三島由紀夫没後40年の日に三島本を読んでみた2010年11月25日

『三島由紀夫の日蝕』(石原慎太郎/新潮社/1991.3.10)
 本日(2010年11月25日)は三島由紀夫没後40年目だ。朝刊の小さなコラムでそれに気づいた。外出のとき、読みかけの本ではなく三島関連の本を鞄に入れた。先日の神田古本まつりで購入した石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』である。面白かったので、往復の電車+αで読了した。

 三島由紀夫について書かれた本は山ほど出ていて、その多くが私にとっては三島由紀夫の作品以上に面白い。本末転倒のような気もするが仕方ない。そのような作家になってしまったことは、作家本人にとっては不本意なのか本望なのか・・・そんなことを考えてしまうのが、三島由紀夫の特異性である。

 『三島由紀夫の日蝕』は約20年前、つまり三島由紀夫没後20年に、三島由紀夫と親交のあった石原慎太郎が追憶を交えて三島由紀夫を論じた本だ。
 私は、この本が出版された当時、本屋の店頭で立ち読みして、大雑把な内容は把握していた。本書において、スポーツマンの石原慎太郎は、ボディービルでダテ筋肉をつけた三島由紀夫の運動音痴を指摘している。また、三島由紀夫はひそかに政界入りを考えていたので、石原慎太郎に先を越されてくやしがっていたと述べている。
 当時、立ち読みしただけで購入しなかったのは、石原慎太郎の自意識過剰な語り口が鼻についたからだ(本書によれば、三島由紀夫が自意識の人で石原慎太郎は無意識過多となっているが)。

 三島由紀夫没後40年の日、20年ぶりに本書を通読して、石原慎太郎の見方はほぼ当たっていると思えた。同時に、無理な生き方に自分を追い込んでいった三島由紀夫が気の毒にも滑稽にも思えた。
 また、本書を読んでいてハッとしたのは、山本七平が「聖人を描くのか自分が聖人になるのか自らの内で不明になってしまった晩年のトルストイとの比較で三島氏の衝動を占っていた」という指摘だ。先月、トルストイの晩年を描いた映画を見て、その意外な滑稽さを感じたばかりだったので、三島由紀夫の滑稽さとの比較になるほどと思った。

 三島由紀夫は奇矯な分かりにくさと明晰さを併せもつ作家だった。本書を含めて三島由紀夫に関する本が面白いのは、三島由紀夫の奇矯をつきつめてくると見えてくる「コンプレックス」「自己演出」「韜晦」「自縄自縛」「矛盾」などは、他の多くの作家や一般の人々の内部にも幾分かは等しく存在するものだからである。もちろん、程度の多寡はあり、極端な形で出現したのが三島由紀夫という作家だったのだろう。

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