つげ義春の暗くて切ない異世界に浸る2020年10月15日

『苦節十年記/旅籠の思い出』(つげ義春/ちくま文庫)
 この夏から、つげ義春の文章(日記、エッセイ)の本を何冊か読んだ。寡作の人なので文章はほぼ読みつくしたかと思っていたが、次の1冊があった。

 『苦節十年記/旅籠の思い出』(つげ義春/ちくま文庫)

 ちくま文庫の「つげ義春コレクション(全9巻)」の1冊である。このコレクションは筑摩書房の「つげ義春全集(全8巻+別冊)」の文庫版で、本書は全集の別巻に該当する。文章がメインの巻で、旅のイラストも多数掲載している。

 収録文章の約半分が初読で、残りは再読だった。浮世離れした気分になるエッセイも多いが、やはり主調音は陰鬱で切ない貧乏話だ。印象深いのは貸本マンガ家時代を綴った「苦節十年記」と、弟のマンガ家・忠男を語った「つげ忠男の暗さ」「つげ忠男の不運」である。タイトルを並べるだけで暗くなってくる。

 落ち目の貸本マンガ家たちが業界の盛り返しをはかって滝野川公会堂で開催した大集会の話が面白かった。多くの貸本マンガ家が不安と焦燥にかられて集まったが、読者の参加者は約20名、ぜんぜん盛り上がらない会だったそうだ。そのときが初対面の白土三平、水木しげる、つげ義春、長井勝一(『ガロ』社長)が集会後に会場の食堂で黙々と昼食をとる場面も切ない。あまりに貧弱な料理なので、つげ義春は「白土か長井がもう一品おごってくれないかな」と思いながら食べていたそうだ。後日、水木しげるも同じことを思いながら食べていたと表明している。切ない食事の記憶はいつまでも残るのだろう。

 つげ忠男は『つげ義春日記』にも登場する。日記では、兄に輪をかけて暗くておとなしい弟への兄の思いやりを感じた。だが、本書のエッセイは少し趣が異なる。兄はマンガ家としての弟の才能を評価しつつも、面倒見は悪かったらしい。また、忠男が持参したマンガ原稿が傑作だったので、それを盗作し、自作として発表したと告白している。兄はそのことをずーっと失念していて、弟はその件については沈黙し続けたそうだ。

 この夏、つげ義春にハマったきっかけは、調布の床屋(高校時代の同級生)に押し付けられた『貧困旅行記』だった。その床屋が「調布で一番ワリがいい仕事は競輪場の車検売りだが、空きがないと入れない狭き門だ」と言っていた。つげ義春の奥さん(藤原マキ)が車券売りをしているマンガを読み、彼女はどうやって就職できたのだろうという流れの会話だった。本書収録の「妻のアルバイト」を読んで判明した。つげ義春夫妻は競輪場のすぐ近くに住んでいたので、優先的に採用されたそうだ。競輪場にはそんな近隣対策があると知った。