観る前に読んだ『火星の女王』は物足りなかった ― 2025年11月28日
小川哲の新作SFを読んだ。
『火星の女王』(小川哲/早川書房/2025.10)
5年前この作家の『ゲームの王国』に圧倒されて以来、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』、『君が手にするはずだった黄金について』をどれも面白く読んだ。だが、書店の店頭に積まれている『火星の女王』を手にしたとき、露骨なSFタイトルに少し躊躇した。タイトルから連想するようなスペース・オペラではなく、近未来の火星と地球を舞台にしたリアルな物語のようだ。いずれ読むにしても後回しでいいやと思って平積み棚に戻した。
後日、この小説がNHKのTVドラマで年末に放映されると知った。ドラマを観てから読むより読んでから観る方がいいので、あわてて入手して読んだ。小説を映像化した作品の面白さが小説を超えることはあまりない。特にSF場合、ドラマや映画の映像を小説の「挿絵」のひとつとして楽しむのがいいと私は感じている。だから、映像を観る前に小説を読んでおくのがいい。「SFは絵だねぇ」という言葉もある。
『火星の女王』は面白いSFだったが、物足りなさを感じた。いままでどこかで読んだSFの寄せ集めのようにも思え、やや期待外れだった。
この小説を読み進めながら私が連想した小説は『さよならジュピター』(小松左京)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介)、『三体』(劉慈欣)、『ユートロニカのこちら側』(小川哲)などだ。と言っても、もちろん独自性はあり、100年後の世界の日常がリアルに感じられる。火星と地球との間の通信において発生する5分以上のタイムラグの描き方は巧みだ。このタイムラグは小説全体のテーマに関わっている。
この小説には、火星のコロニーを運営する会社のCEOであるルーク・マディソンという人物が登場する。地球でも指折りの大富豪だったが、ある日突然火星に移住してきた変わり者である。イーロン・マスクを連想させるようにも見えるが、よくわからない人物だ。私は最後までルークの人物像をイメージできなかった。それが不満である。私の読解力の問題もある。だが、ルーク・マディソンという奇妙な人物をより深く造型すれば、この小説はもっと面白くなったと思う。
『火星の女王』(小川哲/早川書房/2025.10)
5年前この作家の『ゲームの王国』に圧倒されて以来、『ユートロニカのこちら側』、『地図と拳』、『君のクイズ』、『君が手にするはずだった黄金について』をどれも面白く読んだ。だが、書店の店頭に積まれている『火星の女王』を手にしたとき、露骨なSFタイトルに少し躊躇した。タイトルから連想するようなスペース・オペラではなく、近未来の火星と地球を舞台にしたリアルな物語のようだ。いずれ読むにしても後回しでいいやと思って平積み棚に戻した。
後日、この小説がNHKのTVドラマで年末に放映されると知った。ドラマを観てから読むより読んでから観る方がいいので、あわてて入手して読んだ。小説を映像化した作品の面白さが小説を超えることはあまりない。特にSF場合、ドラマや映画の映像を小説の「挿絵」のひとつとして楽しむのがいいと私は感じている。だから、映像を観る前に小説を読んでおくのがいい。「SFは絵だねぇ」という言葉もある。
『火星の女王』は面白いSFだったが、物足りなさを感じた。いままでどこかで読んだSFの寄せ集めのようにも思え、やや期待外れだった。
この小説を読み進めながら私が連想した小説は『さよならジュピター』(小松左京)、『あとは野となれ大和撫子』(宮内悠介)、『三体』(劉慈欣)、『ユートロニカのこちら側』(小川哲)などだ。と言っても、もちろん独自性はあり、100年後の世界の日常がリアルに感じられる。火星と地球との間の通信において発生する5分以上のタイムラグの描き方は巧みだ。このタイムラグは小説全体のテーマに関わっている。
この小説には、火星のコロニーを運営する会社のCEOであるルーク・マディソンという人物が登場する。地球でも指折りの大富豪だったが、ある日突然火星に移住してきた変わり者である。イーロン・マスクを連想させるようにも見えるが、よくわからない人物だ。私は最後までルークの人物像をイメージできなかった。それが不満である。私の読解力の問題もある。だが、ルーク・マディソンという奇妙な人物をより深く造型すれば、この小説はもっと面白くなったと思う。
45年前のユーモア小説アンソロジーが心地よい ― 2025年11月22日
『筒井康隆自伝』がきっかけで『盗まれた街』を読んだのに続いて、次のアンソロジーを読んだ。
『12のアップルパイ:ユーモア小説フェスティバル』(筒井康隆・編/立風書房/1980.8)
かなり以前に古書で入手し、そのままになっていた本だ。『筒井康隆自伝』は本書について次のように述べている。
「『12のアップルパイ』というのは、その前に出した『異形の白昼』という恐怖小説のアンソロジーが好評だったので、次こそはわが本来の笑いのアンソロジーでと意気込んで出したものだったが、さほど評判にならなかった。やはり日本文学はユーモアやギャグと相容れないらしい。」
12人の現役(刊行当時)作家のアンソロジーである。作者と作品名は以下の通りだ。
遠藤周作「初春夢の宝船」
星新一「はだかの部屋」
田辺聖子「びっくりハウス」
五木寛之「美しきスオミの夏に」
北杜夫「友情」
吉行淳之介「悩ましき土地」
新田次郎「新婚山行」
生島治郎「最後の客」
豊田有恒「地震がいっぱい」
野坂昭如「ああ水中大回天」
筒井康隆「トラブル」
小松左京「本邦東西朝縁起覚書」
76歳の私にとっては懐かしき面子だ。SF作家4人(星、豊田、筒井、小松)の作品は記憶にある。他の8人も私が若い頃の同時代作家なので、その作品のいくつかは読んでいるが、本書収録作は初読だと思う。
12作品を続けて読み、それぞれの作家の多様な個性を感じた。私が一番面白いと思ったのは筒井康隆「トラブル」であり、二番目は小松左京「本邦東西朝縁起覚書」だ。どちらも雑誌(SFマガジン)で読んだときの強烈な印象が残っている。前者は、昼下がりの日比谷公園で突如勃発したサラリーマン族とTV業界族の人体パイ投げバトルを描いたシュールで突き抜けた作品だ。後者は、南朝が時空を超えて現代に蘇り、ついには東西朝時代に移行するという話で、果敢な天皇制ジョークに唖然とする。
その他で面白いのが五木寛之「美しきスオミの夏に」だ。あの頃の五木寛之的なカッコよさを維持しつつ、何ともおかしな展開になる。作家とは本来的に諧謔の人種だと思う。
このアンソロジーの異色は新田次郎「新婚山行」だろう。新田次郎の山岳小説の一つであり、彼はユーモア作家ではない。そんな作家の作品にユーモアを見出す筒井氏の鑑識眼に感心した。
このアンソロジーに往時のオールスター戦を観るような懐かしさと心地よさを感じるのは、私が年を取ったせいだろうと思う。
『12のアップルパイ:ユーモア小説フェスティバル』(筒井康隆・編/立風書房/1980.8)
かなり以前に古書で入手し、そのままになっていた本だ。『筒井康隆自伝』は本書について次のように述べている。
「『12のアップルパイ』というのは、その前に出した『異形の白昼』という恐怖小説のアンソロジーが好評だったので、次こそはわが本来の笑いのアンソロジーでと意気込んで出したものだったが、さほど評判にならなかった。やはり日本文学はユーモアやギャグと相容れないらしい。」
12人の現役(刊行当時)作家のアンソロジーである。作者と作品名は以下の通りだ。
遠藤周作「初春夢の宝船」
星新一「はだかの部屋」
田辺聖子「びっくりハウス」
五木寛之「美しきスオミの夏に」
北杜夫「友情」
吉行淳之介「悩ましき土地」
新田次郎「新婚山行」
生島治郎「最後の客」
豊田有恒「地震がいっぱい」
野坂昭如「ああ水中大回天」
筒井康隆「トラブル」
小松左京「本邦東西朝縁起覚書」
76歳の私にとっては懐かしき面子だ。SF作家4人(星、豊田、筒井、小松)の作品は記憶にある。他の8人も私が若い頃の同時代作家なので、その作品のいくつかは読んでいるが、本書収録作は初読だと思う。
12作品を続けて読み、それぞれの作家の多様な個性を感じた。私が一番面白いと思ったのは筒井康隆「トラブル」であり、二番目は小松左京「本邦東西朝縁起覚書」だ。どちらも雑誌(SFマガジン)で読んだときの強烈な印象が残っている。前者は、昼下がりの日比谷公園で突如勃発したサラリーマン族とTV業界族の人体パイ投げバトルを描いたシュールで突き抜けた作品だ。後者は、南朝が時空を超えて現代に蘇り、ついには東西朝時代に移行するという話で、果敢な天皇制ジョークに唖然とする。
その他で面白いのが五木寛之「美しきスオミの夏に」だ。あの頃の五木寛之的なカッコよさを維持しつつ、何ともおかしな展開になる。作家とは本来的に諧謔の人種だと思う。
このアンソロジーの異色は新田次郎「新婚山行」だろう。新田次郎の山岳小説の一つであり、彼はユーモア作家ではない。そんな作家の作品にユーモアを見出す筒井氏の鑑識眼に感心した。
このアンソロジーに往時のオールスター戦を観るような懐かしさと心地よさを感じるのは、私が年を取ったせいだろうと思う。
ハヤカワ・SF・シリーズ第1作の『盗まれた街』で1950年代に浸る ― 2025年11月20日
『筒井康隆自伝』がきっかけで古い翻訳SFを読んだ。かの銀背表紙「ハヤカワ・SF・シリーズ」の記念すべき1番目の作品である。発行日は1957年12月31日だ。なぜか3001番からスタートしている。
『盗まれた街』(ジャック・フィニィ/福島正実訳/ハヤカワ・ファンタジー/早川書房)
「ハヤカワ・SF・シリーズ」は刊行当初の何十点かは「ハヤカワ・ファンタジー」という名だった。背表紙の白抜き赤の表示も「SF」でなく「HF」だ。1959年12月の『SFマガジン』創刊後に「ハヤカワ・ファンタジー」から「ハヤカワ・SF・シリーズ」に変わり、初期の作品も重版時には「ハヤカワ・SF・シリーズ」になった。
『筒井康隆自伝』には次の記述がある。
「実は役者をやめた時以来、ミステリー作家を狙ってもいたのだ。だからハヤカワのポケット・ミステリで外国の新しいミステリーが出るたびに熟読し、『盗まれた街』を読んだのもそうした作業の一環だったのである。(…)『盗まれた街』の福島正実のあとがきには、大戦中に大発展したアメリカのSFのことが書かれていた。」
これを読み、福島正実の文章を確認したくなって書架の『盗まれた街』を引っ張り出したが、福島正実の「あとがき」はない。都築道夫の解説があるだけで、その末尾に「現代のアメリカ・サイエンス・フィクションについては、本シリーズ二冊め以後の作品解説にゆずることにする」とある。筒井氏は別の本と混同したようだ。
――で、大昔の『盗まれた街』を引っ張り出した私は、このSFを読まねばと思ったのである。私はこの有名作の内容を知っているが、実は本書は未読だったのだ。私が中学のとき(1961~1963年)に購読していた『中学〇年コース』には、薄い文庫本の付録がついていた。私はその付録文庫本で『盗まれた街』を読んだ。とても怖いSFで印象に残った。訳者は福島正実だったと思う。高校生になって内外のSFを読むようになり、中学の時に読んだ『盗まれた街』はダイジェストだと認識し、ハヤカワ版を入手した。いずれ読もうと思いつつ、内容を知っているので後回しになり、半世紀以上の月日が流れた。
2025年になって読んだ『盗まれた街』は馥郁たるノスタルジックな空気が流れるクラシックなSFだった。21世紀の現代からは遠い昔の1950年代の米国西部の小さな町が舞台だ。サスペンスからSFへと展開していく侵略モノである。原著の刊行は1955年なので、2年後の訳書刊行はかなり早い。
中学生のとき、大きな豆の莢(さや)から複製人間が生まれてくるシーンを読んで背筋が寒くなったが、多様なSFに馴れた現代の目から見ればさほどでもない。侵略者が何となくマヌケに見えてきて、古きよき時代の長閑さまで感じてしまう。と言っても十分に楽しめた。1950年代の雰囲気を味わえる古典的名作だと思う。
『盗まれた街』(ジャック・フィニィ/福島正実訳/ハヤカワ・ファンタジー/早川書房)
「ハヤカワ・SF・シリーズ」は刊行当初の何十点かは「ハヤカワ・ファンタジー」という名だった。背表紙の白抜き赤の表示も「SF」でなく「HF」だ。1959年12月の『SFマガジン』創刊後に「ハヤカワ・ファンタジー」から「ハヤカワ・SF・シリーズ」に変わり、初期の作品も重版時には「ハヤカワ・SF・シリーズ」になった。
『筒井康隆自伝』には次の記述がある。
「実は役者をやめた時以来、ミステリー作家を狙ってもいたのだ。だからハヤカワのポケット・ミステリで外国の新しいミステリーが出るたびに熟読し、『盗まれた街』を読んだのもそうした作業の一環だったのである。(…)『盗まれた街』の福島正実のあとがきには、大戦中に大発展したアメリカのSFのことが書かれていた。」
これを読み、福島正実の文章を確認したくなって書架の『盗まれた街』を引っ張り出したが、福島正実の「あとがき」はない。都築道夫の解説があるだけで、その末尾に「現代のアメリカ・サイエンス・フィクションについては、本シリーズ二冊め以後の作品解説にゆずることにする」とある。筒井氏は別の本と混同したようだ。
――で、大昔の『盗まれた街』を引っ張り出した私は、このSFを読まねばと思ったのである。私はこの有名作の内容を知っているが、実は本書は未読だったのだ。私が中学のとき(1961~1963年)に購読していた『中学〇年コース』には、薄い文庫本の付録がついていた。私はその付録文庫本で『盗まれた街』を読んだ。とても怖いSFで印象に残った。訳者は福島正実だったと思う。高校生になって内外のSFを読むようになり、中学の時に読んだ『盗まれた街』はダイジェストだと認識し、ハヤカワ版を入手した。いずれ読もうと思いつつ、内容を知っているので後回しになり、半世紀以上の月日が流れた。
2025年になって読んだ『盗まれた街』は馥郁たるノスタルジックな空気が流れるクラシックなSFだった。21世紀の現代からは遠い昔の1950年代の米国西部の小さな町が舞台だ。サスペンスからSFへと展開していく侵略モノである。原著の刊行は1955年なので、2年後の訳書刊行はかなり早い。
中学生のとき、大きな豆の莢(さや)から複製人間が生まれてくるシーンを読んで背筋が寒くなったが、多様なSFに馴れた現代の目から見ればさほどでもない。侵略者が何となくマヌケに見えてきて、古きよき時代の長閑さまで感じてしまう。と言っても十分に楽しめた。1950年代の雰囲気を味わえる古典的名作だと思う。
現役老大家の『筒井康隆自伝』を一気読み ― 2025年11月18日
91歳の筒井康隆氏は現在も文芸誌に掌編を発表し続けている現役作家である。その老大家が『文學界』に2024年から2025年にかけて連載した自伝が単行本になった。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
『筒井康隆自伝』(筒井康隆/文藝春秋)
雑誌連載時にパラパラ読んでいた自伝を、あらためて単行本で一気読みした。冒頭、次のように宣言している。
「作家が自伝を書く限り、他人の言ったことの引用は禁じられるべきだ。そう思うからこの自伝は極力、自分が見聞きし体験したことに限っている。」
90年を生きた時点で、自身の記憶に残っているさまざまな事柄を、往時の心情に現在の思いを交えつつ、てきぱきと綴っている。大作家の90年の走馬灯を疑似体験した気分になる。自分の記憶ではないのに、いろいろなことがあったなあとの感慨がわく。
私は高校1年の頃(1964年)から『別冊宝石』や『SFマガジン』で筒井康隆氏の作品を読んできた。これらの雑誌は月遅れの号を古書店で入手することが多かった。少し安くなるからだ。「下の世界」「群猫」「お紺昇天」「しゃっくり」などの初期作品が印象に残っているが、『SFマガジン』1965年7月号の「東海道戦争」は衝撃(笑撃)だった。今後この作家の作品を追って行こうと思った。1965年10月に最初の短篇集『東海道戦争』が出たときにはすぐに購入し、周辺の友人たちに読ませた。そのため、この本は紛失、後に再度購入した。
そんな体験もあるので、この自伝の1960年代頃の記述が私には興味深い。日本SFの草創期の話であり、私の読書体験と重なる。『SFマガジン』1966年2月号に発表した「マグロマル」を小松左京が「開眼したな」と絶賛したとの話には驚いた。この作品を読んだ高校生の私も「最高傑作だ」と思った。だが、周辺の友人たちの評価はさほどでもなく、「私だけの傑作」との思いがあった。半世紀以上を経て溜飲を下げた。
この自伝に興味深い話はたくさんあるが、文藝春秋の編集者・豊田健次氏との確執が面白い。後に取締役になるこの編集者は3回登場する。担当編集者になったときに書き直しを命じらたが応じなったそうだ。『別冊文藝春秋』に『大いなる助走』を連載したのは、編集長の豊田氏を困らせる意図があったという。筒井氏が『文學界』へ作品を発表しはじめたときには「筒井さんが文學界にいったい何を書くんですか」と揶揄された。この件に関して次のように述べている。
「文藝春秋の編集者という誇りのあまり、少しおかしくなっていたのではないか。」
この自伝を連載したのが『文學界』で、単行本として出版したのが文藝春秋である。だから、この話は面白い。
辻村深月の13年前の直木賞受賞作を読んだ ― 2025年11月10日
先日、辻村深月の『島はぼくらと』と『傲慢と善良』を面白く読んだ。この作家の小説を読むのは初めてだった。他の作品も読んでみようと思い、次の文庫本を読んだ。
『鍵のない夢を見る』(辻村深月/講談社文庫)
2012年上半期の直木賞受賞作である。32歳での受賞だった。短編5編から成る短編集で、それぞれのタイトルに「泥棒」「放火」「逃亡者」「殺人」「誘拐」などの単語が含まれている。事件簿のような構成だが、全体のタイトルは『鍵のない夢を見る』と抽象的だ。それぞれが独立した短編で、連作とまでは言えないが、現代の若い人々の生活に潜む苦さを抽出するテイストは共通している。人の心理を追究する短編群である。
いずれの短編もよくできていると思う。だが私は、本作よりは先日読んだ2作品の方が面白かった。30代女性の心理の綾を綴った短編は、70代高齢者男性の私にとっては多少うんざりする世界である。気持はわからなくはないが、そんなことどうでもいいではないかという気分にもなる。
突き放した気分になるのは、感性が摩耗した鈍感力のせいだとは思う。内向する息苦しさを突き詰めることに意味はあるだろう。だが、その息苦しさに留まり続けられないと認識せねばならないと感じる。
この短編集が人間の心理を巧みに抽出しているのは確かだ。それは、これから始まる何かの予兆の提示であり、物語はまだ始まっていない。
『鍵のない夢を見る』(辻村深月/講談社文庫)
2012年上半期の直木賞受賞作である。32歳での受賞だった。短編5編から成る短編集で、それぞれのタイトルに「泥棒」「放火」「逃亡者」「殺人」「誘拐」などの単語が含まれている。事件簿のような構成だが、全体のタイトルは『鍵のない夢を見る』と抽象的だ。それぞれが独立した短編で、連作とまでは言えないが、現代の若い人々の生活に潜む苦さを抽出するテイストは共通している。人の心理を追究する短編群である。
いずれの短編もよくできていると思う。だが私は、本作よりは先日読んだ2作品の方が面白かった。30代女性の心理の綾を綴った短編は、70代高齢者男性の私にとっては多少うんざりする世界である。気持はわからなくはないが、そんなことどうでもいいではないかという気分にもなる。
突き放した気分になるのは、感性が摩耗した鈍感力のせいだとは思う。内向する息苦しさを突き詰めることに意味はあるだろう。だが、その息苦しさに留まり続けられないと認識せねばならないと感じる。
この短編集が人間の心理を巧みに抽出しているのは確かだ。それは、これから始まる何かの予兆の提示であり、物語はまだ始まっていない。
グレート・ゲームの『キム』を読んだが… ― 2025年10月28日
先日読んだ岩波新書『西域 探検の世紀』でキプリングの『キム』という小説を知り、読みたくなった。この小説によって、中央アジアの覇権をめぐる英露の抗争を指す「グレート・ゲーム」という用語が一般化したそうだ。
ネットで調べると、現在入手できる邦訳は晶文社版、岩波少年文庫版、光文社古典新訳文庫の三つある。前二者の邦題は『少年キム』、三番目の邦題は『キム』である(原題は"KIM")。最も新しい光文社版を入手して読んだ。
『キム』(キプリング/木村政則訳/光文社古典新訳文庫)
ジュニア向け冒険小説と思って読み始めたが、意外と読みにくく、思った以上に時間がかかった。19世紀末のインドの状況や地理を多少は知っていないと話がわかりにくい。登場人物たちを把握するには、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、カソリック、英国国教会など基礎知識も必要である。私は、本書を読み進めながら、登場人物のイメージの把握に苦労した。真摯な人物なのか滑稽な人物なのか判断できなかったり、その行動が個性なのか習俗なのかわからなかったりした。
キプリングは漱石や鷗外と同世代の英国の作家で、生まれたのはインドのボンベイである。35歳で刊行した『キム』が代表作だそうだ。41歳でノーベル文学賞を受賞している。本書の解説によれば、大衆的人気は持続しているものの「文学者としての価値は早い時期から驚くほど下落」しているそうだ。
本書の主人公キムはインドに住む英国人の孤児である。インドの社会に溶け込んでいて、頭がよくて身のこなしも早い。この少年は、英国の諜報活動の下請的な使い走りもしている。そんなキムが、悟りを求めてチベットからインドにやって来た老僧と旅する物語である。設定は面白いが、展開は私には少々わかりにくかった。説得力に乏しいと思える箇所が多い。この物語が現実の事柄をある程度ふまえているとすれば、現実がわかりにくいということなのかもしれないが…。
「グレート・ゲーム」という言葉について、訳者は「まえがき」で次のように述べている。
「この言葉は『キム』の中で繰り返し使われたことにより、いまや歴史用語として定着しました。ちなみに本書では、そのままカタカナを用いることはせず、チェスの意味を踏まえたことはもちろん、キムが高度な遊戯と見なしている点も考慮して「(世紀の)一戦」の訳語を当てています。」
私がこの小説に取り組んだのは「グレート・ゲーム」という言葉のイメージをつかみたいからである。だから、本書を読みながら「一戦」という言葉が出てくるたびに「グレート・ゲーム」と変換しながら読み進めた。
この小説は「グレート・ゲーム」そのものを描いているのではない。「グレート・ゲーム」はあくまで背景であり、本筋は老僧とキムの師弟物語と言える。物語が進むにつれて老僧のウエイトがかなり大きくなっていく。私は、この老僧の人物像を明瞭に把握することができず、それ故に、この小説にあまり没入できなかった。
ネットで調べると、現在入手できる邦訳は晶文社版、岩波少年文庫版、光文社古典新訳文庫の三つある。前二者の邦題は『少年キム』、三番目の邦題は『キム』である(原題は"KIM")。最も新しい光文社版を入手して読んだ。
『キム』(キプリング/木村政則訳/光文社古典新訳文庫)
ジュニア向け冒険小説と思って読み始めたが、意外と読みにくく、思った以上に時間がかかった。19世紀末のインドの状況や地理を多少は知っていないと話がわかりにくい。登場人物たちを把握するには、仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、カソリック、英国国教会など基礎知識も必要である。私は、本書を読み進めながら、登場人物のイメージの把握に苦労した。真摯な人物なのか滑稽な人物なのか判断できなかったり、その行動が個性なのか習俗なのかわからなかったりした。
キプリングは漱石や鷗外と同世代の英国の作家で、生まれたのはインドのボンベイである。35歳で刊行した『キム』が代表作だそうだ。41歳でノーベル文学賞を受賞している。本書の解説によれば、大衆的人気は持続しているものの「文学者としての価値は早い時期から驚くほど下落」しているそうだ。
本書の主人公キムはインドに住む英国人の孤児である。インドの社会に溶け込んでいて、頭がよくて身のこなしも早い。この少年は、英国の諜報活動の下請的な使い走りもしている。そんなキムが、悟りを求めてチベットからインドにやって来た老僧と旅する物語である。設定は面白いが、展開は私には少々わかりにくかった。説得力に乏しいと思える箇所が多い。この物語が現実の事柄をある程度ふまえているとすれば、現実がわかりにくいということなのかもしれないが…。
「グレート・ゲーム」という言葉について、訳者は「まえがき」で次のように述べている。
「この言葉は『キム』の中で繰り返し使われたことにより、いまや歴史用語として定着しました。ちなみに本書では、そのままカタカナを用いることはせず、チェスの意味を踏まえたことはもちろん、キムが高度な遊戯と見なしている点も考慮して「(世紀の)一戦」の訳語を当てています。」
私がこの小説に取り組んだのは「グレート・ゲーム」という言葉のイメージをつかみたいからである。だから、本書を読みながら「一戦」という言葉が出てくるたびに「グレート・ゲーム」と変換しながら読み進めた。
この小説は「グレート・ゲーム」そのものを描いているのではない。「グレート・ゲーム」はあくまで背景であり、本筋は老僧とキムの師弟物語と言える。物語が進むにつれて老僧のウエイトがかなり大きくなっていく。私は、この老僧の人物像を明瞭に把握することができず、それ故に、この小説にあまり没入できなかった。
辻村深月の小説を初めて読んだ。面白い。 ― 2025年10月25日
同世代(70代後半)の友人との酒席で「辻村深月はいい。」と聞かされた。オススメは『傲慢と善良』『島はぼくらと』だという。飲んだ帰り、駅構内の書店の文庫本コーナーでこの2冊を見つけ、購入した。
その友人は、『傲慢と善良』は『島はぼくらと』の続編と言ってたような気がしたので『島はぼくらと』から読むことにした。
『島はぼくらと』(辻村深月/講談社文庫)
2013年発表の青春小説である。高校生たちの旅立ち物語だが、高齢者の私でも十分に共感できた。人口3000人弱の瀬戸内海の島に住む男女二人ずつ計4人の高校生の物語である。島には中学校までしかなく、4人は本土の高校に片道20分の高速フェリーで通学している。意欲的な村長の方針で、島はシングルマザーなどの移住者を積極的に受け入れている。この設定は秀逸だ。さまざまな物語が生まれるタネがある。
私は瀬戸内海沿岸の町に生まれ、高校1年の1学期までその地で暮らした。親の転勤で高校1年の2学期から東京の都立高校に転校した。1学期だけ通学した瀬戸内海沿岸の県立高校には島からフェリーで通学する連中がいた。彼らは霧でフェリーが遅延すると遅刻する。だから、誰がフェリー通学かはすぐわかる。この小説を読みながら、そんな半世紀以上昔の情景を懐かしく思い出し、この小説にリアリティを感じた。
と言っても、この小説は現代の物語であり、地方と都会との現代的な関係を反映している。「地方再生」と言えば浅薄になるが、地域と世界を往還しながら未来を切り拓いていく若者たちの気持ちのいい成長物語だ。著者の読ませる力量を感じた。
この小説に続いて『傲慢と善良』を読んだ。
『傲慢と善良』(辻村深月/朝日文庫)
この文庫本のオビには「超ロングセラー 累計110万突破」とある。単行本が出たのは2019年、文庫版が出たのが2022年、2025年現在も書店の店頭に平積みだ。
緊迫したシーンから始まるこの小説は、ミステリーだと思った。小さな会社を経営する39歳の男の婚約者が、結婚式を前に忽然と姿を消す。婚約者はストーカー被害にあっていたが、警察は事件性はないと判断する。男は婚約者の行方探しに没頭する。
読み進めるうちに、ミステリーではなく家族や個人の心理を探究する小説だと気づいた。タイトルの『傲慢と善良』はオースティンの『高慢と偏見』を意識している。登場人物が『高慢と偏見』を恋愛小説の名作として言及するシーンもある。オースティンをふまえつつ、恋愛心理のアレコレを考察する物語で、ややこしくて少々まどろっこしい展開に思えた。
読み進めながら『島はぼくらと』とはかなりテイストが違う小説だと感じた。作者のレパートリーの広さに感心すると同時に、心理考察的な『傲慢と善良』が青春小説『島はぼくらと』の続編というのは私のカン違いだったのだろうと思った。
だが、さらに読み進めると、自分の理解が浅薄だったと気づいた。とても面白い展開のミステリーであると同時に、婚活をめぐる人間の悲喜劇へと話が拡がっていく。『島はぼくらと』の登場人物の一人(谷川ヨシノ)がこの小説にも登場し、二つの物語がつながる。続編とは言えないが、バルザックの人間喜劇のような拡がりを感じる。
『傲慢と善良』は、現代社会に生きる人々の考え方や感じ方のややこしさをあぶり出した傑作だと思う。高齢者の私は人々のそんな精神の面倒くささに少々辟易する。同時に、そんな面倒くささを丁寧に抽出する作家の筆力に感心する。登場人物が人間の鈍感さにも言及しているのは面白い。
19世紀の『高慢と偏見』より21世紀『傲慢と善良』の方が複雑なのは確かだと思う。「傲慢と善良」は人の分類ではなく、ひとりの人物の中に「傲慢と善良」が共存している。当然だと思う。
辻村深月は21世紀のバルザックなのかどうか、いまの私にはわからない。
その友人は、『傲慢と善良』は『島はぼくらと』の続編と言ってたような気がしたので『島はぼくらと』から読むことにした。
『島はぼくらと』(辻村深月/講談社文庫)
2013年発表の青春小説である。高校生たちの旅立ち物語だが、高齢者の私でも十分に共感できた。人口3000人弱の瀬戸内海の島に住む男女二人ずつ計4人の高校生の物語である。島には中学校までしかなく、4人は本土の高校に片道20分の高速フェリーで通学している。意欲的な村長の方針で、島はシングルマザーなどの移住者を積極的に受け入れている。この設定は秀逸だ。さまざまな物語が生まれるタネがある。
私は瀬戸内海沿岸の町に生まれ、高校1年の1学期までその地で暮らした。親の転勤で高校1年の2学期から東京の都立高校に転校した。1学期だけ通学した瀬戸内海沿岸の県立高校には島からフェリーで通学する連中がいた。彼らは霧でフェリーが遅延すると遅刻する。だから、誰がフェリー通学かはすぐわかる。この小説を読みながら、そんな半世紀以上昔の情景を懐かしく思い出し、この小説にリアリティを感じた。
と言っても、この小説は現代の物語であり、地方と都会との現代的な関係を反映している。「地方再生」と言えば浅薄になるが、地域と世界を往還しながら未来を切り拓いていく若者たちの気持ちのいい成長物語だ。著者の読ませる力量を感じた。
この小説に続いて『傲慢と善良』を読んだ。
『傲慢と善良』(辻村深月/朝日文庫)
この文庫本のオビには「超ロングセラー 累計110万突破」とある。単行本が出たのは2019年、文庫版が出たのが2022年、2025年現在も書店の店頭に平積みだ。
緊迫したシーンから始まるこの小説は、ミステリーだと思った。小さな会社を経営する39歳の男の婚約者が、結婚式を前に忽然と姿を消す。婚約者はストーカー被害にあっていたが、警察は事件性はないと判断する。男は婚約者の行方探しに没頭する。
読み進めるうちに、ミステリーではなく家族や個人の心理を探究する小説だと気づいた。タイトルの『傲慢と善良』はオースティンの『高慢と偏見』を意識している。登場人物が『高慢と偏見』を恋愛小説の名作として言及するシーンもある。オースティンをふまえつつ、恋愛心理のアレコレを考察する物語で、ややこしくて少々まどろっこしい展開に思えた。
読み進めながら『島はぼくらと』とはかなりテイストが違う小説だと感じた。作者のレパートリーの広さに感心すると同時に、心理考察的な『傲慢と善良』が青春小説『島はぼくらと』の続編というのは私のカン違いだったのだろうと思った。
だが、さらに読み進めると、自分の理解が浅薄だったと気づいた。とても面白い展開のミステリーであると同時に、婚活をめぐる人間の悲喜劇へと話が拡がっていく。『島はぼくらと』の登場人物の一人(谷川ヨシノ)がこの小説にも登場し、二つの物語がつながる。続編とは言えないが、バルザックの人間喜劇のような拡がりを感じる。
『傲慢と善良』は、現代社会に生きる人々の考え方や感じ方のややこしさをあぶり出した傑作だと思う。高齢者の私は人々のそんな精神の面倒くささに少々辟易する。同時に、そんな面倒くささを丁寧に抽出する作家の筆力に感心する。登場人物が人間の鈍感さにも言及しているのは面白い。
19世紀の『高慢と偏見』より21世紀『傲慢と善良』の方が複雑なのは確かだと思う。「傲慢と善良」は人の分類ではなく、ひとりの人物の中に「傲慢と善良」が共存している。当然だと思う。
辻村深月は21世紀のバルザックなのかどうか、いまの私にはわからない。
『南洋標本館』は読みごたえがある現代史小説 ― 2025年10月10日
新聞の書評(日経2025.8.25、朝日2025.9.13)で気になった次の小説を読んだ。
『南洋標本館』(葉山博子/早川書房)
主な舞台は日本領土だった台湾であり、主人公たちの活動範囲は南洋諸島やインドネシアにまで広がる。台湾で生まれ育った二人の植物学者の運命を軸に、大正末期から日本の敗戦までの時代を描いている。重厚で読みごたえがある小説だ。
主人公は福建省にルーツをもつ本島人で、名前は劉偉→陳永豊→永山豊吉と変遷する。この変遷の経緯もひとつの物語だが、ここでは陳と呼ぶ。成績優秀な陳は台湾の高等学校から東大医学部に進学するも、農学部林学科へ転部する。
高等学校時代からの陳の友人である生田琴司は台湾生まれの内地人である。総督府官吏の父は琴司を内地の大学に進ませようとするが、台湾から離れたくない琴司は台北帝大理農学部に進学する。
陳も琴司も植物学者を目指している。植物学は林学や農学などの実学とは異なり「道楽」と見なされていた。二人は手分けして「南洋標本館」を作るのが夢である。本島人と内地人の二人の人生は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦に至る時代の波に翻弄される――という物語である。
この小説には実在の人物が何人か登場する。巻末の参考文献や謝辞から推測すると琴司のモデルとなった植物学者は細川隆英という学者のようだ。陳にモデルがいるか否かは不明だ。フィクションの人物のように思えるが、その造形は陰影に富んでいて魅力的だ。
日本の植民地だった台湾の姿をかなり詳しく書き込んでいるのもこの小説の魅力の一つだ。著者の情報収集力に感心した。と言うのは、1988年生まれという著者の若さに驚いたからである。
著者より40歳上の戦後生まれの私は、当然ながら当時の台湾の様子を知らない。だが、かの地に多少の思い入れがある。私の祖父は台湾総督府病院の医者だった時期があり、母は台湾生まれだ。私は子供の頃、祖母や母から台湾時代の話をいろいろ聞かされた。私より40歳若い著者の描写を読んでいて、遠い昔に祖母や母から聞かされた情景に重なり、不思議な気分になった。
この小説を読んでいて、あらためて台湾の現代史の変転の激しさを感じた。この地に暮らし、時代の奔流のなかを生きねばならない人々には多様なドラマがある。不謹慎な言い方だが、面白い物語が生まれる。
この小説の第二の舞台とも言えるインドネシアについて私はほとんど知らない。オランダの植民地から日本の占領地になり、民族主義が生まれる時代を背景に物語は展開する。これも興味深い現代史である。かなり以前に読んだ『想像の共同体』がインドネシアのナショナリズムに言及していたのを想起した。
『南洋標本館』(葉山博子/早川書房)
主な舞台は日本領土だった台湾であり、主人公たちの活動範囲は南洋諸島やインドネシアにまで広がる。台湾で生まれ育った二人の植物学者の運命を軸に、大正末期から日本の敗戦までの時代を描いている。重厚で読みごたえがある小説だ。
主人公は福建省にルーツをもつ本島人で、名前は劉偉→陳永豊→永山豊吉と変遷する。この変遷の経緯もひとつの物語だが、ここでは陳と呼ぶ。成績優秀な陳は台湾の高等学校から東大医学部に進学するも、農学部林学科へ転部する。
高等学校時代からの陳の友人である生田琴司は台湾生まれの内地人である。総督府官吏の父は琴司を内地の大学に進ませようとするが、台湾から離れたくない琴司は台北帝大理農学部に進学する。
陳も琴司も植物学者を目指している。植物学は林学や農学などの実学とは異なり「道楽」と見なされていた。二人は手分けして「南洋標本館」を作るのが夢である。本島人と内地人の二人の人生は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争、そして敗戦に至る時代の波に翻弄される――という物語である。
この小説には実在の人物が何人か登場する。巻末の参考文献や謝辞から推測すると琴司のモデルとなった植物学者は細川隆英という学者のようだ。陳にモデルがいるか否かは不明だ。フィクションの人物のように思えるが、その造形は陰影に富んでいて魅力的だ。
日本の植民地だった台湾の姿をかなり詳しく書き込んでいるのもこの小説の魅力の一つだ。著者の情報収集力に感心した。と言うのは、1988年生まれという著者の若さに驚いたからである。
著者より40歳上の戦後生まれの私は、当然ながら当時の台湾の様子を知らない。だが、かの地に多少の思い入れがある。私の祖父は台湾総督府病院の医者だった時期があり、母は台湾生まれだ。私は子供の頃、祖母や母から台湾時代の話をいろいろ聞かされた。私より40歳若い著者の描写を読んでいて、遠い昔に祖母や母から聞かされた情景に重なり、不思議な気分になった。
この小説を読んでいて、あらためて台湾の現代史の変転の激しさを感じた。この地に暮らし、時代の奔流のなかを生きねばならない人々には多様なドラマがある。不謹慎な言い方だが、面白い物語が生まれる。
この小説の第二の舞台とも言えるインドネシアについて私はほとんど知らない。オランダの植民地から日本の占領地になり、民族主義が生まれる時代を背景に物語は展開する。これも興味深い現代史である。かなり以前に読んだ『想像の共同体』がインドネシアのナショナリズムに言及していたのを想起した。








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