建築家小説『火山のふもとで』は心地よい住宅のようだ2014年11月13日

『火山のふもとで』(松家仁之/新潮社)
 友人の薦めで『火山のふもとで』(松家仁之/新潮社)を読んだ。2012年の読売文学賞を受賞した小説だ。私には未知の作家の作品だったが、読み始めると小説世界に引き込まれ、至福の読書時間を過ごした。

 実在の著名な建築家(吉村順三)がモデルだと聞いていたので、読み進めながら、吉村氏の弟子にあたる建築家が実体験に基づいて書いた小説だと思った。建築設計に関するディティールがあまりにリアルだったからだ。私は門外漢なので判断基準はないが、建築に関する蘊蓄や設計に使う道具などの表現に実体験の投影を感じたのだ。

 しかし、調べてみると著者は建築家ではなく編集者だった。登場人物や物語の舞台にモデルはあるが、全般的にはフィクションである。これだけの小説世界を作り上げた著者の力量に感服した。後知恵で考えると、建築家の手になる小説というよりは建築オタクが楽しみながら書いた作品のように感じられる。

 この小説は、建築学科を卒業したばかりの主人公が「先生」と呼ばれる建築家の設計事務所に入所し、ひと夏の経験をする物語である。先生の設計事務所は夏の間は所員の大半が「夏の家」と呼ばれる軽井沢近辺の山荘に移動し、そこで仕事をする。タイトルの「火山」は浅間山である。

 これは「建築設計小説」であり「山荘小説」であり「青春小説」である。悪人や奇矯な人は出てこない。異常な場面や修羅場もない。小説世界には常に清涼な高原の空気が流れている。

 この清冽な小説は、印象的なディティールの積み重ねで構成されていて、語り口は巧みである。小説の構成が小説の中で先生が展開する建築哲学と相似形なのだ。

 先生は建築について次のようなことを呟く。「建築というのは、トータルの計画が大事で細部はあとでいい、というものではけっしてないんだよ。」「細部と全体は同時に成り立ってゆくものなんだ。」「指は胎児が世界に触れる先端で、指で世界を知り、指が世界をつくる。椅子は指のようなものなんだ。椅子をデザインしているうちに、空間の全体が見えてくることだってある。」

 ここで語られている「建築」はそのまま「この小説」に置き換えられる。小説の題材と小説の方法がこのような形で融合しているのは、著者にとって必然かもしれないが、なかなかの仕掛けだ。素朴なようで計算されつくしている。巧妙に仕組まれたたくらみが絶妙な効果を発揮しているのだ。

 私はこの小説の著者が建築家だろうと単純にだまされたが、著者は建築以上に小説の機微を知りつくした才人のようだ。先生が心地よい住居空間を作り上げるように、著者は心地よい小説世界を巧みに紡ぎ出している。

 実は、私はこの小説の大半を八ヶ岳の小さな山小屋で読んだ。小説に登場する軽井沢の山荘とは比ぶべくもない陋屋だが森の空気には包まれている。そんな環境でこんな小説を読んだので、よけいにこの小説を心地よく感じたのかもしれない。

 心地よさとは、無条件でよきことだと思う。心地よいというのは、精神的な余裕があるということでもある。余裕やアソビがなければ精神の健康は得られない。だが、山小屋の心地よい空気の中で心地よい小説を読みつつ追憶にまどろんでいると、これでいいのかという呟きも聞こえてくる。心地よすぎること、余裕がありすぎることは、はたしてよきことなのだろうか。そこに時間は流れているのだろうか。

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