神田古本まつりでネットとリアルを考えた2010年11月02日

 昨日(11月1日)、神田古本まつりに行った。所用で内幸町に行ったついでに神保町に寄ってみた。特に目的があったわけではないが、2時間ほど古書店街を歩いて、ついつい安い本を6冊ばかり買ってしまった。

 高校生の頃から古本屋は好きだったが、最近は古本屋にあまり行かなくなった。インターネットの「日本の古本屋」が、あまりにも便利だからだ。インターネットの普及で一番便利になったのは古書の探索ではなかろうかと個人的には思っている。

 探したい本が明確な場合、「日本の古本屋」で検索すればたちどころに見つかり、オンラインで注文すれば数日のうちには入手できる。この検索で見つからない本は、古書店街を歩いても容易には見つからないだろうと思う。

 「日本の古本屋」を利用するようになって、目当ての古書や古雑誌が容易に入手できるので「なんて便利なのだろう」と感嘆した。自分の足で何日もかけて古書店を回っても見つかるかどうかわからない本が、自宅でパソコン画面に向かうだけで入手できるのだから、これは革命に近いとさえ思った。

 しかし、「日本の古本屋」に馴れるに従って、多少の味気なさを感じるようにもなった。古本屋の書棚で目当ての本に遭遇したときの何とも言えない喜びを味わえないからだ。人間、勝手なものである。足を棒にして目当ての本を探すという行為も、何がしかの娯楽なのだろう。

 目当ての本が明確でなく漠然とした目的で本を探す場合は、実際の古書店巡りをしなければならない。これは今も昔も同じだ。また、漫然と古本屋の棚を眺めながら「世の中にはこんな本もあるのか」などと思いつつ、本の実物を手にとってパラパラとめくってみるという単なる時間つぶしが至福のひとときとなることもある。ネットでは体験できない至福である。

 だから、ときには「書を探せ、街に出よ」もいいかなと思う。古本の世界は、インターネットとリアルな世界との相関の行方を考えるための事例としては、とても面白そうだ。

センス・オブ・ワンダーを堪能できる橋元淳一郎氏の時間論2010年11月03日

『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書)、『時空と生命』(技術評論社)
 橋元淳一郎氏の次の本を読んだ。

 『時間はなぜ取り戻せないのか』(PHPサイエンス・ワールド新書/2010年1月11日発行)
 『時空と生命:物理学思考で読み解く主体と世界』(技術評論社/2009年12月1日発行)

 2冊とも時間論の本だ。橋元氏の『時間はどこで生まれるか』を読んで大いに刺激を受けたのは、すでに3年前だ(読後のメモをブログに書いた)。
 新たな二つの著作はほぼ同時期の刊行で、内容に重複がある。重複があるおかげで2冊続けて読むと理解が多少深まる。前著と合わせて3冊で橋元氏の時間論の全体像が見えるような気がする(すべて理解できたわけではないが)。

 「時間とは何か」は蜃気楼を追うような不思議で興味深いテーマだ。物理学と哲学にまたがるテーマであると同時に、他のいろいろな分野でも「時間とは何か」の考察が必要になることが多い。
 と言っても、やはり相対性理論や量子力学など物理学で提示される時間の概念が何とも不可思議で興味深い。

 橋元氏の時間論は物理学がベースである。相対性理論、量子力学、熱力学などによって時間とは何かを探り、それが何と生命の探究につながっていく。このダイナミックな論理展開が非常にスリリングで面白い。
 橋元氏は前著『時間はどこで生まれるか』において、物理学における時間の非実在性を解説したうえで、時間の発生する場所を生命現象に求めた。
 新たな二つの本は、物理学が示すミンコフスキー時空に基づく時間を探究し、それををふまえて時間が生まれる起源となる生命の主体的意思についてより深く考察している。生命が時間を作りだしていると聞けば奇異な感じがするが、現在の物理学の知見で時間を突き詰めていくと、そう考えるしかないように思えてくる。
 橋元氏の時間論は、もちろん仮説の提示である。しかし、かなり説得力のある仮説だと思う。

 橋元氏は物理学者であると同時にSF作家である。小説家としては寡作だが『神の仕掛けた玩具』(講談社/2006年)という短編集がある。
 『時間はなぜ取り戻せないのか』のまえがきで著者は「SF者の荒唐無稽な時間論に少しでもセンス・オブ・ワンダーを感じていただければ、望外の喜びである」と述べている。
 橋元氏のSF小説は、気宇壮大なサイエンスを材料にしたものが多い。その材料と調理が一般読者にとってはわかりにくい面もあり、作者が楽しんでいるセンス・オブ・ワンダーが読者に伝わっているとは言い難い小説も多い、と私は感じていた。
 しかし、橋元氏の時間論三部作には、より直截に読者を引きこんで行くセンス・オブ・ワンダーが確かにある。SF小説以上に刺激的だ。

 橋元氏の時間論が荒唐無稽と言えるか否かは、私にはわからない。『日経サイエンス』2010年9月号に「時間は実在するか?」(C.カレンダー)という記事が載っていた。著者は物理学をフォローしている哲学者だ。この記事は次のようなパラグラフで締めくくられている。

 [時間は存在する、かもしれない。ただし、この世界を無数の部分に分割し、何がそれらを結びつけているかを外から見る時に限ってだ。こうした見方に立つならば、物理的な時間というのは「私たちはほかのすべてから切り離されている」と私たち自身が考えているために生じるものなのだ。]

 こんな文章を読むと、橋元氏の時間論に通じるものが感じられる。この人の橋元時間論への評価を聞いてみたい気がする。

三島由紀夫没後40年の日に三島本を読んでみた2010年11月25日

『三島由紀夫の日蝕』(石原慎太郎/新潮社/1991.3.10)
 本日(2010年11月25日)は三島由紀夫没後40年目だ。朝刊の小さなコラムでそれに気づいた。外出のとき、読みかけの本ではなく三島関連の本を鞄に入れた。先日の神田古本まつりで購入した石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』である。面白かったので、往復の電車+αで読了した。

 三島由紀夫について書かれた本は山ほど出ていて、その多くが私にとっては三島由紀夫の作品以上に面白い。本末転倒のような気もするが仕方ない。そのような作家になってしまったことは、作家本人にとっては不本意なのか本望なのか・・・そんなことを考えてしまうのが、三島由紀夫の特異性である。

 『三島由紀夫の日蝕』は約20年前、つまり三島由紀夫没後20年に、三島由紀夫と親交のあった石原慎太郎が追憶を交えて三島由紀夫を論じた本だ。
 私は、この本が出版された当時、本屋の店頭で立ち読みして、大雑把な内容は把握していた。本書において、スポーツマンの石原慎太郎は、ボディービルでダテ筋肉をつけた三島由紀夫の運動音痴を指摘している。また、三島由紀夫はひそかに政界入りを考えていたので、石原慎太郎に先を越されてくやしがっていたと述べている。
 当時、立ち読みしただけで購入しなかったのは、石原慎太郎の自意識過剰な語り口が鼻についたからだ(本書によれば、三島由紀夫が自意識の人で石原慎太郎は無意識過多となっているが)。

 三島由紀夫没後40年の日、20年ぶりに本書を通読して、石原慎太郎の見方はほぼ当たっていると思えた。同時に、無理な生き方に自分を追い込んでいった三島由紀夫が気の毒にも滑稽にも思えた。
 また、本書を読んでいてハッとしたのは、山本七平が「聖人を描くのか自分が聖人になるのか自らの内で不明になってしまった晩年のトルストイとの比較で三島氏の衝動を占っていた」という指摘だ。先月、トルストイの晩年を描いた映画を見て、その意外な滑稽さを感じたばかりだったので、三島由紀夫の滑稽さとの比較になるほどと思った。

 三島由紀夫は奇矯な分かりにくさと明晰さを併せもつ作家だった。本書を含めて三島由紀夫に関する本が面白いのは、三島由紀夫の奇矯をつきつめてくると見えてくる「コンプレックス」「自己演出」「韜晦」「自縄自縛」「矛盾」などは、他の多くの作家や一般の人々の内部にも幾分かは等しく存在するものだからである。もちろん、程度の多寡はあり、極端な形で出現したのが三島由紀夫という作家だったのだろう。

IFではなくWHEN --- 人工光合成への期待2010年11月30日

根岸英一氏(2010.11.25)
 ノーベル化学賞受賞者根岸英一氏が日本記者クラブで会見した。私は有機化学に関しては門外漢で、今回の受賞の研究内容もよくは理解できていないが、一般人を対象にしたお話だったので、とても面白く聞くことができた。

 根岸英一氏は非常にアグレッシブな方で、元気の出る話だった。特に興味深かったのは人工光合成の話だった。
 根岸氏には「過去のテーマ」と「現在のテーマ」の他に、自身へのチャレンジとしての「未来のテーマ」があるそうだ。ノーベル賞受賞の対象になったのは、もちろん「過去のテーマ」であり、人工光合成は未来のテーマである。

 私は人工光合成についてよく知らなかったが、根岸氏が熱く語るの聞いて、つい引き込まれた。光と炭酸ガスと水から有機化合物を作る光合成は、自然界で植物が日常的に営んでいる。これを化学工業化できれば、エネルギー問題や地球環境問題への画期的な解決策になる可能性があるそうだ。
 人工光合成の研究のポイントは根岸氏の専門分野である触媒であり、鉄などの遷移金属触媒が利用できる可能性が高いそうだ。

 根岸氏は、日本は人工光合成の研究に優秀な人材を投入するべきだと主張し、その実現についてはは「IFではなくWHEN」の問題だと語った。

 私も、この分野に注目しようと思った。そして、『日経サイエンス』の最新号(2011年1月号)を見ると「人工の葉で水素燃料」というタイトルの人工光合成に関する翻訳記事が載っていた。 何となくソワソワしてくる。