いしいひさいちワールドとわが故郷「たまのの市」2012年08月02日

『KAWADE夢ムック いしいひさいち』(河出書房新社)
 『KAWADE夢ムック いしいひさいち』というムックが出版されていると新聞記事で知って、早速ネットで注文したが、入手までに2週間以上かかった。売れ行き好調で2刷まで待たされたようだ。あらためて、いしいひさいちファンの多さを思い知った。もちろん私もファンだ。

 いしいひさいちを知ったのは『がんばれ!!タブチくん!!』の頃だから、30年以上前になる。あの頃は、いしいひさいちが朝日新聞の朝刊漫画に起用される日が来るとは想像もしなかった。

 朝日新聞の朝刊漫画『となりのやまだ君(ののちゃんの前身)』が始まったときは、朝日新聞の快挙だと思った。そう思ったのはついこないだのような気がするが、実は1991年だ。もう20年以上も新聞連載が続いている。齢を重ねるに従って近過去の経過が加速度的に速くなってくるのを実感した。

 入手した『KAWADE夢ムック いしいひさいち』を開くと、いきなり懐かしい写真が目に飛び込んできた。岡山県立玉野高校の写真である。いしいひさいち氏の母校であり、私はこの高校に1年生の1学期まで通った(その後、親の転勤で東京の高校へ転校)。
 いしいひさいち氏が私と同郷で玉野高校出身だとは、かなり以前に何かの記事で知った。私よりは3歳年下なので面識はない。今回のムックで、小学校は別だと確認できた。いしい氏はJR宇野駅に近い宇野小学校だそうだ。私は駅からはかなり遠い第二日比小学校だから、中学校も別のはずだ。
 しかし、ののちゃんの住む「たまのの市」の風景は、私の遠い記憶にある玉野市の風景に重なる。

 いしいひさいち氏と玉野市の関係に最初に気付いたのは『バイトくん』の一つの4コマ漫画を読んだときだった。瀬戸大橋が完成して宇高連絡船が廃止になった1988年のことだ。玉野市は本州と四国を結ぶ鉄道連絡船「宇高連絡船」が発着する宇野駅で有名な町だった。
 そのとき読んだ『バイトくん』は、次のような会話の4コマ漫画だった。

 「おまえ、どこの出身だ?」
 「玉野です。センパイ」
 「玉野?」
 「ええ、あの、三井造船のある玉野」
 「しらんな」
 「えーと、渋川海水浴場のある」
 「しらん。どこだ、いったい」
 「(連絡船がのうなってしもたけんなァ)えー、あのー、金甲山の」
 「しらん」 「地図にあるのか」

 この漫画は、玉野市出身の私には不意打ちだった。わが故郷がネタになっているのに驚くと同時に、その面白さに笑いをこらえることができなかった。このギャグがわかるのは地元の人間だけでは、と思うと面白さが倍加した。
 玉野市は三井造船の企業城下町だから、造船関係者は玉野市を知っている可能性が高い。わが家から歩いて行けるた渋川海水浴場は、岡山県内ではかなり有名だから、岡山県出身者なら知っている人は多い。しかし、金甲山となると玉野市周辺の地元の人間にしかわからない。
 
 この漫画を読んで、記憶の底から金甲山という名が甦ってきたとき、「いしいひさいち恐るべし」と感じた。実在の田淵選手をあんなギャグ漫画にしたのにも驚いたが、ほとんどの日本人が知らないであろう「金甲山」を出してくる度胸には度肝を抜かれた。

 深読みすれば、この漫画には「玉野市」という地名の不幸が潜んでいる。玉野市には当時の国鉄のターミナル駅である宇野駅がある。宇高連絡船が運航していた頃、宇野駅はそれなりに全国に知られた駅だった。だから、市の名が「宇野市」だとわかりやすい。しかし、市名を付けるとき、三井造船の所在地「玉」を入れねばということで「宇野市」ではなく「玉野市」になったと聞いたことがある。そのため、駅名より市名の方が知名度が低くなってしまったらしい。

 さて、その玉野市が『KAWADE夢ムック いしいひさいち』では巻頭のカラー3頁で紹介されている。玉野市出身者にとってはうれしい限りだ。
 このカラー頁によれば、今や玉野市は「ののちゃんの街」で売り出しているらしい。水木しげる氏の鳥取県境港市には比べようもないだろうが、いしいひさいちワールドは玉野市の街起こしに一役かっているようだ。
 私にとっては朝日新聞連載以上の衝撃である。あの「わかる人にしかわからない」的なシュールなナンセンスが潜むいしいひさいちワールドが、わが故郷の玉野市という現実の田舎町に連結しているとは・・・地底人がリアルナ3DCGで現実世界に出現したような感覚だ。時代は変わったのか。長生きはするものだ。

 私が玉野市で生活したのは15歳までで、その後はほとんど訪れる機会がなかったが、2年前に所用のついでに玉野市まで足をのばした。渋川海水浴場にあるホテルに宿泊し、小学生時代の旧友に再会した。昔通った小学校と中学校にも行ってみたが、玉野高校までは行けなかった。連絡船廃止ですっかり様子が変わった宇野駅周辺は歩いてみた。
 その2年前には「ののちゃんの街」の幟や看板には気付かなかった。見落としたのだろうか。あの頃はまだ「ののちゃんの街」を売り出していなかったのかもしれない。そのうち、いしいひさいちワールドを確認するため、わが故郷を訪れてみたい。このムックを読んで、強くそう思った。

 「たまのの市」を紹介しているだけが、このムックの魅力ではない。すべての記事がそれぞれに面白い。いしいワールドの人物事典は有用だし、詳細な年譜はメディアに露出しないいしい氏の数少ない露出を掬い上げていて興味深い。巻頭記事の自作自演的なインタビュー(?)も内容は濃い。
 また、いしいワールドを図解でジャンル分けし、ジャンルごとに解説している記事も秀逸だ。この記事では、いしいワールドを「ビンボー学生生活」「スポーツパロディ」「時事呆談」「戦争という喜劇」「家族の肖像」「会社天国」「書評と文壇パロディ」「藤原先生」「時代劇」「SFのようなもの」「哲学的」「ナンセンス」の12ジャンルに分類している。
 12のジャンルの中に「藤原先生」という異様なジャンルがあるのも、解説を読めば説得されてしまう。

 確かにいしいワールドの「藤原先生」は際立って魅力的である。一般に漫画の登場人物は年齢が一定だが、藤原先生は17歳、27歳、34歳の世界が並列に存在しているように見える。かなり異例の存在だ。このムックによれば藤原先生にモデルはいないそうだ。おそらく、その通りだろう。
 ただし、私の記憶では、玉野市には「藤原」という姓の人が異様に多かった。一つのクラスに二人はいた(たまたま、私のクラスがそうだったので、多いと思い込んでしまった可能性もあるが)。だから、いしいひさいち氏の周辺にも何人かの藤原姓の人がいて、そのなかの誰かが「藤原先生」のヒントになったのでは、と私は妄想している。

ジャガイモ栽培で得た知見と妄想2012年08月07日

収穫したジャガイモとキュウリ
 先週、八ヶ岳山麓の山小屋のささやかな畑でジャガイモを収穫した。4月18日に種イモを植えた後は、月に1~2回しか山小屋に行っていないので、たいして世話をしたわけではないが、思いのほか立派なジャガイモが大量に収穫できた。

 野菜作りの入門書によれば、ジャガイモは難易度が最も低い野菜の一つだ。確かに簡単である。しかし、ジャガイモ作りのおかげで、このありふれた野菜に関する知見が少し深まった。

 入門書の指図通りに、何の疑いもなくホームセンターで「種イモ」を買ってきて、包丁で切って植え付けたのだが、考えてみれば、これは不思議な手順だ。一般的な野菜は、種か苗を買ってきて植える。苗には、自分でポットに種を植えて作れるものも多い。つまり、スタートは「種」である。ところが、ジャガイモは「種イモ」を植える。「種」という言葉が付いてはいるが「種イモ」はどう見ても「芽が多いだけの普通のイモ」である。「種子」とは思えない。

 漠然とそんなことを思っているとき、偶然に『ジャガイモの花と実』(板倉聖宣、仮説社)という子供向けの本を手にする機会があり、疑問が解けた。

 種イモを植える栽培法は、バラの枝を切ってさし木にするのと同様の栽培法で、種子から生育させるのではなく、植物を「再生」させているそうだ。トカゲだってシッポを再生できるが、植物には強い再生力があるので、このような栽培方法が可能なのだ。つまり、ジャガイモの栽培とは、種イモのクローンを作る作業だったのだ。これは、私にとっては新鮮な驚きだった。

 クローンを作っている限り、種イモと同じものが再生できるだけで品種改良などはできない。品種改良をするには種子から栽培する必要がある。本来、ジャガイモには花が咲き実が成り、実から種子が取れるそうだ。しかし、われわれが栽培している多くのジャガイモには花は咲くが実が成ることはほとんどない。そういう品種のジャガイモを再生しているということであり、それが食糧としての生産性がいいということなのだろう。

 実が成らない植物をクローンによって大量に再生する……こんな育成法を人間社会に適用するとアンチ・ユートピアSFの世界の姿が浮かんでくる。たかがジャガイモの収穫で、そんな妄想が生まれるのも野菜作りのご利益のひとつかもしれない。

 ジャガイモがナスやトマトと同じナス科であることも、今回初めて知った。まだ見たことはないが、ジャガイモの実はトマトに似ているそうだ。

総理大臣も3.11の震災直後に『日本沈没』を読んでいた2012年08月09日

 昨日(2012年8月8日)、菅直人前総理の記者会見(日本記者クラブ主催)に行った。
 ナマの菅直人氏を見るのは2回目だ。最初に見たのは35年前の参議院選挙のときだ。有楽町街頭での選挙運動を目撃した。社会市民連合という小さな政党から立候補した菅直人氏は、ホウマツとまでは言えないものの当選の見込みの極めて低い候補者だった。当時30歳、それ以前から市川房江を応援する若者として多少の知名度はあった。

 有楽町のスクランブル交差点でさわやかな笑顔を振りまきながら歩行者と握手している菅候補の印象は新鮮だった。従来の政治家とは異質の若々しい魅力を感じた。
 その菅候補を私と一緒に目撃していた友人が「こいつは、何回か選挙をやっているうちに当選するぞ」とつぶやいた。それを半信半疑で聞いていた私は、目の前で笑顔を振りまいている青年が未来の総理大臣だとはまったく想像できなかった。
 落選を繰り返していた菅直人氏が衆議院議員になるのはそれから3年後だ。

 あれから35年、あの若者もオジサンになってしまったなあと思う。もちろん、他人事ではない。菅氏より2歳年下の私もジイサンになった。風貌がオジサンになり、さわやかさが失われるのは仕方ないが、前総理はきわめて元気に見えた。

 今回の記者会見の発言で面白く感じたのは、3.11の後、小松左京の『日本沈没』を読んだというエピソードだ。私も震災の直後に『日本沈没』を再読した。あの小説は、総理大臣のために書かれたという一面もあり、総理こそが最適の読者だ。小松左京氏も本望だろう。

 菅氏が『日本沈没』を読んだのは、震災直後の原発事故に「国家存亡の危機」を感じたからのようだ。震災直後の日々の心境についての発言は、それなりにナマナマしく興味深かった。
 「よく、あれだけで止まったと思う。止めたと言いたいが、止まったという感じだ。紙一重を超えていれば、首都圏3000万人避難になると考えていた。」「ほとんど死が確実な現場に決死隊を派遣しなければならない決断を迫られる事態も想定したが、幸いそのような決断をすることはなかった。」「3000万人が避難して容易に戻れないという事態の経済へのダメージを考えると、原発再稼働を安易に求める経済人の認識に違和感がある」
 この発言からもうかがえるように、菅氏はかなり明確に脱原発依存を進めるべきだと述べた。ただし、より具体的で説得的なシナリオが聞けたわけではない。

 「脱原発」を唱える政治家は少なくなく、それぞれの立場はかなりバラバラなので、議論の真贋を見極めて評価するのは容易ではない。選挙で「脱原発」が争点になるかどうかも難しいだろう。票になると見れば、誰もがそれぞれのレベルでの「脱原発」を唱えるような気がする。

 今回の菅氏の記者会見では、小沢一郎氏への言及も興味深かった。小沢氏が民主党を離れて発言しやすくなったのだろう、かなり明確にチクチクと批判していた。そのチクチクは主に次のような内容だ。

 (1) 小沢氏は政治でなく政局を好む。1988年の金融国会で、自民党が丸飲みする代案を提示した私(当時の民主党代表)に対して小沢氏(当時の自由党代表)は「政局にしないなどというヤツとは組めない」と言った。
  (2) 小沢氏は独断で民主党のマニュフェストを選挙向けに変更(消費税増の削除、子供手当の増額)した。それがマニュフェストの実現を難しくした要因でもある。
 (3) 3.11後、脱原発路線を打ちだした私に対する「菅おろし」の背後には小沢氏と自民党の暗躍があったようだ。

 こんなことを述べるのだから、前首相はまだまだ元気で野心満々のようだ。もちろん、政治家にとって野心は重要だ。35年前の笑顔がさわやかな青年も野心満々だった筈だが、その野心の量は現在も増えてこそあれ減ってはいないだろう。

古琉球の歴史は魅力的だ2012年08月16日

『琉球の時代:大いなる歴史像を求めて』(高良倉吉、ちくま学芸文庫)
 最近、沖縄へ行く機会が多い。そんな私に友人が『琉球の時代:大いなる歴史像を求めて』(高良倉吉、ちくま学芸文庫)という本を勧めてくれた。とても興味深く読み進めることができた。

 本書は1980年刊行の名著が今年の3月に文庫になったものだ。著者の高良倉吉氏は首里城復元にも携わった沖縄学の権威で、テレビドラマ『琉球の風』『テンペスト』の時代考証も引き受けた方だそうだ。

 『琉球の時代』は琉球王国の歴史を、遺跡・史跡・伝説・古謡・史料などに基づいて描いている。学術的な内容でありながらエッセイ的な要素もあり、読みやすい。
 私が本書を興味深く読み進めることができたのは、そもそも琉球王国についてよく知らなかったので、読書体験がそのまま私にとっての発見体験に直結したからだ。私の高校時代(半世紀近く昔だ)、日本史でも世界史でも琉球については習わなかった。

 本書で主に扱っているのは、10世紀頃に始まるグスク時代から1609年の島津侵入事件までの「古琉球」の時代で、日本の平安・鎌倉時代の頃から江戸時代初期までにあたる。ただし、古琉球の初期は神話・伝説の時代で史実は明確ではないようだ。

 滝沢馬琴の『椿説弓張月』の素材となった源為朝の話も紹介されている。琉球に流れついた為朝の息子を祖として舜天王統ができたいう伝説だ。もちろん史実ではないが、日本と琉球の交流を感じさせる伝説だとは思える。
 著者は「事実か否かというレヴェルの問題ではなく、そうした英雄流譚を生む民俗的背景こそ問題にすべきだと思う」と述べている。

 本書で最も興味深く感じたのは「第三章 大交易時代」だ。14世紀から16世紀にかけての琉球王国は当代随一の交易国家で、中国との交易をベースに北は日本(堺、博多)、朝鮮(釜山)から南はマラッカ、スマトラ、ジャワに至る広大な海域に交易ルートをもっていた。ヴェネチア共和国を連想させる古琉球のアグレッシブな海運国家イメージは、私にとっては目から鱗が落ちるような発見だった。
 
 この時代に鋳造された「万国津梁の鐘」に刻まれた文には「舟楫(船のこと)を以て万国の津梁(かけ橋)となす」とあるそうだ。沖縄サミット会場だったブセナ岬には「万国津梁館」という施設があり、変わった名前だなと思っていたが、その名の背景に大交易時代の名残があるとことを今頃になって認識した。

 また、本書を読み進めている過程で、琉球王国では古くから平仮名が使われていることを知った。これも驚きだった。中国から漢字を取り入れると同時に日本からは平仮名を取り入れていたのだ。こんなところに日本と沖縄の微妙な関係を感じる。
 
 著者は本書のエピローグで次のように語っている。

 「沖縄はそもそものはじめから日本の一員だったのではない。日本文化の一環に属する文化をもち、日本語と同系統の言語を話す人々が沖縄の島々に住みついて独自の歴史を営んだのであり、そしてついには古琉球の時代に日本と別個に独自の国家「琉球王国」をつくりあげたのだった。」

 一つの国の中に、歴史背景の異なるかつての独自国家が存在するということは、国家や歴史を考察するうえで複眼的相対的視点が得られて有益である。そんな国家は外国では珍しくない。国境を超えた活動が日常的になる時代にあっては、琉球王国の記憶を保持している沖縄を日本が内包している意義は大きいはずだ。

はじめてのトウモロコシ栽培はメデタシメデタシ2012年08月19日

 八ヶ岳山麓の山小屋のささやかな畑でトウモロコシを収穫した。たまたまホームセンターで種を手にして衝動買いし、5月の連休に植えたのが順調に生育した。あの小さな種がほんの3カ月ばかりで2メートルもの巨体になった。あたりまえの自然の摂理にあらためて感動した。

 現在、野菜の入門書を3冊手元に置き、この3冊を適当に参照しながら野菜を栽培している。トウモロコシ栽培は難易度中級のようだが、月に1~2回しか山小屋に行かず、さほど手間もかけなかったのにトラブルなく生育してくれた。

 ただし、一点だけ当初の想定外の手間があった。
 トウモロコシを植えたとき、現地の友人から「トウモロコシはシカやイノシシにやられやすいから、回りを網で覆わねばならない」と聞かされていた。彼自身はトウモロコシの栽培はしていない。当初は、そんな面倒な対策をする気はなく、とりあえず植えてみただけなので、シカにやられたらダメモトであきらめようと思っていた。
 しかし、1メートル位に育ってくると現金なもので、このまま順調に育ってほしいと思うようになった。入門書には獣害対策などは書いていないが、鳥除け対策の記述はあった。シカやイノシシ対策のネットはかなり大げさで少々高価だ。結局、ホームセンターで鳥除けネットを購入し、支柱を立ててトウモロコシを囲むことにした。

 収穫の時期が近づいてきたころ、友人から「トウモロコシは1本に1つだけ残し、他の実は取ってしまうらしい」と言われた。3冊の入門書のうちの1冊には確かに「1株に1本の雌穂を残して生育させ、収穫します。他の雌穂は小さなうちに取り除きます」と書いてある。しかし、他の2冊にはそのような記述はない。
 多数決で決めるなら、何もしないということになる。この時期、すでにどの株も2本の実が大きくなりかかっていた。「小さなうち」という時期は失しているように思えた。だから、易きに流れてそのままにした。
 そのとき、アメリカの広大なトウモロコシ畑のことを考えた。あんな畑でいちいち雌穂を1本だけ残す作業をしているとは思えない。何もしなくても大丈夫だろうと、自分自身を納得させた。

 それから約2週間後、収穫を目的に山小屋へ行った。実は、その頃になってはじめてトウモロコシが鮮度にシビアな特異な作物だと知った。

 ある酒席で「トウモロコシを栽培しています」と言うと「新鮮なトウモロコシは美味しいですよね」という反応があり、「そうか、新鮮なトウモロコシは美味しいのか」と思った。しかし、収穫後1時間もすると味覚が落ち、24時間で味覚も栄養素も半減するとは知らなかった。
 だとすれば、われわれが食べてきた八百屋やスーパーのトウモロコシのほとんどが不味いのであり、美味しいトウモコシを食べることができるのは収穫地周辺の限られた人々だけということになる。ホンマかいなという気もしたが、やがて、その通りだということを実感した。

 山小屋の収穫物は東京の家族に持ち帰るのが通例だ。しかし、鮮度がシビアとわかったからには、トウモロコシはそう簡単には行かない。帰京日の昼、ナベに湯を沸かし、まず2本のトウモロコシを摘み、素早く皮を剥いて熱湯で4分ほどゆでた。ナベには2本しか入らないので、この作業を何度も繰り返した。そして、ゆで上がったトウモロコシを東京に持ち帰った(昼食替わりに現地でも食べたが)。そのトウモコシはみずみずしくて甘味が強かった。もちろん、家族にも好評であった。メデタシメデタシ。

 さて、1株に1本の問題である。結論的には、食べるに値する立派なトウモロコシは1株に1本しかできなかった。2本目は発育不全だった。やはり、2本目は早めに取り除いた方がよさそうだ。
 後日、本屋で別の野菜入門書を立ち読みしていたら「3本の雌穂ができるので2本だけ残す」と書いてあった。しかし、私が栽培したトウモロコシは2本しか雌穂ができなかった。トウモロコシにもいろいろな種類があるのだろう。

 あらためて調べてみると、世界中で栽培されているトウモロコシのうち食用は4パーセントにすぎず、大半は飼料とコーンスターチになるそうだ。わずかな食用のうちの多くは缶詰などの加工品になると思われる。新鮮なトウモロコシを食べるというのは、かなり特殊で贅沢な消費方法なのだ。

 トウモロコシ栽培中にアメリカの広大なトモロコシ畑を想起したが、きっとあちらは飼料などを作っているのであり、わがトウモロコシとは品種が違うのだろう。飼料用なら1株に何本もの実ができるような気がする。

怪作『カラマーゾフの妹』の題名は『カラマーゾフの兄妹』の方がよかった2012年08月24日

『カラマーゾフの妹』(高野史緒/講談社)
◎冒頭は秀逸なパロディ

 江戸川乱歩賞受賞作『カラマーゾフの妹』(高野史緒/講談社)は怪作であり傑作でもある。本屋の店頭で平積みの表紙を眺めたときはさほど食指は動かなかった。それでも手にしてみた。そして、冒頭の「著者より」を読んで惹きつけられた。この冒頭部分がドストエフスキーの巨大な傑作のパロディになっていたからだ。

◎ドストエフスキーの奇怪な世界

 私が『カラマーゾフの兄弟』を読んだのは45年前の19歳のときだ。あのときの衝撃はまだ記憶に残っている。その後、ドストエフスキーの小説のほとんどすべてを読んだが、いまでも記憶が鮮明なのは『カラマーゾフの兄弟』と『悪霊』だ。2作品ともいずれ再読しようと思いながら、いまだに再読はしていない。

 半世紀近く昔に読んだにもかかわらず『カラマーゾフの兄弟』の内容はかなり憶えている。その後、『カラマーゾフの兄弟』に言及した文章に接することが何度かあり、内容が反芻されてきたせいかもしれない。
 今でも印象深く憶えているのは、『カラマーゾフの兄弟』を読む前に目を通した付録の文章だ。私が読んだのは河出書房の世界文学全集版で、その全集に挟みこまれた月報に「不可能性の作家」というタイトルの文章があった。冒頭は以下の通りだ。

 「ドストエフスキイの作品に触れたとき、恐らく誰もが直ぐ感ずることは、眼前の机の上に置かれたこの小説はむこうの書棚のなかに並んでいる多くの小説とはまったく質が違っているということであろう。」

 この文章を読んでもその意味するところは理解できなかったが、この断定的な文章に惹かれて『カラマーゾフの兄弟』を読み始めたように思う。
 そして、『カラマーゾフの兄弟』を読了したとき、この文章の筆者の言う通りだと思った。「不可能性の作家」の筆者は埴谷雄高である。その後、私は埴谷雄高に傾倒するのだが、月報の文章を読んだ時点では私にとって未知の筆者名だった。

 ドストエフスキーは、この世の現実の延長とは無縁の「もうひとつの現実(精神活動の極北のようなものか?)」を描いてしまった。それは、あたかも天文学者が一般人には感知できない宇宙空間の実相を開示しているようでもある。埴谷雄高はそのように考えて、ドストエフスキーの小説は他の多くの小説とは質が違うと述べているようだ。

 読めば誰でも感じるように、ドストエフスキーの世界は異常で奇怪な精神活動の世界である。

◎ミステリーの要素からアクロバットのような続編を構築

 『カラマーゾフの妹』は奇怪な精神活動に満ちたドストエフスキー世界とはひとまず無縁の現実世界の小説である。にもかかわらず、きちんと『カラマーゾフの兄弟』の続編にもなっている。『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』などは思弁的哲学的小説であると同時に大衆文学的要素を含む犯罪小説でもある。その後者の要素だけでも十分に堪能できるので、『カラマーゾフの妹』のような続編も成り立ち得るのだ。
 
 冒頭の「著者より」で明示されているように、現存の『カラマーゾフの兄弟』は二部構成の長大な小説の第一部である、「重要な部分」は第一部の13年後(当時の現在)を描いた第二部に属している。しかし、ドストエフスキーは第一部を書きあげて80日後に59歳で亡くなってしまった。
 『カラマーゾフの兄弟』の続編(第二部)の内容を推測した文章はいくつか読んだことがあるが、後世の作家による続編そのものに接したことはなかった。超有名作品だから、続編にチャレンジする作家がいてもおかしくない。どこかにそんな作品があるのかもしれないが、原典が巨大すぎて多くの作家は尻ごみするのだろう。

 『カラマーゾフの妹』はミステリーという切り口で続編を描いている。冒頭の「著者より」ではパロディあるいはパスティーシュを感じたが、本編はやや正統的でありつつさまざまなガジェットが用意されている。
 ミステリーなのでネタばれになる恐れもあるが、私は本書に『シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険:ワトソン博士の未発表手記による』に似た面白さを感じた。自分の家庭教師だったモリアリティ教授を大悪人だと妄想しているホームズが密かにフロイトの治療を受けさせられるパロディ小説である。『カラマーゾフの妹』にフロイト自身は登場しないが、似たような人物が現れる。ホームズという言葉も出てくる。バベッジ、エイダ、ヴェルヌまでからんできてSF風味が出てくるのは楽しい。そもそもドストエフスキーとSFには多少の親和性があると思える。

 そのような奇想天外な部分もある本書を読んでいるときの私の気分は、オリンピックの体操競技をハラハラしながら眺めている状況に似ていた。アクロバットのような演技に感嘆すると同時に、どこかで破綻するのではという危惧も抱きながら読み進めた。材料は秀逸なのに料理がイマイチという残念な小説が多いからだ。しかし、ところどころで危うさを感じさせるところもうまくクリアしている。着地もきちちんと決まった。ホッとした。著者の大胆不敵なチャレンジに拍手したい。

◎『カラーマーゾフの妹』への改題は残念

 本書は江戸川乱歩賞受賞作で、巻末には選評が掲載されている。それを読むと、選考時のタイトルは『カラーマーゾフの兄妹』になっている。事情は不明だが刊行時に『カラーマーゾフの妹』に改題したようだ。この改題には賛成できない。どう考えても『カラーマーゾフの兄妹』の方が秀逸だ。

 『カラーマーゾフの兄妹』だと『カラーマーゾフの兄弟』のパロディだと明確になる。そもそも『カラーマーゾフの兄弟』というタイトルが意味深いのだ。何種類もある邦訳のほとんどが『カラーマーゾフの兄弟』であって『カラーマーゾフ兄弟』ではない.。「石原兄弟」ではなく「石原の兄弟」と表記するのと同じだ。これは、「カラマーゾフ」が単なる姓ではなくいろいろな意味を秘めた修飾語になっているからだ(江川卓の「謎とき『カラーマーゾフ兄弟』」による)。
 『カラーマーゾフの妹』だと修飾語としての「カラマーゾフ」が弱くなる。そもそも、この続編に「妹」を登場させる必然性は『カラーマーゾフの兄弟』を『カラーマーゾフの兄妹』に読みかえるという点にしかない。タイトルを『カラーマーゾフの妹』にしたのでは、その必然性がなくなり、「妹」を登場させる意味が逆に薄弱になってしまう。「カラマーゾフ」が何を指しているかも不明瞭だ。

 私が本屋の店頭で『カラマーゾフの妹』というタイトルを見てあまり惹かれなかったのは、何か違和感があったからだ。『カラーマーゾフの兄妹』あるいは『カラーマーゾフの姉妹』などのタイトルなら、ためらわずに手にしたと思う。