探検の時代の西域にはスパイがいっぱい ― 2025年08月28日
先日読んだ『中亜探検』(橘瑞超)は意外に面白かった。あの文庫本に詳しい解説を書いていた金子民雄氏による次の新書を入手して読んだ。
『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)
19世紀末から20世紀初めにかけての二十数年、西域探検が華やかだった。ヘディンやスタインが活躍した時代である。その頃の西域の状況を描いた本書は、大谷探検隊(第一次~第三次)に焦点をあてている。橘瑞超の『中亜探検』は第三次隊の記録だったが、本書によって第一次と第二次の概要がわかった。また、英露などの諸国が絡んだあの時代の西域の雰囲気や国際情勢を知ることができた。
本書のキーワードは「グレイト・ゲーム」である。1907年にノーベル文学賞を受賞した英国の作家キプリングが1901年に発表した小説『キム』に出てくる言葉で、当時、欧米では流行語になったそうだ。英領インドのイギリス人孤児キムが少年スパイとして活躍する物語らしい。本書は随所で『キム』に言及している。いずれこの小説を読んでみたい、という気分にさせられる。
1900年前後の西域は、英露のスパイが諜報活動をくり広げるグレイト・ゲームの舞台だった。そこに乗り込んだ大谷探検隊(西本願寺西域探検隊)は、しばしば日本のスパイと見なされたが、実際には諜報活動に携わってはいなかったようだ。
アラビアのロレンスのように考古学者で諜報員という存在は珍しくない。西域で伝道活動をしている英国の宣教師の多くは諜報活動も担っていたそうだ。僧侶だからスパイでないと信頼されることはない。
当時の西域探検・発掘は各国の競争の場だった。クチャに一番乗りしたのは第一次大谷探検隊である。近くまで来ていたドイツ探検隊に先駆けて貴重は遺物を発掘する。著者は次のように述べている。
「日本ではまだ考古学の調査方法が十分確立していなかったので、西本願寺隊も壁画、仏像、古文書、古銭や古物品を熱心に集めたものの、記録と整理に不備があって、発掘品の正確な出土地が不明になるものが多かった。これは前後三回の探検を通しての共通した欠陥だった。(…)すばらしいものを発見、将来したものの、十分な成果が発表されたとは言い難かった。」
先日読んだ『西域』(羽田明)に、大谷探検隊がクチャのキジル千仏洞の実測図を紛失した話があった。この件について、本書は次のように述べている。
「せっかく測量したのに、堀賢雄のキジル千仏洞の実測図は紛失してしまった。一番肝心なものを失くしてしまったことになる。外国の探検家がよく失くすのが測量図で、これはまず人為的事故と見なすのが普通である。ヘディンの場合、同じものを三枚は作り、別々に保管した。」
他国に先駆けて作成した測量図は盗難にあった可能性が高いようだ。まさに諜報戦の世界だ。
大谷光瑞は第二次隊に18歳の橘瑞超を抜擢する。「頭も切れ、豪胆・健康だから」という理由である。著者は、光瑞が小説『キム』を読んでいて、若い瑞超の起用を思いついたのではと想像している。第一次の隊員は体験も学力もある常識人だった。無謀で突飛な発想力には欠けていた。光瑞は若い瑞超の決断力と突破力に賭け、瑞超の第三次隊はその期待に応えようとしたのかもしれない。
瑞超の第三次隊はタクラマカン砂漠の縦断に成功する。現地に踏み込んだことがある著者は「どんな探検家でも、こんな無謀なことはまずしない。(…)風に吹かれたらまず助からない」と評している。
瑞超はチベット踏破には失敗する。著者は、瑞超が試みたのとほぼ同じ崑崙の山にとりつく所までは行ってみたそうだ。「家畜を連れての旅はまったく無理と思えた」と述べている。隊員の逃亡もあり、失敗すべくして失敗した。著者は、清国政府による妨害が絡んでいた可能性を示唆している。チベット踏破は当初の計画にはなく、瑞超が独断で決行した。瑞超がホータンから崑崙山脈を越えてチベットへ向かっていると知った清国政府は日本政府へ抗議の通告をしている。まさに諜報戦の時代、瑞超の無謀な行動を見張っている眼があったようだ。
『西域 探検の世紀』(金子民雄/岩波新書/2002.3)
19世紀末から20世紀初めにかけての二十数年、西域探検が華やかだった。ヘディンやスタインが活躍した時代である。その頃の西域の状況を描いた本書は、大谷探検隊(第一次~第三次)に焦点をあてている。橘瑞超の『中亜探検』は第三次隊の記録だったが、本書によって第一次と第二次の概要がわかった。また、英露などの諸国が絡んだあの時代の西域の雰囲気や国際情勢を知ることができた。
本書のキーワードは「グレイト・ゲーム」である。1907年にノーベル文学賞を受賞した英国の作家キプリングが1901年に発表した小説『キム』に出てくる言葉で、当時、欧米では流行語になったそうだ。英領インドのイギリス人孤児キムが少年スパイとして活躍する物語らしい。本書は随所で『キム』に言及している。いずれこの小説を読んでみたい、という気分にさせられる。
1900年前後の西域は、英露のスパイが諜報活動をくり広げるグレイト・ゲームの舞台だった。そこに乗り込んだ大谷探検隊(西本願寺西域探検隊)は、しばしば日本のスパイと見なされたが、実際には諜報活動に携わってはいなかったようだ。
アラビアのロレンスのように考古学者で諜報員という存在は珍しくない。西域で伝道活動をしている英国の宣教師の多くは諜報活動も担っていたそうだ。僧侶だからスパイでないと信頼されることはない。
当時の西域探検・発掘は各国の競争の場だった。クチャに一番乗りしたのは第一次大谷探検隊である。近くまで来ていたドイツ探検隊に先駆けて貴重は遺物を発掘する。著者は次のように述べている。
「日本ではまだ考古学の調査方法が十分確立していなかったので、西本願寺隊も壁画、仏像、古文書、古銭や古物品を熱心に集めたものの、記録と整理に不備があって、発掘品の正確な出土地が不明になるものが多かった。これは前後三回の探検を通しての共通した欠陥だった。(…)すばらしいものを発見、将来したものの、十分な成果が発表されたとは言い難かった。」
先日読んだ『西域』(羽田明)に、大谷探検隊がクチャのキジル千仏洞の実測図を紛失した話があった。この件について、本書は次のように述べている。
「せっかく測量したのに、堀賢雄のキジル千仏洞の実測図は紛失してしまった。一番肝心なものを失くしてしまったことになる。外国の探検家がよく失くすのが測量図で、これはまず人為的事故と見なすのが普通である。ヘディンの場合、同じものを三枚は作り、別々に保管した。」
他国に先駆けて作成した測量図は盗難にあった可能性が高いようだ。まさに諜報戦の世界だ。
大谷光瑞は第二次隊に18歳の橘瑞超を抜擢する。「頭も切れ、豪胆・健康だから」という理由である。著者は、光瑞が小説『キム』を読んでいて、若い瑞超の起用を思いついたのではと想像している。第一次の隊員は体験も学力もある常識人だった。無謀で突飛な発想力には欠けていた。光瑞は若い瑞超の決断力と突破力に賭け、瑞超の第三次隊はその期待に応えようとしたのかもしれない。
瑞超の第三次隊はタクラマカン砂漠の縦断に成功する。現地に踏み込んだことがある著者は「どんな探検家でも、こんな無謀なことはまずしない。(…)風に吹かれたらまず助からない」と評している。
瑞超はチベット踏破には失敗する。著者は、瑞超が試みたのとほぼ同じ崑崙の山にとりつく所までは行ってみたそうだ。「家畜を連れての旅はまったく無理と思えた」と述べている。隊員の逃亡もあり、失敗すべくして失敗した。著者は、清国政府による妨害が絡んでいた可能性を示唆している。チベット踏破は当初の計画にはなく、瑞超が独断で決行した。瑞超がホータンから崑崙山脈を越えてチベットへ向かっていると知った清国政府は日本政府へ抗議の通告をしている。まさに諜報戦の時代、瑞超の無謀な行動を見張っている眼があったようだ。
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