ドストエフスキーをドスと呼ぶ軽妙なガイドブック2024年08月01日

『ひらけ!ドスワールド:人生の常備薬ドストエフスキーのススメ』(太田直子/AC Books/2013.11)
 『カラマーゾフの兄弟』を再々読した余波で、約10年前に購入したまま本棚で眠っていた次の本を読んだ。

 『ひらけ!ドスワールド:人生の常備薬ドストエフスキーのススメ』(太田直子/AC Books/2013.11)

 本書に言及したエッセイを新聞か雑誌で読み、面白そうだと思って購入した記憶がる。誰のエッセイだったかは覚えていない。

 ドストエフスキーの読みやすそうなガイドブックである。敷居が低そうな本なのに塩漬けになったのは題材がドストエフスキーだからだ。軽妙なガイドだとしても、あの重いドストエフスキーを読み返そうかなという気分にならなければ手が出にくかったのだ。

 著者は映画字幕翻訳者である。中学2年のときに『罪と罰』でドストエフスキーにハマり、大学ではロシア語を専攻、ロシア文学研究者をめざしたが挫折、映画字幕翻訳者になったそうだ。有名映画の字幕翻訳者である。ロシアで制作されたテレビドラマ『罪と罰』の日本語字幕は著者が担当したそうだ。

 本書はドストエフスキー入門書の体裁になっているが、すでにドストエフスキーの世界に浸ってしまった読者も十分に楽しめる。ドストエフスキーのディープな世界を軽妙な文体で紹介するのは至芸だ。著者はドストエフスキーとは表記せず簡略な「ドス」で通している。「ドスは毒である。だからこそしびれる。一度ハマったら一生抜けられない。」と語る著者のドス愛がひしひしと伝わってくる本である。

 私がドスにハマったのは半世紀以上昔の大学生時代だ。主要作品は大体読んだはずだが、未読の作品も少なくない。社会人になってからはドスの作品にはほとんど接していない。だが、後期高齢者になって『カラマーゾフの兄弟』を再々読したりするのだから、ドスから抜け切れてはいないようだ。

 本書は現在文庫で入手できるドスの全作品を紹介している。私の未読作品もあるが、題名だけ憶えていて内容を失念している小説が多い。著者の紹介文が魅力的なので、いずれ読み返したい気持ちになる。

 ドスの翻訳に関する著者の考察も面白い。『地下室の手記』の一節について米川正夫訳、江川卓訳、安岡治子訳、亀山郁夫訳を紹介している。原文で15単語から成るセンテンスを日本語に翻訳すると、いずれも2行の文になっている。それに対して著者による試訳は1行で、これが一番わかりやすい。見事な日本語だ。字数制限の世界に生きる「字幕屋」の実力に感服した。

 著者は字幕翻訳だけでなく、ドス作品の新訳に挑めばいいのに、と思いつつネット検索し、驚いた。2016年(本書刊行の3年後)に著者は56歳で亡くなっていた。カラマーゾフ第二部を書くことなく60歳で逝ったドスより早世だ。

イタリア海洋都市はビザンツやイスラムと近い2024年08月03日

『イタリア海洋都市の精神(興亡の世界史)』(陣内秀信/講談社学術文庫)
 先日読んだ『南イタリアへ!』の著者・陣内秀信氏の次の本を読んだ。

 『イタリア海洋都市の精神(興亡の世界史)』(陣内秀信/講談社学術文庫)

 20年近く前に出た講談社の歴史叢書『興亡の世界史』を文庫化した1冊である。本書が取り上げるイタリア海洋都市はヴェネツィア、アマルフィ、ピサ、ジェノヴァの4都市であり、その他の都市に簡単に触れている。

 著者は建築史・都市史を専攻するフィールドワークの研究者なので、本書は一般的な歴史概説書とは少し趣が異なる。都市史の概説というよりは歴史都市のディープな案内書である。イタリアの海洋都市には遺構や遺跡があると同時に、現代の都市の中に中世やルネサンスの姿がさまざまな形で残されている。だから、本書のようなアプローチが可能なのだろう。

 本書はヴェネツィアに3割強のページを割き、アマルフィに約四分の一のページを割いている。その他の都市への記述は相対的に簡略だ。私は10年以上昔に塩野七生氏の『海の都の物語:ヴェネツィア共和国の一千年』を読み、ヴェネツィア観光をしたこともある。今月末にはアマルフィ観光を予定している。だから、ヴェネツィアとアマルフィに関しては興味深く読めた。行ったことも行く予定もない都市に関するガイドは読み飛ばし気味になる。われながら現金な読書だと思う。

 本書によってあらためて感じたのは、イタリア海洋都市が東方の裕福なビザンツやイスラムと密接な関係にあったということである。それは、ローマ教皇とは一定の距離をとっていたということであり、宗教的なことよりは交易による利益を優先させたわけだ。合理的で健全な態度だと思う。もちろん、すべてが合理的で健全だったわけではないが…。

 17世紀から19世紀にかけてのグランドツアーの時代、アルプス以北の裕福な貴族の子弟にとってイタリアのローマやナポリは憧れのエキゾチックな旅行先だった。グランドツアーが古代ローマの魅力に関連しているとは認識していたが、本書によって、ギリシアへの憧れも関連しているとの認識を新たにした。

 グランドツアーの時代、ギリシアはオスマン帝国領で、アテネは容易に行ける都市ではなかった。南イタリアの都市の多くは、かつてはギリシアの植民都市で、その後、ビザンツ帝国の影響を強く受けた。南イタリアにはギリシアの姿が色濃く残っていた。旅行先としての南イタリアは、容易には行けないギリシアの代替でもあったのだ。

ナポリは妖しい魅力の都市のようだ2024年08月06日

『ナポリ:バロック都市の興亡』(田之倉稔/ちくま新書)
 ナポリという都市の歴史の概説書と思って、次の本を入手して読んだ。
 
 『ナポリ:バロック都市の興亡』(田之倉稔/ちくま新書)

 私が想定した概説書とは少し異なり、かなりマニアックな内容だった。著者は演劇評論家&大学教授である。冒頭から「プルチネッラ」というナポリの道化の話が続き、少々面くらった。だが、読み進めるにしたがって著者の世界に引き込まれ、面白く読了した。

 本書は18~19世紀のナポリを芸能・演劇という視点で描いている。ナポリという都市は、そんな視点でなければ捉えられない不思議な都市のようだ。本書の各章のタイトルは以下の通りである。

 第1章「迷宮都市」――プルチネッラの生きる街
 第2章「ピカレスク都市」――悪魔の住む天国
 第3章「芸能都市」―ベル・エポックの面影
 第4章「祝祭都市」――生と死の交錯
 第5章「オペラ都市」――サブ・カルチャーとしてのバロック精神
 第6章「歌謡都市」――羽ばたいた民衆エネルギー

 目次を一覧すれば、この都市の雰囲気が何となく浮かび上がってくる。私はオペラにもカンツォーネにも不案内である。だが本書によって、きらびやかで猥雑な未知の世界を垣間見た気分になった。ナポリを訪問したゲーテ、デュマ、スタンダールらの見聞記の紹介もあり、往時のナポリの姿を身近に感じた。

 「カストラータ」なる存在を本書で初めて知った。カストラータとは去勢した男性ソプラノ歌手のことである。天使のような清澄な声が人々を魅了し、教会の聖歌隊やオペラ座に多くのカストラータがいたそうだ。著者は次のように述べている。

 「ルネサンス文化が自然や調和を重んじたとすれば、バロック文化は人工性やデフォルメされた美を偏愛した。とするとカストラータ歌手はまさにバロック精神を実現したものなのである。バロック都市ナポリ、音楽都市ナポリでカストラータが育てられたのは、したがって必然性があった。」

 宦官は、中国・ビザンツ・イスラム諸国などにいたが、西欧世界は宦官を忌避していたと聞いていた。カストラータの存在を知ったのは、私には新鮮な驚きだった。

異色の新作歌舞伎『狐花』を観た2024年08月08日

 歌舞伎座で八月納涼歌舞伎第三部『狐花』(京極夏彦 脚本、今井豊茂 演出・補綴、出演:松本幸四郎、中村七之助、中村勘九郎、他)を観た。8月の歌舞伎座は三部制である。第三部は18時15分開演、21時23分終演(休憩30分)だった。

 京極夏彦氏が歌舞伎のために書き下ろした作品と聞き、一体どんな舞台になるのだろうとの関心からチケットを入手した。チラシには「ミステリーの鬼才・京極夏彦が書き下ろす新たな謎解き物語――」とある。傍題は「葉不見冥府路行(はもみずにあのよのみちゆき)」である。

 私は京極夏彦氏の小説を読んだことがない。友人から面白いと薦められて食指を動かしかけたことはあるが分厚さにメゲて手が出なかった。だから、京極ワールドを知らないまま観劇した。

 時代設定は江戸である。歌舞伎の雰囲気が多少はあるが、伝統歌舞伎とはかなり異なる演出で普通の演劇に近い。台詞もわかりやすい。あの大きな舞台全体に広がる火事のシーンの迫力にはうっとりした。前半は幽霊話の怪奇芝居のように感じられ、話の流れがつかみにくい。

 だが、後半になって面白くなった。幽霊話と見せかけたミステリーという謎解きになり、しかも、いかにも歌舞伎っぽい因縁話の開陳になる。そして、終盤は妙に現代的でもある。多様な舞台展開だ。

 狐花とは彼岸花のことである。この花には死人花、幽霊花、火事花などの多様な名がある。彼岸花の妖しく多様な美しさが全編にあふれる舞台だった。

8角柱8本の舞台が象徴的な『破門フェデリコ』2024年08月10日

 PARCO劇場で『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』(作:阿部修英、演出:東憲司、出演:佐々木蔵之介、上田竜也、那須凜、栗原英雄、六角精児、他)を観た。

 私は「世界の驚異」と呼ばれた神聖ローマ皇帝フェデリコ(フリードリヒ)2世に関心がある。2カ月前には『フリードリヒ2世』(藤澤房俊)を読み、『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生)を再読した。この皇帝を扱った「エルサレム和平・若き皇帝の決断」という番組を20年前にNHKが放映したと知り、昨年になってオンデマンドで視聴し、関連書も読んだ。

 そして、今年になってNHKBSで『パクス・ヒュマーナ:平和という“奇跡”』というドキュメンタリーを観た。第6回十字軍でエルサレムを無血開城したフェデリコ2世に焦点を当てた番組である。ナビゲーターの佐々木蔵之介が、フェデリコ2世が建てた8角形の城(カステル・デル・モンテ)を訪ね、往時の業績を偲ぶ内容だった。私は今月末、南イタリア旅行に行きカステル・デル・モンテを訪れる予定である。旅行を決断した要因のひとつはこの番組だった。

 だから、佐々木蔵之介主演の『破門フェデリコ』という芝居が上演されると知ったときは驚いた。南イタリア旅行の前に観劇したいと思ったが、すでに前売券は完売だった。しかし、何とか当日券をゲットし、昨日(2024.8.9)観劇できた。

 芝居のパンフレットによって、作者の阿部修英氏(テレビマンユニオン)は『パクス・ヒュマーナ:平和という“奇跡”』(2024.2.23初回放送)のディレクターだと知った。あの番組はこの芝居の企画と並行して制作したようだ。戦争の時代を終わらせて平和を希求するという理念は、番組にも芝居にも色濃く反映されている。

 『破門フェデリコ』は、私が想定した内容とは少し違っていた。史実をふまえてはいるが、メッセージ性の強い芝居になっている。大胆なデフォルメこそが演劇の魅力である。

 息子ハインリヒ(上田竜也)の造形は私の意表をついた。父親の器量を理解できないがゆえに教皇に利用され、反乱を起こして敗れ、目をつぶされ、後に崖から身を投げて果てた王子である。この芝居では、ハインリヒにかなり重要な役割を与えている。こんな描き方もあるのかと感心した。

 教皇グレゴリウス(インノケウス3世、ホノリウス3世も融合:六角精児)のコミカルかつ悪辣な姿は、現代世界にまで続く人類の愚かさを体現しているように見える。

 あの8角形の城カステル・デル・モンテは、この芝居全体の象徴的な背景になっている。舞台装置は高さの異なる8本の8角柱がメインである。かなりシンプルだ。8本の8角柱を自在に動かしながら芝居は進行する。

 フェデリコとカーミル(イスラムのスルタン:栗原英雄)との8角形をめぐる書簡の応酬は秀逸で面白い。6角形は自然、8角形は人工という見解を、この芝居で初めて知った。8角形は理性という人類の希望のシンボルかもしれない。

4年前に買った『南イタリア周遊記』をあわただしく読了2024年08月12日

『南イタリア周遊記』(ギッシング/小池滋訳/岩波文庫)
 4年前に予定していた南イタリアの古跡巡りがコロナで中止になり、今月末に南イタリア観光に行くことになった。先月始め、4年前の旅行準備で購入したまま未読だった 『南イタリアへ!』(陣内秀信)を読んだ。他にも未読の準備本があった。

 『南イタリア周遊記』(ギッシング/小池滋訳/岩波文庫)

 未知の著者の本である。タイトルだけで購入したのだと思う。旅行前の今を逃せば読むことはないと思い、あわただしく読了した。

 ギッシングは19世紀末のイギリスの作家で、本書は1987年の南イタリア周遊の記録である(刊行は1901年)。訳者は巻末の解説で著者を「日本でポピュラーな作家とは義理にも言えない」と紹介している。

 17世紀から19世紀初頭にかけて、イギリスの貴族の子弟たちのグランドツアー(フランスやイタリアへの贅沢な卒業旅行?)が流行する。本書もそんなグランドツアー旅行記かと思ったが、そうではなかった。著者はさほど裕福でもない作家のようだ。訳者は解説で次のように述べている。

 「一生を通じて現実生活の苦しみに苛まれ続けたギッシングにとって、わずかな慰安は少年の頃から古典文学を通して憧れていた、古代文明の故卿ギリシャとイタリアであった。」

 本書のメインは南イタリアのタラントからレッジョまでの旅である。イタリア半島を足に例えれば、土踏まずのカカト寄り地点からつま先までの足裏沿いの旅になる。この時代、タラントからレッジョまでは鉄道が通っている。だが、最寄り駅から目的地までは馬車になる。この「足裏」地域はかなりの田舎であり、イギリスからわざわざ訪れる旅行者はほとんどいない。古跡巡りという著者の目的は現地の人々にはなかなか理解されない。

 ギッシングの旅程は、4年前に予定していたディープな古跡巡り(前田耕作先生と巡る古代史の旅 南イタリア11日間)と重なる部分がある。だが、今回の南イタリア観光とはまったく重ならない。現在でも「足裏」地域まで行く観光客は少ないのだと思う。だから、本書は今回の旅行準備とはならなかった。

 とは言っても、イギリス人旅行者の見た19世紀末の南イタリアの光景は興味深い。イタリアのリソルジメントを遠景とした南イタリアの田舎の実態を多少は感じことがるできた。

『朝日のような夕日をつれて2024』に驚いた2024年08月15日

 紀伊國屋ホールで『朝日のような夕日をつれて2024』(作・演出:鴻上尚史、出演:玉置玲央、一色洋平、稲葉友、安西慎太郎、小松準弥)を観た。

 私は鴻上尚史氏のエッセイはいくつか読んでいるが、芝居を観たことはない。『朝日のような夕日をつれて』という芝居の題名は聞いていたが、どんな内容かはまったく知らなかった。その有名作が上演されると知り、これまで縁がなかっった鴻上演劇を覗いてみたくなった。

 観劇後の感想は「驚いた」である。役者5人が高いテンションの早口で休憩なしの2時間しゃべり続ける。謳い続けるといった方が適切かもしれない。ストーリーは飛躍と錯綜に満ちている。内容はよくわからなかったが、男優5人の奮闘と芝居のエネルギーに圧倒された。

 『朝日のような夕日をつれて』は『第三舞台』の旗揚げ公演(1981年)作品で、鴻上尚史氏が22歳の時に初めて書いた戯曲である。その後、何度も上演を繰り返し、時代に合わせて改変してきたそうだ。今回の上演は2024年版である。

 冒頭では、チャットGTP、イーロンマスク、フェイスブックなどの言葉が飛び交い、ファイブGに関するギャグも登場する。鴻上氏より10歳上の高齢者である私にとっては、眩暈がしそうな展開だ。

 倒産の危機に瀕している玩具会社の話だと思って観ていると、なぜか『ゴドーを待ちながら』が浸透してくる。ゴドーも登場する。正確には、玩具会社の社員がゴドーに変異する。不条理劇というよりは、多重世界を詩的に謳いあげるような芝居だった。

『デ・キリコ展』で感じたこと2024年08月17日

 東京都美術館で開催中の『デ・キリコ展』を観た。キリコは昔から気がかりな画家だった。子供時代に何かの本で見た『通りの神秘と憂愁』の強烈な印象はいまも残っている。無人の街に輪回しの少女の影が走る不気味な絵である。この絵でキリコに惹かれた人は多いと思う。今回の『デ・キリコ展』にこの絵は来ていない。

 私は半世紀前の1973年、『デ・キリコによるデ・キリコ展』を神奈川県立近代美術館で観ている。キリコが亡くなったのは1978年(享年90歳)だから、あの展覧会当時、キリコは85歳で存命だった。今回の『デ・キリコ展』に行く前に往時の図録をひもとき、記憶を多少は呼び戻せた。半世紀前のキリコ展の印象は「何だかなあ」という失望に近かった。

 キリコと言えば超現実的で静謐な情景を描く画家と思っていたが、超現実的な絵画は初期作品だけで、その後はフツーの古典的画風になる。そして晩年になると、初期の超現実絵画を稚拙に模倣したような作品になる。そんな変遷を観て無残な気分になった。

 だが、今回の『デ・キリコ展』では、私の感じ方がかなり変わった。キリコの全体像が肯定的なイメージに転換したのだ。事前にムック本やネットの動画解説などでキリコの生涯に関する知見を収集し、画風の変遷が自然で必然的な推移に思えてきた。私が齢を重ねたせいで、高齢者への評価が甘くなってきたのかもしれない。

 キリコは初期の形而上絵画の自己複製を生涯にわたって繰り返したそうだ。模倣でなく複製である。当初は「シュルレアリスム宣言」のブルトンの依頼に応えた複製だった。ブルトンと訣別してからも続けた複製は、初期の形而上絵画のみを評価するブルトンらへの批判的対抗意識のあらわれのようにも思える。

 絵画は一点物であるがゆえに価値が高いと見なすのは、おかしなことかもしれない。画家が依頼に応じて自己の作品を複製するのは、おかしな価値観への抵抗とも考えられる。自身の画風の変遷と並行して初期作品を複製するのは、精神の自由度が広がった証でもある。変遷とは経験を積み重ねていく拡大である。

 晩年の新形而上絵画を稚拙な自己模倣と見なすのは軽率であり、ポップでのびやかな老境の反映なのだと思う。年を取ると怖いものがなくなるのである。バイデンのようなボケかたはハタ迷惑だが……。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世あれこれ復習2024年08月19日

『物語イタリアの歴史』(藤沢道郎/)、『神聖ローマ帝国』(菊池良生)、『文明の道(4) イスラムと十字軍』
◎フェデリコ? 誰やねん?

 先日観た芝居『破門フェデリコ~くたばれ!十字軍~』のパンフレットに、作者・阿部修英氏が「ただこのフェデリコ。日本では正直『誰やねん』。」と書いていた。その通りだと思う。私がこの皇帝の名を知ったのは約10年前、60歳を過ぎてからだ。

 神聖ローマ皇帝フリードリヒ(フェデリコ)2世に関する一般書はさほど多くはない。私が読んだ評伝は次の2冊である。

 『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』(塩野七生/2013.12)
 『フリードリヒ2世』(藤澤房俊/2022.3)

 前者は歴史小説、後者は研究者による評伝である。どちらもこの皇帝を高く評価しているが、内容は多少食い違っている。前者がフリードリヒを「政教分離」「法治国家」という近代的概念を追究したルネサンスの先駆者と見なしているのに対し、後者はあくまで中世という時代の枠内で活躍した皇帝としている。

 日本人にとっては『誰やねん』状態のフリードリヒ2世が、歴史概説書ではどのように描かれているか、わが身辺のささやかな資料を再確認した。というか、昔読んだ本の内容を失念しているから、パラパラと読み返してみたのである。

◎高校世界史では…

 まず、高校世界史だ。教科書に載っている用語すべてを収録した『世界史用語集』(山川出版社)には、次の簡潔な解説が載っている。

 「フリードリヒ2世 1194~1250 神聖ローマ帝国皇帝(在位1215~50)。シチリア王を兼ね、外交交渉でイェルサレムを回復して地中海に支配権を確立した。

 高校世界史はこの皇帝を無視しているわけではない。

◎世界史シリーズ本では…

 続いて、世界史シリーズ『大世界史』(全26巻/文藝春秋)、『世界の歴史』(全30巻/中央公論社)、『週刊朝日百科 世界の歴史』(全26巻)の西欧中世の巻を確認した。いずれも、かなり昔の本だ。

 『中世の光と影(大世界史 7)』(堀米庸三/1967.12)は、外交交渉で一時エルサレムを回復したフリードリヒ2世の十字軍を、破門中の皇帝の仕事であるがゆえに「十字軍と名づけてよいかどうかも疑わしい」と述べている。人物像については「その性格は、彼の同時代の君主中まれにみる学殖とともに、謎につつまれた部分が少なくない」とし、ブルクハルトの「中世における最初の近代人」という言葉を紹介している。

 『西ヨーロッパ世界の形成(世界の歴史 10)』(佐藤彰一、池上俊一/1997.5)は社会史にウエイトを置いた概説書で、エルサレム無血回復には触れていない。教皇側の視点で「フリードリヒ2世の領土的野心に苦しみつつも教権伸長につとめ…」と述べているのが面白い。終章の「国民国家の懐胎」において、「フリードリヒ2世には、普遍的国家の主権にすべてを服従させようという、もっとも極端で完璧な秩序への情熱がうかがわれる」と述べている。ひとつの評価だと思う。

 『週刊朝日百科 世界の歴史』の第53号『13世紀の世界 人物』(1989.11)はフリードリヒ2世の伝記的解説に約1ページ半をあてている(筆者:橋口倫介)。エルサレムの無血開城を「破天荒の解決策を断行」と表現し、「後世の歴史家はこぞって彼を「時代の変革者」と高く評価している」と述べている。フリードリヒ2世を肯定的に紹介した解説記事だ。

◎概説書3冊

 世界史シリーズ本が概ねフリードリヒ2世に軽く言及しているのに比べて、次の3冊はフリードリヒ2世に相応のページを割いている。

 ①『物語イタリアの歴史』(藤沢道郎/中公新書/1991.10)
 ②『神聖ローマ帝国』(菊池良生/講談社現代新書/2003.7)
 ③『文明の道(4)イスラムと十字軍』(清水和裕・高山博・他/NHK出版/2004.1)

◎『物語イタリアの歴史』では…

 藤沢道郎氏の①の新書は全十話から成り、第4話「皇帝フェデリーコの物語」は、34ページをあてた簡潔明瞭で興味深い評伝である。

 フリードリヒ2世を語学・文学・科学などに秀でた万能人とし、「封建的な神権国家の理念を乗り越えて、近代的な国家理念を最初に体現した人」と評価している。法による支配を追究し、法体制の権威の根拠をカトリック教会ではなく古代ローマに求めたのは、ルネサンスに200年先駆けた古典古代復興だった、との見解である。

 フリードリヒ2世は異端を迫害する。反神秘主義の合理主義者が、異端迫害では期せずして教皇庁と一致したのは、宗教紛争を無秩序の要因と考えたからだとし、彼の強権的で苛烈な面も紹介している。

 晩年のフェデリコ2世はロンバルディア都市連合の反乱鎮圧に失敗する。その死闘のさまを「皇帝フェデリーコの姿は血を滴らせた地獄の魔王であった」と表現している。鎮圧失敗の要因として、都市連合の経済力とカトリック教会の民衆への影響力を過少評価したせいだとし、次のように述べている。

 「理性の人であり続けた皇帝フェデリーコは、道徳と感情の力を測り損ねたのである。」

◎『神聖ローマ帝国』では…

 菊池良生氏の②の新書本は「第5章 フリードリヒ2世―「諸侯の利益のための協定」」で25ページをフリードリヒ2世にあてている。この解説には①の藤沢氏の文章からの引用が何か所かあり、全体のトーンは①に近い。皇帝と教皇の対立を「理性と宗教の戦い」としている。

 フリードリヒ2世をニヒリストと見なし、「あらゆる価値を徹底して相対化していく積極的ニヒリスト」「当代随一のニヒリスト」と呼んでいる。

 また、彼を「ラストエンペラー」と表現しているのも面白い。彼の軸足はイタリアにあり、ドイツは分断統治する属州扱いだった。その分断統治が無数の領邦国家に分裂したドイツの姿につながる。フリードリヒ2世はローマを帝都と見なすローマ帝国の最後の皇帝であり、彼の後は神聖ローマ皇帝の「大空位時代」となる。

◎『文明の道(4) イスラムと十字軍』では…

 ③はテレビ番組『文明の道』の関連図書である。2003年11月放映の「NHKスペシャル 文明の道 第7集 『エルサレム 和平・若き皇帝の決断』」はフリードリヒ2世に焦点を当てた番組だった。この番組の取材協力者・高山博氏が本書に「フリードリッヒ2世と十字軍」という記事(21ページ)を書いている。

 フリードリヒ2世がアル・カーミルとの交渉によってエルサレムを無血で取り戻した件(ヤッファ協定)に焦点を当てた記事である。この平和共存の協定はキリスト教徒からもイスラム教徒からも評価されず、それぞれの側で激しい非難の渦が巻き起こる。10年という平和の期限の間は協定は守られたが、その後長く、フーリードリヒの十字軍はヨーロッパでは評価されなった。

 だが、ヨーロッパ中心の世界史認識から複数の文化圏が併存する世界史認識への変化を反映して、フリードリヒの十字軍は評価されるようになる。その再評価に着目する高山氏は、次のように述べている。

 「フリードリッヒ2世とアル・カミールに焦点を当て、ヨーロッパ史とイスラムの枠を超えた歴史事象を見ようとする行為は、まさに、地球上のさまざまな人間集団の歴史を包摂する、そのようなグローバル・ヒストリー構築への第一歩なのである。」

◎よくわからない…

 フリードリヒ2世に関するいくつかの文章を読み返し、伝説や神話も含めてこの人物の面白さを再認識した。ドイツとイタリアに対する統治方針の違いなど、わかりにくい事項も多い。人物像は魅力的だが、後のドイツ史やイタリア史にもたらした影響がプラスなのかマイナスなのか、いまひとつよくわからない。

映画字幕をめぐるアレコレは面白い2024年08月22日

『字幕屋のホンネ:映画は日本語訳こそが面白い』(太田直子/知恵の森文庫/光文社/2019.2)
 映画字幕翻訳者が書いたドストエフスキー紹介本『ひらけ! ドスワールド』の軽妙な文章が面白かったので、同じ著者の次のエッセイを読んだ。

 『字幕屋のホンネ:映画は日本語訳こそが面白い』(太田直子/知恵の森文庫/光文社/2019.2)

 映画字幕翻訳にまつわるアレコレを暴露したエッセイである。身近に接している映画字幕の背景に私の知らないさまざまな事情があると知り、「へぇー」と思いながら楽しく読了した。

 本書の原題は『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』(2007年刊)で、著者の最初の本である。著者は2016年に56歳で亡くなっている。著者の死後3年の文庫化にあたって改題している。

 私は原題の方がいいと思う。内容にもマッチしている。生前の著者は改題を承知していたのだろうか。文庫化にあたって、版元が独自の営業的判断で改題したのかもしれない。原題は一部の人にはウケるかもしれないが、何を言いたいのかわかりにくい。そもそも長すぎる。多くの読者に売るには、もっと短くてわかりやすい題名がいいと、誰かが判断した可能性もある。

 ――こんなことを考えたのは、売り手のオトナの事情のアレコレがもたらすアレコレが、著者が本書で描いている字幕をめぐる状況とパラレルだと感じたからである。入れ子細工のようで面白い。

 映画字幕にはさまざまな制約があり、俳優の台詞をそのまま翻訳しているわけではない。一画面で容易に読み取れる字数制限があるのは当然だが、それ以外にもさまざまな制約があると知った。台詞のない余韻画面にまで字幕を要求されることもあるそうだ。

 いずれにしても、いかに少ない文字数で過不足なく伝えるかの技術は興味深い。文章を、より「わかりやすく」、より「短く」する技術は重要で有用だと思う。

 本書は、字幕をネタに現代の日本語へのいろいろな違和感も提示している。「そんなに叫んでどうするの~「!」の話」では「!」の多用への苦言を呈している。にもかかわらず、本書の章題では「!」を連発し、本書(原版)の後に出した本のタイトルは『ひらけ! ドスワールド』だ。

 著者のそんなところにも面白さを感じる。