『カラマーゾフの妹』に感謝2012年09月26日

『カラマーゾフの兄弟(1)~(5)』(亀山郁夫/光文社古典新訳文庫)、『ドストエフスキー:謎とちから』(亀山郁夫/文春新書)、『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(亀山郁夫/光文社新書)、『ドストエフスキー』(江川卓/岩波新書)、『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓/新潮選書)
 45年ぶりに『カラマーゾフの兄弟』を再読した。いずれ読み返したいと思ってはいたが、それを急ぐ気持ちはなかった。重厚な小説なので、じっくり読み返すべきだと考え、読みたい気分が高まるのをのんびりと待って、落ち着いた環境の中でゆっくり取り組めばいいと思っていた。

 しかし、人生は予定外の事象の積み重ねだ。今回、むら気によって慌ただしく読み返してしまった。江戸川乱歩賞受賞のミステリー『カラマーゾフの妹』を読んだからだ。このミステリーの読後感は先日のブログに書いた。読んだ直後は、『カラマーゾフの兄弟』を読み返すのはまだまだ先でいいと思っていた。あくまで本編とは別物のエンターテインメント小説であり、変格ミステリーとして堪能すればそれでいいと自足していた。しかし、少し時間が経つと、その気分が変わったのだ。

◎注意! 以下の文章には『カラマーゾフの妹』のネタバレあり。

 『カラマーゾフの妹』をこれから読もうと思っている方は以下を読まない方がいいでしょう。結末をバラしています。

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 『カラマーゾフの妹』の冒頭の「著者より」には次のように書かれている。

 「(…)しかし犯人はドミートリーでもなければスメルジャコフでもない。我が前任者はその手掛かりや犯人の内面的動機について、実は全ての手がかりを書きこんでいるのである。」

 ここで言う「前任者」はドストエフスキーを指している。後任者である高野史緒氏は、前任者の著作を検討することによって真犯人を見つけたというのだ。
 結論をバラしてしまえば、後任者はフョードル・カラマーゾフ殺しの犯人をアリョーシャだとしている。それだけではない。ゾシマ長老も自然死ではなくアリョーシャの手にかかって殺されたとしている。また、後任者が著した13年後の物語ではゴシップ屋ジャーナリストのラキーチン(13年前の神学生)や裁判官のネリュードフ(13年前の予審判事)が殺害されるが、その犯人もアリョーシである。
 非常に大胆な説だ。「意外な犯人」というミステリーの王道をふまえている。
 後任者は「13年前の事件の解決編」を開陳しているだけではない。前任者が構想したと推測される皇帝暗殺という大陰謀も展開している。私はこのミステリーを十分に楽しむことができ、あり得べき一つの説だとは思った。
 しかし、気になったのは「(前任者が)全ての手がかりを書きこんでいる」という一節である。本当にそうなら、牽強付会であっても後任者の著作は単なるミステリーを超えて、ドストエフスキーの新たな「読み」を提示したことになるかもしれない。この気がかりが私を『カラマーゾフの兄弟』の再読に誘った。「手がかり」が本当に存在するのかを確かめたくなったのだ。

 私が45年前に読んだ『カラマーゾフの兄弟』は米川正夫訳(河出書房の「グリーン版世界文学全集」)だった。その本は今も手元にあるが、再読は亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)にした。数年前にベストセラーになった話題の新訳だ。当時、いずれ読むつもりで購入しておいた。
 光文社古典新訳文庫版の5冊に続いて次のカラマーゾフ関連本も読んだ。

(1)『謎とき『カラマーゾフの兄弟』』(江川卓/新潮選書)
(2)『ドストエフスキー』(江川卓/岩波新書)
(3)『『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する』(亀山郁夫/光文社新書)
(4)『ドストエフスキー:謎とちから』(亀山郁夫/文春新書)

 この関連本4冊は昔読んでいるが、内容の大半を失念しているので再読した。(3)は、書名が示すとおり「幻の第二部」の内容を推測する内容だ。他の本も扱いの違いはあるものの「幻の第二部」に言及している。「幻の第二部」の一例とも言える『カラマーゾフの妹』の検討に役立つかもしれないと考えて関連本を再読したのだ(高野氏がこれらを始め多くの文献を検討しているのは間違いない)。

 『カラマーゾフの兄弟』と関連本を再読して、アリョーシャを犯人とする手がかりは得られたか。残念ながら、私には明確な手がかりを見いだすことができなかった。アリョーシャが一筋縄ではつかめきれない多層的な「怪しい」人物である手がかりはいくつかあるが、父殺しの実行犯と見る証拠は発見できなかった。

 イワンもアリョーシャもスメルジャコフに操られていた……それは、彼らの幼少期から始まっていたという後任者の説はなかなか魅力的である。スメルジャコフにウエイトを置いた読みはアリだろう。しかし、そこからアリョーシャ真犯人説を組みたてるのは、やはり荒唐無稽と感じられる。荒唐無稽の魅力があるのは確かだが。

 後任者はイワンを多重人格者としている。現代の言葉では外離性同一性障害者だ。多重人格について当時から研究されていたこともうまく反映されている。イワン=多重人格説こ関しては第一部にも手がかりが残されているように見えるので納得できる。
 後任者はイワンの幼少期のトラウマを発見していて、これがポイントの一つになっている。このトラウマが多重人格を発生させたとするなら、イワンと共に幼少期を過ごしたアリョーシャも多重人格者にするというテもあったかもしれない。その方が真犯人にしやすい。ただし、後任者が暴き出したアリョーシャの特異な心理の方が小説としては面白い。

 前任者が構想していた「幻の第二部」では、13年後のアリョーシャが皇帝暗殺にからんでくると広く信じられている。江川氏も亀山氏も第二部ではアリョーシャが皇帝暗殺にからんでくるはずだと見ている。亀山氏は『カラマーゾフの兄弟』の一部、二部全体を「父殺し」の物語と見ることにこだわり、その「父」には兄弟の実父フョードルだけでなく、象徴的な意味でゾシマ長老と皇帝も含めている。
 『カラマーゾフの兄弟』全体を3人の父(ゾシマ長老、実父、皇帝)を殺す物語とし、その父殺しの犯人が主役だとするなら、アリョーシャがこの3人を殺したとする後任者の説も成り立ち得る。全体がすっきりするのは確かだ。すっきりするだけかもしれないが。

 いずれにしても『カラマーゾフの妹』のおかげで、思いもよらぬ荒唐無稽なアプローチで『カラマーゾフの兄弟』を再読できたのは楽しい体験だった。45年ぶりに再読した私は、さらに再読してみたいという気分になった。長大でヘンテコな小説だが退屈しない物語だ。荒唐無稽説をもっと検討したいという考えもなくはないが、それを超えて刺激的な読書体験が期待できるからだ。

 今回読んだ亀山郁夫訳は確かに読みやすいが、コクがないような気もする。各巻末の「読書ガイド」も、役立つの反面、教科書風の興ざめを誘う。最初に米川正夫訳でドストエフスキーを刷りこまれているせいか、エキセントリックで濃いのがドストエフスキーの持ち味のように思えるのだ。次は江川卓訳か原卓也訳で読んで「違い」を楽しむことができればとも思う。
 いつになるかわからないが、読みたい気分が高まるのをのんびりと待って、今度こそは落ち着いた環境の中でゆっくり取り組みたいものだ。