マルケスの『族長の秋』に圧倒された2025年05月16日

『族長の秋』(ガルシア・マルケス/堤直訳/集英社/1983.6)
 かなり以前に古書で購入し、書棚で眠っていたマルケスの『族長の秋』をやっと読んだ。

 『族長の秋』(ガルシア・マルケス/堤直訳/集英社/1983.6)

 本書と並んで書棚で眠っていた『百年の孤独』を読んだのは5年前のコロナ籠城中だった。あのとき、続けて本書も読めばよかったのだが、果たせなかった。

 昨年、『百年の孤独』は新潮文庫になって売り上げを伸ばし、話題になった。単行本を持っている私もこの文庫本を購入した。いずれ再読したい小説なので、その際には活字が多少大きい文庫本がいいと思ったのだ。この文庫本の筒井康隆氏の解説は、次の文で結ばれている。

 「『百年の孤独』を読まれたかたは引き続きこの『族長の秋』もお読みいただきたいものである。いや。読むべきである。読まねばならぬ。読みなさい。読め。」

 この強迫的一節で『族長の秋』が気がかりな本となり、読まねばと思いつつ時日が経ち、今年になってこの小説も新潮文庫になり、書架のハードカバーが急に古色を帯びて見え、その古色に「早く読め」と急かされ、ついに頁を開いた。

 読み始めると、濃密な文章が紡ぎ出す鮮烈なイメージに圧倒され、引き込まれた。だが、改行なしの文章がいつまでも続き、頭が疲れてくる。読書の息継ぎをするタイミングをつかみ難い。息切れで中断して再開するとき、その頁のどこまで読んだかわからなくなり、少し遡って、重複部分の記憶を確認しながら読み始めることになる。

 この長編小説は六つの段落でできている。つまり、改行は五つしかない。時系列やストーリーに沿って話が進行するのではなく、多声的な記録と記憶が織りなす魔宮世界を提示している。

 冒頭、われわれは禿鷹が群がる荒廃した大統領府に押し入り、独裁者である大統領らしき老人の死体を発見する。そこから小説は始まる。語り手の「われわれ」が誰かが不明のまま、一人称は「わたし」にも「わし」に変容していく。人称だけでなく時間も不安定である。過去と現在を奔放に往来しながら世界が立ち上がってくる。

 死体となった独裁者が本当に死んでいるかどうかも定かでない。過去に生き返ったことがあるからだ。独裁者の年齢は百七歳とも二百歳とも言われている。この小説は、死に瀕した独裁者のパノラマ視のようでもである。混濁した意識が眺める己の生涯には超現実的な場面も混じり、何故かそのパノラマは多様な人々によってランダムに語られる。時間と場面はどんどん転換していく。

 この小説のセンテンスが紡ぎ出すイメージは鮮明かつ異様で魅力的だ。大統領府から見える美しい海は、借金のカタにアメリカに持ち去られている。そんな光景を頭のなかに思い浮かべるには、いくばくかの想像力を要する。言葉からイメージが立ち上がるまでに多少の時間がかかる。だから、さらさらと速読はできない。そんな読書時間は至福の時間でもある。

 本書を読み進める途中で、この小説は再読するべきだと感じた。小説全体を読了した後、再び味読すれば面白さが倍加すると思えたのだ。起承転結の物語ではなく世界の姿そのものを読む小説だからである。いつの日かの再読に備えて、この小説も活字が多少大きい文庫本を書い足そうかと思った。

アガサ・クリスティーと中島敦をまとめ読みしたわけ2025年03月16日

『メソポタミヤの殺人』(アガサ・クリスティー/田村義進訳/ハヤカワ文庫)、文字禍・牛人』(中島敦/角川文庫)
 次の2冊の小説をたて続けに読んだ。

 『メソポタミヤの殺人』(アガサ・クリスティー/田村義進訳/ハヤカワ文庫)
 『文字禍・牛人』(中島敦/角川文庫)

 アガサ・クリスティーと中島敦、かなり異質の取り合わせだが関連がある。先日読んだ『アッシリア全史』が『メソポタミヤの殺人』と『文字禍』に触れていたのだ。二つの小説の共通項はアッシリアである。私はどちらも読んでいないので、ネット書店で入手して読んだ。ゴチャゴチャした歴史で疲れた頭をミステリー小説でほぐしたくなったのである。

 『アッシリア全史』では、メソポタミアの遺跡発掘に関連して、考古学者として発掘に携わると同時に英国の諜報活動をしていた「アラビアのロレンス」に触れ、「女王」と呼ばれた二人の英国人女性に言及している。ひとりはガートルード・ベルである。女性版ロレンスと言われたりするが、ロレンスより20歳年長だ。「砂漠の女王」「イラク建国の母」と呼ばれる考古学者・紀行作家・英国特使である。私は8年前、彼女を描いた映画『アラビアの女王』を観た。

 もうひとりの女王がアガサ・クリスティーである。クリスティの再婚相手は14歳年下の考古学者のマックス・マロワンで、メソポタミアの遺跡発掘に参加していた。カルフでの発掘にはクリスティも同行し、発掘作業を手伝いながら『メソポタミヤの殺人』を執筆したそうだ。

 そんな事情を知ったうえで『メソポタミヤの殺人』を読んだ。遺跡発掘隊を舞台にしたミステリーである。遺跡名は架空のようだが、実際の地名もいくつか出てくるので、およその場所は見当がつく。遺跡発掘隊の話を読みながら、実体験に基づいたであろう描写を楽しんだ。イラクに思いをはせながら発掘現場を疑似体験できた。ただし、ミステリーとしてはやや強引な無理筋に思えた。

 中島敦の『文字禍』はアッシリアを舞台にした小説である。33歳で夭折したこの作家の『山月記』は教科書で読んだ。『李陵』など中国を舞台にした短篇をいくつ読んだ記憶はあるが、アッシリアの話は読んでいない。入手した角川文庫の『文字禍・牛人』は、6つの短篇を収録していた。『狐憑』『木乃伊』『文字禍』『牛人』『斗南先生』『虎狩』である。

 『文字禍』はアッシュルバニパル王の時代の老学者の話である。19世紀にニネヴェ遺跡で発掘された「アッシュルバニバル」の図書館が登場する。楔形文字を刻んだ粘土板を収集した図書館を、中島敦は「書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」と表現している。文字の発明によって人間が失ったものを考察した端正な短篇である。面白かった。

 『狐憑』はスキタイ人の話、『木乃伊』の舞台は古代エジプトである。中国のイメージが強い中島敦の視野の広さと教養の深さに驚いた。『牛人』は中国の奇譚、『斗南先生』と『虎狩』は私小説風だが、私にとっては異世界の話だ。久々に漢字を多用した中島敦の短篇を読み、異境感に浸った。

2024年下期芥川賞受賞作2作を読んだ2025年02月14日

 『文藝春秋 2025年3月号』をコンビニで購入した。年2回の芥川賞発表号だけはこの月刊誌を買ってしまう。惰性に近い。最近の小説にさほど関心がないのに、芥川賞作品ぐらいは目を通しておこうと思うのは、達観や解脱からほど遠いわが俗物性の故である。

 閑話休題。今回の受賞作は次の二つだ。

 『DTOPIA』(安堂ホセ)
 『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生)

 安堂ホセ氏は30歳、鈴木結生氏は23歳。二人とも若い。二作品とも面白かった。読みながらビックリした。『DTOPIA』では話の暴走と漂流に驚き、『ゲーテはすべてを言った』では半端でない文学研究オタクぶりに驚いた。

 『DTOPIA』はネット中継する恋愛リアリティショーの話である。時代は2024年、場所はタヒチの近くのボラ・ボラ島である。私には、近未来の異世界に感じられる舞台だ。私はタヒチに行ったことはあるが、ボラ・ボラ島は知らなかった。小説を読みながら、ウィキペディアとグーグル・マップでその実在と魅力を確認した。作中人物が『ポリネシアが中心だと』『地球は真っ青なんだ』と語るのを読んだとき、グーグル・マップのズームアウト操作でそれを追認した。まさにその通りだと感心した。

 『DTOPIA』は途中から「これはなんじゃ」という展開になるが、最後は何とか着地した。人種ミックスやLGBTが当然の前提のような世界を描いている。

 『ゲーテはすべてを言った』は23歳の作者の博学・衒学ぶりに感心した。受賞者インタビューによれば、小学生のときに『神曲』を読み終えてたそうだ。私が読み終えたのは75歳のとき(去年)だ。

 この小説は、筒井康隆氏の『文学部唯野教授』『敵』を連想させる教授小説である。浮世と少しくズレた大学教授の生態が面白い。この小説に登場する然紀典(しかりのりふみ)という学者の顛末には舌を巻いた。作者のしたたかな知力を感じる。だが、主人公の教授一家の姿がメルヘンのようなホームドラマなのが少々こそばゆい。緻密な仕掛けに満ちたエンタメ小説に思えた。

映画を観る前に『敵』を再読2025年02月06日

『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)
 先月(2025年1月)公開の映画『敵』(監督:吉田大八、主演:長塚京三)が話題になっている。筒井康隆氏が27年前に発表した長編『敵』の映画化である。

 筒井康隆ファンの私は、もちろん映画を観るつもりだ。原作は発表時に読んでいる。およその内容は憶えているが、細部は失念している。映画を機に原作を読み返そうと思った。観る前に再読か、観てから再読か、少しだけ悩み、前者にした。

 『敵』(筒井康隆/純文学書き下ろし特別作品/新潮社/1998.1)

 この小説は「老人小説」である。主人公の渡辺儀助は75歳の元大学教授である。専門はフランス近代演劇史だ。妻に先立たれた一人暮らしの元教授の生活と心理を、端整な掌編(全45編)を坦々と積み上げながら進行する長編である。

 「老人小説=晩年小説」との感得は初読でも再読でも変わらない。変わったのは読者である私の年齢だ。初読のときの私は49歳。儀助より26歳若かった。再読した現在の私は76歳。儀助より年長のリッパな老人だ。にもかかわらず、主人公を「老人だなあ」と見なす気分が初読のときと変わらないのが不思議だ。いま読んでも、儀助を自分より年長のジイサンに感じてしまうのだ。

 この小説を発表したときの筒井氏は63歳だった。儀助を自身より12歳上に設定したのだ。現在、筒井氏は90歳の現役作家である。作家のイメージは、いまだに儀助より若い。

 初読と再読で印象が少し違ったのは後半の展開である。この小説の中盤にパソコン通信が登場し、そこには「敵が来る」という意味不明のメッセージが書き込まれる。やがて、儀助の周辺に正体不明の敵が迫ってきて、穏やかな日常は不可思議な戦闘に巻き込まれていく。

 初読のとき、その展開をドタバタ劇への変調・破調のように感じた。再読では、そのような変調・破調を感じなかった。平穏な日常に脳内世界が徐々に侵入してくる坦々とした物語に思えた。脳内世界の異様な展開は夢に近い光景だ。この小説な、老人のおだやかな午睡の世界を、そのまま描いた物語だと思った。

 この三人称小説には、主人公である儀助の晩年生活を彩る人物が何人か登場する。世話を焼いてくれる友人二人、教え子だった女性、近所のクラブのマスターの姪の女子大生などだ。再読してあらためて気づいた。これら多様な人物は儀助の記憶や空想のなかに登場するだけである。彼らの実場面はない。パソコン通信のなかの人物とさほど変わりがない。

 映画では、この「老人小説」をどのように映像化しているか、楽しみである。

三島由紀夫を語る村松英子と宮本亜門の対談が面白い2025年02月03日

 今年は三島由紀夫生誕100年である。生きていれば、2025年1月14日が百歳の誕生日だった。この日、「三島由紀夫生誕百年のつどい」というイベントが開催されたそうだ。Youtube で視聴できると知り、2時間半のこの番組を視聴した。

 私は憂国忌に関心はないが、三島由紀夫は同時代性を感じる気がかりな作家である。3つの講演と1つの対談からなるこのイベントは面白かった。全般に、三島の死を政治的な死ではなく文学的な死と見なしている。その通りだと思うが、その文学的な死を神話に昇華させる見解には少し驚いた。

 最も興味深かったのは、三島の演劇について語り合う村松英子と宮本亜門の対談である。舞台背景には、60年前(1965年)に撮影した村松英子と三島由紀夫のツーショット写真を投影している。登壇したた村松英子は86歳である。その元気な姿に感嘆した。

 村松英子は三島の友人・村松剛の妹で、三島の戯曲によって育てられた女優である。私は18年前(2007年)、彼女が演出・主演した『薔薇と海賊』を観た。彼女の舞台を観るのはそれが初めてだった。おそらく最後だと思う。

 宮本亜門は『金閣寺』『午後の曳航』などの小説を舞台化している。私は2016年に彼が演出した『ライ王のテラス』を観た。今年は『サド侯爵夫人』に挑戦するそうだ。楽しみである。

 二人の対談は、宮本亜門が村松英子から三島の思い出を聞くという形で進行した。多くの小説や戯曲を書き、自身の戯曲だけでなく生き方や死に方までも演出した三島由紀夫という人物は、やはり興味深い。

 三島が、シェイクスピアの悲劇を男中心の新国劇として敬遠したという話は面白い。ボディビルで鍛えた肉体は、実は物を持ち上げたりする力はないとも語っていたそうだ。精神と肉体の二元論に拘泥し、肉体の側に立つことをよしとした三島の愉快なエピソードだ。

 『鏡子の家』のモデルに関する村松英子の話も興味深かった。いままで鏡子のモデルとされてきた人物は、本人がそう主張しているにすぎず、その人物の妹が本当のモデルだそうだ。村松英子の兄・村松剛が書いた『三島由紀夫の世界』も間違えた人物をモデルとしていた。

若手作家10人の競作短編集『あえのがたり』2025年01月31日

『あえのがたり』(加藤シゲアキなど10人/講談社/2025.1)
 能登半島応援チャリティ小説と銘打った10人の作家による短編集を読んだ。

 『あえのがたり』(加藤シゲアキなど10人/講談社/2025.1)

 チャリティ小説という言葉は初耳だ。違和感がある。仕掛け人は、加藤シゲアキ、小川哲、今村翔吾の3氏らしい。挟み込み付録に3氏の鼎談がある。

 このチャリティに参加した作家は、加藤シゲアキ、朝井リョウ、今村昌弘、蝉谷めぐ実、荒木あかね、麻布競馬場、柚木麻子、小川哲、佐藤究、今村翔吾の10人である。私にとって大半は未知の作家である。作品を読んだことがあるのは小川哲、朝井リョウの2人だけだ。

 本書を読もうと思った動機は二つある。齢を経て最近の小説家への関心が薄れてきているので、本書を機に、現在の若手作家の作品に触れるのも一興だと思ったのが第一点である。第二点は、全編が1万字(四百字原稿用紙で25枚)の短編ということだ。25枚は最も読みやすく過不足ない長さだと思う。チャリティという名の競作短編集だから、それぞれの作家が力量を発揮した珠玉短編が期待できる。

 「あえのがたり」とは「被災地の方を物語でおもてなしする」という意味だそうだ。奥能登の農家で、田の神に感謝をささげる祭りを「あえのこと」と呼ぶ。「あえ」は「おもてなし」を意味する。10人の作家による「おもてなし物語集」である。

 10編すべてが能登を題材にしているわけではない。「おもてなし」をテーマにした作品もある。それぞれの短編を面白く読んだが、長編にふわしい題材を無理に短編に押し込めたように感じられる作品もある。度肝を抜かれるブッ飛んだ作品はない。

 私が面白いと思ったのは「うらあり」(朝井リョウ)、「限界遠藤のおもてなしチャレンジ」(柚木麻子)、「エデンの東」(小川哲)である。

 小川氏の作品は、おもてなし小説執筆中の作家に関するメタフィクション的な短編である。面白いが、チャリティ小説でこの手を使うか、という気もする。

 朝井氏の作品は、就職を間近にした男女大学生4人の話である。リアルとバーチャルの二つの世界に生きる若者の微妙な心理に現代を感じた。

 柚木氏の作品は、大学卒業から十数年経った友人たちの話である。背景にブラック企業らしきものもある。生きにくい世の中を何とか生き抜いていく姿に現代を感じた。

昭和を映すミステリー『大いなる幻影』を読んだ2025年01月22日

『大いなる幻影』(戸川昌子・講談社文庫)
 1962年の江戸川乱歩賞受賞作『大いなる幻影』を読んだ。2016年に85歳で亡くなった戸川昌子のデビュー作である。

  『大いなる幻影』(戸川昌子・講談社文庫)

 なぜ、60年以上昔のミステリーを読む気になったのか。先日観た渡辺えり作・演出の芝居『りぼん』のせいである。戦後史を刻印しつつ時間が錯綜するこの芝居は多様な事物を盛り込んでいて、パンフレットでは「『りぼん』を知るためのキーワード」8項目を取り上げている。そのキーワードの一つが「戸川昌子『大いなる幻影』」だった。次のように解説している。

 「戦後という時代に自立を目指し、自身に誇りをもって生きてきた女性たちの夢が無惨に打ち砕かれた様や、老後の孤独が容赦なく描かれており、渡辺えりは今回の『りぼん』の執筆において大きな影響を受けたという」

 この解説で未読の古いミステリーを読みたくなり、ネット古書店で入手したのだ。

 小説の舞台はK女子アパート。実在した同潤会大塚女子アパートがモデルである。1930年(昭和5年)にモダンで贅沢なアパートとして建てられ、戦後も存続し、2003年に解体された。戸川昌子は1923年から1962年(乱歩賞受賞の年)まで、このアパートに母親と住んでいたそうだ。

 驚いたことに、このアパートは1957年に、道路拡幅のため曳家工事で4m後退している。中庭のある囲み型の5階建て百数十戸のアパートを、住人が居住している状態のまま4m動かしたそうだ。『大いなる幻影』その工事をミステリーに取り入れている。

 この小説で強く印象に残るのは、K女子アパートの様子とそこに住む老いた女性たちの姿である。かつての高級アパートは古び、「働く女性」たちも老いていく。人と住居の老残を描いた小説である。この小説を書いた戸川昌子は30歳そこそこのシャンソン歌手だった。その若さゆえに老残をクールに描けたのかもしれない。

 私は、この小説を面白く読み進めながらも、これは犯罪小説であって推理小説ではなさそうだなと感じていた。それは浅はかな私の勘違いだった。江戸川乱歩賞らしい見事なミステリーだった。

キャベツ高騰で筒井康隆氏の初期短編を想起2025年01月16日

『別冊宝石 特集・世界のSF』(1964.3)
 キャベツが高騰し、いまや高級品になっているとのニュースに接し、筒井康隆氏の初期短編「下の世界」を想起した。

 私は筒井康隆氏のファンで、ほぼ全作品をほぼリアルタイムで読んできた――と思う。そんな私が最初に読んだ筒井作品が「下の世界」である。1964年3月発行の『別冊宝石 特集・世界のSF』に載っていた。当時、私は高校1年だった。「下の世界」は、1冊すべてSFの別冊宝石のなかで記憶に残る作品だった。高級品となったキャベツのシーンが印象深かった。(この作品の初出は1963.5の『NULL』9号)

 「下の世界」は極端な格差社会になった未来を描いている。社会は「上の世界(精神階級)」と「下の世界(肉体階級)」に分かれ、「少し前までは、この両階級の間での主従関係以外の交際や、まして恋愛などはご法度だった。だが今ではご法度以前に――性交不能じゃ」という状態になっている。

 そんな時代の「下の世界」に生まれた若者が主人公である。この世界でキャベツは高級食材である。闇でしか入手できない。主人公が競技会に出場する前夜、母親が彼のためにキャベツを用意する。キャベツをめぐる食卓シーンは私の脳味噌に深く刻印された。その後しばらくは、キャベツを食べるたびに「下の世界」を思い出した。読んでから60年以上経ったいまでも、たまに思い浮かべる。だから、キャベツ高騰のニュースに反応してしまったのだ。

 「下の世界」を読んだ高校生の私はその後、「SFマガジン」などに載る筒井作品をむさぼるように読んだ。ハヤカワSFシリーズで第1短編集『東海道戦争』(1965.10)が出たときにはすぐに購入した。この短編集に「下の世界」は収録されていなかった。ハヤカワSFシリーズの第2短編集『ベトナム観光公社』(1967.6)にも、文藝春秋から出た『アフリカの爆弾』(1968.3)にも収録されていなかった。筒井作品としては重くて暗いので、短編集収録が見送られたのだろうと思った。

 1968年頃から筒井康隆氏は売れっ子作家になり、多くの作品集が次々に刊行されたが、それらの作品集にも「下の世界」は収録されなかった。葬られた作品かなと感じていたが、1973年2月刊行の角川文庫版『わがよき狼(ウルフ)』に「下の世界」が収録された。この文庫の目次を見て、わがファースト・コンタクトの筒井作品が9年ぶりに日の目を見たという感慨がわいた。ずいぶん昔の思い出だ。

済州島四・三事件を題材にした『別れを告げない』は幻想譚2025年01月09日

『別れを告げない』(ハン・ガン/斎藤真理子訳/白水社)
 ハン・ガン(2024年ノーベル文学賞)の『菜食主義者』『少年が来る』に続いて次の長編を読んだ。

 『別れを告げない』(ハン・ガン/斎藤真理子訳/白水社)

 先月読んだ『少年が来る』は光州事件を題材にしていた。2021年に発表した本書は、済州島四・三事件を扱っている。私には未知の事件なので、事前にネットで検索し、この虐殺事件のあらましを調べた。

 済州島四・三事件とは、李承晩政権下の1948年4月3日に済州島で起こった島民蜂起をきっかけに発生した一連の島民虐殺事件である。犠牲者数は1万数千人から8万人まで諸説あり、済州島の村々の70%が焼き尽くされたそうだ。恐怖から多くの住民の島外へ脱出し、島の人口は約28万から一時は3万人弱にまで激減したという。

 本書巻末の「訳者あとがき」にも、かなり詳細な事件の解説が載っている。それによれば、この事件は「大韓民国の建国を妨害しようとした共産暴動」とされ、多数の無実の民間人が国家公権力によって虐殺された事実は隠ぺいされた。沈黙を強いられた虐殺事件となったのだ。

 この小説は済州島四・三事件をストレートに描いているわけではない。設定は現代であり、この事件を体験した世代の娘が、父や母の体験を追憶する話である。この娘は私の友人である。私は作家である。K事件(光州事件だろう)の本を書いて精神的に疲弊している。友人は元・映像作家で、現在は済州島に工房をもつ家具職人になっている。著者を連想させる私と友人の奇妙な絡みで物語が進行する。

 かなりニューロティックで、ぞくぞくする話である。幻想的でもある。途中から私と友人が生きている人物なのか霊魂なのか定かでなくなってくる。こんな形の小説になっているのは、「追憶」という行為の難儀を表しているのかもしれない。

 『別れを告げない』というタイトルも不思議である。小説のなかには次のような会話がある。

 「別れの挨拶をしないだけ? 本当に別れないという意味?」
 「完成しないということかな、別れが?」

 追憶や追悼に終わりはない、ということのようだ。

シメの口直しはオーソドックスな『新忠臣蔵』2024年12月31日

『新忠臣蔵』(津本陽/光文社文庫)
 『元禄忠臣蔵』『うろんなり助左衛門』に続いて読んだ山田風太郎の忠臣蔵は、奇想に満ちた変格モノだった。風太郎の異世界にさらわれそうになる。

 フツーの忠臣蔵世界に戻る口直し気分で次の長編を読んだ。

  『新忠臣蔵』(津本陽/光文社文庫)

 やや小さな活字で約430ページの文庫を短時間で読了できた。初読だが、馴染みの世界を追体験するような読書時間だった。

 津本陽の小説を読むのは初めてである。坦々とした忠臣蔵だ。史料をベースにしたと思しき事柄の記述を積み重ねて小説を紡いでいる。浪士たちが書いた手紙の引用が多い。当時の川柳で世相を表す箇所もいくつかある。多様な人物に満遍なく言及し、特定の人物をフレームアップすることはない。オーソドックスな忠臣蔵だと思う。

 本書は、吉良上野介を贈り物の多寡で態度を変えるイヤな人物と描き、大石内蔵助は当初から討入りを目論んでいたブレない人物としている。そんな内蔵助は、商業資本主義が膨張し、柳沢吉保らが政商と結託する世相を嫌悪していた。一般的な忠臣蔵の見方を踏襲した明快な見解であり、安心して忠臣蔵の世界に浸ることができる。

 刀による戦闘シーンの描写の迫真性は本書の特徴だと思う。討入り前にもいくつかの小さな「チャンバラ」場面があり、その剣術解説が印象深い。

 討入りの際の戦闘では小野寺十内(60歳)と間喜兵衛(68再)が活躍し、「近頃の若い衆は情けなや。白刃の光を見ただけで身がこわばり、儂がようなる老耄れにもたやすく突かれるわい」とうそぶく。老人パワー全開だ。

 多くの忠臣蔵は、吉良方の清水一学や小林平八郎が赤穂浪士に対して奮闘したと描いている。だが、本書は「二人とも、ほとんどはたらきを見せることなく討たれてしまったようである」とし、「日頃の剣術の腕前が、真剣をとっての立ちあいの場で発揮されないのは、めずらしいことではない。」と述べている。私にとっては新鮮な見解であり、ナルホドと思った。