唐十郎を追悼して『唐十郎の劇世界』を読んだ2024年05月11日

『唐十郎の劇世界』(扇田昭彦/右文書院/2007.1)
 先週亡くなった唐十郎を追悼する気分で次の本を読んだ。

 『唐十郎の劇世界』(扇田昭彦/右文書院/2007.1)

 朝日新聞の演劇記者だった扇田昭彦が新聞や雑誌に書いた唐十郎関連の記事93編の集成である。かなり以前に入手し、いくつかの記事を拾い読みしていたが、今回、頭から通して読んだ。

 扇田昭彦は唐十郎と同じ1940年生まれ(学年は唐十郎が一つ上)で、2015年に亡くなった。本書収録記事の発表年は1970年から2006年にわたるが、大半は1970~80年代だ。古い記事をまとめて読むと往時にタイムスリップする。私にとって懐かしいのは、観劇の記憶がよみがえってくる1970年代の劇評だ。

 2年前に読んだ『唐十郎のせりふ』は私が観ていない2000年代の作品を論じていて、多少の隔靴掻痒の感があった。本書はどっぷりと観劇記憶を追体験できる。

 1970年代、朝日新聞には状況劇場を高く評価する劇評がよく載った。その筆者が扇田記者だとは承知していた。客が押し寄せてテントにギュウギュウ詰めにされ、朝日新聞があんな劇評を載せるからだと逆恨みしたこともある。

 あの頃、扇田記者も唐十郎も三十代、観客の私は二十代だった。本書所収の1982年の記事に次のような記述がある。

 「私が多少むきになって小劇場の動きをクローズアップしはじめたのは、これこそがいま本当に演劇と呼びうるものだと思ったからであると同時に、これら小劇場に対する一般の演劇的理解の浅さにいささか憤慨したからである。」

 本書をまとめて読むと、アングラと呼ばれた小劇場の興隆と帰趨、そしてさまざまな世代交代を一望した気分になる。感慨深い。

 私が唐十郎の世界に引きずり込まれたのは1969年12月だった。その年の夏、古書店で戯曲集『ジョン・シルバー』を購入しているから多少の関心はあったが、1969年12月封切りの映画『新宿泥棒日記』が衝撃的だった。唐十郎の怪しさに惹かれた。その直後、季節外れの大学祭に招いた状況劇場一党の歌謡ショーで四谷シモンの妖しさに陶酔し、すぐに紅テントに駆け付けた。上演中の『少女都市』観て、麿赤児の怪演に度肝を抜かれた。

 それ以来、紅テントに通うようになった。いつどこで何を観たか、もはや記憶はあいまいだ。ハーメルンの笛吹き男に誘われるように、渋谷・吉祥寺・上野・月島埠頭の石炭船・夢の島・大久保のロケット工場・青山墓地・下北沢・新宿西口などに立つ紅テントに足を運んだ。

 古いメモなどを頼りに記憶をたどると、私が最後に観た紅テント(状況劇場)の芝居は1979年5月の『犬狼都市』のようだ。1969年から1979年までの10年間に14本の状況劇場公演を観ている。他に状況劇場以外で上演した唐十郎の芝居も何本か観ている。だが、1980年代以降はほとんど芝居を観なくなった。言い訳めくが、三十代後半からは仕事も忙しくなり、観劇に時間を割く余裕がなくなった。

 1988年、状況劇場は解散する。その後、唐十郎は紅テントの劇団唐組を立ち上げたと聞いていたが、その紅テントに足を運ぶことはなかった。

 それから長い年月が経過し、自由の身となった私は、2018年5月には47年ぶりに紅テントで劇団唐組の『吸血姫』を観た。47年前に一緒に観劇した友人との再びの観劇という不思議な体験だった。客席に唐十郎と麿赤児が並んで座っているの発見し、感激した。

 その後、唐十郎の芝居を再び観るようになった。あちこちで上演される機会が多いからだ。場所も大劇場からテントまでさまざまである。本書は、唐十郎の次の述懐を紹介している。

 「テントはスケールの大きな役者が育つ空間。テントがないと、ぼくは戯曲を書きたいとは思わない」

 先週、花園神社境内の紅テント公演『泥人魚』で、役者たちの汗やツバが目の前を飛ぶ熱演に接した。あらためて、唐十郎の生涯にわたるテント芝居への執着に敬服する。

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