岩波新書の『マックス・ヴェーバー』は衝撃の書 ― 2020年10月17日
長年気がかりだったヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取り合えず読み終えたので、この7月に購入した2冊の新書を読むことにした。岩波新書と中公新書でほぼ同時に出た『マックス・ヴェーバー』というタイトルの本である(中公は「ヴ」でなく「ウ」)。どちらも現役研究者の書だ。まず、発行日が5日早い岩波新書を読んだ。
『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書/2020.5.20)
この本は私には衝撃的だった。私はヴェーバーについてさほどの知識はない。と言っても、半世紀以上昔の学生時代からその名を目にすることは多く、ぼんやりしたイメージはあった。丸山真男、大塚久雄、折原浩などの言説で紡がれた、マルクスに対峙する偉大な社会学者の姿である。本書を読んで、そのイメージがガラガラと崩れた。
本書の著者は1973年生まれの研究者、私の子供にあたる世代だ。著者は本書の「おわりに」で、先行研究者が「その時代の知的流行をヴェーバーに過剰に投影する嫌いがあった」と指摘し、次のように述べている。
「近代主義的な第一世代(大塚久雄、丸山真男、青山秀夫、内田芳明ら)も、近代批判的な第二世代(安藤英治、折原浩、山之内靖ら)も、理念先行のヴェーバー解釈では変わりないと、第三世代の私は考えている。」
理念先行を排した本書は「伝記論的転回」という手法によって、その時々のヴェーバーの言動紹介を中心に綴った伝記である。それは、知的で闘争的なナショナリストが演じた「主体的人間の悲喜劇」である。
ヴェーバーはプロイセンで1864年に生まれた。二葉亭四迷や津田梅子と同い年で夏目漱石より3歳上だ。亡くなったのは100年前の1920年、ナチス台頭前夜である。享年56歳、スペイン風邪にやられたらしい。
著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。
「(…)ヴェーバーの学問業績はいかに深遠に見えても外皮であり、その内側には政治の人ヴェーバーがいた。その彼の鍵概念こそ「闘争」(Kamp)である。」
また、「おわりに」では次のように述べている。
「私が描く疾風怒涛のヴェーバー像が、従来日本で披露されてきた高踏派の人物像とはかけ離れているので、別人と混同したのではという疑念が生じるのも無理はない。(…)私は、作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。」
ヴェーバーの外皮である作品もロクに咀嚼できない私は、いきなり「背景」を読んで、とても面白い背景(伝記)だと思った。本書を読む限り、ヴェーバーはアグレッシブでやっかいなトンデモ人間に見える。差別的で排斥的はヘイトスピーチをするナショナリストで、義侠心もある。学のあるヒトラーのようだ。
戦後のドイツでは、ヴェーバーに国民社会主義(ナチス)につながる要素があったと指摘する学者もいたそうだ。本書の終章のタイトルは「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」で、両者を比較検討している。相違点もあるが類似点も多い。
この伝記は膨大な史料に基づいているとは言え、著者の見方の反映でもあり、これが実像だとは言い切れない。著者もヴェーバーの両義性を指摘している。また、人は誰も時代の桎梏の中に生きているので、100年前に没した人を現代の感覚で単純に評価することはできない。
いずれにしても、本書のおかげでヴェーバーが興味深い人物に思えてきた。
『マックス・ヴェーバー:主体的人間の悲喜劇』(今野元/岩波新書/2020.5.20)
この本は私には衝撃的だった。私はヴェーバーについてさほどの知識はない。と言っても、半世紀以上昔の学生時代からその名を目にすることは多く、ぼんやりしたイメージはあった。丸山真男、大塚久雄、折原浩などの言説で紡がれた、マルクスに対峙する偉大な社会学者の姿である。本書を読んで、そのイメージがガラガラと崩れた。
本書の著者は1973年生まれの研究者、私の子供にあたる世代だ。著者は本書の「おわりに」で、先行研究者が「その時代の知的流行をヴェーバーに過剰に投影する嫌いがあった」と指摘し、次のように述べている。
「近代主義的な第一世代(大塚久雄、丸山真男、青山秀夫、内田芳明ら)も、近代批判的な第二世代(安藤英治、折原浩、山之内靖ら)も、理念先行のヴェーバー解釈では変わりないと、第三世代の私は考えている。」
理念先行を排した本書は「伝記論的転回」という手法によって、その時々のヴェーバーの言動紹介を中心に綴った伝記である。それは、知的で闘争的なナショナリストが演じた「主体的人間の悲喜劇」である。
ヴェーバーはプロイセンで1864年に生まれた。二葉亭四迷や津田梅子と同い年で夏目漱石より3歳上だ。亡くなったのは100年前の1920年、ナチス台頭前夜である。享年56歳、スペイン風邪にやられたらしい。
著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。
「(…)ヴェーバーの学問業績はいかに深遠に見えても外皮であり、その内側には政治の人ヴェーバーがいた。その彼の鍵概念こそ「闘争」(Kamp)である。」
また、「おわりに」では次のように述べている。
「私が描く疾風怒涛のヴェーバー像が、従来日本で披露されてきた高踏派の人物像とはかけ離れているので、別人と混同したのではという疑念が生じるのも無理はない。(…)私は、作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いて作品の背後にあるヴェーバーの生涯を整理することにした。というのも、思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである。」
ヴェーバーの外皮である作品もロクに咀嚼できない私は、いきなり「背景」を読んで、とても面白い背景(伝記)だと思った。本書を読む限り、ヴェーバーはアグレッシブでやっかいなトンデモ人間に見える。差別的で排斥的はヘイトスピーチをするナショナリストで、義侠心もある。学のあるヒトラーのようだ。
戦後のドイツでは、ヴェーバーに国民社会主義(ナチス)につながる要素があったと指摘する学者もいたそうだ。本書の終章のタイトルは「マックス・ヴェーバーとアドルフ・ヒトラー」で、両者を比較検討している。相違点もあるが類似点も多い。
この伝記は膨大な史料に基づいているとは言え、著者の見方の反映でもあり、これが実像だとは言い切れない。著者もヴェーバーの両義性を指摘している。また、人は誰も時代の桎梏の中に生きているので、100年前に没した人を現代の感覚で単純に評価することはできない。
いずれにしても、本書のおかげでヴェーバーが興味深い人物に思えてきた。
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