トルストイ論『ハリネズミと狐』で何故か三島由紀夫を想起 ― 2021年06月26日
先日読んだ
『理不尽な進化』が名著と紹介していた次の本を読んだ。
『ハリネズミと狐:『戦争と平和』の歴史哲学』(バーリン/河合秀和訳/岩波文庫)
ギリシア詩人アルキロコスは「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことをひとつだけ知っている」という一行を残した。それが本書の表題になった。この言葉からは、狐よりハリネズミを高く評価している印象を受ける。
『戦争と平和』のトルストイを論じた本書は「トルストイは本来は狐だったが、自分はハリネズミだと信じていた」としている。『理不尽な進化』でこの面白い指摘を知り、本書を入手した。文芸評論と思って読み始めた150ページ弱の薄い文庫本は、難解な哲学書だった。著者は哲学者で、サブタイトルには確かに「歴史哲学」とある。
本書冒頭で著者はハリネズミと狐の差異を論じている。この論考も理解しやすくはない。大雑把に単純化すればハリネズミは一元論的、狐は多元論的ということだろうか。著者は作家たちを次のように分類している。いずれも錚々たる陣容である。
【ハリネズミ族】ダンテ、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプソン、プルースト
【狐族】シェイクスピア、ヘロドトス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイス
そんな前置きのうえで、あの長大な『戦争と平和』を検討しつつ「自分をハリネズミだと思っていたトルストイは狐だった」との論を展開している。ハリネズミと狐の優劣を論じているわけではない。どちらかと言えば狐をよしとしていると思える。
このトルストイ論を読みながら三島由紀夫を想起した。昔読んだ 石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』に、山本七平が「聖人を描くのか自分が聖人になるのか自らの内で不明になってしまった晩年のトルストイ」と三島を対応させたとの紹介があった。
三島由紀夫も、本来は狐なのに自分はハリネズミと信じようとした悲劇の人に思えてきた。三島由紀夫とトルストイは全く異質の作家だと思う。だが、トルストイの晩年を描いた 映画『終着駅』の悲しくも滑稽なさまが三島の最後の滑稽に重なってくる。
『ハリネズミと狐:『戦争と平和』の歴史哲学』(バーリン/河合秀和訳/岩波文庫)
ギリシア詩人アルキロコスは「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミはでかいことをひとつだけ知っている」という一行を残した。それが本書の表題になった。この言葉からは、狐よりハリネズミを高く評価している印象を受ける。
『戦争と平和』のトルストイを論じた本書は「トルストイは本来は狐だったが、自分はハリネズミだと信じていた」としている。『理不尽な進化』でこの面白い指摘を知り、本書を入手した。文芸評論と思って読み始めた150ページ弱の薄い文庫本は、難解な哲学書だった。著者は哲学者で、サブタイトルには確かに「歴史哲学」とある。
本書冒頭で著者はハリネズミと狐の差異を論じている。この論考も理解しやすくはない。大雑把に単純化すればハリネズミは一元論的、狐は多元論的ということだろうか。著者は作家たちを次のように分類している。いずれも錚々たる陣容である。
【ハリネズミ族】ダンテ、プラトン、ルクレティウス、パスカル、ヘーゲル、ドストエフスキー、ニーチェ、イプソン、プルースト
【狐族】シェイクスピア、ヘロドトス、アリストテレス、モンテーニュ、エラスムス、モリエール、ゲーテ、プーシキン、バルザック、ジョイス
そんな前置きのうえで、あの長大な『戦争と平和』を検討しつつ「自分をハリネズミだと思っていたトルストイは狐だった」との論を展開している。ハリネズミと狐の優劣を論じているわけではない。どちらかと言えば狐をよしとしていると思える。
このトルストイ論を読みながら三島由紀夫を想起した。昔読んだ 石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』に、山本七平が「聖人を描くのか自分が聖人になるのか自らの内で不明になってしまった晩年のトルストイ」と三島を対応させたとの紹介があった。
三島由紀夫も、本来は狐なのに自分はハリネズミと信じようとした悲劇の人に思えてきた。三島由紀夫とトルストイは全く異質の作家だと思う。だが、トルストイの晩年を描いた 映画『終着駅』の悲しくも滑稽なさまが三島の最後の滑稽に重なってくる。
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