オースティンとバルザックは21世紀のヒントになるか?2015年03月09日

『高慢と偏見』(オースティン/阿部知二訳/世界文学全集Ⅱ-6/河出書房新社)、『従妹ベット』(バルザック/水野亮訳/世界文学全集Ⅱ-8/河出書房新社)、『壊れかた指南』(筒井康隆/文藝春秋)
◎19世紀西欧文学の世界へ

 ピケティの『21世紀の資本』のおかげでバルザックの『ゴリオ爺さん』とオースティンの『マンスフィールド・パーク』を読むと、他の作品も読みたくなった。実は、バルザックとオースティンは66歳にして初体験だった。あの19世紀西欧文学の独特の世界には、ちょっとクセになるところがあるようだ。

 で、次の2冊を古い文学全集で読んだ。

 『高慢と偏見』(オースティン/阿部知二訳/世界文学全集Ⅱ-6/河出書房新社)
 『従妹ベット』(バルザック/水野亮訳/世界文学全集Ⅱ-8/河出書房新社)

◎懐かしの「世界文学全集」

 わが家の本棚には約50年前に刊行された「世界文学全集」(河出書房新のグリーン版)がある。私が子供の頃に実家にあったものだ。昔は何種類もの文学全集が出版されていて、家具のように文学全集を飾っている家も多かった。両親が他界して実家を処分するとき、迷った末にこの「世界文学全集」を引き取った。若い頃に何冊かは読んだ筈だが、半分以上は読んでいない。

 せっかくわが家まで運搬したのだから少しは読まねばもったいない。そんな気持も『高慢と偏見』と『従妹ベット』に手が伸びた動機のひとつだ。

◎バルザックと筒井康隆

 この古い「世界文学全集」にはバルザックの『幻滅(Ⅰ)(Ⅱ)』も収録されているが、迷わずに『従妹ベット』を選んだ。それには、ピケティとは別の理由がある。筒井康隆さんの『耽読者の家』という短篇小説のせいである。

 短篇集『壊れかた指南』(文藝春秋/2006年4月)に収録されている『耽読者の家』は不思議な魅力を湛えた印象的な短篇だ。登場人物たちが家の中でひたすら世界文学を読み耽る、それだけの話である。世界文学が紡ぎ出す広大で魅惑的な世界に現実世界が包み込まれていくような感覚になる。この短篇には多くの文学作品が出てくるが、冒頭に登場するのが『従妹ベット』である。登場人物の次のような科白もある。

 「バルザックは『人間喜劇』の中の『ゴリオ爺さん』が有名なんだけど、ぼくは今読んでいる『従妹ベット』の方があれより面白いし、傑作だと思う。ああ、ごめんごめん、こんなことはあまり言わない方がいいんだ」

 『耽読者の家』を読んだ時、いつか『従妹ベット』を読まねばと思った。それから、つい9年が経過し、やっと読むことができた。

◎お金がやたらと出てくる小説

 『高慢と偏見』の舞台は19世紀初頭のイギリスの田園(荘園)、『従妹ベット』の舞台は19世紀中頃のパリ、どちらもそこに棲息する中流以上の人々の社交や恋愛を描いた家庭小説である。作風はかなり異なる。

 オースティンは英国風にシニカルで辛辣でありユーモラスでもある。バルザックは饒舌で過剰で、おびただしい登場人物たちが精力的に動きまわる。彼ら彼女らはドストエフスキイの人物ほどにはエキセントリックでないにしても、尋常な人物ではない。

 この2作品に共通しているのは、登場人物たちの金銭へのこだわりである。ピケティも 『21世紀の資本』の中で「18世紀、 19世紀の小説には、お金がいたるところに登場する」と指摘している。今回、オースティンとバルザックを読むにあたっては、特にお金に関する記述をチェックしようと思った。

 小説の中で「○○ポンド」「○○フラン」のように具体的な金額が記述されている箇所に鉛筆で傍線を入れ、そのページを扉ページに転記しながら読み進めたのである。

◎『高慢と偏見』の金銭記述

 私のチェックでは『高慢と偏見』の金銭記述は11カ所、すべて、登場人物の資産や年収に関するものだ。この小説の登場人物たちの大半は仕事をもたない地主たちで、資産の額が年収に直結している。資産や年収の記述は、登場人物を描写する基本情報のようだ。

 11カ所を多いと思うか否かは人それぞれだが、金銭に関する記述が印象に残るのは確かだ。訳者である阿部知二の解説にも次のような一節がある。

 「読者はこの小説で、人々が、とくに結婚の問題において、金銭のことをやかましくいうのに気づかざるを得ないのである」

◎『従妹ベット』の金銭記述

 『高慢と偏見』に続いて読んだ『従妹ベット』でも、同じように鉛筆で金銭記述に傍線を入れながら読んだが、すぐにうんざりしてきた。あまりに多いのだ。『従妹ベット』は本文が475ページで、金銭記述のあるページは私のチェックでは140ページある。1ページの中に複数の記述もあるので140カ所をはるかに超えるが、面倒なのでそれは集計していない。

 読者は『従妹ベット』をパラパラとめくると、3~4ページごとに□万フラン、△千フランなどの記述に遭遇することになる。それは登場人物の年収や資産だけでなく、持参金や情婦につぎこむ費用から年金、恩給、手形、借金、利息、抵当、土地や家屋の価格など多様である。バルザックの金銭への大いなる関心がうかがえる。

 読みようによっては、バルザックの小説は経済小説かもしれない。そんなことを思いつつ、本書の解説(中島健蔵が執筆)を読んでいると、次のような記述があった。

 「ロンドンにいたカール・マルクスにとって、バルザックの作品は、架空の小説どころか、豊富きわまりない報告書の価値をもっていた。中途半端な思想的整理がおこなわれていないこの素材をかたわらに置きながら、マルクスは自分の思想の肉づけをおこなっていた。」

 うかつにも、バルザックとマルクスのそんな関連には不案内だった。ピケティがバルザックを素材にしたのは、マルクスに倣ったのかもしれない。

◎19世紀をふりかえりつつ21世紀を望見

 『高慢と偏見』や『従妹ベット』などの19世紀西欧小説が、いま読んでも楽しめるのは確かだが、そこに描かれている社会、生活習慣、風俗、モラルなどは現代とはかなり異なっている。

 オースティンの描く英国の世界は、不労所得者たちの階層社会であり、召使いなど下層の人々は視野の外にある。視野の中にある中流以上の人々の間での階層意識もなかなか厳しい。差別観小説と読めなくもない。

 バルザックの描く世界は、英国ではなくフランスのパリで、時代も少し進んでいるせいか、不労所得者は少なく貴族や商人が混在した猥雑な社会であり、下層の人々も活躍する。だが、好色というか色ボケの軍人男爵(老人である)を中心に描かれたこの社会のモラルは現代人である私には理解しがたく、何とも不思議である。

 これらの小説を読んで、社会の様相や人間の考え方はたかだか100年ちょっとで大きく変わるものだなあと思った。過去から現代にかけて変わってきたものは、また、未来にかけても大きく変わっていくかもしれない。

 『21世紀の資本』は、これからの21世紀が19世紀のような格差社会になる可能性を警告している本だ。19世紀西欧小説が描いた社会が、21世紀の未来社会に再現されるかもしれないと考えてみるのも、思考実験としては面白い。もちろん、再現を期待しているのではない。

『菅原伝授手習鑑』を観て歌舞伎の門前でためらう2015年03月19日

歌舞伎座正面、『名作歌舞伎全集 第2巻 丸本時代物集1』(東京創元社)
 歌舞伎座で『菅原伝授手習鑑』の通し公演を観た。昼の部と夜の部を一日で観るのはしんどいので、二日がかりで観た。私は歌舞伎に関しては入門者以前の素人だが、今回の観劇でとりあえずの宿題を終えた気分になった。これで、歌舞伎の三大名作『仮名手本忠臣蔵』『義経千本桜』『菅原伝授手習鑑』を昼夜の通しで観たことになるからだ。

 私が初めて歌舞伎座に行ったのは約30年前、三十代半ばの頃で、『仮名手本忠臣蔵』を二日がかりで観た。あの時は、歌舞伎ではなく忠臣蔵への関心がメインだった。その頃、俄かに忠臣蔵フリークになり、忠臣蔵関連の書籍やビデオを集め始めた。その一環で、忠臣蔵の総本山のような存在の『仮名手本忠臣蔵』を観ないわけにはいかないと思い、歌舞伎座のチケットを購入したのだ。

 歌舞伎を観るにあたって、事前に台本を読んでおかなければ理解しにくいだろうと思い、『名作歌舞伎全集 第2巻 丸本時代物集1』を購入した。この本には『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』の三編が収録されていた。解説文でこの三作が歌舞伎の三大名作だと知り、いずれ、忠臣蔵以外の二作も観たいものだと思った。

 約30年前に観た『仮名手本忠臣蔵』は市川団十郎(12代目・故人)。片岡孝夫(現・仁左衛門)、坂東玉三郎をメインにした配役だった。孝夫・玉三郎の姿が世評通りに美しいのには魅了された。そのときは、これからは歌舞伎も持続的に観ようと思った。しかし持続しなかった。会社勤めの社会人にとって、時間的にも金銭的にも歌舞伎はきつい。一般の演劇はアフターファイブに観劇できるが、夜の部が午後4時過ぎに始まる歌舞伎は休日でなければ観ることができない。

 歌舞伎観劇が持続しなかったのは、結局のところ、私の関心分野の中での相対的順位がさほど高くはなかったからである。しかし、長い年月を経て六十代になり時間的余裕もできたので、ボツボツ歌舞伎を観るようになった。『義経千本桜』を二日がかりで観たのは昨年で、他にもいくつかの公演を歌舞伎座や国立劇場で観ている。そして、今年になって『菅原伝授手習鑑』を観た。

 とりあえず三大名作を観た入門者以前の身としては、これから歌舞伎とどうつきあっていくか少々迷っている。歌舞伎は不思議な魅力をもった演劇で、この世界に深入りするのは危険な気がする。歌舞伎を観ることは、もちろん勉強ではなくて娯楽である。私だって観劇を宿題と考えているわけではなく、面白いから観ているのだ。その面白さを追究していくと歌舞伎に淫することになりそうで、少し怖いのだ。

 遊びを「遊び半分」にやるのはよくないという考えがある。遊びこそは、手抜きをせずに徹底しなければ面白くないということである。一理あるとは思う。だが、果てしなく奥が深そうな歌舞伎を「私の遊び」にすることには躊躇する。人生に残された時間は限られている。今後も、歌舞伎に関しては門の前でウロウロし、ややモノ足りない気分を抱えた中途半端なつきあいが続くだろう。

『世界』『中央公論』『正論』のピケティ特集を読んだ2015年03月26日

『世界 2015年3月号』『中央公論 2015年4月号』『正論 2015年4月号』
◎三誌三様のスタンス

 『世界 3月号』『中央公論 4月号』『正論 4月号』が軒並みピケティ特集をしている。さほど売れているとは思えない総合月刊誌は、右も左も中央(?)もピケティを忠臣蔵のような「独参湯」と捉えているようだ。

 三誌の特集名は以下の通りで、スタンスがかなり違うように見える。

 『世界』  不平等の拡大は防げるか(32ページ)
 『中央公論』ピケティの罠:日本で米国流格差を論じる愚(44ページ)
 『正論』  哀れなり、「ピケティ」騒動(37ページ)

 普段、総合月刊誌は読まないが、『21世紀の資本』を読んだいきがかりで上記三誌の特集に目を通した。

 一般に『世界』はヒダリ、『正論』はミギと見なされている。高名な『中央公論』のスタンスはよくわからないが、資本的には読売新聞傘下になっている。傾向の異なるこの三誌が、欧州的左派の経済学者・ピケティ(フランス社会党のオランド現大統領を支持)の『21世紀の資本』をどう料理しているかに興味があった。

◎量も質も『中央公論』が充実

 三誌の特集記事は以下の通りだ。執筆者の肩書は雑誌に掲載されていたものを抜粋。便宜上、雑誌ごとの連番([世1][世2]など)を付した。

『世界』
   [世1]話題のピケティを読む:誤読・誤謬・エトセトラ…伊東光晴(京都大学名誉教授、理論経済学)
  [世2]『21世紀の資本』の紙背を読む…間宮陽介(京都大学名誉教授、経済理論)
  [世3]不平等を縮小させるには…ロバート・ライシュ(カリフォルニア大学バークレー校教授)
  [世4]支配のシステム:自由主義的民主主義が不平等を拡大する…ウォルデン・ベロー(フィリピン共和国下院議員、フィリピン大学教授)

『中央公論』
  [中1]『21世紀の資本』が問う読み手の「知」…猪木武徳(青山学院大学特任教授)
  [中2]なぜ日本で格差をめぐる議論が盛り上がるのか…[対談]大竹文雄(大阪大学教授)、森口千晶(一橋大学教授・スタンフォード大学客員教授)
  [中3]ピケティ神話を剥ぐ:不平等はr>gの問題なのか?…竹森俊平(慶應義塾大学教授)
  [中4]格差の原因は「資産」だけでない…原田泰(早稲田大学政治経済学術院教授)
  [中5]税金データからの推計には限界がある…M・フェルドシュタイン(ハーバード大学教授)
  [中6]格差拡大は証明されていない…C・ジャイルズ(『フィナンシャルタイムズ』経済部長)
  [中7]みなさんの疑問に答えましょう…トマ・ピケティ(経済学者)
  [中8]早わかり『21世紀の資本』…広瀬英治(読売新聞ニューヨーク支局長)

『正論』
  [正1]『21世紀の資本』の欺瞞と拡散する誤読…福井義高(青山学院大学教授)
  [正2]『再分配こそ正義』という陥穽… 仲正昌樹(金沢大学教授)
  [正3]左翼たちの異様な喜びはキモくないか…中宮崇(サヨクウォッチャー)
  [正4]グローバリズムの亜種としての『21世紀の資本』…柴山桂太(滋賀大学准教授)

 『世界』『正論』の4本に対して『中央公論』は8本、しかもピケティ本人の「みなさんの疑問に答えましょう」という記事まである。これが、[中1]~[中6]をふまえた回答なら秀逸な企画だが、そうではなく、既報のインタビューや講演を再構成した記事だった。[中7][中8]の10ページは特集のオマケのようなものだから『中央公論』は実質6本だ。とは言え『中央公論』の特集が質的にも最も充実していると思えた。

◎全面批判の記事はない

 私の予断では、『世界』がピケティを持ち上げ、『正論』がピケティに難癖をつけ、『中央公論』はどっちつかずか、などと思っていた。だが、そんな単純で図式的な見方は裏切られた。

 三誌の記事を通読して意外だったのは、大半の執筆者が『21世紀の資本』をかなりの程度評価していることだ。評価した上で、いくつかの疑念を提起している記事が多い。その疑念には雑誌それぞれのイロが滲み出ている。

 記事のいくつかは、ピケティ・ブームを論じたもの([正2][正3])や、ピケティをダシにした自論展開([世2][世3][世4])だった。これらは、『21世紀の資本』の内容の妥当性や評価を知りたい私にとって、当面は関心外だ。

◎『世界』の伊東光晴氏が最もシビア
  
 やや意外なことに、ピケティに対して最もシビアな見方をしているのは伊東光晴氏だ [世1]。老いてなお元気なアベノミクス批判急先鋒のリベラル派・伊東光晴氏は、ピケティが新自由主義を論じていない点などを指摘し、「かれの本は、資本主義についても、現代資本主義についても分析のメスをふるってはいない」と批判し、ピケティが提唱する資産課税についても「課税の原則に反する」として全否定している。次のような記述もある。

 「(ピケティの本は)経済理論の発展とは何の関係もない。経済政策上も影響はないものと思われる」

 他誌のいくつかの記事のピケティ評価を抜粋すると、以下のような調子だ、

 「ピケティの野心的な試みは、「経済学は大事な問題を扱う学問なのだ」というメッセージを発信する上で大きな効果があった。ただ、科学的著作としての『21世紀の資本』の評価が確定したとは言い難い。」[中1]

 「単なるブームで終わらせず、本書に触発されて成長率と不平等の関係を徹底して吟味することが、知識人の役目だと思われる。」[中2]

 「経済格差に関する基礎データをわかりやすい形で提供することで、『21世紀の資本』は事実に基づく冷静な議論を可能にした。ただし、そのグローバル国家主義に基づく政策提言は、欧米エリートと主要メディアが許容する範囲内に終始した、陳腐な政府介入論の域を出ない。」[正1]

 やはり、三誌の特集記事を執筆した経済学者の中では伊東光晴氏の評価が最も厳しいように思われる。

◎r>gが格差拡大をもたらすのか?

 私が『21世紀の資本』を読んだとき、これは経済理論の本ではなく別の何かだと感じた。本書のキー・コンセプトである「r(資本収益率)>g(経済成長率)」も現象を表しているだけで理論の提示ではない(本書の補足のウェブでは理論展開もあるらしい)。

 経済理論の本ではないと思うのは素人読者の勝手で、経済理論を研究する経済学者にとっては「r>gの持続が格差拡大をもたらす」というピケティの主張の妥当性を理論的に検証しようとするのは当然の誠実な態度だ。

 そんな態度が見られるのが[世1][中1][中2][中3][正1]などである。門外漢の私には、これらの反論の妥当性をただちには判断できない。このような反論があるということを留意して、もう少し勉強せねばとは思う。

◎刺激的な表題だが……

 特集の表題にある「ピケティの罠」「哀れなり」という惹句は刺激的で煽情的でもある。だが、特集記事全体の内容を反映しているとは言えない。東京スポーツの見出しのようなもので、『中央公論』も『正論』もピケティ大批判を展開しているわけではなく、羊頭狗肉に近い。

 「ピケティの罠」という表題の意味は、ピケティを援用して日本の経済問題を論じることへの警鐘のようで、いくつかの記事にはそのような指摘の箇所もある。それは、当然の注意事項、留意事項のようなもので、とりたててあげつらう問題とは思えない。表題は針小棒大・羊頭狗肉だが、日本の現状分析をふまえた記事は課題の掘り下げになっていて興味深い。

 「哀れなり」という冷笑的なトーンは、品がいいとは言い難い[正3]の反映のようだ。他の『正論』の記事はさほど冷笑的ではない。私は、[正1]や[正4]が指摘するグローバリズムや移民と格差の問題は、検討が必要な論点だと思えた。また、世襲や相続については家族制度の社会的意義とからめて論じなければならないとする[正4]の指摘には、そんな社会学的視点もあり得るのかと少々驚いた。

 いずれにしても『21世紀の資本』は、今後の社会がどうなっていくかをいろいろな論点から考えたくなる刺激的な本だと改めて認識した。

動物対策フェンス構築の楽しさ2015年03月30日

 久々に八ヶ岳南麓の山小屋へ行った。まだ明け方には霜柱ができる寒さで、畑はアスパラの株が地中に眠っているだけだ。とりあえずアスパラには教本に従って施肥した。

 今回の主な目的は動物対策フェンス作りである。昨年は、園芸用支柱にネットを巡らせたあり合わせの簡易なものでしのいだが、今年はもう少しきちんとしたものにしようと思い、ホームセンターで180センチの丸太杭13本と幅150センチのネットを購入した。

 ほぼ1日がかりで一辺約8メートルのコの字型フェンスを作った。一辺8メートルだと、わが山小屋の畑より一廻り広い範囲を囲うことになる。半恒久的(?)構築物のつもりなので多少の余裕がある広さにしたのだ。

 シカやイノシシなどの動物対策だから本来はコの字ではなくロの字すべきだが、山小屋側が開口のコの字型にした。ロの字型だと畑への出入りに不便だからだ。人間の気配がありそうな山小屋側には動物が近づかないことを期待している。動物たちに理性や礼節を求めるのはナンセンスだが、足跡の痕跡に基づく希望的観測である。

 完成したコの字型のフェンスは我ながらまずまずの出来栄えだ。フェンスの内側に立つと、子供の頃の陣地遊びの楽しさが甦ってきた。蛮族の侵入に備えるローマ軍か万里の長城を築いた始皇帝のような気分になる。

 テリトリーをフェンスで囲うという排他的行為は、理性では忌むべきことと思うが、人間の原初的な性のようにも思える。しかし、歴史とはフェンスが破られていく流れであり、わが動物対策フェンスがどこまで有効かは定かでない。