吉田喜重監督の『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は面白い2020年05月15日

『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)、朝日新聞1941.5.10夕刊
 ナチス副総統ルドルフ・ヘスを題材にした映画監督の吉田喜重(87歳)の長編小説『贖罪』が刊行された。87歳での長編書き下ろしに脱帽する。ヘスには私も関心があるので早速読んだ。

 『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)

 ナチス副総統のヘスは、独ソ戦開始直前の1941年、誰にも告げず単独でメッサ―シュミットを操縦してイギリスに飛ぶ。イギリスとの和平交渉のつもりだったと言われているが、ヒトラーはヘスが狂ったと激怒する。イギリスに収監されたヘスは、戦後のニュルンベルグ裁判で終身刑となる。ベルリンのシュパンダウ刑務所で長い虜囚生活を送り、1987年8月、刑務所内で自殺を遂げる。93歳だった。

 私は中学生の頃(1960年代初め)にヒトラーやナチスに興味をもち、何冊かの本や雑誌記事を読み、副総統のヘスが刑務所でまだ生きていると知って驚いた記憶がある。ナチスの幹部はみんな自殺するか死刑になっていると思っていたが、『我が闘争』を口述筆記したナンバー2の副総統が存命なのに衝撃を受けたのである。

 その後、いろいろな本を読んで、ヘスが死刑にならなかった事情は納得した。イギリスへ飛んだということもあるが、肩書は副総統でも、あまり大きな役割は果たしていなかったようだ。ナチスやヒトラーに関する本は山ほどあるが、ヘスに関する記述はさほど多くない。謎の人物だった。

 『贖罪』のオビには「構想20年、同じ時代に生きあわせた証しとして書き上げた、吉田喜重監督 渾身の長編小説!」とある。吉田監督はヘスに対して並々ならない関心を持ち続けていたようだ。本書は評伝ではなく、あくまで小説だが、事実へ限りなくアプローチしたフィクションだと思う。

 この小説は、作者を彷彿させる「筆者」が子供時代を振り返る回想から始まる。ヘスのイギリス飛行は筆者8歳のときなので、リアルタイムで事件を憶えているわけではないが、少年時代に納戸で年長の従兄が残した新聞記事の切り抜きを発見し、ヘスに興味を抱くのである。読者を引き込む書き出しだ。

 この小説の大半は、真贋不詳のヘスの独白録という体裁になっている。謎の部分を想像力で補った独白録であり、そこに筆者の注釈が挿入されている。

 小説の肝は、ヘスの師である地政学者ハウスホーファの家族とヘスとの交流であり、そこにヒトラーも絡んでくる。どこまでが史実で、どこからが想像かは不明だが、あり得べき話だと思う。

 ハウスホーファ教授の弟子として学問の道を目指していたヘスがヒトラーに惹かれていったのは、「異邦人感覚」と「塹壕の思想」という二つの共通点があったからだ――この小説はそう述べている。二人ともドイツ生まれではない。ヒトラーはオーストリアのブラウナウ生まれ、ヘスはエジプトのアレクサンドリア生まれである。二人とも第一次大戦にドイツの志願兵として参戦し苛酷な戦場体験をする。

 ミュンヘン一揆でヒトラーが入獄している間に有力党員の多くが一時的にヒトラーから離れたとき、出獄したヒトラーがヘスに寂しげに語る。「君以外は誰も信用できない状況になってしまった」と――晩年のヘスが獄中でそれを回想する場面が印象的である。

 この小説のヘスは、ユダヤ人排斥を抑制すべきだと思っているし、世界大戦を避けて和平の道をさぐろうとしている。しかし、そのすべて失敗する。ひとつの見方だと思う。

 ヘスやハウスホーファに関する話は、私の知らなかったことも多くて面白く読めた。ヒトラーやナチスに関する記述は歴史解説に近く、やや退屈で少しくどい。高齢者の文章はくり返しが多く、くどくなる傾向があると感じた。私自身が高齢者なので自戒の認識である。少々くどい所はあっても、この小説は決して読みにくくはない。終盤にはミステリーの醍醐味も用意されていて引き込まれる。

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