『ふしぎなキリスト教』の影響で吉本隆明「マチウ書試論」を読み返した2012年04月22日

 『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎×大澤真幸)を読了すると、遠い昔に読んだ吉本隆明の「マチウ書試論」を読み返してみたくなった。

 吉本隆明が87歳で亡くなってから1カ月が過ぎ、雑誌では吉本隆明追悼記事が目立ち、テレビでも追悼番組が流れたりする。そんなことも、吉本隆明を読み返したくなった背景にある。

 団塊世代の一人だった私は、御多分に漏れず吉本隆明に惹かれた時期があり、それなりの影響を受けていると思う。しかし、吉本隆明を理解したという気はしていない。

 本棚に並んでいる吉本隆明の著作を数えてみると48冊あった。読了したのは半分もないだろう。手垢に汚れた本もあるが、大半は拾い読みした本だ。

 この48冊の中で最初に購入したのが『藝術的抵抗と挫折』であり、この本の冒頭の「マチウ書試論」が、私が初めて読んだ吉本隆明の文章である。

 「マチウ書試論」を読んだのは1968年の秋、私は19歳の大学生で、世の中は騒然としていた。そのころ、すでに吉本隆明の勇名は学生たちのあいだに轟いていた。『共同幻想論』はまだ出版されていなかったが、吉本隆明はスゴイという話はあちこちから耳に入ってきた。
 今から思えば滑稽なほどに思いつめて右往左往していた私は、吉本隆明という人が何を言っているのかを知らなければならないと思った。そんな強迫観念から古本屋で購入したのが『藝術的抵抗と挫折』だった。

 著者が吉本隆明という理由だけで購入した本の巻頭の評論が「マチウ書試論」だった。政治評論・文芸評論の本だとの認識はあったが、何が書かれているかの予備知識はなかった。
 本文を読み始める前に読んだ「あとがき」に「『マチウ書』というのは、いわゆる『マタイ伝』のことであり、わたしはここで勝手に『マチウ書』とかえてしまった」とあったので、聖書がテーマだとはわかった。勝手に名前を変えてしまった理由はわからなかったが、そのことだけでも、わけのわからないスゴイことをする人だなと感じた。

 そして、とにかく頭から、初めて手にした吉本隆明の本を読み始めた。読み進めながら、かなり面食らった。なぜ、原始キリスト教という浮世離れしたテーマなのだろうとの違和感があった。しかし、展開される内容には、妙になまなましい迫力があった。キリスト教やユダヤ教に関する知識が乏しい私には難解で、書いてあることの大半は理解できなかったが、聖書の「作者」を論じているところに驚きを感じた。

 曲がりなりにも読了したのは、理解できようが理解できなからろうが、これを読了しなければ世界をとらえることはできず、おれはバカになってしまうという奇妙な強迫観念によるものだった。読了して「これが吉本隆明なのか」という畏怖と感慨を抱いた。

 その後、かなりの吉本隆明の文章を読むことになるが、最初に読んだ「マチウ書試論」は強烈なパンチだった。初めて出会った吉本隆明の文書が、同時代の情況論や威勢のいい論争文ではなく、カッコいい詩でもなく、わけがわからない「マチウ書試論」だったことは、私にとっての「刷りこみ」になったようだ。懐が深く物事の本質を見通す怖い人だと感じてしまったのだ。

 とにかく、「マチウ書試論」については「内容はよく理解できなかったがスゴイ評論だった」という印象だけが残り、長い年月が過ぎ去った。

 そして、吉本隆明逝去から約1カ月が過ぎて「マチウ書試論」を読み返してみたくなったのだ。読み返すにあたって、事前に「マタイ福音書」(中央公論の「世界の名著」収録の前田護郎訳)に目を通した。

 読み返した「マチウ書試論」は面白かった。相変わらず理解できない部分は多いが、昔読んだときよりは多少はわかったような気がした。原始キリスト教の成立を考察したこの評論は、ある社会情況のなかで「思想家」の手によっていかに「思想」が創られたかを論じている。ユダヤ教に対する憎悪から倫理神を生み出した「マチウ書」の作者を史上屈指の思想家と見なす視点が面白い。

 1968年に初読して以来の再読だと思っていたが、読み返していくなかで、その後も再読している痕跡を発見した。情けないことに再読しても理解できず、再読の記憶は失われていたようだ。

 「マチウ書試論」の最終部分で「関係の絶対性」という言葉が登場する。今回の再読でこの懐かしい言葉に出会うまで、それも失念していた。昔、「関係の絶対性」という言葉を呪文のようにくり返す友人がいた。

 「関係の絶対性」は吉本隆明ワールドのキーワードのひとつだ。しかし、理解しやすい言葉ではない。「マチウ書試論」では次のように語られている。

 「秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」(注:「関係」という単語に傍点あり)

 わかったようなわからないような言説だ。「マチウ書試論」のサブタイトルが「反逆の倫理」となっている所以はここにあるのだろう。

 今回の再読で、今ごろになって「マチウ」は「マタイ」のフランス語読みだと知った。吉本隆明がフランス語版の聖書をテキストにしたために「マチウ」に変えたようだ。
 この評論のタイトルが「マタイ福音書試論」あるいは「マタイ伝試論」だったならば、いかにも宗教論めいていて、謎めいた暗さがなくなってしまう。「マチウ書試論」というタイトルには、詩人の才がある。さすがだ。

 さて、久々に吉本隆明を読み返してみて、あらためて、吉本隆明とは何者だったのだろうかという思いがわいてきた。
 もとより、いまさら吉本隆明の全貌をつかもうという意欲も気力もない。ただ、気になる存在ではある。

 いずれ、図書館に行って、新聞や雑誌に掲載された夥しい追悼記事に目を通して、だれがどのように評価・総括しているかを眺めてみたい。そのうえで、自分なりに、吉本隆明のどのあたりの著作を検討すべきかを考えてみたい。
 それが、衰えはじめているであろう脳への刺激になればと思う。

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