那覇の小劇場で基地問題テーマの芝居を観た2024年03月04日

 那覇市安里の「ひめゆりピースホール」という小さなホールで『カタブイ、1995』(脚本・演出:内藤裕子、出演:新井純、花城清長、馬渡亜樹、高井康行、稀乃、宮城はるの)という芝居を観た。

 このホールでの観劇は、昨年10月の『カフウムイ』以来2回目だ。私はこの数年、年2回約2週間ずつ沖縄で過ごしている。沖縄滞在のスケジュールに合致したので観劇した。

 『カタブイ、1995』は3月中旬に下北沢の小劇場で上演予定で、それを紹介する朝日新聞(2024.2.22夕刊)の記事で那覇上演を知った。その記事によって、米軍基地問題テーマのややシリアスな芝居だろうと予測した。「カタブイ」とはスコールのことで「片降い」と書く。プロパガンダ演劇は苦手だが、それを超える面白さがあるかもしれないと思い、劇場に足を運んだ。

 脚本・演出の内藤裕子氏は沖縄出身者ではない。沖縄での取材を重ね、沖縄の本土復帰テーマの3部作を書き下ろし、本作が2作目だそうだ(本作以前に『カタブイ、1972』を上演)。

 時代は1995年、反戦地主だった父が亡くなった直後の女性3代の家族の物語である。亡くなった父を含めると、曾祖父、祖母、母、娘の4代になる。祖母は元教師、母は教師、娘は中学生で、この家には父が残したサトウキビ畑がある。その刈り入れは大変な作業である。1995年2月、母と同世代の男が東京から訪ねて来る。復帰前の学生時代に援農でサトウキビ刈りに来ていた男で、かつては母と恋仲だったらしい――という導入である。(どうでもいい話だが、この母と男は私とほぼ同世代だ)

 この芝居には日本国憲法、日米安保条約、日米地位協定の条文を朗読するシーンが挿入されていて、普段は読むことのないその内容をあらためて認識させられる。1995年の米兵による少女暴行事件をきっかけに高揚した反基地運動、太田知事の代理署名拒否などを背景にして、約30年前の同時代史がよみがえってくる。

 第3作目は、おそらくこの家族の現在を描くのだろうが、その後の歴史を知っているので苦い思いになる。芝居のなかで最も印象に残ったのは、中学生の娘が三線を奏でながら歌う民謡である。よく通る高音が時代を貫く人々の思いの表出になっている。

『物語としての旧約聖書』の読み解きが興味深い2024年03月02日

『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)
 『ビジュアル版 聖書物語』に続いて次の関連書を読んだ。今年1月に出た新刊である。

 『物語としての旧約聖書:人類史に何をもたらしたか』(月本昭男/NHKブックス)

 私には本書はやや専門的に感じられた。読者が旧約聖書の内容をある程度把握していることを前提にしているように思える。旧約聖書の多様な解釈にウエイトを置いた本である。私は『聖書物語』を読んだばかりだったおかげで、何とか興味深く読了できた。

 天地創造から楽園追放、ノアの洪水、アブラハム、出エジプトを経てカナン定住に至るまでの物語とその解釈が、特に面白かった。

 アブラハムが神から愛児イサクを犠牲に献げと命じられて応じる話は、普通に考えれば奇怪である。著者は、この話がどのように解釈されてきたかをいろいろ紹介している。キルケゴールの「そのような不条理を『おそれとおののき』をもって受けとめること、そこにこそ神信仰の本質がある」という見解には「へぇー」と感心した。不条理の哲学だろうか。理解できたわけではない。

 出エジプトが史実かどうかは不明だが、その後、イスラエルの民は「約束の地」カナンに定住する。「約束の地」と言ってもそこには先住者がいるのだから穏当ではない。旧約聖書の記述からは「軍事征服説」と「平和浸透説」の二つの解釈が成り立つそうだ。その他に社会学的視座から、貧農層が都市支配から「引き揚げた」という説や貧農層が「反乱」したという説もあるそうだ。

 旧約聖書にたたみこまれているもの、反映されている「何か」を読み解く話はスリリングで面白い。

 本書を読んで、私の印象に残った旧約聖書の性格は次の三点である。

 ・唯一神への信仰を強く主張している
 ・歴史観は因果応報思想である
 ・記述には矛盾も多く複眼的である

 著者が述べているように、オリエントの強大国に翻弄され続けた弱小の民が残した旧約聖書が後世のキリスト教やイスラム教を生み出すことになるのは逆説的な現象である。その不思議に感慨をおぼえざるを得ない。

『聖書物語』(木崎さと子)は神へのツッコミが面白い2024年02月29日

『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)
 先日、『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか』を読み、自分が旧約聖書について無知だと認識し、かなり以前に入手したまま未読だった次の本を読んだ。

 『ビジュアル版 聖書物語』(木崎さと子/講談社)

 文学者の視点で聖書の内容を物語風に紹介した本である。前半の約三分の二が旧約聖書、後半の約三分の一が新約聖書だ。著者は1939年生まれの芥川賞作家、43歳でカトリックの受洗をしている。

 聖書は超有名本だから目を通しておかねばと若い頃から思っていた。旧約の『創世記』『出エジプト記』、新約の『マタイ伝』だけは読んでいるはずだが、内容をよくおぼえていない。齢を重ね、いまさら聖書に取り組もうという気力は失せ、木崎氏の『聖書物語』が手頃と思って入手したのが数年前。それをやっと読了したのである。

 私にとって旧約聖書のイメージは、小学生の頃に観た映画『十戒』のモーゼである。だが、あれは旧約のほんの一部に過ぎず、旧約の大半はおよそ千年にわたるイスラエル人の歴史を延々と語っているようだ。

 本書を読んでいて、旧約のどこが「聖書」なのだろうという気がした。ありがたい教えを説いている書とは思えないのである。そこに面白さがあるのかもしれない。

 旧約は史書ではなく伝説の集成に近く、人類の愚行を言い伝える書のように思える。その愚行はかなりゴチャゴチャしていて、頭に入りにくい。ざっくり言えば、人間は神への信仰と裏切りを繰り返し、神はそんな人間を懲らしめることを繰り返しているのである。

 著者はキリスト教徒ではあるが、本書では神に対するかなり辛辣なツッコミが随所にある。聖者や預言者たちの言動に現代人の感覚から違和感を表明している箇所もある。私には、そんなところが面白かった。

 後半の新約聖書はイエスの伝記という体裁で、かなりすっきりしていて読みやすい。個別の福音書それぞれを解説するのではなく、「マタイ」「マルコ」「ルカ」および「ヨハネ」による福音書をベースに、イエスの生誕から復活までの言動を解説し、それぞれの福音書における表現の違いを指摘している。初心者に親切な解説だ。

 新約聖書はイエスの復活で終わるのではなく、その後のパウロによる宣教の旅があり、さらにはヨハネの黙示録もある。これらも簡潔に解説していて、なるほどと思った。

 本書を読んで、私が何となく知っている故事や格言の多くが聖書由来だと知った。西欧キリスト教文化圏の人々の思考のベースを把握するには、旧約聖書・新約聖書の基本的な知識が必須だとあらためて認識した。

映画『PERFECT DAYS』の主役は公共トイレか?2024年02月27日

 役所広司がカンヌ国際映画祭主演男優賞を受賞して話題になった映画『PERFECT DAYS』(監督:ヴィム・ヴェンダース)を観た。公共トイレ清掃員の日常を淡々と描いた映画と聞いていたので、観る前から一定のイメージが頭の中にあった。そのイメージからさほど逸れない想定通りの映画だった。

 一人暮らしの中年のトイレ清掃員の早朝の目覚めで映画は始まる。朝のルーティンを経て軽のワンボックスカーで現場に出勤、いくつかのトイレの清掃を終えて帰宅し、自転車で開店直後の銭湯に行って湯に浸かり、小さな居酒屋で軽く一杯飲む。帰宅後、就寝前に布団に寝そべったまま少々の読書、やがて本を閉じて消灯、眠りにつく。

 そんな日常の繰り返しを表現するだけで映画になるのかと心配になる。小さな出来事はいろいろあっても、物語が展開されるわけではない。でも、退屈することなく観終えた。人生とは小さな出来事の繰り返し――という当然のことを突き付けられ気分になる。

 この映画で驚いたのは、公共トイレが綺麗なことである。どれもデザインが凝っている。主役はこれらの公共トイレかもしれない。

今年は安部公房生誕100年2024年02月25日

 『芸術新潮 2024年3月号』は安部公房特集である。表紙に「生誕100年記念特集 わたしたちには安部公房が必要だ」とある。私は安部公房ファンだった。全集も購入した。だから、この雑誌をすぐに購入した。

 安部公房の作品はほぼすべて読んでいるはずだが、この10年、再読はしていないと思う。だから、現在も安部公房ファンかは微妙である。一昨年出た『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』(ヤマザキマリ)などは面白く読んだ。私にとって気がかりな作家であり続けているのは確かだ。

 『芸術新潮』の安部公房特集は約60ページ、雑誌の半分を占めている。解説記事の他に安部公房のエッセイ6編を収録、関連写真も多数載っている。安部公房自身が撮影した『都市を盗る』と題する写真もある。どれも私には懐かしい写真ばかりで、久々に安部公房世界に浸った。

 この特集に接して、都市という状況への安部公房のこだわりをあらためて認識した。先日、『箱男』映画化の新聞記事を読んだ。この特集には、その映画の石井岳龍監督のインタビュー記事も載っている。すでに映画は完成し、公開準備中のようだ。

 10年前、山口果林の『安部公房とわたし』を読んだとき、『箱男』を再読せねばと思った。だが、果たしていない。映画を観る前には再読したい。生誕100年をむかえ、安部公房への注目が集まればうれしい。いずれ、再挑戦したい作家である。

鄭義信演出の『欲望という名の電車』は関西弁だった2024年02月12日

 新国立劇場中劇場でテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』(翻訳:小田島恒志、演出:鄭義信、出演:沢尻エリカ、伊藤英明、他)を観た。沢尻エリカ、4年ぶりの復帰作である。彼女は初めての舞台出演だそうだ。

 『欲望という名の電車』の主役ブランチと言えば、半世紀以上昔の杉村春子を連想する。当時、高校生だった私は新聞の紹介記事を読んだだけで、舞台は観ていない。本日(2024年2月12日)の朝日新聞朝刊の文化面には栗原小巻がブランチを演じた回想を語っている。私は6年前に大竹しのぶのブランチを観た。ブランチは、多くの女優たちが演じたいと思う役なのだと思う。

 沢尻エリカのブランチは、初舞台とは思えない堂々たる演技だった。やや滑稽な面を含めて主演女優の風格を感じた。

 この芝居はニューオリンズの貧民地区にあるアパートが舞台である。「『欲望』という名の電車」に乗ってこの町にやって来たブランチは、駅からスーツケースを抱えて徒歩で登場する。舞台上に電車が出現するわけではない。ところが、今回の舞台上にはレールが横切っていて、下手はトンネルになっている。驚いた。

 芝居が始まってすぐ、このレールはリアルなレールではなく、役者たちが出入りするシンボルだとわかる。で、ブランチの登場シーンが度肝を抜く。大きなスーツケースを抱えて登場するのではなく、巨大な箪笥のような物体をレールの上で押したり引いたりしながらトンネルから出て来るのである。この非現実的な情景がコメディを予感させる。

 ブランチと妹のステラ以外の登場人物の台詞が関西弁になっているのもユニークだ。トンネルからは古いミゼット(三輪の軽自動車)も登場する。ニューオリンズが大阪の下町と融合する。この情景には既視感がある。同じ鄭義信演出の『てなもんや三文オペラ』だ。あの舞台にも古いミゼットが登場した。

 邪魔で不思議なレールが横切る舞台上では、沢尻エリカの女王様世界と関西弁エネルギーの世界がぶつかりあってもつれあう。高いテンションが持続する芝居だった。

バビロニア捕囚が聖書とユダヤ人を作った……2024年02月10日

『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか:バビロニア捕囚』(長谷川修一/世界史のリテラシー/NHK出版)
 NHK出版から「世界史のリテラシー」というシリーズが刊行されている。教養番組のテキストのような形のムックである。そのなかの一冊を読んだ。

 『ユダヤ人は、いつユダヤ人になったのか:バビロニア捕囚』(長谷川修一/世界史のリテラシー/NHK出版)

 薄い本だから集中すれば1日で読めると思っていたが、想定外に時間がかかってしまった。半分近くまで読んで、雑事にかまけて数日おいて再開しようとしたが、それまで読んだ内容が頭から消えかかっていた。頭に入ってなかったのだ。仕方なく、最初から読み返した。

 著者は、ユダヤ人のアイデンティティの源泉はバビロニア捕囚にあるとし、バビロニア捕囚とは何であったかを追究している(バビロン捕囚でなくバビロニア捕囚なのは歴史学的な視点)。

 本書が私にとって読みやすくなかったのは、旧約聖書の内容をほとんど知らないからである。登場する人物にも馴染みがない。古代オリエント史やバビロニア捕囚の概要は把握しているつもりだったが、旧約聖書はきちんと読んでいない。

 旧約学の専門家である著者は、本書において「旧約聖書」を「ヘブライ語聖書」と記述している。より中立的だからだ。確かに「旧約」という呼び方はキリスト教の視点だ。「新約」も「ギリシア語聖書」と呼ぶ方がいいかもしれないが、キリストがギリシア語を話したわけではないし……。

 紀元前6世紀、ユダヤ人が南レヴァント(パレスチナ)の故地からバビロニア(現在のイラク)へ移住させられたというバビロニア捕囚という出来事について、同時代史料は少ないそうだ。バビロニア捕囚を詳しく述べているのはヘブライ語聖書である。

 しかし、聖書の内容をそのまま史実と見なすことはできない。聖書を史料として参照するには史料批判が必要である。聖書の記述の背後にどんな史実があったかを、他の史料や考古学上の発見と突き合わせて推測するのだ。本書からは、聖書の史料批判的な読み方の面白さが伝わってくる。

 征服者が支配地の住人の一部を強制的に移住させるのはよくある話で、バビロニア捕囚という出来事は古代オリエント史においてワン・オブ・ゼムの小事件に過ぎない。この2500年以上前の小事件が、現代にまで続く「ユダヤ人」を作ったそうだ。人間の集団が作り出す想像力の威力と、その持続力とをあらためて認識した。

『サピエンス全史』に対抗した『共感革命』は警世の書2024年02月05日

『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)
 前京大総長、ゴリラ学者・山極寿一氏の次の新書を読んだ。

 『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)

 ハラリは『サピエンス全史』において、人類の歴史は7万年前の「認知革命」で始動し、それに続く「農業革命」「科学革命」が歴史の道筋を決めたとした。巨視的でわかりやすい指摘だった。山極氏は本書において、「認知革命」以前に「共感革命」があり、「共感革命」こそが人類史上最大の革命だったとの説を展開している。

 人類の遠い祖先が二足歩行を始めたのは700万年前、ホモ・エレクトス(ジャワ原人、北京原人など)が180万年前、ホモ・サピエンスの登場は20~30万年前だ。7万年前に人類が言葉を話すようになって認知革命が始まる。数百万年、数十万年という単位で眺めると7万年前が最近に思えてくる。

 山極氏によれば、人類は7万年前に言葉を獲得するずっと以前からダンス、音楽、視線、遊戯などによるコミュニケーションができていて、共感力を基にした社会性を獲得していた。そのようにして作られた人間集団の適正サイズは150人程度だそうだ。

 ゴリラの研究をふまえた本書は、以前に読んだ『家族進化論』に通じる内容だが、霊長類学の研究報告というよりは現代社会への警世の書である。生物や自然に関する哲学的エッセイでもある。

 今西進化論や西田哲学を論じた第6章は、西欧的な自然観を乗り越える見解を提示している。私にはよくわからない点も多く、もう少し勉強が必要だと感じた。

 著者は、本書の冒頭近くで次のような極端な見解を表明している。

 「人類の間違いのもとは、言葉の獲得と、農耕牧畜による食料生産と定住にある。」

 文明の発生こそが人類の間違いだったと取れる。人類史を眺めれば文明が戦争を生んだのは確かであり、文明が人々に不幸をもたらしたとも言える。だが、文明以前にもどるのは無理だとも思う。

 ハラリは『ホモ・デウス』で、人類は戦争を克服するだろうと述べた。著者は、この予言が外れたと指摘したうえで、戦争は人間の本性ではないから克服できると主張している。「戦争は狩猟採集から農耕牧畜に切り替わろうという時代に始まったもので、人類の歴史の中でもきわめて新しいものだ」との見解が新鮮だ。

 本書は、著者なりの未来への処方箋を提起している。数十万年の歴史をふまえた大きな視点で眼前の現代社会の課題に警鐘を鳴らしているのだ。

福田善之92歳の新作芝居を観た2024年02月03日

 下北沢の駅前劇場でサルメカンパニー公演『文明開化四ッ谷怪談』(作:福田善之・井村昴、演出:石川湖太郎、出演:石川湖太郎、井上百合子、他)を観た。1月に予定していた観劇を急用でキャンセルしたので、今年初めて観る芝居だ。

 この芝居を観ようと思ったのは、新聞記事で92歳の福田善之の新作と知ったからである。半世紀以上昔の学生時代、福田善之という劇作家は気になる存在だった。しかし、その作品を観る機会がないままに時間が経過した。新聞記事で久々にこの劇作家の名に接したとき、時間の彼方から亡霊が現れたような驚きを感じた。

 それにしても、92歳での新作はスゴイ。それを上演するのがメンバー20代の若手劇団とは頼もしい。28歳の演出家と92歳の劇作家のコラボ――何だか、これからの時代の姿の何かを現しているように感じる。それは、私が高齢者だからか。

 この新作は西南戦争の頃を舞台に、変節・裏切り・大儀などのテーマを提起している。主人公の名は伊右衛門で、鶴屋南北の四谷怪談の伊右衛門の人物像を反映させている。この主人公は南北の四谷怪談のファンという設定だが、四谷怪談とはかなり違う物語になっている。幽霊も登場しない。幽霊が出てこないことろがミソになっている。

 戊辰戦争→西南戦争という歴史変動の時代に福田善之が体験した敗戦→戦後史と現代世界の状況を投影したような芝居だった。

父を語る娘たちの物語は面白かった2024年01月21日

『この父ありて:娘たちの歳月』(梯久美子/文藝春秋)
 女性の著名人たちが父をどのように語っているかを語った本を読んだ。

 『この父ありて:娘たちの歳月』(梯久美子/文藝春秋)

 日経新聞読書欄の連載記事をまとめたものだ。私は連載中に何篇かに目を通したかもしれないが、ほとんどスルーしていた。男性の私にとって、娘が語る父親像は何となく敬遠したくなる話題だった。本書はカミさんに薦められて仕方なく手にしたが、読み始めると面白く、短時間で読了した。月並みでアホな感想だが、人生いろいろ父娘もいろいろの感を深くした。

 本書が取り上げた9人の娘は以下の通りである。娘が語る父親には著名人もいれば無名の人もいる。家族模様も様々だ。

 娘・渡辺和子(修道女 1927-2016)――――――父・渡辺錠太郎
 娘・斎藤史(歌人 1909-2002)――――――――父・斎藤瀏
 娘・島尾ミホ(作家 1919-2007)―――――――父・大平文一郎
 娘・石垣りん(歌人 1920-2004)―――――――父・石垣仁
 娘・茨木のり子(詩人 1926-2006)――――――父・宮崎洪
 娘・田辺聖子(小説家 1928-2019)――――――父・田辺寛一
 娘・辺見じゅん(歌人・作家 1939-2011)―――父・角川源義
 娘・萩原葉子(小説家・随筆家 1920-2005)――父・萩原朔太郎
 娘・石牟礼道子(作家・詩人 1927-2018)―――父・白石亀太郎

 冒頭の2編は対になっている。渡辺和子の父・渡辺錠太郎は二・二六事件の際に和子の眼前で青年将校に射殺された教育総監である。斎藤史の父・斎藤瀏は歌人将軍と言われた軍人で、二・二六事件で叛乱軍を幇助したとして禁固刑に服している。被害者と加害者の娘二人はともに父を敬愛し、その思いは緊張感をはらんでいる。昭和史を色濃く反映した二つの家族の物語である。

 以下、7人の娘が描いた父親と家族の物語もそれぞれに面白い。娘が父を語る文章が面白いのは、敬愛と辛辣がないまぜになっていて、父親を描くことによって自身に父親像が反映されてくるからだろうと思う。

 先日読んだばかりの『隆明だもの』も娘が辛辣に父親を描いていて面白かった。かなり以前に読んだ『安部公房伝』も娘視点の伝記としての独特の面白さがあった。