ヒトラーの『わが闘争』--- 素人の執念おそるべし ― 2014年08月19日
◎ついに読んだ全訳版
『ヒトラーの秘密図書館』を読んだのを機に『わが闘争』の全訳版を読んだ。
『わが闘争(上):民族主義的世界観』(アドルフ・ヒトラー/平野一郎・将積茂訳/角川文庫)
『わが闘争(下):国家社会主義運動』(アドルフ・ヒトラー/平野一郎・将積茂訳/角川文庫)
戦前に出版された抄訳版を高校生の頃に拾い読みしたことがあり、いずれ全訳版を読まねばと気になっていた。全訳版を入手したのもかなり以前だ。文庫本2冊で約900ページ、昔の文庫なので字が小さい。私のような年配者には、読書用眼鏡でなければ読み通せない。
かなり読みにくい本である。それは、活字が小さいせいだけではない。饒舌でまわりくどい演説をそのまま文章にしている感じで、頭がゴチャゴチャしてくるのだ。しかし、この饒舌に慣れてくると、それなりのリズムも感じられ、何とか読み進めることができる。
読みにくいと言っても難解なわけではない。深遠でもない。同じことを何度もくりかえしているので、いささかうんざりしてくる。
◎当初は売れなかった『わが闘争』
『わが闘争』はミュンヘン一揆で逮捕されたヒトラーが獄中で口述筆記した本で、第1巻(角川文庫版の「上」)が1925年、第2巻(角川文庫版の「下」)が1926年に出版された。当時のヒトラーは演説の才で注目される過激な極右政党の党首に過ぎなかった。首相になるのは『わが闘争』出版から8年後の1933年である。
ヒトラーは『わが闘争』の印税収入を裁判費用に充当したかったらしいが、期待ほどには売れなかった(政権掌握後はさまざまな版が出版され、莫大な印税収入を得た)。
『ヒトラーの秘密図書館』(ライバック)によれば、『わが闘争』はルドルフ・ヘスらが口述筆記を始める前から執筆されていた。ただし、ヒトラーの作文能力はさんざんだったようだ。次のような指摘もある。
「(筆者ライバックは)わずかに残存する未発表の原稿を発見したが、そこから浮かび上がってくるのは、基本的なスペリングも一般的な文法もマスターできていない無学な男の姿である。彼の生原稿は、語彙と構文の間違いだらけである。句読点も大文字の使い方も間違いだらけで、しかも一貫性がない。」
そんなわけだから、出版にあたっては編集者ら周辺の人間がかなり手を入れて整理をしたようだ。それでも、この本は大部で読みにくいものになってしまった。
ライバックは、ナチスの幹部のほとんどが『わが闘争』をちゃんと読んでいなかったというエピソードを紹介している。ヒトラー周辺の人間は読まなかったにしても、批判的に読んだ人はいて、『わが闘争』第1巻が出版された時、新聞はこぞって痛烈な批判をあびせたそうだ。『ヒトラーの秘密図書館』には次のように書かれている。
「第1巻は批評家の嘲笑と軽蔑に迎えられたが、第2巻はあっさりと無視された。批評家だけでなく、読者にも、である。1年経っても。第2巻の販売部数は700部に満たなかった。」
私が『わが闘争』を読もうと思い立ったのは、ライバックのこのような指摘がきっかけである。そんなにヒドイ本ならば、それを確認してみたいというヤジ馬根性がはたらいたのだ。
◎正直な本である
『わが闘争』はヒトラーの自伝と思想開陳の本である。読者としては自伝的要素に興味をそそられるが、その部分の記述は少なく、面白くもない。後知恵でヒトラーについて多少は知っているので、自伝部分に誇張や捏造があるのは推測できる。過去の思い出を美化して脚色するのは、自分史を書こうとする大部分の人の傾向であり、こんなものだろうと思えるだけだ。
むしろ、驚いたのはその思想開陳の率直さである。ある意味で『わが闘争』はとても正直な本だと感じた。
アーリア人が最優秀であるという人種差別、ユダヤ人の排斥、議会制民主主義の否定、侵略による領土拡大など、後にヒトラーが実施する政策が高らかに書かれている。宣伝による大衆操作などの手の内も堂々と明かし、指導者は理論家でなく煽動者でなければならないと身も蓋もない本音も述べている。自身のことを棚に上げた早婚のすすめや、自身の趣味にかなわない前衛芸術の否定などもまくしたてている。
本書を読んでいると、読書をしているというよりは、テンションの高い長広舌を聞かされている気分になる。また、ヒトラーは誰に対して延々としゃべり続けているのだろうという疑問もわいてくる。演説による煽動のノウハウの開陳などは、一般大衆に向けて自慢する話ではない。
ヒトラー自身が本書で述べているように、彼は著述の人ではなく演説の人であり、演説は聴衆の反応を見ながら聴衆に合わせて展開していく。本書は目の前に聴衆が存在しない演説なので、焦点がはっきりしないゴチャゴチャになってしまったのだろう。
◎もし売れていれば…
ある意味で正直な『わが闘争』が、もっと整理されたコンパクトで明晰な本になっていて、広範な読者を獲得していたら、ヒトラーは政権を取れただろうかという考えがわいてくる。ナチスの幹部も読まないほどに読みにくかったことが、ヒトラーの政権奪取にプラスにはたらいたのではなかろうか。当時の一般大衆が広く『わが闘争』の内容を冷静に正しく理解していたら、人々はナチスに投票しただろうか。
時代の気分がナチスに合致していたのだから、『わが闘争』が明晰な本でも歴史は変わらなかったとも思えるが、別の展開があったかもしれないとも思う。
『ヒトラーの秘密図書館』によれば、後年、ヒトラーは「将来首相になると分かっていたら、決して本など書かなかっただろう」と語ったそうだ。自分でもマズイと感じる時があったのかもしれない。
◎日本に関する記述
『わが闘争』の全訳版を読みたいと思った動機のひとつに、日本に関する記述を確認したいということがあった。
『わが闘争』は戦前の日本で何種類かが出版されている。完訳版も抄訳版もある。朝日新聞社も要約版を出版している。戦前に日本で出版された『わが闘争』は日本に関する不都合な記述を省略していると聞いたことがある。ヒトラーは日本をどのように述べているか興味があった。
『わが闘争』には日本に関する記述が数カ所ある。その中で、日本人が不愉快と感じるのは、文化の創造者はアーリア人だけだと述べている箇所だろう(上巻の第11章「民族と人種」)。ここで、ヒトラーは日本人は「文化支持的」なだけで「文化創造的」ではないとしている。
この部分をどのように削除して翻訳したかは未確認だが、『わが闘争』の全編にわたってアーリア人最優秀思想が語られているので、特に日本についての言及がなくても、ヒトラーが日本人をどのように見ていたかは容易に想像できる。もっと侮蔑的に述べられているのではと想像していたので、さほど気にはならなかった。
訳注によれば、君主制批判の箇所も戦前の翻訳では削除されたそうだ。オーストリア生まれのドイツ人としてハプスブルグ家に反発していたヒトラーは、君主制の問題点を指摘している。天皇制国家だった戦前の日本では、その部分を削除して出版したそうだ。気の遣いすぎだと、いまなら思う。
◎素人の執念おそるべし
『わが闘争』は罵倒的な演説調で精神主義を鼓舞する本であり、全編にわたって「意思の力」を強調している。そんなところは、戦前の日本の風潮に合致したのだと思う。
「意思の力」それ自体は否定できないものだと私も思う。そんな部分だけ抽出すれば、現代にも通用する自己啓発本や経営書ができるかもしれないとも思う。
それにしても、『わが闘争』には歪んだ認識を基盤にした「意思の力」の恐ろしさを感じざるを得ない。読後感は、先日読んだ 『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』に抱いた「素人の執念おそるべし、無知は力なり」という感慨に似ている。比べるのが変だとは思うが。
『ヒトラーの秘密図書館』を読んだのを機に『わが闘争』の全訳版を読んだ。
『わが闘争(上):民族主義的世界観』(アドルフ・ヒトラー/平野一郎・将積茂訳/角川文庫)
『わが闘争(下):国家社会主義運動』(アドルフ・ヒトラー/平野一郎・将積茂訳/角川文庫)
戦前に出版された抄訳版を高校生の頃に拾い読みしたことがあり、いずれ全訳版を読まねばと気になっていた。全訳版を入手したのもかなり以前だ。文庫本2冊で約900ページ、昔の文庫なので字が小さい。私のような年配者には、読書用眼鏡でなければ読み通せない。
かなり読みにくい本である。それは、活字が小さいせいだけではない。饒舌でまわりくどい演説をそのまま文章にしている感じで、頭がゴチャゴチャしてくるのだ。しかし、この饒舌に慣れてくると、それなりのリズムも感じられ、何とか読み進めることができる。
読みにくいと言っても難解なわけではない。深遠でもない。同じことを何度もくりかえしているので、いささかうんざりしてくる。
◎当初は売れなかった『わが闘争』
『わが闘争』はミュンヘン一揆で逮捕されたヒトラーが獄中で口述筆記した本で、第1巻(角川文庫版の「上」)が1925年、第2巻(角川文庫版の「下」)が1926年に出版された。当時のヒトラーは演説の才で注目される過激な極右政党の党首に過ぎなかった。首相になるのは『わが闘争』出版から8年後の1933年である。
ヒトラーは『わが闘争』の印税収入を裁判費用に充当したかったらしいが、期待ほどには売れなかった(政権掌握後はさまざまな版が出版され、莫大な印税収入を得た)。
『ヒトラーの秘密図書館』(ライバック)によれば、『わが闘争』はルドルフ・ヘスらが口述筆記を始める前から執筆されていた。ただし、ヒトラーの作文能力はさんざんだったようだ。次のような指摘もある。
「(筆者ライバックは)わずかに残存する未発表の原稿を発見したが、そこから浮かび上がってくるのは、基本的なスペリングも一般的な文法もマスターできていない無学な男の姿である。彼の生原稿は、語彙と構文の間違いだらけである。句読点も大文字の使い方も間違いだらけで、しかも一貫性がない。」
そんなわけだから、出版にあたっては編集者ら周辺の人間がかなり手を入れて整理をしたようだ。それでも、この本は大部で読みにくいものになってしまった。
ライバックは、ナチスの幹部のほとんどが『わが闘争』をちゃんと読んでいなかったというエピソードを紹介している。ヒトラー周辺の人間は読まなかったにしても、批判的に読んだ人はいて、『わが闘争』第1巻が出版された時、新聞はこぞって痛烈な批判をあびせたそうだ。『ヒトラーの秘密図書館』には次のように書かれている。
「第1巻は批評家の嘲笑と軽蔑に迎えられたが、第2巻はあっさりと無視された。批評家だけでなく、読者にも、である。1年経っても。第2巻の販売部数は700部に満たなかった。」
私が『わが闘争』を読もうと思い立ったのは、ライバックのこのような指摘がきっかけである。そんなにヒドイ本ならば、それを確認してみたいというヤジ馬根性がはたらいたのだ。
◎正直な本である
『わが闘争』はヒトラーの自伝と思想開陳の本である。読者としては自伝的要素に興味をそそられるが、その部分の記述は少なく、面白くもない。後知恵でヒトラーについて多少は知っているので、自伝部分に誇張や捏造があるのは推測できる。過去の思い出を美化して脚色するのは、自分史を書こうとする大部分の人の傾向であり、こんなものだろうと思えるだけだ。
むしろ、驚いたのはその思想開陳の率直さである。ある意味で『わが闘争』はとても正直な本だと感じた。
アーリア人が最優秀であるという人種差別、ユダヤ人の排斥、議会制民主主義の否定、侵略による領土拡大など、後にヒトラーが実施する政策が高らかに書かれている。宣伝による大衆操作などの手の内も堂々と明かし、指導者は理論家でなく煽動者でなければならないと身も蓋もない本音も述べている。自身のことを棚に上げた早婚のすすめや、自身の趣味にかなわない前衛芸術の否定などもまくしたてている。
本書を読んでいると、読書をしているというよりは、テンションの高い長広舌を聞かされている気分になる。また、ヒトラーは誰に対して延々としゃべり続けているのだろうという疑問もわいてくる。演説による煽動のノウハウの開陳などは、一般大衆に向けて自慢する話ではない。
ヒトラー自身が本書で述べているように、彼は著述の人ではなく演説の人であり、演説は聴衆の反応を見ながら聴衆に合わせて展開していく。本書は目の前に聴衆が存在しない演説なので、焦点がはっきりしないゴチャゴチャになってしまったのだろう。
◎もし売れていれば…
ある意味で正直な『わが闘争』が、もっと整理されたコンパクトで明晰な本になっていて、広範な読者を獲得していたら、ヒトラーは政権を取れただろうかという考えがわいてくる。ナチスの幹部も読まないほどに読みにくかったことが、ヒトラーの政権奪取にプラスにはたらいたのではなかろうか。当時の一般大衆が広く『わが闘争』の内容を冷静に正しく理解していたら、人々はナチスに投票しただろうか。
時代の気分がナチスに合致していたのだから、『わが闘争』が明晰な本でも歴史は変わらなかったとも思えるが、別の展開があったかもしれないとも思う。
『ヒトラーの秘密図書館』によれば、後年、ヒトラーは「将来首相になると分かっていたら、決して本など書かなかっただろう」と語ったそうだ。自分でもマズイと感じる時があったのかもしれない。
◎日本に関する記述
『わが闘争』の全訳版を読みたいと思った動機のひとつに、日本に関する記述を確認したいということがあった。
『わが闘争』は戦前の日本で何種類かが出版されている。完訳版も抄訳版もある。朝日新聞社も要約版を出版している。戦前に日本で出版された『わが闘争』は日本に関する不都合な記述を省略していると聞いたことがある。ヒトラーは日本をどのように述べているか興味があった。
『わが闘争』には日本に関する記述が数カ所ある。その中で、日本人が不愉快と感じるのは、文化の創造者はアーリア人だけだと述べている箇所だろう(上巻の第11章「民族と人種」)。ここで、ヒトラーは日本人は「文化支持的」なだけで「文化創造的」ではないとしている。
この部分をどのように削除して翻訳したかは未確認だが、『わが闘争』の全編にわたってアーリア人最優秀思想が語られているので、特に日本についての言及がなくても、ヒトラーが日本人をどのように見ていたかは容易に想像できる。もっと侮蔑的に述べられているのではと想像していたので、さほど気にはならなかった。
訳注によれば、君主制批判の箇所も戦前の翻訳では削除されたそうだ。オーストリア生まれのドイツ人としてハプスブルグ家に反発していたヒトラーは、君主制の問題点を指摘している。天皇制国家だった戦前の日本では、その部分を削除して出版したそうだ。気の遣いすぎだと、いまなら思う。
◎素人の執念おそるべし
『わが闘争』は罵倒的な演説調で精神主義を鼓舞する本であり、全編にわたって「意思の力」を強調している。そんなところは、戦前の日本の風潮に合致したのだと思う。
「意思の力」それ自体は否定できないものだと私も思う。そんな部分だけ抽出すれば、現代にも通用する自己啓発本や経営書ができるかもしれないとも思う。
それにしても、『わが闘争』には歪んだ認識を基盤にした「意思の力」の恐ろしさを感じざるを得ない。読後感は、先日読んだ 『郵便配達夫シュヴァルの理想宮』に抱いた「素人の執念おそるべし、無知は力なり」という感慨に似ている。比べるのが変だとは思うが。
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