半世紀経って『悲しき熱帯』をやっと読了2024年11月14日

『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース/川田順造訳/世界の名著 59/中央公論社)
 先月、レヴィ=ストロースの『野生の思考』を読み、消化不良だったので構造主義の入門書に目を通した。そして、やはり『悲しき熱帯』から読むべきだったと反省した。

 『悲しき熱帯』を収録した中央公論の『世界の名著 59』が出たのは1967年7月だ。そのころ大学生だった私は、当時よく耳にした「構造主義」を知るための必読書だろうと思って本書を入手した。だが、冒頭で挫折した。

 それから半世紀以上も本棚の奥に眠っていた本書を、ついに読了した。

 『悲しき熱帯』(レヴィ=ストロース/川田順造訳/世界の名著 59/中央公論社)

 本書は抄訳である。全9部のうちの5部だけを訳している。川田順造氏による全訳が出るのは、本書刊行の10年後である。

 抄訳ではあるが、本書巻頭にはレヴィ=ストロースが寄せた「日本の読者へのメッセージ」が載っている。日本への関心が深く、後年、何度も来日にすることになるレヴィ=ストロースは、このメッセージの時点ではまだ来日を果たしていない。

 ブラジルでの調査旅行の記録でもある本書の書き出しは「私は旅と探検家がきらいだ。」である。著者の屈折した心情が伝わってくる。本書は報告書というよりは回想録に近い。

 レヴィ=ストロースがブラジル奥地の現地調査をしたのは1930年代後半である。その後、フランスに帰国するが、1940年にナチスがパリを占領しヴィシー政権になる。ユダヤ人のレヴィ=ストロースはマルセイユから脱出して米国に亡命する。その時の様子を冒頭に記述した本書の刊行は1955年である。十数年前の事柄を鳥の眼と虫の眼で叙述した著作だ。

 第1部のタイトルは「旅の終わり」、第2部のタイトルは「旅の断章」である。この冒頭部分は文学的かつ省察的である。味わい深いとも言える。半世紀前の学生の私は、それを消化できずに挫折したのだと思う。

 『悲しき熱帯』というタイトルが何を意味しているかは、本書を読み終えれば自ずと見えてくる。

 著者の研究対象である先住民族インディオは、白人がもたらした伝染病で多くが死に絶え、集団の縮小と新たにもたらされた文物によって、その文化は変貌しつつある。

 コーヒー農園などは肥沃な土地を荒廃させながら移動していく。そのさまを著者は、強奪に似た農業が土地を凌辱・破壊すると表現している。先日読んだばかりの『砂糖の世界史』『コーヒーが廻り世界史が廻る』を想起した。

 文学的表現に長けた著者は、眼前の光景を絵画に例えたりする。それがアンリ・ルソーやイヴ・タンギーの絵画なのが面白い。ルソーは素朴な想像力で異国の異様な景色を描いた画家であり、イヴ・タンギーはシュルレアリスム絵画だ。現実の情景を眺めながら、そこに非現実的・超現実的な幻想絵画を重ねる著者の知力は尋常ではない。構造主義の奥義を垣間見たような気がした。

 本書における著者の眼差しと探究心は魅力的である。この抄訳を読了した私は、全訳を読むべきか否か迷っている。

構造主義に関する36年前と56年前の新書を読んだ2024年10月21日

『はじめての構造主義』(橋爪大三郎/講談社現代新書)、『構造主義』(北沢方邦/講談社現代新書)
 『野生の思考』(レヴィ=ストロース)に目を通し、『100分de名著』のテキストを読んでも、頭の中にはモヤがかかったままだ。多少は理解を深めたいと思い、次の新書2冊を続けて読んだ。いずれもかなり昔の講談社現代新書である。

 『はじめての構造主義』(橋爪大三郎/講談社現代新書/1988.5発行/2023.11=62刷)
 『構造主義』(北沢方邦/講談社現代新書/1968.12発行/1970.1=3刷)

 手頃な解説書をネット検索していて見つけたのが『はじめての構造主義』(以下、橋爪本)である。ネット書店で入手し、奥付を見ると発行は36年前だった。入手したのは2023年刊行の62刷。驚異のロングセラーだ。

 橋爪本を読み始めると、半世紀以上昔の大学生時代に入手した『構造主義』(以下、北沢本)を思い出した。書棚の奥から見つけ出した古い新書の発行日は56年前だった。パラパラめくると、傍線や稚拙な書き込みがある。読了しているようだが、内容はまったく憶えていない。

 北沢本はいったん脇におき、まず、橋爪本を読んだ。「はしがき」には「ちょっと進んだ高校生、かなりおませな中学生」にも読めるように書いたとある。確かにわかりやすい。ロングセラーになる所以がわかる。

 橋爪本の冒頭、著者が大学生になったばかりの頃の「構造主義ブーム」を語っている。1960年代後半の話だ。橋爪氏と同年代の私は、この件りを読んで、わが学生時代に入手した北沢本の記憶がかすかによみがえったのだ。同じ時代の空気を呼吸していたとは言え、超一流大学の知性あふれる学生・橋爪氏と凡庸な私を較べるのは僭越である。齢を重ねて進歩のない私には、同年代の橋爪氏の中高生向けの手ほどきが有難い。

 構造主義にもいろいろあるらしいが、橋爪本はレヴィ=ストロースの構造主義を解説している。「構造」とは何かは、レヴィ=ストロースを繰り返し読んでもピンとこない、と書いている。少し安心した。「構造」という抽象概念を把握するには数学を援用するのがいいとし、射影幾何学や抽象代数学を用いて「構造」を解説している。説明がやさしいので、わかった気になる。

 橋爪本を読んだ後、北沢本を読んだ。半世紀ぶりの再読のはずだが、何も憶えていないので初読と変わらない。「あとがき」によれば1968年10月からの2カ月足らずで執筆したそうだ。発行は1968年12月である。

 北沢本からは1968年の熱い息吹が伝わってくる。1968年はフランスの五月革命の年である。日本では全共闘時代、中国は文革時代、世界の至るところでスチューデント・パワーが高揚していた。当時、北沢氏は桐朋学園大学助教授として音楽社会学などの分野で活動していた。

 オビには「構造主義は日本の思想界にも爆発的な登場をした。なぜこの思想が迎えられたのか。いかなる方法によって何をめざすものなのか。単なる解説書にとどまらぬ大胆犀利な問題提起」とある。

 オビが語る通り、構造主義の解説書ではない。著者の言葉を借りれば「弁証法的構造主義の立場から「全体知」を開発するこころみ」の書である。入門書のつもりで繙くととまどってしまう。

 北沢本もレヴィ=ストロースに相当のページを割いているが、『悲しき熱帯』以外の主著はまだ翻訳されていない時代である。『野生の時代』は『パンセ・ソヴァージュ』という原題で紹介している。レヴィ=ストロースがサルトルの『弁証法的理性批判』を批判したことには触れていない。北沢氏はサルトルに共感し、救出しようとしているようにも思われる。

 北沢本には「構造としての人間」「人間の全体性」という言葉が頻出する。これらはほぼ同じ意味に思える。「構造としての人間=人間の全体性」を科学的に追究していくのが構造主義だとしているようだ。記述はかなり難解である。そのトーンは高い。アジ演説のように熱い。半世紀前に本書を読んだ私は「構造主義ってわけがわからん」と感じたのだと思う。何も覚えていないのだから…。

 さほど意味のあることではないが、20年の時間差がある橋爪本と北沢本は、両書とも著者39歳のときの著書である。

中沢新一氏の熱気にあふれた『100分de名著 野生の思考』2024年10月19日

『100分de名著 野生の思考』(中沢新一/NHK出版)
 『野生の思考』に目を通したものの消化不良なので関連書を検索した。100分de名著のテキストを見つけ、ネット書店で購入した。

 『100分de名著 野生の思考』(中沢新一/NHK出版)

 2016年12月号とある。8年前に放映された番組のテキストだ。8年前のテキストをまだ新本で販売しているのに驚いた。100ページ強の分量だから短時間で読了できた。

 このテキストを通読し、『野生の思考』読解のための解説本というよりは派生本に近いと感じた。もちろん、読解の手助けにはなる。

 100分de名著は25分4回の番組である。本書は次のような構成になっている。

 第1回 「構造主義」の誕生
 第2回 野生の知財と「ブリコラージュ」
 第3回 神話の論理へ
 第4回 「野生の思考」は日本に生きている

 第1回は『野生の思考』を読む準備としてのレヴィ=ストロースの紹介である。事前に、この程度のことは把握しておくべきだったと悟った。

 第4回は『野生の思考』刊行後にレヴィ=ストロースが何度も来日した話の紹介が中心で、『野生の思考』が提示した思想の新たな展開を論じている。

 というわけで、『野生の思考』の内容にに即した解説は第2回と第3回である。第3回の後半は『野生の思考』とは別の論文『火あぶりにされたサンタクロース』に関する話になっている。

 『野生の思考』に目を通した直後にこのテキストを読んだので、本文に直結した読解的な部分が意外に少ないと感じた。期待した解説本とはややズレているが、『野生の思考』を最大級に評価する中沢新一氏の熱気は伝わってくる。

 このテキストの「はじめに」で、中沢氏は19世紀の『資本論』に匹敵する起爆力をもった20世紀の本が『野生の思考』だとし、次のように述べている。

 「この本は、いまだ完全には読み解かれていない、これから新しく読み解かれるべき内容をはらんだ21世紀の書物です。」

 また、テキストの末尾では次のように語っている。

 「一筋縄ではいかない、強靭な知性によって書かれたとても難しい本ですが、そこには、日本人がこれからどうやって自分たちの世界をつくっていったらよいかを考えるためのたくさんのヒントが埋め込まれたいます。」

 たかだか100分で読み解けるような本ではない、ということである。

『野生の思考』に目を通した2024年10月17日

『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)
 『野生の思考』(レヴィ=ストロース/大橋保夫訳/みすず書房)

 昨年末、来年こそはレヴィ=ストロースの『野生の思考』を読もうと思った。ブリコラージュ(器用仕事。やっつけ仕事)というレヴィ=ストロースの用語に興味がわき、書架に眠っていた『野生の思考』の該当ページを拾い読みしたのが契機である。この本をいつ購入したかは憶えていないが、白い背表紙がいつも気がかりだったのだ。

 年が明け、いつの間にやら10月になった某日、ふと昨年末の気がかりを思い出し、突発的に『野生の思考』を読み始めた。かなりの難物である。途中で何度か投げ出そうと思いつつ、何とか読了した。でも、活字のうわっ面をつらをなでるように目を通しただけという気分である。「読んだ」とは言い難い。

 「訳者あとがき」は、本書を「戦後思想史最大の転換をひき起こした著作」とし、その反響を紹介したうえで次のように述べている。

 「このような(ジャーナリスティックな)見方だけで本書をとらえ、構造主義入門書のつもりで繙くとすれば、おそらく戸惑うことになるに違いない。(…)本書の読解には、その前提になっているレヴィ=ストロース自身の他の著作や、ヨーロッパやアメリカの学問、思想についての広い知識が必要なのである。」

 人類学や言語学の知識のない私が挑むのは無謀であり、難儀するのは当然であった。意味を読み取りにくい箇所は2~3回読み返してダメなら先に進む、という方針で読み進めた。だから空洞がいくつもある。読解できたわけではないので、印象に残った箇所を適当に羅列してみる。

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 「第1章 具体の科学」は比較的読みやすい。神話的思考という言葉が登場し「神話的思考とは、いわば一種の器用仕事(ブリコラージュ)である」とし、ブリコラージュの一例として郵便配達夫シュバルの幻想建築を挙げている。10年前に読んだ『シュバルの理想宮』を思い出し、うれしくなった。

 器用人(ブリコール)に対してエンジニアが登場する。「技師が概念を用いて作業を行なうのに対して、器用人は記号を用いる」という表現にナルホドと思った。

 原著の刊行は1962年、コンピューター普及以前の時代である。第3世代コンピューター(IBM-360、UNVAC-1108)もまだ登場していない。そんな時代に、著者は次のように述べている。

 「知識が集積すればするほど、全体の図式は不明確となる。なぜならば、次元の数が多くなり座標軸の増加が一定の限度を越えると、直観的方法は麻痺してしまうからである。(…)しかしながら、いつか、オーストラリアの諸部族の社会についてのありとあらゆる資料をパンチカードにし、それらの技術・経済的、社会的、宗教的構造が全体として一つの大きな変換群に似ていることを電子計算機を用いて証明できる日を夢みることは許されよう。」

 「変換の体系」を論じた章では、性関係と食物関係の相似などを指摘したうえで「意味消失によって論理のレベルに達することができる」と述べている。

 「トーテミズムとは、弁別的特徴によって規定しうる自律的制度ではない。地球上のある特定の文明形式の特徴となる制度でもない。それは伝統的にはトーテミズムの正反対とされている社会制度〔カースト制〕のかげにも見つけ出すことができる「操作様式」である。」

 「本来の意味での下部構造の研究を発展させるのは、民勢統計学、工学、歴史地理学、民族誌の助けを借りて歴史学がやっていただきたい。下部構造そのものは私の主要な研究対象ではない。民族学はまず第一に心理の研究なのであるから。」

 「社会構造と分類範疇体系との間に弁証法的関係が存在することには疑問の余地がないけれども、後者が前者の効果ないし結果であるとするのは正しくない。それらはどちらも、めんどうな相互調整の作業を経た上で、両者共通の基層である人間と世界との関係の歴史的地域的なある様態を表示するものなのである。」

 「歴史はつねに何かのための歴史である。歴史は不偏公正たらんと努めてもなお偏向性をもつものであり、部分的であることは免れ得ない。」

 「可解性探究のゴールが歴史であるというのはとんでもない話で、歴史こそあらゆる 可解性探究の出発点である。」

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 本書には興味深く読める箇所と難解で読解できない箇所が混在している。その全体を通して、ブリコラージュなどに基づいた「野生の思考」の実態を提示しているのだと思う。それは、現代の科学技術のベースである「栽培思考」とはまったく別種の思考のようだ。本書に「構造」という言葉は出てくるが、それを解説しているわけではない。「構造主義」という用語は出てこない。私には「構造」とは何か、よくわからなかった。

 本書を全体的に把握することができていない私は、いつの日か、前提知識を仕入れたうえで再読できればと思う。だが、そんな日がくるかどうかわからない。

『サピエンス全史』に対抗した『共感革命』は警世の書2024年02月05日

『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)
 前京大総長、ゴリラ学者・山極寿一氏の次の新書を読んだ。

 『共感革命:社交する人類の進化と未来』(山極寿一/河出新書)

 ハラリは『サピエンス全史』において、人類の歴史は7万年前の「認知革命」で始動し、それに続く「農業革命」「科学革命」が歴史の道筋を決めたとした。巨視的でわかりやすい指摘だった。山極氏は本書において、「認知革命」以前に「共感革命」があり、「共感革命」こそが人類史上最大の革命だったとの説を展開している。

 人類の遠い祖先が二足歩行を始めたのは700万年前、ホモ・エレクトス(ジャワ原人、北京原人など)が180万年前、ホモ・サピエンスの登場は20~30万年前だ。7万年前に人類が言葉を話すようになって認知革命が始まる。数百万年、数十万年という単位で眺めると7万年前が最近に思えてくる。

 山極氏によれば、人類は7万年前に言葉を獲得するずっと以前からダンス、音楽、視線、遊戯などによるコミュニケーションができていて、共感力を基にした社会性を獲得していた。そのようにして作られた人間集団の適正サイズは150人程度だそうだ。

 ゴリラの研究をふまえた本書は、以前に読んだ『家族進化論』に通じる内容だが、霊長類学の研究報告というよりは現代社会への警世の書である。生物や自然に関する哲学的エッセイでもある。

 今西進化論や西田哲学を論じた第6章は、西欧的な自然観を乗り越える見解を提示している。私にはよくわからない点も多く、もう少し勉強が必要だと感じた。

 著者は、本書の冒頭近くで次のような極端な見解を表明している。

 「人類の間違いのもとは、言葉の獲得と、農耕牧畜による食料生産と定住にある。」

 文明の発生こそが人類の間違いだったと取れる。人類史を眺めれば文明が戦争を生んだのは確かであり、文明が人々に不幸をもたらしたとも言える。だが、文明以前にもどるのは無理だとも思う。

 ハラリは『ホモ・デウス』で、人類は戦争を克服するだろうと述べた。著者は、この予言が外れたと指摘したうえで、戦争は人間の本性ではないから克服できると主張している。「戦争は狩猟採集から農耕牧畜に切り替わろうという時代に始まったもので、人類の歴史の中でもきわめて新しいものだ」との見解が新鮮だ。

 本書は、著者なりの未来への処方箋を提起している。数十万年の歴史をふまえた大きな視点で眼前の現代社会の課題に警鐘を鳴らしているのだ。

読み進めるに従って呪いが浮き上がる『ダーウィンの呪い』2024年01月05日

『ダーウィンの呪い』(千葉聡/講談社現代新書)
 『ダーウィンの呪い』(千葉聡/講談社現代新書)

 この新書の新聞広告を見て、すぐに食指が動いた。吉川浩満氏が「見境なく人に薦めたくなりました」と推薦していたからだ。吉川氏の『理不尽な進化』を面白く読んだのは5年前、その2年後に出た増補新版も読んだ。進化論の玄妙を語る名著だった。

 2年前には、かねてからの宿題だった『種の起源』『ビーグル号航海記』を何とか読むことができた。元々、進化論は私の関心分野だった。

 本書の著者は進化生物学と生態学が専門の研究者である。タイトルから、ダーウィンの進化論が社会にもたらした影響を描いた進化論の歴史物語だろうと想像した。その予感通りの書だったが、私の想定した内容をはるかに超えた、広くて深くて恐ろしい内容だった。読み進めるに従って、タイトルの意味が明らかになっていく。

 つづめて言えば「ダーウィンの呪い」とは優生学である。進化論の俗流理解とも言える優生学が社会に悪影響を与え、ナチスの精神障碍者殺害政策や人種政策にもつながった、ということは私も理解しているつもりだった。だが、本書を読んで、私の理解は皮相的だったと知った。プラトンにまで遡る優生学の考えは根深く、根絶は難しそうだ。

 かつて優生学運動を推進した人々はどんな意識をもっていたか、著者は次のように述べている。この一節はかなりコワイ。

 「こうした意識を持つ人々は、現代なら言論の自由を重視し、環境問題や差別の撤廃への関心が強い層に該当するだろう。恐らくダーウィンという言葉が気になるような人々だ。つまり、本書の著者や、恐らく本書の読者層のかなりの部分にも該当する。」

 進化論のベースは自然選択(natural selection 私が読んだ『種の起源』は「自然淘汰」と訳していた)であり、それがもたらす「進化」は「進歩」ではない。獲得形質は遺伝せず、努力が進化に結び付くわけではない――進化論理解の基本だと思う。しかし、本書が語るダーウィン以降の研究者たちの考えは多様で複雑に変遷する。興味深い科学史であり、社会学史でもある。大いに勉強になった。

『零の発見』は私が予感した内容ではなかったが……2023年12月08日

『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)
 古代インド史の概説書(『ガンジスの文明』『古代インドの文明と社会』)を続けて読み、「インドで生まれたアラビア数字」への関心がわき、未読棚の次の新書を読んだ。

 『零の発見:数学の生い立ち』(吉田洋一/岩波新書)

 岩波新書の「古典」である。本書の存在は60年以上昔の中学生の頃から承知していたが、入手したのは数年前だ。奥付によれば、初版は1939年(昭和14年、太平洋戦争前夜)、1978年に改訂、私の手元にあるのは2016年発行の111刷である。

 本書を購入したのは、今年101歳になる伯父がきっかけである。数学の著書もある合理的思考をする人である。伯父の暮すホームでは、100歳を迎えた人の百寿を祝う。だが、伯父は99歳が百寿だと主張し、99歳で百寿を祝った。「数え年」を是としているのか思ったが、伯父の話をよく聞くと、少し違う。人間に「0歳」を設定するのはおかしいという考えなのだ。言われてみれば、0は不思議で特殊な数字である。

 「0歳」などあり得ないと語る伯父の話のなかで『零の発見』への言及があった。書名だけを知っていて内容を知らない本書を読んでおかねばと思い、ネット古書店で入手した。だが、そのまま未読棚に積んでいた。

 「零」という数についていろいろ考察する内容を想像したが、そんな内容ではなかった。インドの数学を論じた本でもない。数学の誕生を語る数学史エッセイである。世界史の解説がかなり詳しい。期待した内容ではなかったが、面白く読めた。

 本書は「零の発見――アラビア数字の由来」「直線を切る――連続の問題」という2篇のエッセイから成る。「連続」を扱った後者の方がスリリングで面白かった。

 数と図形の調和を夢見ていたピュタゴラス教団が、有理数で表せない数の存在に気づいたたときの動揺が特に面白い。直角二等辺三角形の対辺のような不通約量をアロゴン(口にしえざるもの)と名付け、その存在を教団の外部に洩らすことを禁じたそうだ。造化の妙の欠陥を意味するからである。ピュタゴラス教団の狼狽に同情した。

牧野富太郎の標本の現物には迫力があった2023年09月19日

 都立大の牧野標本館で開催中の企画展『「日本の植物分類学の父」牧野富太郎が遺したもの』に行った。入場無料だ。NHK朝ドラの『らんまん』関連の企画で、思った以上に入場者がいた。約9割がオバサンで、私のようなオジサンは少ない。若い人は見かけなかった。

 牧野富太郎の膨大な標本を収蔵した牧野標本館そのものを公開するのかな、とも思ったが、当然そんなことはない。別館ギャラリーで標本を展示していた。

 標本の現物は、やはり迫力があり、美しい。驚いたことにオレンジやスイカまでも標本にしている。オレンジやスイカの実を5㎜ほどにスライスしたうえで押し花のようにして標本にしているのだ。黄や赤の色もきれいに残っている。どんな植物も標本で残そうという執念を感じた。

 なぜ都立大に牧野標本館があるのか。それもビデオで説明していた。

 牧野富太郎が亡くなったとき、自宅に約40万点の標本が残されていた。遺族は寄贈を申し出たが引き取り手がいない。牧野富太郎は東大で長年助手・講師を務めたのに、東大は引き取らない。国立博物館もダメ。整理が大変だからである。で、牧野富太郎が名誉都民第1号だった縁で東京都が引き取り、都立大の理学部に牧野標本館ができたそうだ。今回、初めて知った(私は都立大理学部OBなのだが…)。

脳科学の迷信・誤解を指摘する『まちがえる脳』は刺激的だ2023年07月01日

『まちがえる脳』(櫻井芳雄/岩波新書/2023.4)
 『まちがえる脳』(櫻井芳雄/岩波新書/2023.4)

 錯覚に関する脳科学の概説書と思って読み始めたが、私の想定を超えた興味深い内容に引き込まれた。脳科学の概説書ではあるが、わかっていないことがいかに多いかを解説している。脳科学への誤解の指摘にウエイトを置いた本である。ヘェーと驚く事柄の紹介も多い。

 本書の内容を十分に理解できたわけではなく、私の誤解・曲解かもしれないが、脳科学の研究が進展しているという印象は錯覚らしい。進展しているのは「わかりつつある分野」であって、それは脳の全体像のほんの一部に過ぎないようだ。わからない部分――それこそが肝心な部分――は依然としてわからない、そんな状況らしい。

 脳はニューロンとそれをつなぐシナプスで動作するイメージがあり、コンピュータの電子回路とのアナロジーで語られることがある。だが、ニューロン間の信号だけで脳を捉えるのはまったくの誤解だそうだ。脳の動作は複雑かつ可塑性に富んでいて、そのメカニズムの大半は不明なのだ。

 また、右脳と左脳の使い分けや脳トレなどは迷信に近く、脳の部位ごとの機能を示す地図も固定的なものではないそうだ。私には意外だった。

 昨今、生成AIが話題になっている。私もchatGTPを何度か使い、その文章力に驚いたものの知ったかぶりには呆れた。著者は、脳は単なる精密機械ではないとの認識から、「AIが脳に近づき、さらに脳を超える」ことはないと断じている。

 私は5年前、『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰/中公新書)を読んで、人工意識の可能性に驚いた。『クオリアと人工意識』(茂木健一郎/講談社現代新書)という本も人工意識に言及していた。本書に「人工意識」という言葉は登場しないが、著者はAIが意識をもつ可能性を否定している。「人工意識」に関する脳科学者たちの議論をもっと知りたくなった。

『統合失調症の一族』はすざまじい大家族の記録2022年12月28日

『統合失調症の一族:遺伝か環境か』(ロバート・コルター/柴田裕之訳/早川書房2022.9)
 かつて精神分裂病と呼ばれた病は2002年から統合失調症という呼称に改訂された。その精神の病に侵された家族を描いた次のノンフクションを読んだ。

 『統合失調症の一族:遺伝か環境か』(ロバート・コルター/柴田裕之訳/早川書房2022.9)

 大家族のすさまじい話である。父は聡明でリベラルな空軍将校、母も聡明、このカトリックの夫婦は何と12人の子供をもうける。上10人が男、下2人が女、長子と末子の年齢差は20歳、母は20年にわたってほぼ1年半ごとに出産したのだ。12人の子供たちが成長していくにしたがって男6人が統合失調症を発症し、この家族は多大な辛苦を経験する。本書は、この怖い病に直面した家族の約50年にわたる苦闘を描いている。

 長男は1945年生まれ、末っ子が生まれたのが1965年、兄弟の何人かは私(1948年生まれ)と同世代だ。原著の刊行は2020年、その時点で両親と3人の息子(すべて発症者)は亡くなっている。息子7人(内3人は発症者)と2人の娘は存命である。

 登場人物はすべて実名、かなり立ち入った迫真的な場面も多い。まるで小説のような心理描写や会話もある。本当にノンフィクションかなと思ってしまう。

 本書末尾でそのカラクリが明かされた。娘二人は、自分たちの家族が体験してきた実情を世間に知ってもらう方法を探していて、2016年初頭に本書の筆者(ジャーナリスト・作家)に出会ったそうだ。家族全員の同意を得たうえで、多くの関係者に取材して完成したのが本書である。

 著者によれば、創作した場面は一つもないそうだ。再現ドラマ風の箇所が続くとやや冗長に感じ、もっと簡潔に書けばいいのにと感じたが、家族の依頼に基づいて執筆した場面に力が入ってしまったのかもしれない。

 本書は統合失調症に取り組む医師や研究者の物語でもある。社会が統合失調症をどう扱ってきたかのレポートでもあり、60年代の反精神医学運動にも触れている。本書サブタイトル「遺伝か環境か」を巡る議論の変遷も追っている。

 ゲノム解析などによって統合失調症の研究は進展しているが、いまだに解明できていない。遺伝的な要素が関与しているのは確かだろうが、発症のメカニズムはよくわからない。治療法や予防法も確定していないようだ。

 本書で興味深く感じたのは、かつて「統合失調症誘発性の母親」という考え方が広まったことがあるという話である。当事者である母親にとっては辛い説だ。ヒチコックの『サイコ』もそんな説をふまえている。統合失調症など精神医学のテーマは社会や歴史の考察に直結している。だから興味深い。そして、やっかいだ。