督』(ヴェネツィアの画家)という1511年頃の大きな絵である。ダマスクスの建物や多くの人物を端整に描いている。商業都市国家ヴェネツイアとアラブ世界の交流を示す歴史画にも見え、興味を引かれた。
目玉はダ・ヴィンチの『《女性の肖像》、誤って付された別称《美しきフェロニエール》』である。やたらと長いタイトル表示だ。最後の展示室に特別扱いで展示されていた。サイズは63.5×44.5㎝、さほど大きくはない。
この目玉作品、チラシには目元を超拡大した写真があり、細かなひび割れまで写っている。サイズが小さいので、本物を眼前で眺めても写真のようなひび割れを容易には視認できない。目力(めぢから)のある肖像画である。視線が合うと、「何見てんのよ」と些末なひび割れを確認しようとする態度を𠮟られた気がした。
今回の展示には、ダ・ヴィンチ作と混同されていた『《女性の肖像》、通称《美しきフェロニエール》』(ロンバルディアの画家)という作品も展示している。「美しきフェロニール」はフランス国王フランソワ1世(在1515-1547)の愛妾とされた女性だが、今日では架空の人物と見なされているそうだ。
展示場に入って最初に目に飛び込むのは『ヴェネツイア共和国の使節団を迎えるダマスクス総督』(ヴェネツィアの画家)という1511年頃の大きな絵である。ダマスクスの建物や多くの人物を端整に描いている。商業都市国家ヴェネツイアとアラブ世界の交流を示す歴史画にも見え、興味を引かれた。
『メソポタミアのボート三人男』は歴史を遡る川旅 ― 2026年10月20日
辺境作家・高野秀行氏の新作を読んだ。
『メソポタミアのボート三人男』(高野秀行/集英社/2026.6)
ユーフラテス川、ティグリス川の源流をゴムボートで旅(探検?)したレポートである。場所はトルコ東南部、住民の多くはクルド人だ。
本書刊行は今年6月だが、ボート旅のメインは2018年なので8年前、補足的な再訪が2024年である。本書刊行に時間がかかった理由は本書を読めばわかる。複合的要因があったが、ボート旅の面白さや意義を語る難しさが大きかったようだ。
私も本書を読むまで「ボート旅」がピンと来なかった。急流を川下りする冒険、源流から河口までの大旅行などをイメージしたが、まったく違っていた。
ボート三人男と言っても、一人用ゴムボート(バックラフトと言う)で川を下るのは筆者と「隊長」の二人、三人目は車で道路を行く現地ガイドである。車はボートに伴走するのではない。毎朝、キャンプ地(基本的には町や村)で川に漕ぎ出す二人を見送ると、事前に決めた次のキャンプ地の町か村に車で行き、ボートの到着を待つだけである。
筆者らは車で源流を探索し、そこから何日かかけてボートで川を下る。転覆の危険回避のためルートは慎重に選ぶ。「土地のいちばん低いところを行く」のが川旅の醍醐味で、周囲を見上げながらの旅である。ゴールは自分たちで決める。私は泥水の川旅をしたいとは思わないが、川旅の哲学のようなものは伝わってくる。
本書を読みながら、これは『イラク水滸伝』の姉妹編だと気づいた。『イラク水滸伝』は、ティグリス川とユーフラテス川が合流する河口の湿地帯の話だった。あの探検とボート旅は時期も重なっている。「隊長」も同一人物だ。筆者は両大河の河口と源流をほぼ同時期に制覇し、河口を描いた『イラク水滸伝』を先に上梓したのだ。
本書によって、トルコ、イラク、イランにまたがって在住するクルド人のやや複雑な事情を垣間見ることができた。イラク北部にクルディスタン自治区があることを初めて知った。
アレヴィーという不思議な信仰も初めて知った。シーア派の一派らしいが、信徒はモスクに行かず、コーランを読まず、1日5回のお祈りもせず、断食もせず、酒も飲む。トルコの全人口の10~20%がアレヴィーだという。かなりの人数だ。
本書には「川と歴史は遡るべし」という名言も登場し、筆者はギョベクリテペを訪問する。農業や都市の始まりの歴史を塗り替えると言われている人類最古の巨大遺跡である。農業が始まる以前、狩猟採集民が建設した宗教施設とされている。人類は定住生活に入る前にどのようにして巨大宗教施設を造りあげたのだろうか。
筆者は、ギョベクリテペの建造者を「阪神タイガースのファンや浦和レッズのサポーターが定期的にその「聖地」へ通い、試合を見るだけでなく、力を合わせて巨大なスタジアムを建設してしまったというようなイメージだろうか」と表現している。筆者らしい秀逸な見立てだ。
『メソポタミアのボート三人男』(高野秀行/集英社/2026.6)
ユーフラテス川、ティグリス川の源流をゴムボートで旅(探検?)したレポートである。場所はトルコ東南部、住民の多くはクルド人だ。
本書刊行は今年6月だが、ボート旅のメインは2018年なので8年前、補足的な再訪が2024年である。本書刊行に時間がかかった理由は本書を読めばわかる。複合的要因があったが、ボート旅の面白さや意義を語る難しさが大きかったようだ。
私も本書を読むまで「ボート旅」がピンと来なかった。急流を川下りする冒険、源流から河口までの大旅行などをイメージしたが、まったく違っていた。
ボート三人男と言っても、一人用ゴムボート(バックラフトと言う)で川を下るのは筆者と「隊長」の二人、三人目は車で道路を行く現地ガイドである。車はボートに伴走するのではない。毎朝、キャンプ地(基本的には町や村)で川に漕ぎ出す二人を見送ると、事前に決めた次のキャンプ地の町か村に車で行き、ボートの到着を待つだけである。
筆者らは車で源流を探索し、そこから何日かかけてボートで川を下る。転覆の危険回避のためルートは慎重に選ぶ。「土地のいちばん低いところを行く」のが川旅の醍醐味で、周囲を見上げながらの旅である。ゴールは自分たちで決める。私は泥水の川旅をしたいとは思わないが、川旅の哲学のようなものは伝わってくる。
本書を読みながら、これは『イラク水滸伝』の姉妹編だと気づいた。『イラク水滸伝』は、ティグリス川とユーフラテス川が合流する河口の湿地帯の話だった。あの探検とボート旅は時期も重なっている。「隊長」も同一人物だ。筆者は両大河の河口と源流をほぼ同時期に制覇し、河口を描いた『イラク水滸伝』を先に上梓したのだ。
本書によって、トルコ、イラク、イランにまたがって在住するクルド人のやや複雑な事情を垣間見ることができた。イラク北部にクルディスタン自治区があることを初めて知った。
アレヴィーという不思議な信仰も初めて知った。シーア派の一派らしいが、信徒はモスクに行かず、コーランを読まず、1日5回のお祈りもせず、断食もせず、酒も飲む。トルコの全人口の10~20%がアレヴィーだという。かなりの人数だ。
本書には「川と歴史は遡るべし」という名言も登場し、筆者はギョベクリテペを訪問する。農業や都市の始まりの歴史を塗り替えると言われている人類最古の巨大遺跡である。農業が始まる以前、狩猟採集民が建設した宗教施設とされている。人類は定住生活に入る前にどのようにして巨大宗教施設を造りあげたのだろうか。
筆者は、ギョベクリテペの建造者を「阪神タイガースのファンや浦和レッズのサポーターが定期的にその「聖地」へ通い、試合を見るだけでなく、力を合わせて巨大なスタジアムを建設してしまったというようなイメージだろうか」と表現している。筆者らしい秀逸な見立てだ。
『小説ヒトラー』第Ⅱ巻にはヒトラーユーゲントの少年登場 ― 2026年10月17日
佐藤賢一の『小説ヒトラー』、第Ⅰ巻に続いて第Ⅱ巻を読んだ。
『小説ヒトラー 第Ⅱ巻 戦前篇』(佐藤賢一/集英社)
ヒトラーが首相に就任した1933年1月30日からポーランド侵攻(第二次大戦開戦)の1939年9月1日までの7年間を描いている。この7年は、ヒトラーの伝記では最も面白い怒涛の興隆期であり、近代史としても興味深い時代だ。ヒトラーという異能の人物を中心にして歴史が動いた時代とも言える。
第Ⅰ巻は、ヒトラー視点の他にゲッベルス視点、ヒムラー視点の描写で展開したので、その調子が続くかと思っていた。だが、第Ⅱ巻では描出する世界の拡がりに対応して視点も多様になる。ゲッベルスもヒムラーも相対化される。
架空の人物と思われるザール地方の少年ハンスも登場する。独仏の国境地帯のザール地方は国際連盟の管理下にあったが、1935年1月、住民投票によってドイツに復帰する。このとき15歳だった金髪碧眼長身のハンスはヒトラーに魅せられてヒトラーユーゲントに入る。後に親衛隊員となりゲシュタポの下っ端として働き、能力が評価されて親衛隊士官学校に入学、第Ⅱ巻末で20歳になる。ハンス視点の成長譚と目撃談に小説的な面白さがある。
第Ⅰ巻も『ヒトラー全記録』(阿部良男/柏書房)を座右に詳細年表を参照しながら小説を読み進めた。
1933年1月30日、ヒトラーが首相に就任したとき、ナチ党(本書ではエン・エスと表記)は第1党とは言え過半数に満たず、入閣したのはゲーリングとフリックのみの連立政権だった。だが、2カ月後の3月24日には全権委任法可決でヒトラーに権力が集中し、6月末までにエン・エス以外の政党が解散、7月14日には政党新設禁止法が成立し、独裁体制が確立する。手品のような半年だ。
小説は政党を解散に追いつめていくさまを生々しく描いていて面白い。国会議事堂放火についても小説ならではの推測による陰謀劇に仕立てている。
第Ⅱ巻が描く主な出来事は以下の通りだ。
1934年6月 レーム粛清(長いナイフの夜)
1936年3月 ラインラント進駐
1936年8月 ベルリンでオリンピック大会
1938年3月 オーストリア併合
1938年9月 ミュンヘン協定でズデーテンラントを併合
1939年3月 チェコを併合、スロヴァキアを保護国化
1939年8月 独ソ不可侵条約締結
1939年9月 ポーランド侵攻
歴史事象の展開を小説として描くと、省略の多い駆け足気味になる。登場人物も振り付け通りに演じる木偶人形になりやすい。そんな中で、レームの姿が印象に残った。役者である。
ミュンヘン協定に至る緊迫した内幕劇も面白かった。チェコを切り捨てたチェンバレンに対してヒトラーがイギリスを「怖い国だな」との感慨を抱くのが興味深い。小説でしか描けない心理である。
『小説ヒトラー 第Ⅱ巻 戦前篇』(佐藤賢一/集英社)
ヒトラーが首相に就任した1933年1月30日からポーランド侵攻(第二次大戦開戦)の1939年9月1日までの7年間を描いている。この7年は、ヒトラーの伝記では最も面白い怒涛の興隆期であり、近代史としても興味深い時代だ。ヒトラーという異能の人物を中心にして歴史が動いた時代とも言える。
第Ⅰ巻は、ヒトラー視点の他にゲッベルス視点、ヒムラー視点の描写で展開したので、その調子が続くかと思っていた。だが、第Ⅱ巻では描出する世界の拡がりに対応して視点も多様になる。ゲッベルスもヒムラーも相対化される。
架空の人物と思われるザール地方の少年ハンスも登場する。独仏の国境地帯のザール地方は国際連盟の管理下にあったが、1935年1月、住民投票によってドイツに復帰する。このとき15歳だった金髪碧眼長身のハンスはヒトラーに魅せられてヒトラーユーゲントに入る。後に親衛隊員となりゲシュタポの下っ端として働き、能力が評価されて親衛隊士官学校に入学、第Ⅱ巻末で20歳になる。ハンス視点の成長譚と目撃談に小説的な面白さがある。
第Ⅰ巻も『ヒトラー全記録』(阿部良男/柏書房)を座右に詳細年表を参照しながら小説を読み進めた。
1933年1月30日、ヒトラーが首相に就任したとき、ナチ党(本書ではエン・エスと表記)は第1党とは言え過半数に満たず、入閣したのはゲーリングとフリックのみの連立政権だった。だが、2カ月後の3月24日には全権委任法可決でヒトラーに権力が集中し、6月末までにエン・エス以外の政党が解散、7月14日には政党新設禁止法が成立し、独裁体制が確立する。手品のような半年だ。
小説は政党を解散に追いつめていくさまを生々しく描いていて面白い。国会議事堂放火についても小説ならではの推測による陰謀劇に仕立てている。
第Ⅱ巻が描く主な出来事は以下の通りだ。
1934年6月 レーム粛清(長いナイフの夜)
1936年3月 ラインラント進駐
1936年8月 ベルリンでオリンピック大会
1938年3月 オーストリア併合
1938年9月 ミュンヘン協定でズデーテンラントを併合
1939年3月 チェコを併合、スロヴァキアを保護国化
1939年8月 独ソ不可侵条約締結
1939年9月 ポーランド侵攻
歴史事象の展開を小説として描くと、省略の多い駆け足気味になる。登場人物も振り付け通りに演じる木偶人形になりやすい。そんな中で、レームの姿が印象に残った。役者である。
ミュンヘン協定に至る緊迫した内幕劇も面白かった。チェコを切り捨てたチェンバレンに対してヒトラーがイギリスを「怖い国だな」との感慨を抱くのが興味深い。小説でしか描けない心理である。
四半世紀前の書『国民国家論の射程』を読んでみた ― 2026年10月13日
何年か前に古書で入手していた次の本を読んだ。20世紀末の1998年、28年前に出た本である。
『国民国家論の射程:あるいは<国民>という怪物について』(西川長夫/柏書房/1998.4)
本書を入手した経緯は失念した。国民国家に関する文章に本書への言及があり、ネット古書店に注文したのだと思う。先日読んだ『国民国家とナショナリズム』(この本も20世紀末刊行)巻末の参考文献リストで本書が目に入り、それが契機で未読棚の本書を繙いた。
国民国家(英:Nation-state、仏:Etat-nation)はフランス革命によって出現した。国民国家は何らかの一体感をもつ国民を構成員とする。現在、世界のほとんどすべての国が国民国家であり、現代は国民国家の時代である。
本書のサブタイトル「あるいは<国民>という怪物について」が示唆しているように、国民国家批判の書である。戦争になれば他国の人間を殺すことも辞さないのが「<国民>という怪物」である。
著者・西川長夫(1934-2013、フランス文学者)についてウィキペディアは「近年の国民国家論および国民国家批判の学問的潮流を作った」と述べている。
本書のサブタイトルを見たとき、山カッコの<国民>にむずがゆい懐かしさをおぼえた。半世紀以上昔の私の学生時代、文章表現に山カッコ < > を使用するのが流行した。言葉で掬いきれない何かを暗示する符牒のようでもあり、ある種のカッコよさがあった。使いすぎると滑稽になる。
本書を読了した私の読後感は、山カッコに感じるむずがゆさに似たものがある。国民国家というイデオロギーに挑戦する本書は、新たなイデオロギーを模索しているのだと思う。28年前に同時代の書として読んでいれば、大いに共感したかもしれない。いまの私は課題の複雑さに草臥れてリラックスしたい気分だ。
本書巻末のエッセイ「国民国家論から見た「戦後」――国民国家のゆくえ」で、著者は「国民国家がゆらぎはじめている」と指摘し、それが国民国家の終焉を予告する変化であることを願うと述べている。それから四半世紀、国民国家はまだ終りそうにない。
著者が「あとがき」で述べているように、本書は論文集ではない。エッセイや講演の集成である。著者の感興や感慨などの肉声が伝わってきて読みやすい。国民国家論とウォーラーステインの世界システム論との関連、文明と文化の対立、明治維新とフランス革命の比較検討、講座派vs労農派の評価など興味深い話題も多い。いろいろ教えられた。
日本の戦後の歴史学は「革命のための歴史学」だったが、1960年代以降は潮目が変わり革命史家たちは多数の読者を失った、という述懐も面白い。
『国民国家論の射程:あるいは<国民>という怪物について』(西川長夫/柏書房/1998.4)
本書を入手した経緯は失念した。国民国家に関する文章に本書への言及があり、ネット古書店に注文したのだと思う。先日読んだ『国民国家とナショナリズム』(この本も20世紀末刊行)巻末の参考文献リストで本書が目に入り、それが契機で未読棚の本書を繙いた。
国民国家(英:Nation-state、仏:Etat-nation)はフランス革命によって出現した。国民国家は何らかの一体感をもつ国民を構成員とする。現在、世界のほとんどすべての国が国民国家であり、現代は国民国家の時代である。
本書のサブタイトル「あるいは<国民>という怪物について」が示唆しているように、国民国家批判の書である。戦争になれば他国の人間を殺すことも辞さないのが「<国民>という怪物」である。
著者・西川長夫(1934-2013、フランス文学者)についてウィキペディアは「近年の国民国家論および国民国家批判の学問的潮流を作った」と述べている。
本書のサブタイトルを見たとき、山カッコの<国民>にむずがゆい懐かしさをおぼえた。半世紀以上昔の私の学生時代、文章表現に山カッコ < > を使用するのが流行した。言葉で掬いきれない何かを暗示する符牒のようでもあり、ある種のカッコよさがあった。使いすぎると滑稽になる。
本書を読了した私の読後感は、山カッコに感じるむずがゆさに似たものがある。国民国家というイデオロギーに挑戦する本書は、新たなイデオロギーを模索しているのだと思う。28年前に同時代の書として読んでいれば、大いに共感したかもしれない。いまの私は課題の複雑さに草臥れてリラックスしたい気分だ。
本書巻末のエッセイ「国民国家論から見た「戦後」――国民国家のゆくえ」で、著者は「国民国家がゆらぎはじめている」と指摘し、それが国民国家の終焉を予告する変化であることを願うと述べている。それから四半世紀、国民国家はまだ終りそうにない。
著者が「あとがき」で述べているように、本書は論文集ではない。エッセイや講演の集成である。著者の感興や感慨などの肉声が伝わってきて読みやすい。国民国家論とウォーラーステインの世界システム論との関連、文明と文化の対立、明治維新とフランス革命の比較検討、講座派vs労農派の評価など興味深い話題も多い。いろいろ教えられた。
日本の戦後の歴史学は「革命のための歴史学」だったが、1960年代以降は潮目が変わり革命史家たちは多数の読者を失った、という述懐も面白い。
劇団唐ゼミ公演『ベンガルの虎』は新鮮だった ― 2026年10月10日
横浜の沢渡中央公園の青テントで劇団唐ゼミ公演『ベンガルの虎』(作:唐十郎、演出:中野敦之:出演:津内口淑香、米澤剛志、今井勝法、谷洋介、丸山正吾、他)を観た。劇団唐ゼミの芝居は昨年エコー劇場で『少女仮面』を観た。青テント観劇は初めてである。
劇団唐ゼミは20年前から青テント公演を続けてきたが、テントの老朽化のため今回が最後の青テント公演だそうだ。今後の活動形態をあらためて検討するらしい。
『ベンガルの虎』の初演は1973年の状況劇場の紅テント、私はおそらくこの初演を観ているが記憶が定かでない。5年前に観た新宿梁山泊の紫テント公演『ベンガルの虎』は憶えている。風間杜夫が72歳でテント芝居に初出演した。『ベンガルの虎』は『唐版・ビルマの竪琴』とも呼ばれる作品で、日本兵の遺骨が眠る「白骨街道」がキーワードのひとつだ。
今回の観劇に先立って戯曲をあらためて読み返し、劇団唐ゼミのホームページで中野敦之氏の解説などもチェックした。横国大の唐ゼミの門下生・中野氏の戯曲の読みは深い。教えられる点も多い。
今回の公演のチラシには多少の違和感をおぼえた。軽妙でコミカルなタッチが「白骨街道」にそぐわない。「君、ホントに生キテル?」というコピーも意味不明に思えた。だが、中野氏の解説を参照しながら戯曲を読んでいるうちに、このチラシは中野氏の「読み」を反映していると思えてきた。
唐十郎の世界は重層的で夢幻的だが、いじましくてコミカルな面もある。ビルマに残った水島が供給する白骨を素材に、帰国した隊長たちが東京下町でハンコ屋を営んでいるという話はいじましくてコミカルだ。
この芝居のヒロイン・水島カンナは、初演時に唐十郎が李礼仙にアテ書きしたと思われる魅力的な役だ。ビルマに残って僧形で遺骨を弔うあの水島の妻という設定である。チラシにある「君、ホントに生キテル?」の「君」は水島カンナを指している。これは、私にとっては大きな発見だった。
唐十郎世界で登場人物たちが時間や空間を超えるのは珍しくない。その人物が生きているのか死んでいるのか定かでない場合もある。今まで、そんな異世界を漫然と受け容れながら観劇を楽しんできた気がする。だが、作者は自由奔放に時空を超えているのではなく、作劇には論理的とも言える必然があり、それを見通せば、より面白く芝居を堪能できる。劇団唐ゼミの公演は、そのことをあらためて教えてくれた。
戯曲を素直に読めば、水島カンナは太平洋戦争より前の時代に、女衒事業家・村岡伊平治によってカンボジアのバッタンバンに連れて来られた女郎マサノの子である。マサノは駆け落ちで死亡、その遺体は行李に入れて日本に送付される。死に瀕したマサノから生まれた子が水島カンナで、母の遺体と共に行李で日本に送られてきたという。生きているのがおかしいし、水島の妻でもあり得ない。
水島カンナが使っている定期券は「錦糸町―鶯谷、水島カンナ、29歳」とあり、発行日は昭和32年となっている。「今は昭和32年ではないっ!」という台詞(初演は昭和48年)もある。期限切れの定期を使い続け、それをお守りのように保持している彼女の姿は、現世に生きていない存在の暗示なのだ。
この芝居は、ビルマ戦線で果てて「白骨街道」となった死者たちに、それ以前の時代にバッタンバンで果てた多くの女郎(ラシャメン)たちを重ねている。むしろ、後者がメインかもしれない。
唐十郎はト書きにとんでもない表現を書き込むことがある。『ベンガルの虎』冒頭のト書きは次のように始まる。
「死んだものは今、いずこなる河をさまよっているのだろう。黄泉の国にたどりついたか。否、土の中で未だに熟れた森の夢を見つづける。息をふさがれ、思い出ばかりをかみしめる。そして、思い出も又、死臭をあげるのだ。ここは一つの町。それでいて水の底。舞台は水に悩まされる東京下町。(…)」
舞台上での朗読を聞きたくなるようなト書きだ。
劇団唐ゼミは20年前から青テント公演を続けてきたが、テントの老朽化のため今回が最後の青テント公演だそうだ。今後の活動形態をあらためて検討するらしい。
『ベンガルの虎』の初演は1973年の状況劇場の紅テント、私はおそらくこの初演を観ているが記憶が定かでない。5年前に観た新宿梁山泊の紫テント公演『ベンガルの虎』は憶えている。風間杜夫が72歳でテント芝居に初出演した。『ベンガルの虎』は『唐版・ビルマの竪琴』とも呼ばれる作品で、日本兵の遺骨が眠る「白骨街道」がキーワードのひとつだ。
今回の観劇に先立って戯曲をあらためて読み返し、劇団唐ゼミのホームページで中野敦之氏の解説などもチェックした。横国大の唐ゼミの門下生・中野氏の戯曲の読みは深い。教えられる点も多い。
今回の公演のチラシには多少の違和感をおぼえた。軽妙でコミカルなタッチが「白骨街道」にそぐわない。「君、ホントに生キテル?」というコピーも意味不明に思えた。だが、中野氏の解説を参照しながら戯曲を読んでいるうちに、このチラシは中野氏の「読み」を反映していると思えてきた。
唐十郎の世界は重層的で夢幻的だが、いじましくてコミカルな面もある。ビルマに残った水島が供給する白骨を素材に、帰国した隊長たちが東京下町でハンコ屋を営んでいるという話はいじましくてコミカルだ。
この芝居のヒロイン・水島カンナは、初演時に唐十郎が李礼仙にアテ書きしたと思われる魅力的な役だ。ビルマに残って僧形で遺骨を弔うあの水島の妻という設定である。チラシにある「君、ホントに生キテル?」の「君」は水島カンナを指している。これは、私にとっては大きな発見だった。
唐十郎世界で登場人物たちが時間や空間を超えるのは珍しくない。その人物が生きているのか死んでいるのか定かでない場合もある。今まで、そんな異世界を漫然と受け容れながら観劇を楽しんできた気がする。だが、作者は自由奔放に時空を超えているのではなく、作劇には論理的とも言える必然があり、それを見通せば、より面白く芝居を堪能できる。劇団唐ゼミの公演は、そのことをあらためて教えてくれた。
戯曲を素直に読めば、水島カンナは太平洋戦争より前の時代に、女衒事業家・村岡伊平治によってカンボジアのバッタンバンに連れて来られた女郎マサノの子である。マサノは駆け落ちで死亡、その遺体は行李に入れて日本に送付される。死に瀕したマサノから生まれた子が水島カンナで、母の遺体と共に行李で日本に送られてきたという。生きているのがおかしいし、水島の妻でもあり得ない。
水島カンナが使っている定期券は「錦糸町―鶯谷、水島カンナ、29歳」とあり、発行日は昭和32年となっている。「今は昭和32年ではないっ!」という台詞(初演は昭和48年)もある。期限切れの定期を使い続け、それをお守りのように保持している彼女の姿は、現世に生きていない存在の暗示なのだ。
この芝居は、ビルマ戦線で果てて「白骨街道」となった死者たちに、それ以前の時代にバッタンバンで果てた多くの女郎(ラシャメン)たちを重ねている。むしろ、後者がメインかもしれない。
唐十郎はト書きにとんでもない表現を書き込むことがある。『ベンガルの虎』冒頭のト書きは次のように始まる。
「死んだものは今、いずこなる河をさまよっているのだろう。黄泉の国にたどりついたか。否、土の中で未だに熟れた森の夢を見つづける。息をふさがれ、思い出ばかりをかみしめる。そして、思い出も又、死臭をあげるのだ。ここは一つの町。それでいて水の底。舞台は水に悩まされる東京下町。(…)」
舞台上での朗読を聞きたくなるようなト書きだ。
ライブハウスの芝居で筒井康隆の先見性を感じた ― 2026年10月09日
南青山のライブハウスMANDALAで筒井康隆の『如菩薩団』が原作の芝居『やむなしぃ~』(翻案・演出:小川結子、出演:市川恭之介、太田旭紀、堤和悠樹、寺村恵理加、ばばゆりな、丸山夏歩、髄、小川結子)を観た。筒井康隆の傑作短編の舞台化だと知ってチケットを手配した。私には未知の若い人々による作品である。
前半は音楽ライブで、芝居のテーマソングを含めて3曲の演奏があった。ワインを飲みながら演奏を聞いているとまさにライブハウス気分になる。続いて同じメンバーによる芝居が始まった。ライブハウスだから舞台装置はない。8人の役者たちは、パイプ椅子、ハンガー、ハンガーラックなどを駆使して、ステージだけでなくフロアや通路で芝居を展開する。テント芝居とは違う臨場感がある。
『如菩薩団』とは中流家庭の上品な主婦たちによる強盗団である。昼間、PTA役員を装って高級邸宅に入り込み、女主人や女中を縛り上げ、現金・食品・下着などを盗む。宝石などの高級品には手を出さない。足がつくからだ。つましい物品や現金を、家計の足しにするために8人で山分けにするだけである。口封じのため女主人や女中は殺す。何度も繰り返しているので殺人技術は鮮やかだ。コスパの悪い殺人に思えるが、ペイする殺人があるわけでもない。印象に残る怖い短編である。
『如菩薩団』の舞台化で『やむなしぃ~』と名付けたのは、やむを得ない犯罪の含意だろう。テーマソングを聞くと「やむことがない」の意味も含めているようだ。若い役者やミュージシャンたちがこの芝居を演じるのは、やはり現代にマッチしていると感じたのだと思う。舞台を観ながら、あらためて筒井康隆の先見性に思い至った。
筒井作品にはネットやメディアの現状を予見したような『48億の妄想』『おれに関する噂』などがある。『如菩薩団』も、中流層の貧困化と格差拡大、トクリュウなどの現状を予見した作品に見えてくる。
前半は音楽ライブで、芝居のテーマソングを含めて3曲の演奏があった。ワインを飲みながら演奏を聞いているとまさにライブハウス気分になる。続いて同じメンバーによる芝居が始まった。ライブハウスだから舞台装置はない。8人の役者たちは、パイプ椅子、ハンガー、ハンガーラックなどを駆使して、ステージだけでなくフロアや通路で芝居を展開する。テント芝居とは違う臨場感がある。
『如菩薩団』とは中流家庭の上品な主婦たちによる強盗団である。昼間、PTA役員を装って高級邸宅に入り込み、女主人や女中を縛り上げ、現金・食品・下着などを盗む。宝石などの高級品には手を出さない。足がつくからだ。つましい物品や現金を、家計の足しにするために8人で山分けにするだけである。口封じのため女主人や女中は殺す。何度も繰り返しているので殺人技術は鮮やかだ。コスパの悪い殺人に思えるが、ペイする殺人があるわけでもない。印象に残る怖い短編である。
『如菩薩団』の舞台化で『やむなしぃ~』と名付けたのは、やむを得ない犯罪の含意だろう。テーマソングを聞くと「やむことがない」の意味も含めているようだ。若い役者やミュージシャンたちがこの芝居を演じるのは、やはり現代にマッチしていると感じたのだと思う。舞台を観ながら、あらためて筒井康隆の先見性に思い至った。
筒井作品にはネットやメディアの現状を予見したような『48億の妄想』『おれに関する噂』などがある。『如菩薩団』も、中流層の貧困化と格差拡大、トクリュウなどの現状を予見した作品に見えてくる。








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