トルストイは明治の滑稽な同時代人2010年10月25日

 『終着駅 トルストイ最後の旅』はいい映画だった。映画らしい映画を観たという気分になった。トルストイの晩年とその死を描いた映画だ。トルストイが主役だと思って観ていたが、途中からトルストイの妻の方が主役なのだと気づいた。トルストイの妻・ソフィアを演じたヘレン・ミレンの魅力と存在感は圧倒的だ。

 私にとって、ロシア文学はやはりドストエフスキイで、トルストイは敬遠気味の作家だ。若い頃『アンナ・カレーニナ』や『戦争と平和』は読んだが、後者の内容はほとんど失念している。
 トルストイは「文豪」という言葉が最もぴったりくる作家だ。サンタクロースのような白髭をたくわえたストイックな風貌も文豪然としていて、ちょっと近寄りがたい。「白樺派」のイメージに重なるトルストイルの「正義感」「聖人君子」のようなものも、私がトルストイを敬して遠ざける気持ちにつながっている。

 トルストイのイメージを一段と神格化しているのは、最晩年に家出をして僻地の駅で亡くなったという伝説的なエピソードだろう。私は子供の頃、トルストイ家出のエピソードを祖父から聞かされた記憶がある。
 私の母方の祖父はシュバイツァー、ガンジー、トルストイが好きな変わった医者で、彼らのように生きることを信条とし、山奥の診療所に長く奉職していた。だから、私のトルストイへのイメージには、祖父への印象と部分的に重なっているかもしれない。

 私の中にあるトルストイ最期のイメージは、枯木のような老人が寒村の駅のベンチで野垂れ死んでいく様だった。しかし、この映画を観ると実際の様子は私のイメージとは少し異なっていたようだ。
 トルストイの家出は、家出とは言っても医者や秘書や娘を同行した家出で、団体放浪旅行のようである。死亡場所は確かに駅舎だが、駅長から提供されたきちんとした寝室である。そして、死期を迎えたトルストイがそこに滞在していることは周知の事実で、駅舎の周りにはマスコミがテント村を作って「文豪の死」を待っていたのだ。かなり現代的光景だが、実情もこれに近かったようだ。

 トルストイの死は1910年(明治43年)11月20日、100年前である。手元の本(朝日新聞100年の記事にみる⑨ 追悼録 上)で当時の朝日新聞の記事を読んでみた。ロイター、ベルリン特約通信社、ウラジオ特派員などからの速報に続いて「文豪トルストイ 今度は眞(ほんと)に死んだ」という見出しの記事がある。書き出しは「文豪トルストイ伯も、路透(ロイター)、伯林(ベルリン)、浦潮(ウラジオ)の諸電報で、今度こそは正真正銘間違いなく『死んだ』と確認された」となっている。
 当時、瀕死のトルストイに世界中のマスコミが注目していて、何度か「死んだ」という誤報が流れたようだ。映画にあった駅舎の周りのテント村での取材合戦を観ると、いかにも起こりそう誤報である。

 この古い新聞記事に接して、トルストイが死んだ時、私の祖父は何歳だったのかが気になった。調べてみると、17歳だった。これは、私にとっては意外な発見だった。トルストイやドストエフスキーは19世紀古典文学の遠い過去の人のように感じていたが、トルストイが比較的最近の人に見えてきた。彼は82歳まで生きたので、死んだのは20世紀だったのだ。
 17歳の祖父にとってトルストイの死は同時代の偉大な作家の死であり、多感な少年にとってはかなりの衝撃だったのかもしれない。

 トルストイの年譜や伝記を眺めてみて、長生きをしたことが、この作家をわかりにくくしているように思えてきた。
 『戦争と平和』を書きあげたのが39歳、『アンナ・カレーニナ』を書きあげたのが49歳で、その頃の風貌はもちろんサンタクロース髭ではなく、もっと精悍である。大作家としての活動はその精悍な顔の頃までで、それ以降の三十数年は悩み多き求道者・啓蒙家になったようだ。トルストイは決して聖人君子ではなかった。悪行と反省を繰り返す生真面目人間で、ある意味では滑稽な人だったように思える。

 『終着駅 トルストイ最後の旅』では、トルストイ主義者に囲まれ持ち上げられ、それを居心地が悪いと感じているわけでもなさそうなトルストイが描かれている。同時に、心の奥のどこかでトルストイ主義者に違和感をもっているように見えるトルストイも描かれている。これは、滑稽な姿である。
 この映画が面白いのは、悪妻と言われたソフィアに焦点をあてることで、はからずもトルストイの滑稽さを表現しているところにある。『終着駅 トルストイ最後の旅』を観て、トルストイへの認識が少し変わった。

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