ウイルスで人類滅亡の『復活の日』を再読2020年05月02日

『人類滅亡戦:見えざるCBR兵器』(加藤地三/サラリーマン・ブックス//読売新聞社)、『復活の日』(小松左京/日本SFシリーズ1/早川書房)
 コロナ禍のなか小松左京の『復活の日』が注目され、増刷された角川文庫版が書店に並んでる。私はこの小説を半世紀以上昔の高校1年のときにリアルタイムで読み、非常に感動した。その後も何度か拾い読みしているし、映画は封切で観て、DVDも購入して繰り返し観ている。

 内容はかなり頭に残っているが、この機に再読したくなった。再読するなら『人類滅亡戦』(加藤地三)と併読しようと思った。

 『人類滅亡戦:見えざるCBR兵器』(加藤地三/サラリーマン・ブックス/1963.3.1/読売新聞社)
 『復活の日』(小松左京/日本SFシリーズ1/1964.8.31/早川書房)

 まず前者を読み、続けて後者を読んだ。『復活の日』の「あとがき」は次の一節で結ばれている。

 「なお、細菌戦の知識に関しては、読売新聞社加藤地三氏の著書「人類絶滅戦――見えざるCBR兵器」(サラリーマンブックス)を参考にさせていただく所が大きかった。――むしろ、同書にあらわれた、氏の情熱につき動かされた点も多い。執筆中、のぞみながらついに拝顔の機会にめぐまれなかったが、同氏とその著書に、心からの謝意を表しておきたい。」

 この「あとがき」が記憶にあったので、『復活の日』を読んだ後に古本屋で『人類滅亡戦』を見つけて購入し、拾い読みした。半世紀以上昔のことである。『復活の日』再読にあたり、『人類滅亡戦』が小説にどう影響しているか検証してみるのも一興と思った(小松左京は『人類滅亡戦』を『人類絶滅戦』と誤記していて、最新の角川文庫版もそのまま)。

 1964年8月刊行の『復活の日』は小松左京33歳のときの長編第2作(第1作は同じ1964年の3月刊行の『日本アパッチ族』)である。『人類滅亡戦』の著者である加藤地三は読売新聞の科学記者で小松左京より8歳年上だ。私が確認できた範囲では、小松左京の加藤地三への言及はこの「あとがき」だけなので、小説刊行後、小松左京が加藤地三と面談したかどうかはわからない。

 1960年代の冷戦期に書かれた『人類滅亡戦』は化学兵器(C)、生物兵器(B)、放射線兵器(R)の歴史と現状を解説し、その危険性を警告した本で、科学技術の解説書ではない。日本の731部隊の細菌兵器開発や朝鮮戦争における米軍の細菌兵器使用などに言及し、科学者たちが生物化学兵器開発の禁止を呼び掛けたパグウォッシュ会議などの活動も取り上げている。

 『復活の日』のなかの記述には『人類滅亡戦』によるものだと推察できる箇所がいくつかあった。それは、米軍の細菌兵器使用やパグウォッシュ会議などに関する部分である。

 高校生のときに『復活の日』を読んで感じたのは、細菌やウイルスに関する話がゴチャゴチャと難解だということであり、小松左京は何でこんなに詳しいのだろうと思った。『人類滅亡戦』には小説のヒントになるような生物学的詳細情報はない。再読のときも、あの蘊蓄部分について行くのは大変だった。

 この小説の設定は現代の科学者からも次のように高く評価されている。

 「物語のカギとなる生物兵器の詳細が実に正確な科学考証に基づき設定されている(…)1964年にはまだ発見されていなかった生物学的特性までもが、すでに予見されて描きこまれている場合すらあり驚かされる。現代の科学者にとっても必読の書である。」(「『復活の日』から読み解くバイオロジー」下村健寿・オックスフォード大学生物学研究室研究員・医学博士/小松左京マガジン33号 2009.4)

 『小松左京自伝』によれば、アメリカ文化センター・京都府立医大の図書館・近所の図書館などで、海外の科学雑誌の論文や医学書や百科事典などを読んで勉強したそうだ。当時、小松左京はまだ海外へ行ったことはなく、ネットもなかった。たいしたものだ。

 初読のとき、この小説のプロローグとエピローグに惹かれた。プロローグはカッコいいハードボイルドの雰囲気だと記憶していたが、再読してみて晦渋な考察が述べられているのが意外だった。高校生には、それもカッコよく感じられたのだろうか。この小説には宇宙・生物・人類などをやや哲学的に語る箇所も多い。いま読み返すと、長編2作目の33歳の時点で「小松左京の思想」がほとんど形づくられていたと思える。

 東日本震災の直後には『日本沈没』を再読し、コロナ禍で『復活の日』を再読した。次は――などとは考えたくない。

ついにマルケスの『百年の孤独』を読了2020年05月05日

『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)
 読みかけたまま書架に眠っている本は少なくない。コロナ籠城の機会にそんな本を消化したいと思って手にしたのがマルケスの『百年の孤独』である。

 『百年の孤独』(ガルシア・マルケス/堤直訳/新潮社)

 マルケスがノーベル文学賞を受賞したのは1982年で、その頃に本書を購入して読みかけたのだと思う。マジックリアリズムの傑作と聞いて通勤電車の行き帰りで読み始めたが、あえなく挫折した。つまらなわけでも難解なわけでもないが、読み進めることができなかった。

 今回、気合を入れてこの小説に挑戦し、二日で読了した。面白かったが、かなり疲れた。濃厚な記述なので、サラサラと飛ばし読みができない。硬い飴を舐めるようにジックリ味わいながら読み進めないと、すぐにわけがわからなくなる。まとまった時間のスロー読書向きの本で、細切れの通勤電車で読むのは大変だと思った。数十年前に挫折した自分を弁護したくなった。

 『百年の孤独』は南米のマコンドという架空の町の約百年の歴史であり、その町の創設に携ったブエンディーア一族の始まりから終わりまでの物語である。「〇〇家の人々」といった大河ドラマ的な物語ではなく、多様で奇怪なエピソードを集成した神話・伝説・史書に近い。世界史や日本史の教科書を小説のように一気に読むのが難しいように、『百年の孤独』を一気読みするのは難しい。と言っても、登場人物たちの家系図などの予備知識が頭に入ったうえでの再読ならば、面白く一気に読めるかもしれない。(十分に勉強した後なら歴史の教科書も一気に読めるだろう)

 私は、登場人物を別紙にメモして、それを随時整理しながら、この小説を読み進めた。普通の小説なら全体の三分の一ぐらいで登場人物は出尽くすが、この小説は「史書」に近いから読み進めるごとに登場人物が追加されていく。私の作ったリストでは登場人物は六十数人になった。長編としては特に多いとは言えないかもしれないが、この小説は7世代にわたる話で、親や祖父と同じ名付けが多い。同じ名が次々に出てくるし、展開がめまぐるしいので、わけがわからなくなる。もちろん、作者はきちんと区別できるように書いている。だが、百歳をはるかに超える人物もいるので読者は混乱する。単なる登場人物リストだけなく、家系図も必要である。

 私は家系図までは作らなかったので、読書の途中で、登場人物たちの関係が祖母か曾祖母か高祖母か、あるいは兄弟か従妹か叔父姪かわからくなることが多かった。その都度、人物リストを整理して確認しながら読んだ。読書を中断し、人物リストの整理・確認をしてから読書を再開する――そんな、のんびりした贅沢な読み方も悪くないと思った。

 蛇足ではあるが、この小説を読んでいて、幼少期に惹かれた絵本「ちいさいおうち」を思い出した。

ついに夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読了2020年05月07日

『ドグラ・マグラ』(夢野久作/夢野久作全集4/三一書房)
 コロナ籠城を機の「読みかけ放置本退治」で、マルケスの『百年の孤独』に続いて夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読んだ。

 『ドグラ・マグラ』(夢野久作/夢野久作全集4/三一書房)

 この本を読みかけたのは半世紀近く昔の大学生の頃である。当時、戦前の怪奇幻想小説の再評価がブームだったような気がする。『ドグラ・マグラ』については「探偵小説を超えた文学」「個体発生は系統発生をくり返すということを描いている」などと聞いていたような気がする。ワクワク気分で読み始めたがあえなく挫折した。

 挫折した理由はよくわからない。「胎児よ/胎児よ/何故躍る/母親の心がわかって/おそろしいのか」という巻頭歌や「チャカポコ・チャコポコ…」という奇妙な祭文は印象に残っているが、読み続けることができなかった。根気がなかったのだろう。巻末の解題によれば、発表当時(昭和10年)の探偵文壇でもこの千二百枚の小説を通読した人は多くはなかったらしい。

 今回の籠城読書では2日かけて読了した。脱線気味にも思える蘊蓄話が延々と続きながらも、探偵小説の形になっていて、終盤の怒涛には引きこまれた。と言っても、探偵小説として見れば、かなり怪異なテーマではあるがさほど複雑に入り組んだ話ではない。こけおどしのように見えなくもない。

 この小説の面白さは怪奇探偵小説的な部分にあるのではない。小説の中には「祭文」「論文解説」「談話記事」「遺言書」「寺の縁起文」などの異様な内容の長文の文書が挿入されている。本編部分より挿入文書の方が分量は多いかもしれない。そんなアンバランスな構成になっていて、小説を読みながら別の文書を読まされている気分になり、それが不思議な読書体験になる。作者が乗り移ったと思われる登場人物たちの偏執狂的な執念が伝わってくる。語り口も異様である。そこが、この小説の面白さであり、魅力だと思う。

 出口のない迷路を彷徨い続けているような小説である。

 なお、「ドグラ・マグラ」という言葉の意味は、小説中の登場人物が「今では単に手品とか、トリックという意味にしか使われていない一種の廃語同様の言葉だそうです。語源、系統なんぞは、まだ判明しませんが、強いて訳しますれば、今の幻魔術もしくは『堂廻目眩』『戸惑面喰』という字を当てて、おなじように『ドグラ・マグラ』と読ませてもよろしいというお話しですが、(…)」と述べている。

ついに小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を読了したが…2020年05月10日

『黒死館殺人事件(上)(下)』(小栗虫太郎/講談社文庫)
 コロナ籠城を機の「読みかけ放置本退治」で、夢野久作の『ドグラ・マグラ』に続いて小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』を読んだ。

 『黒死館殺人事件(上)(下)』(小栗虫太郎/講談社文庫)

 『ドグラ・マグラ』を読了した後、『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』(中井英夫)、『黒死館殺人事件』が三大奇書と呼ばれていたことを思い出した。『虚無への供物』は40年以上昔に引きこまれるように読んで感動した。『黒死館殺人事件』は40年程昔、講談社文庫に収録されたのを機に購入して読みかけたが途中で放り出した。思った以上に読みにくかった記憶がある。

 『ドグラ・マグラ』を読了したので『黒死館殺人事件』も片付けようという気になり、古びた文庫本を読み始めた。

 昔挫折した記憶があるので、今回は気合を入れて冒頭の序編(14頁)を丁寧に2回読んでメモを作成した。序編でこの小説の舞台と登場人物の概要が語られているからである。黒死館という館とその主・降矢木家の歴史年表、登場人物リスト、アイテム一覧などを整理したメモは、そこそこの分量になった。黒死館が建設されたのは明治18年(1885年)、この物語の事件発生が昭和8年(1933年)(登場人物の年齢で推定。この小説が『新青年』に連載されたのは昭和9年)である。黒死館は築48年の古城のような館で、その48年間にもいろいろあり、降矢木家の始祖は天正遣欧使節の一人がメディチ家の隠し子との間にもうけた子という設定なので、400年の歴史を視野に入れなければならない。

 このメモで、物語世界に没入する準備をして読み始めたが、やはりこの小説は難物だった。衒学趣味のミステリーだとは覚悟していたが、その衒学が尋常でない。登場人物たちの会話は偏執狂に近い衒学的な比喩と西欧古典引用の応酬である。その衒学部分が事件のトリックにも絡んでくるので、わけがわからなくなってくる。ギャグかパロディの一歩前のような会話の連続で、芝居がかっている。芝居を観ている気分で読み進めた。

 この衒学部分の大半を理解できれば面白いのだろうが、そうは行かなかった。読了はしたが、堪能できたとは言えない。歯が立たなくて評価不能という気分である。いつの日かこの小説を堪能してみたいという気分にさせられるので、妖しい魅力があるとは思う。確かに奇書である。

吉田喜重監督の『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』は面白い2020年05月15日

『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)、朝日新聞1941.5.10夕刊
 ナチス副総統ルドルフ・ヘスを題材にした映画監督の吉田喜重(87歳)の長編小説『贖罪』が刊行された。87歳での長編書き下ろしに脱帽する。ヘスには私も関心があるので早速読んだ。

 『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重/文藝春秋)

 ナチス副総統のヘスは、独ソ戦開始直前の1941年、誰にも告げず単独でメッサ―シュミットを操縦してイギリスに飛ぶ。イギリスとの和平交渉のつもりだったと言われているが、ヒトラーはヘスが狂ったと激怒する。イギリスに収監されたヘスは、戦後のニュルンベルグ裁判で終身刑となる。ベルリンのシュパンダウ刑務所で長い虜囚生活を送り、1987年8月、刑務所内で自殺を遂げる。93歳だった。

 私は中学生の頃(1960年代初め)にヒトラーやナチスに興味をもち、何冊かの本や雑誌記事を読み、副総統のヘスが刑務所でまだ生きていると知って驚いた記憶がある。ナチスの幹部はみんな自殺するか死刑になっていると思っていたが、『我が闘争』を口述筆記したナンバー2の副総統が存命なのに衝撃を受けたのである。

 その後、いろいろな本を読んで、ヘスが死刑にならなかった事情は納得した。イギリスへ飛んだということもあるが、肩書は副総統でも、あまり大きな役割は果たしていなかったようだ。ナチスやヒトラーに関する本は山ほどあるが、ヘスに関する記述はさほど多くない。謎の人物だった。

 『贖罪』のオビには「構想20年、同じ時代に生きあわせた証しとして書き上げた、吉田喜重監督 渾身の長編小説!」とある。吉田監督はヘスに対して並々ならない関心を持ち続けていたようだ。本書は評伝ではなく、あくまで小説だが、事実へ限りなくアプローチしたフィクションだと思う。

 この小説は、作者を彷彿させる「筆者」が子供時代を振り返る回想から始まる。ヘスのイギリス飛行は筆者8歳のときなので、リアルタイムで事件を憶えているわけではないが、少年時代に納戸で年長の従兄が残した新聞記事の切り抜きを発見し、ヘスに興味を抱くのである。読者を引き込む書き出しだ。

 この小説の大半は、真贋不詳のヘスの独白録という体裁になっている。謎の部分を想像力で補った独白録であり、そこに筆者の注釈が挿入されている。

 小説の肝は、ヘスの師である地政学者ハウスホーファの家族とヘスとの交流であり、そこにヒトラーも絡んでくる。どこまでが史実で、どこからが想像かは不明だが、あり得べき話だと思う。

 ハウスホーファ教授の弟子として学問の道を目指していたヘスがヒトラーに惹かれていったのは、「異邦人感覚」と「塹壕の思想」という二つの共通点があったからだ――この小説はそう述べている。二人ともドイツ生まれではない。ヒトラーはオーストリアのブラウナウ生まれ、ヘスはエジプトのアレクサンドリア生まれである。二人とも第一次大戦にドイツの志願兵として参戦し苛酷な戦場体験をする。

 ミュンヘン一揆でヒトラーが入獄している間に有力党員の多くが一時的にヒトラーから離れたとき、出獄したヒトラーがヘスに寂しげに語る。「君以外は誰も信用できない状況になってしまった」と――晩年のヘスが獄中でそれを回想する場面が印象的である。

 この小説のヘスは、ユダヤ人排斥を抑制すべきだと思っているし、世界大戦を避けて和平の道をさぐろうとしている。しかし、そのすべて失敗する。ひとつの見方だと思う。

 ヘスやハウスホーファに関する話は、私の知らなかったことも多くて面白く読めた。ヒトラーやナチスに関する記述は歴史解説に近く、やや退屈で少しくどい。高齢者の文章はくり返しが多く、くどくなる傾向があると感じた。私自身が高齢者なので自戒の認識である。少々くどい所はあっても、この小説は決して読みにくくはない。終盤にはミステリーの醍醐味も用意されていて引き込まれる。

なさけない話2020年05月20日

『骨は珊瑚、眼は真珠』(池澤夏樹/文春文庫)
 池澤夏樹の20年以上昔の短篇集を古書で入手して読んだ。

 『骨は珊瑚、眼は真珠』(池澤夏樹/文春文庫)

 最近、ちょっと彗星に興味をもち、彗星に関する小説を検索していたら、本書収録の「アステロイド観測隊」が引っかかった――それがこの短篇集を読んだ動機である。「アステロイド観測隊」は私が想定していたような話ではなかったが、かなり面白かった。

 本書には9篇の短篇が収録されていて、その中の『鮎』とい短篇の末尾には「註記」と題した10行の文章が付加されている。要は、この話はスペイン語圏の民話をベースにしているとの著者のコメントで、民話の紹介に続いて次のように書いている。

 「なお、芥川龍之介の「魔術」という話がほぼ同じからくりだから、どこかにすべての原点というべき話があるのだろう。」

 この註記で芥川の「魔術」を読みたくなり、書架の奥の古い文学全集の「芥川龍之介集」を確認した。かなり分厚い1巻で60篇以上の短篇が収録されている。「魔術」は入ってなかったので、あっさりあきらめた。

 数日後、たまたまのきっかけで『ちくま文学の森5・おかしい話』をパラパラめくっていて「魔術」が収録されているのに気づいた。3週間ほど前に読了したばかりの本で、読後感をブログに書いた。そのブログには、私が面白いと思った作品として「魔術(芥川龍之介)」をあげている。にもかかわらず、まったく失念していた。

 本を読んでも、時日が経つと内容を忘れるのは仕方ない。自身の備忘のため、気が向けば読後感をブログに書いたりしている。そんなことをしても3週間も経たないうちに忘れてしまうと思い知った。情けないことである。

デフォーの『ペスト』は迫真の実録風小説2020年05月22日

『ペスト』(ダニエル・デフォー/平井正穂訳/中公文庫
 デフォーの『ロビンソン・クルーソー』完訳版(平井正穂訳)を読んだのは11年前――その時は、将来デフォーの別の作品を読むだろうとは想像しなかったが、このたび、デフォーの『ペスト』を読んだ。コロナ禍がなければ手に取ることはなかった本である。

 『ペスト』(ダニエル・デフォー/平井正穂訳/中公文庫)

 コロナ禍で増刷された文庫本である。最近の新聞記事に「カミュの『ペスト』は架空の話だが、デフォーの『ペスト』はロンドンで発生したペストの実録なので迫力が違う」といったこと書いているのを読んで(切り抜いてないので正確な内容は確認できない)、本書を読む気になった。

 原題は「A Journal of the Plague Year」である(平井氏によれば『ペスト年代記』)。そのペストの年(Plague Year)とは1665年、日本だと4代目の将軍家綱の時代、元禄時代の前、赤穂浪士討ち入りの38年前である。この年、ロンドンではペストが発生し多くの死者(ロンドンの人口の四分の一と言われている)が出た。その記録が本書である。

 オランダでペストがはやりだしたとのうわさを聞く話から始まり、それがロンドンにも伝播し、ロンドンの街を席巻し、1年余の後に終息するまでの見聞録である。統計数字が随所に折り込まれていて、筆者が実見した話に加えて人から聞いた話もたくさん折り込まれている。確かに迫真のレポートである。

 私は本書をノンフクションと思って読み初め、そう思ったまま最後まで読んだ。ロンドンの地図のコピーを脇に置き、マーカーで地名をチェックしながら読んだのである。読了してから、本書は小説だと気づいた。

 冒頭に、筆者が馬具商人とあったので、デフォーは商売のかたわら『ロビンソン・クルーソー』を書いたのかと思った。読書途中、ネットでデフォーの生年を調べると1660年になっていて、「ペストの年=1965年」にはまだ5歳なのでヘンだと感じたが、昔の人の生年記録はいいかげんで、ネットの記述が間違っているのだろうと思った。読了後にきちんと調べようと考えた。本書の末尾には、著者の短い詩が載っていて、そこには「H.F.」と署名してある。なぜ、「D.D.(ダニエル・デフォー)」でないのか、いぶかしく思った。

 本編を読み終えて、巻末の訳者解説を読んで本書がフィクションだと知った。解説には「デフォーは、この惨事の生じた年には、わずか5歳であり、どれほどの印象をもっていたかは明らかではないが、少年ないし青年のころ、体験者からその状況を委細にわたって聞いてことは間違いない。」とある。

 ノンフィクションの体裁のフィクションは山ほどあるが、これまでの読書体験で、フィクションをノンフィクションと思って読了したのは初めてだと思う。先の新聞記事の印象で、はなからノンフィクションと勘違いしてしまったのだ。早トチリである。作者が事実を詳細に調べあげて書いていて、実録と見まがう仕上がりになっているので、最後までダマされたとも言える。

 本書を読んでいて引き込まれたのは、ペストが蔓延していく中でのあれやこれやの描写がことごとく今日のコロナの状況に重なるからである。仮にコロナ禍の前に本書を読んでいたら、目の前に展開されていく状況はデフォーが『ペスト』で描いたことをなぞっているように感じたかもしれない。

 デフォーは自分の5歳の時の出来事をタネに、後年に取材を重ねてこの傑作フィクションを書いた。これをフィクションと知った私には、この小説は、現在のコロナ禍を体験した人が1665年の出来事に仮託して書いたもののようにも見えてくる。

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介)はハードSFの傑作短篇集2020年05月24日

『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫/早川書店)
 私はオールドSFファンなので、日本人SF作家は第2世代(掘晃、かんべむさし…)あたりまでしかフォローできてなくて、最近のSFの状況はよく知らない。

 最近の作家とは言えないが、野尻抱介氏についても、その名のみを知っていて、作品を読んだことはなかった。名を知っているのは、天文の野尻抱影と酷似した名前が印象に残り、倅か孫かなと思ったからである。彗星に関する物語を検索していて引っかかった次の短篇集を読み、その面白さに感心した。

 『沈黙のフライバイ』(野尻抱介/ハヤカワ文庫/早川書店)

 2007年に出た短篇集で5篇収録されている。どれもが、現代に近い時代設定の宇宙ハードSFで、リアルでありながら夢が広がる話になっている。JAXAなどを舞台にした理系の科学技術テーマの面白い物語である。

 5編のどれもが面白い。太陽系を通過していく地球外文明の構築物と思しき物体を観測する「沈黙のフライバイ」、2001年の小惑星探査から軌道エレベーターが建設された時代(2020年代!)の小惑星旅行までを描く「轍の先にあるもの」、夫婦2組4人のチームで火星を目指す「片道切符」、完全自給自足スーツ開発の「ゆりかごから墓場まで」、リケジョの学生(工学部)が気球と凧で宇宙(の一歩手前)を目指す「大風呂敷と蜘蛛の糸」、どれも印象深い。

 仕掛けを荒唐無稽でなく極力リアルに検討・描写していて、しかも物語が巧みだ。この人の作品をもっと読みたくなった。

 野尻抱介氏は野尻抱影の縁者ではなく野尻抱影ファンで、こんなペンネームしたそうだ。

知らない業界を覗き見した気分になる『文学部をめぐる病い』2020年05月26日

『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』(高田里惠子/松籟社)
 昨年夏に読んだ『ヒトラーの時代』(池内紀/中公新書/本書刊行直後、著者逝去。多数の誤記があり、増刷されていない。残念)に次のような指摘があった。

 (ナチスの時代のキワ物本の多くが日本で翻訳出版されていたのは)「戦後は民主的文化人として知られたドイツ文学者たちが、戦中はナチス・ドイツに入れあげて、せっせと訳していたからである」

 このドイツ文学者が誰を指しているの気になって調べ、発見したのが2001年刊行の次の本だった。

 『文学部をめぐる病い:教養主義・ナチス・旧制高校』(高田里惠子/松籟社)

  著者は1958年生まれ、東大大学院でドイツ文学を専攻した桃山学院大学助教授(当時)、独文学者の学術レポートに近い内容の本である。

 サブタイトルの「教養主義・ナチス・旧制高校」が本書のテーマである。各章の冒頭付記が面白いので、それを【 】にして目次を紹介する。

 文学部をめぐる病い【カルテ】
 【自覚症状】まず、何が問題なのか
 【病歴】大政翼賛会文化部と第一高等学校
 【病原】さらば、東京帝国大学
 【自己診断】高学歴者の悲哀
 【症例】学校小説としての『ビルマの竪琴』
 【伝染】『車輪の下』、あるいは男の証明
 【余病】中野孝次、カフカから清貧へ

 この目次を見ると本書のおよその雰囲気がわかると思う。本書全体の主役は高橋健二であり、東大独文科出身の研究者(翻訳家)たちである。目次にある竹山道雄(『ビルマの竪琴』の著者、一高教授)や中野孝次は脇役である。池内紀が『ヒトラーの時代』で指摘した「戦後は民主的文化人として知られたドイツ文学者」は高橋健二を指しているように思える。

 高橋健二はヘッセやケストナーを翻訳・紹介したドイツ文学者で、リベラルな戦後民主主義者のイメージがあるが、戦前・戦中はナチス関連の本を翻訳しナチス賞賛の論説も書いていたそうだ。大政翼賛会文化部長を務め、戦後は一時公職追放になっている。大学教授に復帰してからは日本ペンクラブ会長も務めている。
 
 この人物は、ファシズム礼賛者が戦後になって民主主義者に「転向」したわけではなく、戦前から自由主義者の教師で、ナチスが忌避したヘッセとは戦前から親交があり、戦前も戦後も一貫してヘッセの翻訳・紹介者だったのである。著者はその「柔軟性」「いい加減さ」の由縁をエリート校の「文学部をめぐる病い」として剔出しようとしている。

 私には少々わかりにくい論考ではあるが、随所に諧謔的表現がおりこまれていて楽しく読めた。門外漢の私には無縁のドイツ文学研究者業界の様子を覗き見した気分になり、面白い世界だと思った。

人類の未来を考察した『ホモ・デウス』2020年05月29日

『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来(上)(下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田裕之訳/河出書房新社)
 ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読み、歴史をマクロに俯瞰・整理して捉える手法に感心したのは3年前の2017年7月だった。

 その後、人類の未来がテーマの『ホモ・デウス』が刊行されたが食指は動かなかった。すでに『サピエンス全史』末尾で未来展望は描かれているので、あれで十分と思った。私は著者の未来展望にはさほど共感せず、ひとつの見方と感じていた。

 だが、家人の書架に『ホモ・デウス』があるのを発見し、つい読んでしまった。

 『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来(上)(下)』(ユヴァル・ノア・ハラリ/柴田裕之訳/河出書房新社)

 この本、カバーがいやにゴワゴワする思ったら、驚いたことにカバーが2枚重ねになっていた。通常のカバーの上にゴーギャンの絵のカバーがあり、その隅に「期間限定特別帯」とある。カバーでなくオビという位置づけのようだ。

 ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は『サピエンス全史』を読んだときに私も連想した言葉である。ハラリの著書に合っているとは思うが、本書にゴーギャンへの言及はない。

 『ホモ・デウス』は、私が想像した以上に『サピエンス全史』との重複感があり、私が想像したように人類の未来の姿をあれこれ描いてはいなかった。『サピエンス全史』を敷衍したうえで今後の課題を提示した本である。私には、やはり『サピエンス全史』の方が面白かった。

 本書は歴史書でも未来予測でもなく、社会学、生命科学、コンピュータ・サイエンスなどをベースに、人類の今後を考察している。著者はアナロジーの達人で、物事をマクロにざっくりと捉えて単純明快な形に整理するのが巧みである。それが著者の魅力だが、あたりまえのことを延々とたとえ話のくり返しで聞かされている気分になるときもある。

 本書で面白かったのは、人間の「自由意思」への懐疑の提示である。それとも関連した「知能と意識」に関する考察も興味深い。昨年読んだ『脳の意識 機械の意識:脳神経科学の挑戦』(渡辺正峰/中公新書)を連想した。

 また、本書で衝撃的な箇所は冒頭に近い妊娠ブタの飼育場の写真かもしれない。ほとんど身動きできない環境で飼育されるブタの知能を検討する場面である。それは、将来、ホモ・デウスに支配されたホモ・サピエンスの姿のひとつの可能性を暗示している。