戦前のナチス賞賛本『ヒトラー・ユーゲント』を入手2020年06月02日

『ヒトラー・ユーゲント』(ヤーコプ・ザール/高橋健二/新潮社)
 ヘッセやケストナーの翻訳・紹介で高名な高橋健二が戦前・戦中はナチス本の翻訳に 勤しんでいたと知り(『文学部をめぐる病い』高田里惠子/松籟社)、どんな本を翻訳していたのだろうと「日本の古本屋」を検索してみた。そして、次の1冊を見つけて購入した。

 『ヒトラー・ユーゲント』(ヤーコプ・ザール/高橋健二/新潮社)

 発行日は1941年(昭和16年)5月14日、真珠湾攻撃の半年前、ヨーロッパでは第2次大戦の真っ最中でパリはドイツ占領下、独ソ戦開始の1ヵ月前である。

 ヒトラー・ユーゲントの解説書と思って注文したが、写真中心の本だった。全210頁のうち本文は約60頁だけで、大半はキャプション付きの写真頁だ。写真の総数は180枚である。

 驚いたことに、本書は翻訳書ではなかった。ドイツから提供された写真を日本で精選して編集した本である。著者はヤーコプ・ザール(ナチス前東京支部長)と高橋健二の連名になっているが、本文も写真のキャプションも高橋健二が書いたように思われる。文章が日本人目線なのだ。

 ヒトラー・ユーゲントの少年少女たちの「健全な」活動を紹介する写真が満載で、当然ながら紹介文はその活動を讃えている。ちょっと面白く感じたのは、柔道をする少年たちの写真に付けられた次の紹介文である。

 「柔術はドイツ人の間に人氣のある新しいスポーツである。従つてヒトラー・ユーゲントでも盛んに行はれる。しかしドイツ人は柔術を單に護身術のやうに考へてゐるかたむきがある。柔道は一つの道であることを教へる必要がある。」

   本書の終章の表題は「總統のもとへの行進」――ニュルンベルク党大会に向けての行進である。私はレニ・リーフェンシュタールが1934年の党大会を撮った記録映画『意思の勝利』を2回見ていて、党大会という大イベントにおけるヒトラー・ユーゲントの存在感は印象に残っている。だが、彼らがドイツの各所から何日もかけて徒歩で来ていることを本書で初めて知った。大会が終わると、彼らはかつてヒトラーが監禁されていたランツベルク要塞監獄に赴き、そこで『我が闘争』を1冊ずつもらって帰郷するそうだ。

 終章の最後から2番目の写真には、ヒトラーと並んで少年たちを謁見する副総統ヘスが写っている。本文には「總統は嵐のやうな歡呼に答へて熱辯を揮ひ、ユーゲントはヘッス副總統の聲に合はして總統への忠誠を誓ふ」とある。

 この記述に接して、先日読んだ『贖罪:ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(吉田喜重)を想起し、ヘスのイギリス飛行は本書刊行の頃ではないかと思い至った。調べてみると、ヘスの謎のイギリス飛行を1面トップで報じた朝日新聞夕刊の日付は昭和16年5月14日だった。奇しくも本書の発行日である。驚いた。

 発行日にこの写真集を入手した読者は、謁見するヘスの写真を見ると同時に、新聞1面トップの3行大見出し「ヘス獨副總理謎の飛行 突如蘇格蘭(スコットランド)に着陸す 黨本部、精神錯亂と發表」に接したことになる。

感染症と文明には切っても切れない関係がある2020年06月11日

『感染症と文明:共生への道』(山本太郎/岩波新書)
感染症と文明には切っても切れない関係がある

コロナ禍で増刷された次の新書を読んだ。

 『感染症と文明:共生への道』(山本太郎/岩波新書)

 発行は東日本大震災直後の2011年6月、私が読んだのは2020年4月28日発行の第6刷である。

 コロナ禍になって『感染症の世界史』(石弘之)、『疫病と世界史』(マクニール)、『ペスト大流行』(村上陽一郎)などを読んだ流れで本書にも手を伸ばした。一連の読書で人類史における感染症の位置づけを把握できればと思った。

 本書の前半にはマクニールの『疫病と世界史』やジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』などからの引用もあり、マクロな視点で感染症が人類の文明にどのように関わってきたかを説明している。だが、著者は歴史家ではなく国際的な感染症対策に従事してきた医師である。後半になると医師らしい視点の叙述が増えてくる。

 私は本書によって初めて「帝国医療」「植民地医学」という言葉を知った。列強の帝国主義による植民地支配には感染症の研究が必須であり、その「帝国医療」「植民地医学」が近代医学の礎になっているのである。そう言えば「厚生省」という役所も戦時中に軍部の要請によって設立されたと聞いたことがある。

 また、戦後のWHOによる天然痘根絶計画の実態に関する記述も興味深い。紀元前から存在した天然痘は1979年に根絶が宣言されたとは知っていたが、本書によって、その背後に日本人医師団のアフリカにおける壮絶な活躍があったことを知った。

 そんな活躍を紹介しながらも、著者は次のように述べている。

 「例えば天然痘根絶計画についても、この計画の成功が病原体と宿主を含む生態系にどのような影響を与え、長期的に人類の健康にどのような影響をもたらすことになるのか、現時点では誰にもわからない。」

 本書のサブタイトルが「共生への道」となっているように、著者は病原体根絶の危険性を指摘し、次のように述べている、

 「感染症のない社会を作ろうとする努力は、努力すればするほど、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。大惨事を保全しないためは、「共生」の考え方が必要になる。」

半世紀前の『スウィフト考』(中野好夫)を読んだ2020年06月13日

『スウィフト考』(中野好夫/岩波新書)
 半世紀前の1969年6月に刊行された次の新書を読んだ。

 『スウィフト考』(中野好夫/岩波新書)

 『ガリバー旅行記』の作者スウィフトに関する評伝風エッセイである。古い新書を手にしたのは、朝日新聞夕刊で昨日(2020年6月12日)から、柴田元幸氏の新訳『ガリバー旅行記』の連載が始まったからである。新聞全面の毎週金曜連載で、完結には1年半ぐらいかかると思われる。いま、何故ガリバーなのかはわからないが、18世紀の風刺小説の新訳を21世紀の新聞が連載するのは面白い企画だ。

 私がガリバーの完訳(中野好夫訳)を読んだのは、ガリバー来日300年記念の2009年だった。これが面白かったので古本で『スウィフト考』を入手したものの、未読のままだった。新聞連載予告の記事で未読を思い出し、あわてて古い新書を読んだ。

 私たち団塊世代にとって中野好夫はスキンヘッドの行動する文化人で、印象深い存在だった。『スウィフト考』は岩波の『図書』に連載した軽いコラム風の記事をまとめたもので、とても読みやすい。

 随所に刊行当時(1969年)の世相を反映した表現があり、その時代を大学生として過ごした私には、そんな些細な箇所を面白く感じた。中野節とも言える闊達な表現も楽しい。

 本書を読んで、スウィフトとアイルランドの興味深い関係を知った。スウィフトはアイルランドのダブリンで生まれ、その地で没している。しかし、アイルランド人ではなくイングランド人である。青年時代はロンドンで過ごしており、その地での立身出世を志していたが果たせず、47歳で俗界での栄達の望みを絶たれ、ダブリンの主席司祭がついの椅子になる。著者は、当時のアイルランドを日本占領下の朝鮮や戦後の沖縄になぞらえている。わかりやすい例えだ。

 スウィフトはアイルランド人が好きではなかったが、アイルランド在住のイングランド人としての言論活動によって「アイルランドの愛国者」という皮肉な存在になる。面白い話である。

 また、本書によって、スウィフトがニュートン嫌いになった由縁が分かったし、あの幼児人肉食を提案する奇怪な短篇の背景を知ることもできた。

 中野好夫の語るスウィフトは謎多き風刺作家、老残の人であるが、著者がスウィフトに惹かれているのはわかる。「厄介な爺さん」「アクの強いおいぼれ坊主」などの表現は著者の姿に重なってくる。

村上龍の新作『MISSING 失われているもの』は過激な想像力が現実を覆う小説2020年06月15日

『MISSING 失われているもの』(村上龍/新潮社)
 今年(2020年)3月に出た村上龍の新作は、従来の作品とはガラリと作風が変わっていた。

 『MISSING 失われているもの』(村上龍/新潮社)

 オビには「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」という作者のコメントと思しき言葉がある。

 この小説の語り手は限りなく作者に近い「成功した小説家」である。私小説風と言えるかもしれないが、全編幻想的な心象風景で、現実の世界が架空の世界に絡み取られていくような内容である。現実の世界を過激にデフォルメしてアクチュアルに提示する小説から一変しているようにも見えるが、やはりこれも村上龍ワールドだ。

 この架空の世界について、次のような記述がある。

 「わたしは、自ら望んで、混乱と不安しかない世界に迷い込んだ。なぜそんなことをしたのか。必要だったのか。なぜ必要だったのか。」

 「わたし」は小説家なので「過激な想像力が現実を覆ってしまう世界」にいる――そのことを端的に想像力豊かに表現したのがこの小説だと思える。

 小説の各章のタイトルは古い日本映画の題名になっている。次のような映画である。

  『浮雲』(監督:成瀬巳喜男、1955年)
  『東京物語』(監督:小津安二郎、1953年)
  『しとやかな獣』(監督:川島雄三、1962年)
  『乱れる』(監督:成瀬巳喜男、1964年)
  『娘・妻・母』(監督:成瀬巳喜男、1960年)
  『女の中にいる他人』(監督:成瀬巳喜男、1966年)
  『放浪記』(監督:成瀬巳喜男、1962年)

 私は『東京物語』以外は観ていないので、映画タイトルを章のタイトルにした意味を十分には把握できていない。小説の中で映画タイトルに具体的に言及しているのは『浮雲』だけだが、映画の内容を想起させる表現はいつかある。

 この小説を読んでいて、観客が一人だけの映画館で、くり返し上演される古い映画をぼんやりと眺めながら、自分の頭の中に架空の世界が紡ぎ出されていく感じがした。映画のストーリーを追っているのではなく、脈略のない多様な場面をパノラマ視している気分である。

 なお「MISSING 失われているもの」とは、作家の頭の中に堆積されているさまざまな「記憶」を指しているようだ。

『あの本は読まれているか』は地味なスパイ小説2020年06月20日

『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社)
 パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』出版を巡る小説を読んだ。

 『あの本は読まれているか』(ラーラ・プレスコット/吉澤康子訳/東京創元社)

 五木寛之の傑作『蒼ざめた馬』のような小説と思って読み始めたが、かなり趣が違った。CIAで働く女性たちやパステルナークの愛人を巡る話だが、派手なスパイ小説ではない。地味な「お仕事」小説に近い。

 私は半世紀以上昔の学生時代、ロシア文学をある程度は読んだが、パステルナークの『ドクトル・ジバゴ』は未読で、映画を観ただけだ。ソ連当局によってノーベル文学賞の辞退を強いられたこの有名作を読んでいないのは、1960年代後半の私の学生時代、この作品への食指が動かなかったからだと思う。古書店で目にする『ドクトル・ジバゴ』は時事通信の記者(原子林二郎)が翻訳して時事通信社が発行したもので、高名な文芸出版社やロシア文学者による翻訳書はなかった。

 日本のロシア文学の世界で『ドクトル・ジバゴ』は冷遇されているように見えるのは、当時、ソ連に対する遠慮があったせいだろうか。パステルナークは19世紀の大作家たちと20世紀のソルジェニツインの狭間に埋没させられているように見え、その評価はよくわからない。1980年代になって江川卓訳の『ドクトル・ジバゴ』が出て新潮文庫にも収録されたらしいが、いまでは入手困難である。

 『あの本は読まれているか』の原題は『The Secret We Kept』(わたしたちが守った秘密)で、「わたしたち」はCIAでタイピストとして採用された女性たち(みな大卒の高学歴者)を指す。本書は全28章にプロローグとエピローグの構成で、プロローグとエピローグは一人称複数「わたしたち=タイピストたち」で書かれた21世紀時点での回想である。本文は1949年から1961年までの東(パステルナーク周辺)と西(CIA周辺)の物語が交互に描かれている。ほとんどの章が女性の一人称で、語り手は章ごとに交代する。パステルナーク視点の章だけが三人称になっている。凝った構成である。

 本書は多くの歴史文書をベースに1950年代のCIAやパステルナークの様子の再現を試みたフィクションであり、魅力的な人物も登場するが、特定の主人公が存在しない現代史物語になっている。

 著者の名「ラーラ」は『ドクトル・ジバゴ』のヒロインと同じで、母親が映画『ドクトル・ジバゴ』を観て名付けたそうだ。著者にとっての運命的な作品である。

 現代日本において「あの本は読まれれているか」と問うなら、ほとんど読まれていないと思われる。本書刊行を機に『ドクトル・ジバゴ』が復刊されれば、私も読むかもしれない。

野尻抱介の『太陽の簒奪者』はリケジョ活躍のハードSF2020年06月28日

『太陽の簒奪者』(野尻抱介/ハヤカワ文庫)
 先月、野尻抱介氏のSF短編集『沈黙のフライバイ』を読み、そのハードSF世界の面白さに感心したので、この作家の代表作であるらしい次の長編も読んだ。

 『太陽の簒奪者』(野尻抱介/ハヤカワ文庫)

 単行本の刊行は2002年、12年前の長編だが、昔のSF(1980年代頃まで)しか知らない私には新鮮な印象のSFだった。

 主人公は冒頭に登場するときは高校の天文部部長の女子高校生で、学園小説を思わせるような軽やかな雰囲気で物語が始まる。文章も展開も軽やかだが、そこで語られる内容はまさにハードSFである。

 テーマはずばり異星人とのファースト・コンタクトで、それをリアルに描いている。2006年の兆候から2041年の実際の遭遇までを描いた未来(発表当時の)物語で、女子高校生だった主人公は当然ながら齢を重ね、重要な役割を担う人物になっていく。とは言っても、第一印象のせいもあり、リケジョが活躍する青春小説の雰囲気が持続する。にもかかわらず内容は科学技術の現状と未来を反映したSFになっている。

 この小説では「意識」への考察があり、昨年読んだ『脳の意識 機械の意識』(渡辺正峰/中公新書)を連想し、作者の先見性に感心した。私の知識が乏しいせいでもあるが、そんなところに本書の現代性を感じた。