ポンペイ遺跡を見た……南イタリア旅行記(2) ― 2024年09月01日
南イタリアを巡るツアーで、カステル・デル・モンテに次ぐ第二の目当てはポンペイ遺跡である。遺跡の見学は約2時間、ほんの一部を見ただけだった。それでも。暑い日の炎天下の見学は疲れた。翌日はナポリの考古学博物館を1時間半ほど見学した。
ポンペイ遺跡に関しては、録画したテレビ番組、ネット動画、書籍などでその概要を把握していたので、短時間ですべてを見ることはできないと了解していた。
古代ローマ史は私の関心領域である。いつかポンペイを訪れたいと思いつつ時が流れ、コロナなどもあり、訪問を半ばあきらめていた。一昨年(2022年)に東京国立博物館で開催された『ポンペイ展』や8年前(2016年)に森アーツセンターギャラリーで開催された『ポンペイの壁画展』に足を運び、ポンペイの遺品を目にしていたので、現地に行かなくてもいいやという気分にもなっていた。
だが、75歳にして初めてポンペイを訪れ、やはり現場に立たねば感得できないものがあると思った。それは、遺跡のサイズ感と周辺の風景である。
18世紀、発掘が始まって約半世紀のポンペイを訪れたゲーテは、ポンペイをせせこましくて小さな町とし、「狭苦しい街路、窓のない小さな家屋」と表現している(『イタリア紀行』)。私はさほど狭苦しいとは感じなかった。コンパクトで住みやすそうな町だと思った。公衆浴場の床暖房や壁暖房の跡には感心したし、鉛の水道管がいまだに残っているのには感動した。さほど広くない娼家の壁画も現地で見ることができた。
ポンペイと言えば背景はヴェスヴィオ山だ。そんな画像は何度も見ている。しかし、ポンペイの町からヴェスヴィオ山がどんな風に見えるかは、現地に立たなければ把握しにくい。なるほど、ポンペイ遺跡から見える火山は、近いと言えば近いし、遠いと言えば遠い。あの火山の噴火によって町が何メートルも埋まってしまうとは想像しにくかっただろうと感じた。
現在のヴェスヴィオ山は噴煙を上げていない。1944年の噴火以来、休火山だそうだ。そろそろあぶないとも言われているが、その時は仕方ないと考えている人が多いと聞いた。
ナポリの考古学博物館では、東博の『ポンペイ展』で見た何点ものモザイク画に再会し、懐かしく感じた。「出張、ご苦労さまでした」という気分である。
この博物館では、有名なアレクサンドロス大王のモザイク画を見られるだろうと期待していた。だが、現在は修復作業中で公開されていなかった。修復作業の現場を遠くから覗えただけである。残念だった。
ポンペイ遺跡に関しては、録画したテレビ番組、ネット動画、書籍などでその概要を把握していたので、短時間ですべてを見ることはできないと了解していた。
古代ローマ史は私の関心領域である。いつかポンペイを訪れたいと思いつつ時が流れ、コロナなどもあり、訪問を半ばあきらめていた。一昨年(2022年)に東京国立博物館で開催された『ポンペイ展』や8年前(2016年)に森アーツセンターギャラリーで開催された『ポンペイの壁画展』に足を運び、ポンペイの遺品を目にしていたので、現地に行かなくてもいいやという気分にもなっていた。
だが、75歳にして初めてポンペイを訪れ、やはり現場に立たねば感得できないものがあると思った。それは、遺跡のサイズ感と周辺の風景である。
18世紀、発掘が始まって約半世紀のポンペイを訪れたゲーテは、ポンペイをせせこましくて小さな町とし、「狭苦しい街路、窓のない小さな家屋」と表現している(『イタリア紀行』)。私はさほど狭苦しいとは感じなかった。コンパクトで住みやすそうな町だと思った。公衆浴場の床暖房や壁暖房の跡には感心したし、鉛の水道管がいまだに残っているのには感動した。さほど広くない娼家の壁画も現地で見ることができた。
ポンペイと言えば背景はヴェスヴィオ山だ。そんな画像は何度も見ている。しかし、ポンペイの町からヴェスヴィオ山がどんな風に見えるかは、現地に立たなければ把握しにくい。なるほど、ポンペイ遺跡から見える火山は、近いと言えば近いし、遠いと言えば遠い。あの火山の噴火によって町が何メートルも埋まってしまうとは想像しにくかっただろうと感じた。
現在のヴェスヴィオ山は噴煙を上げていない。1944年の噴火以来、休火山だそうだ。そろそろあぶないとも言われているが、その時は仕方ないと考えている人が多いと聞いた。
ナポリの考古学博物館では、東博の『ポンペイ展』で見た何点ものモザイク画に再会し、懐かしく感じた。「出張、ご苦労さまでした」という気分である。
この博物館では、有名なアレクサンドロス大王のモザイク画を見られるだろうと期待していた。だが、現在は修復作業中で公開されていなかった。修復作業の現場を遠くから覗えただけである。残念だった。
1973年に出た『箱男』を読み返した ― 2024年09月03日
『箱男』(安部公房/新潮社/1973年3月)
51年ぶりに『箱男』を再読した。現在公開中の映画『箱男 The Box Man』を観る前に読み返しておこうと思ったのである。半世紀前の読後感はかなり蒸発している。
再読して、こんなメタフィクションだったのかと思った。「これは箱についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書き始めている。」という書き出しで始まる小説は、記録の書き手がだれなのかが大きくゆらいでいく。初読のときから、奇妙な語りだとの印象は受けたが、手の込んだ仕掛けが潜んでいるとまでは認識しなかった。
箱の中という世界を通して、世界の入れ子構造を裏返して眺めるような小説である。確かに難解だ。
11年前に出た『安部公房とわたし』(山口果林)には、次のような気がかりな記述がある。
「『箱男』を冷静に読むことは難しい。いつもギリギリの瀬戸際のような、逢瀬の記憶の断片と小説が重なってしまうのだ。私へのラブレターだと言った安部公房の言葉は、冗談ばかりとも思えなかった。」
安部公房は私小説とは無縁の作家だが、その作品に愛人・山口果林との関係が投影されていると見なすのは興味深い。「救急車のサイレンが聞こえてきた。」という印象的なフレーズで終了する『箱男』の終盤は、確かにひとつのラブストーリーとも言える。
読み返して新たに気づいたのは、「医師」の供述書にある生年月日が「昭和元年三月七日」になっていることだ。これは存在しない日付である。昭和元年は12月25日から31日までしかない。また、3月7日は安部公房の誕生日である。『砂の女』の仁木順平の生年月日は昭和2年3月7日だった。安部公房は1924年(大正13年)3月7日生まれなので、誕生日が同じ登場人物たちは作者より少し若い設定ということになる。
――そんな些細なことに何か意味があるかは不明だが、仮想の自身を小説の人物に投影させているように思えてしまう。そんな気分で安部公房を読むのも面白い。
51年ぶりに『箱男』を再読した。現在公開中の映画『箱男 The Box Man』を観る前に読み返しておこうと思ったのである。半世紀前の読後感はかなり蒸発している。
再読して、こんなメタフィクションだったのかと思った。「これは箱についての記録である。ぼくは今、この記録を箱のなかで書き始めている。」という書き出しで始まる小説は、記録の書き手がだれなのかが大きくゆらいでいく。初読のときから、奇妙な語りだとの印象は受けたが、手の込んだ仕掛けが潜んでいるとまでは認識しなかった。
箱の中という世界を通して、世界の入れ子構造を裏返して眺めるような小説である。確かに難解だ。
11年前に出た『安部公房とわたし』(山口果林)には、次のような気がかりな記述がある。
「『箱男』を冷静に読むことは難しい。いつもギリギリの瀬戸際のような、逢瀬の記憶の断片と小説が重なってしまうのだ。私へのラブレターだと言った安部公房の言葉は、冗談ばかりとも思えなかった。」
安部公房は私小説とは無縁の作家だが、その作品に愛人・山口果林との関係が投影されていると見なすのは興味深い。「救急車のサイレンが聞こえてきた。」という印象的なフレーズで終了する『箱男』の終盤は、確かにひとつのラブストーリーとも言える。
読み返して新たに気づいたのは、「医師」の供述書にある生年月日が「昭和元年三月七日」になっていることだ。これは存在しない日付である。昭和元年は12月25日から31日までしかない。また、3月7日は安部公房の誕生日である。『砂の女』の仁木順平の生年月日は昭和2年3月7日だった。安部公房は1924年(大正13年)3月7日生まれなので、誕生日が同じ登場人物たちは作者より少し若い設定ということになる。
――そんな些細なことに何か意味があるかは不明だが、仮想の自身を小説の人物に投影させているように思えてしまう。そんな気分で安部公房を読むのも面白い。
映画『箱男 The Box Man』は意外に原作通り ― 2024年09月05日
渋谷のユーロスペースで映画『箱男 The Box Man』(原作:安部公房、監督:石井岳龍、出演:永瀬正敏、浅野忠信、佐藤浩市、白本彩奈、他)を観た。
ロビーに箱男の段ボール箱を置いていた。かなりボロボロなので、箱男の残骸にも見える。実物の段ボール箱は意外に大きく、存在感があり、かなり不気味である。
32年前、安部公房は石井監督に「娯楽映画にしてほしい」と言ったそうだ。この映画は、27年前に撮影直前になって制作中止となり、石井監督の執念の持続で安部公房生誕100年の今年、公開にこぎつけた。
どう作れば、あのメタフィクション的で難解な『箱男』が娯楽映画になるのだろうかと思いながら映画館に足を運んだ。観終えて、娯楽映画になっているかは疑問だった。箱男(永瀬正敏)と贋箱男(浅野忠信)の格闘シーンや軍医(佐藤浩市)の奇怪なふるまいなど、娯楽映画的に楽しめるシーンは多い。だが、原作と同様に話が迷路になっていて、わけがわからなくなってくる。
原作では「記録(小説『箱男』の本文?)」の書き手がだれかが不分明になっていき、この箇所の映画表現は困難だと思った。ところが、映画でもその部分を取り入れている。箱男とは見る存在ではなく記録する存在である、との認識にはナルホドと思った。
原作の登場人物は「葉子」以外は記号化されていて、そもそも別人なのか同一人物なのかも怪しくなる。俳優が演じる映画では、「わたし」「贋医者」「軍医」を個別の肉体が表現するので、多少はくっきりする。
そして、この映画は私が想定した以上に原作に忠実に作られていると感じた。原作の解釈のひとつの提示であり、あの小説を読み解く大きな手助けにもなる。その意味では、かなり重要な映画だと思う。
安部公房が「娯楽映画にしてほしい」と述べたのは、『箱男』には娯楽映画になる要素が潜んでいると考えたからだろう。その視点での読み解きのヒントを与えてくれるのが、この映画である。
映画を観終えて、ロビーの段ボールの残骸を眺め、箱男とは抜け殻かもしれないとも感じた。
ロビーに箱男の段ボール箱を置いていた。かなりボロボロなので、箱男の残骸にも見える。実物の段ボール箱は意外に大きく、存在感があり、かなり不気味である。
32年前、安部公房は石井監督に「娯楽映画にしてほしい」と言ったそうだ。この映画は、27年前に撮影直前になって制作中止となり、石井監督の執念の持続で安部公房生誕100年の今年、公開にこぎつけた。
どう作れば、あのメタフィクション的で難解な『箱男』が娯楽映画になるのだろうかと思いながら映画館に足を運んだ。観終えて、娯楽映画になっているかは疑問だった。箱男(永瀬正敏)と贋箱男(浅野忠信)の格闘シーンや軍医(佐藤浩市)の奇怪なふるまいなど、娯楽映画的に楽しめるシーンは多い。だが、原作と同様に話が迷路になっていて、わけがわからなくなってくる。
原作では「記録(小説『箱男』の本文?)」の書き手がだれかが不分明になっていき、この箇所の映画表現は困難だと思った。ところが、映画でもその部分を取り入れている。箱男とは見る存在ではなく記録する存在である、との認識にはナルホドと思った。
原作の登場人物は「葉子」以外は記号化されていて、そもそも別人なのか同一人物なのかも怪しくなる。俳優が演じる映画では、「わたし」「贋医者」「軍医」を個別の肉体が表現するので、多少はくっきりする。
そして、この映画は私が想定した以上に原作に忠実に作られていると感じた。原作の解釈のひとつの提示であり、あの小説を読み解く大きな手助けにもなる。その意味では、かなり重要な映画だと思う。
安部公房が「娯楽映画にしてほしい」と述べたのは、『箱男』には娯楽映画になる要素が潜んでいると考えたからだろう。その視点での読み解きのヒントを与えてくれるのが、この映画である。
映画を観終えて、ロビーの段ボールの残骸を眺め、箱男とは抜け殻かもしれないとも感じた。
中世イスラム世界が舞台の小説『千年医師物語 ペルシアの彼方へ』 ― 2024年09月09日
知人から『千年医師物語 ペルシアの彼方へ』が面白いと聞き、ネット古書店で20年以上前に出た文庫本を入手した。
『千年医師物語Ⅰ ペルシアの彼方へ(上)(下)』(ノア・ゴードン/竹内さなみ訳/角川文庫)
中世の西欧と中東を舞台にしたスケールの大きい物語である。面白く読了した。大工の子としてロンドンに生まれ、孤児になった主人公が、イギリス中を放浪したあげく海を渡り、遠くイスファハーン(イラン)にまで赴き、医師修行し、妻子を連れて帰国する成長譚である。艱難辛苦・波乱万丈の物語でもある。展開の速い大河ドラマのようだ。
同じく中世イギリスを舞台にしたオモシロ長編小説『大聖堂』を連想した。『大聖堂』と大きく異なるのは、中世のキリスト教世界だけでなくイスラム世界をかなり詳しく描いている点である。著者は米国の記者出身の作家で、1921年に95歳で亡くなっている。西欧の作家によるイスラム世界を舞台にした小説は珍しいように思う。
本書はフィクションだが、イブン・シーナ(980-1037)という実在の大学者が登場する。第二のアリストテレスとも言われる百科事典的大学者で、『医学典範』などの著書もある。主人公はイブン・シーナに医学の教えを乞うために長い旅をするのである。
加藤九祚の『中央アジア歴史群像』(岩波新書)はイブン・シーナについてかなり詳しく記述している。私はこの岩波新書を数年前に読んでいるが、イブン・シーナの名は失念していた。小説を読みながら、イブン・シーナについて検索し、かつて読んだ本に載っていたことを知った。この小説のイブン・シーナは重要な登場人物で印象深い。小説のおかげで、イブン・シーナの名をやっと覚えたような気がする。時間が経てば、また失念するかもしれないが…。
小説が扱う11世紀は「12世紀のルネサンス」以前であり、学術や文化の先進地域はイスラムだった。西欧は後進地域である。そのことを明快に描いているのも、この小説のユニークな点だと思う。
小説にはペストも出てくる。中世の医師たちは過去の文献を頼りにさまざまな対策を講じながらペストに挑む。そのなかで、壁を石灰で白く塗るという対策が出てきた。先日、南イタリア旅行でアルベルベッロを訪れ、白壁にとんがり屋根の中世の村を見た。ガイドは壁はペスト対策のため石灰で白く塗ったと説明していた。小説を読みながら、その説明とアルベルベッロの白壁を思い浮かべた。
【蛇足】
本書の邦題は『千年医師物語Ⅰ ペルシアの彼方へ』、原題は『The Physician』である。この小説は三部作で、主人公の子孫を扱った『Shaman』『Matters of Choice』と続くらしい。邦題は三部作全体を『千年医師物語』とし、ⅠⅡⅢとしたようだ。第二部は19世紀のアメリカの話で、南北戦争が絡んでいるそうだ。子孫の話だとしても、まったく別の物語に思える。私は、今のところ第二部に挑む予定はない。
『千年医師物語Ⅰ ペルシアの彼方へ(上)(下)』(ノア・ゴードン/竹内さなみ訳/角川文庫)
中世の西欧と中東を舞台にしたスケールの大きい物語である。面白く読了した。大工の子としてロンドンに生まれ、孤児になった主人公が、イギリス中を放浪したあげく海を渡り、遠くイスファハーン(イラン)にまで赴き、医師修行し、妻子を連れて帰国する成長譚である。艱難辛苦・波乱万丈の物語でもある。展開の速い大河ドラマのようだ。
同じく中世イギリスを舞台にしたオモシロ長編小説『大聖堂』を連想した。『大聖堂』と大きく異なるのは、中世のキリスト教世界だけでなくイスラム世界をかなり詳しく描いている点である。著者は米国の記者出身の作家で、1921年に95歳で亡くなっている。西欧の作家によるイスラム世界を舞台にした小説は珍しいように思う。
本書はフィクションだが、イブン・シーナ(980-1037)という実在の大学者が登場する。第二のアリストテレスとも言われる百科事典的大学者で、『医学典範』などの著書もある。主人公はイブン・シーナに医学の教えを乞うために長い旅をするのである。
加藤九祚の『中央アジア歴史群像』(岩波新書)はイブン・シーナについてかなり詳しく記述している。私はこの岩波新書を数年前に読んでいるが、イブン・シーナの名は失念していた。小説を読みながら、イブン・シーナについて検索し、かつて読んだ本に載っていたことを知った。この小説のイブン・シーナは重要な登場人物で印象深い。小説のおかげで、イブン・シーナの名をやっと覚えたような気がする。時間が経てば、また失念するかもしれないが…。
小説が扱う11世紀は「12世紀のルネサンス」以前であり、学術や文化の先進地域はイスラムだった。西欧は後進地域である。そのことを明快に描いているのも、この小説のユニークな点だと思う。
小説にはペストも出てくる。中世の医師たちは過去の文献を頼りにさまざまな対策を講じながらペストに挑む。そのなかで、壁を石灰で白く塗るという対策が出てきた。先日、南イタリア旅行でアルベルベッロを訪れ、白壁にとんがり屋根の中世の村を見た。ガイドは壁はペスト対策のため石灰で白く塗ったと説明していた。小説を読みながら、その説明とアルベルベッロの白壁を思い浮かべた。
【蛇足】
本書の邦題は『千年医師物語Ⅰ ペルシアの彼方へ』、原題は『The Physician』である。この小説は三部作で、主人公の子孫を扱った『Shaman』『Matters of Choice』と続くらしい。邦題は三部作全体を『千年医師物語』とし、ⅠⅡⅢとしたようだ。第二部は19世紀のアメリカの話で、南北戦争が絡んでいるそうだ。子孫の話だとしても、まったく別の物語に思える。私は、今のところ第二部に挑む予定はない。
日本の存在感の薄さの反映? ― 2024年09月12日
先月末の南イタリア旅行で念願のカステル・デル・モンテを訪問した。神聖ローマ皇帝フェデリコ2世が建てた用途不明の八角形の城である。
世界遺産カステル・デル・モンテの入り口には、各国語で歓迎メッセージを書いた看板が立っていた。日本語を探したがなかなか見つからない。ようやく右端に発見し、少しホッとした。しかし、このメッセージはかなり小さい。世界における現在の日本の存在感はこんな程度なのだろうかと思ってしまった。
世界遺産カステル・デル・モンテの入り口には、各国語で歓迎メッセージを書いた看板が立っていた。日本語を探したがなかなか見つからない。ようやく右端に発見し、少しホッとした。しかし、このメッセージはかなり小さい。世界における現在の日本の存在感はこんな程度なのだろうかと思ってしまった。
こんな人がいたとは知らなかった ― 2024年09月14日
朝日新聞の書評(2024.8.17)で保坂正康氏が紹介していた『奪還』を読んだ。「引き揚げの神様」と呼ばれた民間人・松村義士男という人物に関するノンフィクションである。
『奪還:日本人難民6万人を救った男』(城内康伸/新潮社)
敗戦後の満州からの引き揚げの悲惨な苦労話はいろいろ読んだ気がする。だが、本書の内容は私にとっては初耳だった。こんな人物がいたのかと驚いた。
舞台は北朝鮮である。私はうかつにも38度線は朝鮮戦争停戦によって定められた境界だと思っていた。この境界は朝鮮戦争以前の敗戦直後から存在していたのである。
広島への原爆投下から2日後の1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻する。そのため、敗戦後は38度線以北はソ連の管轄、38度線以南は米国の管轄となる。ソ連の撤収は北朝鮮が「独立」する1948年末である。
当時、北朝鮮地域には約25万人の一般邦人が住んでいた。そこに満州から約7万人の避難民もなだれ込んで来た。南朝鮮地域にいた邦人は比較的スムーズに日本への引き揚げることができたが、38度線が事実上封鎖されていたため、北朝鮮地域には約32万人の邦人難民があふれる状況になった。食糧不足や厳寒のために命を落とす人も少なくなかった。
なぜ、そんな事態になったのか。いろいろ理由はあるだろうが、ソ連軍が在留日本人の生活を無視して放置したからである。日本人送還の条件(費用負担など)に関して米ソがなかなか合意しなかったということもあった。北朝鮮地域でコレラの発生もあった。
敗戦は1945年8月、その年の冬を生き延びた難民たちは、居住環境や装備品の悪化などで1946年の冬を越えるのは困難だとの焦りがあった。そんな難民の南朝鮮への脱出に尽力した「引き揚げの神様」が松村義士男である。
労働運動に関わっていた松村は治安維持法違反で2回検挙されている。だが1940年頃には釈放され、朝鮮にある建設会社「西松組」で働いていた。敗戦3カ月前の1945年5月に33歳で召集され、敗戦時にはソ連軍の捕虜になる。そして、捕虜になった直後に脱走する。もし脱走しなければ、労働力としてシベリア送りになったはずだ。機転のきく人だったのだろう。
脱走した後、現地で日本人難民救済のための組織を立ち上げ、多くの日本人を38度線の南へ脱出させる。そのために、ソ連軍や北朝鮮当局と事前に交渉して「黙認」を取り付ける。そんな微妙な交渉ができたのは、治安維持法違反で投獄されていたときの朝鮮人投獄者との「人脈」を活用したようだ。みずから「共産党員」と僭称したこともある。それにしても、脱走した捕虜がソ連軍と堂々と交渉できたのが面白い。修羅場に強い胆力の人である。
ソ連が正式に日本人引き揚げを公認したのは1946年12月、すでに冬だった。それまでに、松村らの尽力によって大半の日本人が脱出していて、北朝鮮に残っていたのは8千人にすぎなかった。
脱出事業完了後、松村は帰国して工務店を立ち上げる。だが、その工務店は人手にわたる。北朝鮮での脱出事業のために借り入れた資金の返済が破綻の原因らしい。1967年(敗戦後22年)に55歳で病死しているが、それまでの生活は不明である。
敗戦後79年に出た本書を読んで、その時間の長さを感じる。空白の多い伝記にならざる得ない。事情を知る関係者の多くは存命でないので、人々が書き残した記録の渉猟がメインになる。それでも、著者は存命の引き揚げ者何人かにインタビューしている。16歳でソ連の侵攻を体験した94歳の女性は、ロシアのウクライナ侵攻のニュースに接して「あのときと全く一緒だわ。今も同じようなことが起きているなんて!」と語ったそうだ。
『奪還:日本人難民6万人を救った男』(城内康伸/新潮社)
敗戦後の満州からの引き揚げの悲惨な苦労話はいろいろ読んだ気がする。だが、本書の内容は私にとっては初耳だった。こんな人物がいたのかと驚いた。
舞台は北朝鮮である。私はうかつにも38度線は朝鮮戦争停戦によって定められた境界だと思っていた。この境界は朝鮮戦争以前の敗戦直後から存在していたのである。
広島への原爆投下から2日後の1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻する。そのため、敗戦後は38度線以北はソ連の管轄、38度線以南は米国の管轄となる。ソ連の撤収は北朝鮮が「独立」する1948年末である。
当時、北朝鮮地域には約25万人の一般邦人が住んでいた。そこに満州から約7万人の避難民もなだれ込んで来た。南朝鮮地域にいた邦人は比較的スムーズに日本への引き揚げることができたが、38度線が事実上封鎖されていたため、北朝鮮地域には約32万人の邦人難民があふれる状況になった。食糧不足や厳寒のために命を落とす人も少なくなかった。
なぜ、そんな事態になったのか。いろいろ理由はあるだろうが、ソ連軍が在留日本人の生活を無視して放置したからである。日本人送還の条件(費用負担など)に関して米ソがなかなか合意しなかったということもあった。北朝鮮地域でコレラの発生もあった。
敗戦は1945年8月、その年の冬を生き延びた難民たちは、居住環境や装備品の悪化などで1946年の冬を越えるのは困難だとの焦りがあった。そんな難民の南朝鮮への脱出に尽力した「引き揚げの神様」が松村義士男である。
労働運動に関わっていた松村は治安維持法違反で2回検挙されている。だが1940年頃には釈放され、朝鮮にある建設会社「西松組」で働いていた。敗戦3カ月前の1945年5月に33歳で召集され、敗戦時にはソ連軍の捕虜になる。そして、捕虜になった直後に脱走する。もし脱走しなければ、労働力としてシベリア送りになったはずだ。機転のきく人だったのだろう。
脱走した後、現地で日本人難民救済のための組織を立ち上げ、多くの日本人を38度線の南へ脱出させる。そのために、ソ連軍や北朝鮮当局と事前に交渉して「黙認」を取り付ける。そんな微妙な交渉ができたのは、治安維持法違反で投獄されていたときの朝鮮人投獄者との「人脈」を活用したようだ。みずから「共産党員」と僭称したこともある。それにしても、脱走した捕虜がソ連軍と堂々と交渉できたのが面白い。修羅場に強い胆力の人である。
ソ連が正式に日本人引き揚げを公認したのは1946年12月、すでに冬だった。それまでに、松村らの尽力によって大半の日本人が脱出していて、北朝鮮に残っていたのは8千人にすぎなかった。
脱出事業完了後、松村は帰国して工務店を立ち上げる。だが、その工務店は人手にわたる。北朝鮮での脱出事業のために借り入れた資金の返済が破綻の原因らしい。1967年(敗戦後22年)に55歳で病死しているが、それまでの生活は不明である。
敗戦後79年に出た本書を読んで、その時間の長さを感じる。空白の多い伝記にならざる得ない。事情を知る関係者の多くは存命でないので、人々が書き残した記録の渉猟がメインになる。それでも、著者は存命の引き揚げ者何人かにインタビューしている。16歳でソ連の侵攻を体験した94歳の女性は、ロシアのウクライナ侵攻のニュースに接して「あのときと全く一緒だわ。今も同じようなことが起きているなんて!」と語ったそうだ。
書き替えの痕跡を検証する安部公房の評伝の決定版 ― 2024年09月19日
今年は安部公房生誕100年。書店の棚に文庫の新刊が積まれ、映画『箱男』の上演も始まった。次の本も出た。
『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史/ミネルヴァ書房/2024.7)
一読して安部公房評伝の決定版だと思った。著者は1968年生まれの研究者である(私より20歳若い)。安部公房との面識はない。資料の渉猟や関係者への取材に10年の歳月を要したそうだ。労作である。
私は半世紀以上昔の学生時代には安部公房ファンだった。1960年代後半からはリアルタイムで安部公房作品に接してきた。主要作品や関連本を読んいるし、没後に刊行された全集30巻も購入した(私が持っている唯一の個人全集)。全集は拾い読みしただけだが、この作家の概要は把握した気になっている。
この評伝には、そんな私の知らない事項が次々に出てくる。曖昧で釈然としなかった事柄もクリアに見えてくる。よくぞここまで掘り起こしたものだと感心した。
本書の著者・鳥羽耕史氏は17年前に『運動体・安部公房』を上梓している。私は13年前にその本を読み、若き安部公房の政治的芸術活動を抽出した記述に感心した。同じ頃、安部公房の娘ねりによる『安部公房伝』も読み、この作家の実像を垣間見た。後日、『安部公房伝』を補完するような山口果林の『安部公房とわたし』を読み、実像の垣間見が深化した。『安部公房とはだれか』(木村陽子)も苦い評伝のようだった。2年前にはヤマザキマリの『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』で、この作家の普遍的な人気を再認識した。
この評伝のサブタイトル「消しゴムで書く」は、安部公房が自身の文学を語ったエッセイ(講談社の『われらの文学 7 安部公房』巻末の「私の文学」という共通タイトルの自己解説)に付した表題である。生活の作品化を拒絶し、生活の軌跡を作品に映すことを否定する姿勢を「消しゴムで書く」と表現したのだ。消しゴムで書くタイプの作家は「世界に対して自己の存在を、真空にちかいほどの大きな負圧として自覚する」とも述べている。印象深い文章だが、わかりやすくはなかった。
鳥羽氏は本書のはしがきで「安部公房の伝記を書くことは、彼の意思に逆らうことである。」としたうえで、次のように述べている。
「本書では、明らかになった伝記的な事柄や影響関係、それがどのように作品とかかわっていたか、また、その痕跡を公房がどのように消去していったか、ということについて書いてみたい。(…)彼の消しゴムの手際の鮮やかさは、消されたものの復元によってしか見えず、その作業によってこそ、消しゴムで書いた作家の真価が見えてくる、と思うからだ。」
この伝記には二つの特徴がある。一つは芸術運動、政治運動、演劇活動など小説創作とはやや異なる領域の活動を詳述している点である。これは前作『運動体・安部公房』に共通している。もう一つは、安部公房が生涯にわたって自己の作品(小説・戯曲)を改変してきた軌跡を細かく辿っている点である。この二つの特徴は絡み合っていて、非常に興味深い。
安部公房は過去の作品を再刊する際に大幅に手を入れることがあった。また、過去の作品をベースにした新作を発表することも多かった。それは認識していたが、本書によって改変の詳細を知り、その膨大さに少々驚いた。著者は改変の事実を坦々と紹介し、それへのコメントは最小限に抑えている。だが、改変の軌跡の全貌紹介だけで自ずとひとつの安部公房論になっている。
安部公房の演劇活動に関する次のような記述もある。
「桐朋学園の教え子であり「果林」の芸名も与えた山口果林と恋愛関係に入ったことが、演劇への情熱を支えていたようにも見える。妻の安部真知は公房の舞台美術の担当を続けたため、公房は妻と愛人の間で舞台演出をしていたことになる。」
以前に読んだ『安部公房とはだれか』(木村陽子)では、安部公房が劇団活動に傾斜していった要因の一つに舞台美術家としての安部真知の成長があったとし、次のように述べていた。
「舞台人として真知が大きな飛躍を遂げた60年代後半以降の安部演劇は、トータル・アドバイザーとしての真知のアイディアと感性によって補完される部分が大きかった」
安部公房の演劇に深く関与した妻と愛人の緊張関係を想像すると、ちょっと怖くなるあやういバランスの上の劇団活動だったのかと思ってしまう。
『安部公房:消しゴムで書く』(鳥羽耕史/ミネルヴァ書房/2024.7)
一読して安部公房評伝の決定版だと思った。著者は1968年生まれの研究者である(私より20歳若い)。安部公房との面識はない。資料の渉猟や関係者への取材に10年の歳月を要したそうだ。労作である。
私は半世紀以上昔の学生時代には安部公房ファンだった。1960年代後半からはリアルタイムで安部公房作品に接してきた。主要作品や関連本を読んいるし、没後に刊行された全集30巻も購入した(私が持っている唯一の個人全集)。全集は拾い読みしただけだが、この作家の概要は把握した気になっている。
この評伝には、そんな私の知らない事項が次々に出てくる。曖昧で釈然としなかった事柄もクリアに見えてくる。よくぞここまで掘り起こしたものだと感心した。
本書の著者・鳥羽耕史氏は17年前に『運動体・安部公房』を上梓している。私は13年前にその本を読み、若き安部公房の政治的芸術活動を抽出した記述に感心した。同じ頃、安部公房の娘ねりによる『安部公房伝』も読み、この作家の実像を垣間見た。後日、『安部公房伝』を補完するような山口果林の『安部公房とわたし』を読み、実像の垣間見が深化した。『安部公房とはだれか』(木村陽子)も苦い評伝のようだった。2年前にはヤマザキマリの『壁とともに生きる:わたしと「安部公房」』で、この作家の普遍的な人気を再認識した。
この評伝のサブタイトル「消しゴムで書く」は、安部公房が自身の文学を語ったエッセイ(講談社の『われらの文学 7 安部公房』巻末の「私の文学」という共通タイトルの自己解説)に付した表題である。生活の作品化を拒絶し、生活の軌跡を作品に映すことを否定する姿勢を「消しゴムで書く」と表現したのだ。消しゴムで書くタイプの作家は「世界に対して自己の存在を、真空にちかいほどの大きな負圧として自覚する」とも述べている。印象深い文章だが、わかりやすくはなかった。
鳥羽氏は本書のはしがきで「安部公房の伝記を書くことは、彼の意思に逆らうことである。」としたうえで、次のように述べている。
「本書では、明らかになった伝記的な事柄や影響関係、それがどのように作品とかかわっていたか、また、その痕跡を公房がどのように消去していったか、ということについて書いてみたい。(…)彼の消しゴムの手際の鮮やかさは、消されたものの復元によってしか見えず、その作業によってこそ、消しゴムで書いた作家の真価が見えてくる、と思うからだ。」
この伝記には二つの特徴がある。一つは芸術運動、政治運動、演劇活動など小説創作とはやや異なる領域の活動を詳述している点である。これは前作『運動体・安部公房』に共通している。もう一つは、安部公房が生涯にわたって自己の作品(小説・戯曲)を改変してきた軌跡を細かく辿っている点である。この二つの特徴は絡み合っていて、非常に興味深い。
安部公房は過去の作品を再刊する際に大幅に手を入れることがあった。また、過去の作品をベースにした新作を発表することも多かった。それは認識していたが、本書によって改変の詳細を知り、その膨大さに少々驚いた。著者は改変の事実を坦々と紹介し、それへのコメントは最小限に抑えている。だが、改変の軌跡の全貌紹介だけで自ずとひとつの安部公房論になっている。
安部公房の演劇活動に関する次のような記述もある。
「桐朋学園の教え子であり「果林」の芸名も与えた山口果林と恋愛関係に入ったことが、演劇への情熱を支えていたようにも見える。妻の安部真知は公房の舞台美術の担当を続けたため、公房は妻と愛人の間で舞台演出をしていたことになる。」
以前に読んだ『安部公房とはだれか』(木村陽子)では、安部公房が劇団活動に傾斜していった要因の一つに舞台美術家としての安部真知の成長があったとし、次のように述べていた。
「舞台人として真知が大きな飛躍を遂げた60年代後半以降の安部演劇は、トータル・アドバイザーとしての真知のアイディアと感性によって補完される部分が大きかった」
安部公房の演劇に深く関与した妻と愛人の緊張関係を想像すると、ちょっと怖くなるあやういバランスの上の劇団活動だったのかと思ってしまう。
観劇前に澤地久枝氏の「早わかり本」を読んだ ― 2024年09月21日
ノンフィクション作家・澤地久枝の高名は承知しているが、その著作を読んだことがない。澤地氏について少し知りたいと思い、家人の本棚にあった次の新書を読んだ。
『昭和史とわたし:澤地久枝のこころ旅』(澤地久枝/文春新書/2019.5)
澤地氏の膨大な著作の抜粋で構成したコンパクトな「仕事集成&一代記」である。編者がまとめたものを澤地氏がチェックしたようだ。オビには「本書はわが人生のアンソロジーです」とある。
この新書1冊で澤地氏の人生や考え方の概要を知った気分になる。と言っても「早わかり本」である。著作の1編も読まずにわかった気になってはイカンとも思う。
近く『失敗の研究―ノモンハン1939』という芝居を観る予定があり、それが本書を読んだ理由である。チラシによれば、1970年のとある出版社の女性編集者・沢田利枝や大物小説家・馬場が登場する芝居らしい。フィクションだろうが、沢田利枝は澤地久枝、馬場は司馬遼太郎をモデルにしているように思える。観劇前に未読の澤地氏について少しは知っておきたいと思った。
本書は1頁に1~2編の抜粋を収録し、それぞれの抜粋に小見出しを付けている。短文の羅列だが、それを自然な流れで読める工夫がなされていて読みやすい。全体は次のような構成だ。
序 その仕事を貫くもの
Ⅰ わたしの満州――戦前から戦中を過ごして
Ⅱ 棄民となった日々――敗戦から引揚げ
Ⅲ 異郷日本の戦後――わが青春は苦く切なく
Ⅳ もの書きになってから――出会った人・考えたこと
Ⅴ 心の海にある記憶――静かに半生をふりかえる
Ⅵ 向田邦子さん――生き続ける思い出
私には、著者の苛酷な体験を綴った「わたしの満州」「棄民となった日々」が興味深かった。著者は15歳のときに満州で敗戦を迎え、1年後に博多港に上陸している。戦中派の背負った背骨を感じざるを得ない体験談だ。
印象に残ったのは、俳句に命を救われたという話である。戦時中に満鉄調査部事件で検挙された獄中の夫に妻が送った葉書には、中村草田男の俳句「玫瑰や今も沖には未来あり」が書かれていた。私の好きな句のひとつだ。この葉書は厳しい検閲を通過して夫の手元に届く。獄死を覚悟していた夫は、この葉書で生き延びる気力を得たという。
私は、俳句に関しては桑原武夫の「第二芸術」にくみするが、第二芸術のもつ玄妙な力を認めざるを得ない。
『昭和史とわたし:澤地久枝のこころ旅』(澤地久枝/文春新書/2019.5)
澤地氏の膨大な著作の抜粋で構成したコンパクトな「仕事集成&一代記」である。編者がまとめたものを澤地氏がチェックしたようだ。オビには「本書はわが人生のアンソロジーです」とある。
この新書1冊で澤地氏の人生や考え方の概要を知った気分になる。と言っても「早わかり本」である。著作の1編も読まずにわかった気になってはイカンとも思う。
近く『失敗の研究―ノモンハン1939』という芝居を観る予定があり、それが本書を読んだ理由である。チラシによれば、1970年のとある出版社の女性編集者・沢田利枝や大物小説家・馬場が登場する芝居らしい。フィクションだろうが、沢田利枝は澤地久枝、馬場は司馬遼太郎をモデルにしているように思える。観劇前に未読の澤地氏について少しは知っておきたいと思った。
本書は1頁に1~2編の抜粋を収録し、それぞれの抜粋に小見出しを付けている。短文の羅列だが、それを自然な流れで読める工夫がなされていて読みやすい。全体は次のような構成だ。
序 その仕事を貫くもの
Ⅰ わたしの満州――戦前から戦中を過ごして
Ⅱ 棄民となった日々――敗戦から引揚げ
Ⅲ 異郷日本の戦後――わが青春は苦く切なく
Ⅳ もの書きになってから――出会った人・考えたこと
Ⅴ 心の海にある記憶――静かに半生をふりかえる
Ⅵ 向田邦子さん――生き続ける思い出
私には、著者の苛酷な体験を綴った「わたしの満州」「棄民となった日々」が興味深かった。著者は15歳のときに満州で敗戦を迎え、1年後に博多港に上陸している。戦中派の背負った背骨を感じざるを得ない体験談だ。
印象に残ったのは、俳句に命を救われたという話である。戦時中に満鉄調査部事件で検挙された獄中の夫に妻が送った葉書には、中村草田男の俳句「玫瑰や今も沖には未来あり」が書かれていた。私の好きな句のひとつだ。この葉書は厳しい検閲を通過して夫の手元に届く。獄死を覚悟していた夫は、この葉書で生き延びる気力を得たという。
私は、俳句に関しては桑原武夫の「第二芸術」にくみするが、第二芸術のもつ玄妙な力を認めざるを得ない。
戦争を終わらせられるかを問う『失敗の研究―ノモンハン1939』 ― 2024年09月23日
紀伊国屋サザンシアターで青年劇場公演『失敗の研究―ノモンハン1939』(作:古川健康、演出:鵜山仁、出演:岡本有紀、矢野貴大、他)を観た。この劇団の芝居を観るのは『豚と真珠湾―幻の八重山共和国』以来2年ぶりだ。出版社の編集部が主な舞台の真面目なストレートプレイである。このテの芝居を観ると胸のあたりがこそばゆくなる。だが、退屈することなく面白く観劇した。
時代は1970年。出版社の経理部から編集部に抜擢された女性編集者・沢田利枝が、1936年の「ノモンハン事件」を取材する話である。ノモンハンの企画は大物小説家・馬場貫太郎の発案によるもので、利枝はその取材を手伝う。だが、馬場は取材途中で執筆を断念する。それでも利枝は取材を続けるのだが……という展開である。プロローグとエピローグに、ノンフィクション作家になった現在(2024年)の利枝が登場する。
――そんな粗筋からは、中央公論社の経理部から編集部に異動になり、その後ノンフィクション作家に転身した澤地久枝や、ノモンハン小説を構想しながらも断念した司馬遼太郎を連想せざるを得ない。しかし、内幕モノの伝記芝居ではない。作者は、実在の人物をヒントに、ノモンハンを材料にして「どのようにして戦争が起きたのか」「どうしたら戦争を終わらせることができるのか」を追究している。戦争に関するメッセージ性の高い芝居である。
1970年を舞台にしたこの芝居には、当時の内外のフォークソングが流れる。団塊世代の私にとっては懐かしい曲ばかりだ。編集者たちの会話も当時の世相を反映している。だが、そんなフォークソングや会話に、あの頃の若者だった私はかすかな違和感を抱いた。安易な類型で処理されているように感じる。時代を深く適格に表現するのは容易でないとは思うが。
ノモンハン事件について、私は3年前に読んだ『ノモンハンの夏』(半藤一利)で知っているだけだ。その記憶も薄れかけている。この芝居は「ノモンハン事件」の概説でもあり、この悲惨な「戦争」をあらためて想起できた。あの「戦争」の「失敗の研究」が成されていれば、真珠湾を避けられただろうか。まったくわからない。
「20世紀は戦争の世紀」と言われる。「21世紀も戦争の世紀になるのだろうか」というこの芝居のメッセージには慄然とした。
時代は1970年。出版社の経理部から編集部に抜擢された女性編集者・沢田利枝が、1936年の「ノモンハン事件」を取材する話である。ノモンハンの企画は大物小説家・馬場貫太郎の発案によるもので、利枝はその取材を手伝う。だが、馬場は取材途中で執筆を断念する。それでも利枝は取材を続けるのだが……という展開である。プロローグとエピローグに、ノンフィクション作家になった現在(2024年)の利枝が登場する。
――そんな粗筋からは、中央公論社の経理部から編集部に異動になり、その後ノンフィクション作家に転身した澤地久枝や、ノモンハン小説を構想しながらも断念した司馬遼太郎を連想せざるを得ない。しかし、内幕モノの伝記芝居ではない。作者は、実在の人物をヒントに、ノモンハンを材料にして「どのようにして戦争が起きたのか」「どうしたら戦争を終わらせることができるのか」を追究している。戦争に関するメッセージ性の高い芝居である。
1970年を舞台にしたこの芝居には、当時の内外のフォークソングが流れる。団塊世代の私にとっては懐かしい曲ばかりだ。編集者たちの会話も当時の世相を反映している。だが、そんなフォークソングや会話に、あの頃の若者だった私はかすかな違和感を抱いた。安易な類型で処理されているように感じる。時代を深く適格に表現するのは容易でないとは思うが。
ノモンハン事件について、私は3年前に読んだ『ノモンハンの夏』(半藤一利)で知っているだけだ。その記憶も薄れかけている。この芝居は「ノモンハン事件」の概説でもあり、この悲惨な「戦争」をあらためて想起できた。あの「戦争」の「失敗の研究」が成されていれば、真珠湾を避けられただろうか。まったくわからない。
「20世紀は戦争の世紀」と言われる。「21世紀も戦争の世紀になるのだろうか」というこの芝居のメッセージには慄然とした。
『砂糖の世界史』で蒙を啓かれた ― 2024年09月27日
次の岩波ジュニア新書を読んだ。
『砂糖の世界史』(川北稔/岩波ジュニア新書)
発行は28年前の1996年7月。私が読んだのは2023年4月の44刷だ。ロングセラーである。蒙を啓かれる面白い本だった。
今年の春、Eテレで放映した『3か月でマスターする世界史』の講師・岡本隆司氏の『世界史序説』で本書を知った。岡本氏は本書を、ウォーラーステインの世界システム論を祖述・発展させた不滅の業績と評価し、次のように紹介している。
「『砂糖の世界史』が描くところは、世界最高水準の世界経済史像であって、それが高校生にでもわかる平易な日本語で読めるのは、後学の至福だといってよい。」
こんな紹介を読めば、読まねばならない気分になる。
砂糖をめぐる世界史は、植民地の大規模農園プランテーション発生の歴史であり、奴隷制度の歴史であり、大西洋での三角貿易の歴史であり、産業革命の歴史である。「砂糖のあるところに奴隷あり」という言葉を初めて知った。製糖業の発展が奴隷制度と表裏一体だったと知り、認識を新たにした。
また、イギリスにおける紅茶の普及と砂糖が密接に関係し、それが産業革命に絡んでいることも知った。2年前に入手した高校世界史の図解副読本『最新世界史図説 タペストリー』巻頭の「読み解き演習」に「イギリスにおける紅茶の普及」という見開きページがあったのを思い出した。貴族が紅茶を飲む18世紀前半の絵画と労働者が紅茶を飲む19世紀後半の絵画を比較・考察するページだった。本書によって、あの考察への理解が深まった。
『最新世界史図説 タペストリー』をよく見ると、監修者の一人は『砂糖の世界史』の著者・川北稔氏だ。川北氏はウォーラーステインの大著『近代世界システム』の翻訳者でもある。私はこの大著に挑む元気はないが、世界史システム論の考え方の一端に触れることができた。
著者は「あとがき」で「この本は「世界システム」論といわれる歴史の見方と、歴史人類学の方法を使って書いてみました」と述べている。歴史人類学とは、モノや慣習などを通じて歴史上の人々の生活の実態を調べる学問だそうだ。確かに、砂糖などのモノに着目すれば、歴史の実態に触れたような気分になる。
本書は日本における砂糖の歴史にも言及している。私は10年前にサイパン旅行をしたとき、サイパンの歴史を少し調べた。そのとき、海の満鉄と呼ばれた南洋興発という会社を知った。製糖業で発展した会社である。本書を読みながら南洋興発への言及があるかと期待したが、そこまで筆は及んでなかった。
『砂糖の世界史』(川北稔/岩波ジュニア新書)
発行は28年前の1996年7月。私が読んだのは2023年4月の44刷だ。ロングセラーである。蒙を啓かれる面白い本だった。
今年の春、Eテレで放映した『3か月でマスターする世界史』の講師・岡本隆司氏の『世界史序説』で本書を知った。岡本氏は本書を、ウォーラーステインの世界システム論を祖述・発展させた不滅の業績と評価し、次のように紹介している。
「『砂糖の世界史』が描くところは、世界最高水準の世界経済史像であって、それが高校生にでもわかる平易な日本語で読めるのは、後学の至福だといってよい。」
こんな紹介を読めば、読まねばならない気分になる。
砂糖をめぐる世界史は、植民地の大規模農園プランテーション発生の歴史であり、奴隷制度の歴史であり、大西洋での三角貿易の歴史であり、産業革命の歴史である。「砂糖のあるところに奴隷あり」という言葉を初めて知った。製糖業の発展が奴隷制度と表裏一体だったと知り、認識を新たにした。
また、イギリスにおける紅茶の普及と砂糖が密接に関係し、それが産業革命に絡んでいることも知った。2年前に入手した高校世界史の図解副読本『最新世界史図説 タペストリー』巻頭の「読み解き演習」に「イギリスにおける紅茶の普及」という見開きページがあったのを思い出した。貴族が紅茶を飲む18世紀前半の絵画と労働者が紅茶を飲む19世紀後半の絵画を比較・考察するページだった。本書によって、あの考察への理解が深まった。
『最新世界史図説 タペストリー』をよく見ると、監修者の一人は『砂糖の世界史』の著者・川北稔氏だ。川北氏はウォーラーステインの大著『近代世界システム』の翻訳者でもある。私はこの大著に挑む元気はないが、世界史システム論の考え方の一端に触れることができた。
著者は「あとがき」で「この本は「世界システム」論といわれる歴史の見方と、歴史人類学の方法を使って書いてみました」と述べている。歴史人類学とは、モノや慣習などを通じて歴史上の人々の生活の実態を調べる学問だそうだ。確かに、砂糖などのモノに着目すれば、歴史の実態に触れたような気分になる。
本書は日本における砂糖の歴史にも言及している。私は10年前にサイパン旅行をしたとき、サイパンの歴史を少し調べた。そのとき、海の満鉄と呼ばれた南洋興発という会社を知った。製糖業で発展した会社である。本書を読みながら南洋興発への言及があるかと期待したが、そこまで筆は及んでなかった。
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