私のピースボート体験(3)2009年01月24日

◎船の引越し

 クリッパー・パシフィック号からモナリザ号への引越しは大変だった。乗客は自分の荷物を段ボール箱に梱包しなければならない。私たち夫婦の荷物は16箱になった。荷物の搬出は乗客の仕事ではなく、専門スタッフの仕事だと思っていた。ところが、ピースボートは乗客に「引越しボランティア」を呼びかけたのだ。船体トラブルによる引越しまでもお祭り騒ぎのイベントにしようというのだ。
 ボランティアだから強制ではない。と言っても、船の遅延でイラ立っている乗客も多いのに臆面もなく無神経なことをするものだと思った。しかし、呼びかけに応じて引越しを手伝う人も多かった。ボランティアにはお揃いのTシャツが支給されるので、だれがボランティアかはすぐ分かる。乗客とスタッフの中間のような立場の若者も多いので、多くの若者が引越しボランティアに参加していた。お揃いのTシャツ姿で張り切る中高年も少なくはなく、腰を痛めた人もいた。
 もちろん、ボランティアに参加しない人もいる。ボランティアに参加しない若者たちは引越しの期間、自分の船室に引きこもって本を読んでいたそうだ。お揃いのTシャツではない姿で船内を歩くのがはばかられる雰囲気だったのだ。
 サークル活動のノリで乗客に引越しを手伝わせるのを「素晴らしい」と思うか「ずるい」と思うかは人それぞれだろう。「乗客意識」と「参加者意識」の違いである。
 ただし、プロの業者を最小限に抑えて、素人のボランティア中心で引越しという大プロジェクトを強行すると、どこかに無理が出るものだ。案の定、船の引越しは予定通りには終わらなかった。
 引越し当日、乗客はモナリザ号のレストランで夕食をとり、引越し終了後すみやかに出港する予定だった。しかし、引越しが終了しないので、乗客の移動ができない。食材も引越し荷物の中だったのかもしれない。結局、その日のうちの乗客の移動は中止になり、夜遅くになって支給された簡単な弁当を食べさせられることになった。もちろん、出航は1日遅れた。
 こんな体験も、一部の乗客にとっては「大変だったけど、みんな頑張ったね」という、いい思い出になったのかもしれない。そんな乗客には、ピースボートのずさんさ、無責任さ、ずるさなどが見えないのだろう。

◎遅延を喜ぶ乗客たち

 乗客の中には船の遅延を歓迎する人々もいた。アンコールワットのツアーからの帰途、添乗員が「船が到着していないのでシンガポールではホテル泊になります」とアナウンスすると、ほとんどの乗客が歓声をあげて拍手をした。タダでホテルに泊まれて、市内観光までできると喜んでいるのだ。
 また、遅延が1カ月近くになってきた時点でも、怒るどころか「1カ月も無料で3食たべさせてくれるというのは大変なことですよ」と感謝する人や、「クリスマスも正月も船上で迎えられてよかった」と言い出す人も現れた。
 ピースボートを老人ホーム代わりに使っている人や帰国しても当面の予定のない人にとっては、遅延はたいした問題ではなかったのだ。また、予期せぬことが起こるから旅は面白いのだ、と考える人もいたかもしれない。
 七百人の乗客がいれば、考え方や感じ方がさまざまなのは仕方ない。しかし、乗客の感じ方の多様さに乗じて、ピースボートやジャパングレイスが自分たちの責任を軽く考えているように見えるのが腹立たしかった。

◎ジャパングレイスの責任

 私は、今回の遅延の最大の責任はジャパングレイスにあると考えている。一心同体のピースボートも同罪だ。悪いのは船会社であって、ジャパングレイスも被害者だと言う人もいるが、それは甘い考えだと思う。
 後から知ったのだが、前回の第62回の航海で、すでにエンジンのトラブルは発生していた。船のエンジンに大きなトラブルをかかえていて、それが解決していないことは、ジャパングレイスには分かっていたのだ。
 イズミルでの説明会のとき、ある乗客が「みなさん、9月7日の出航のとき、前回の乗客有志が桟橋で『その船はあぶない』と書いた看板を掲げていたのを知っていますか」と発言した。私は知らなかった。大半の乗客が気づいていなかったようだ。あまり大きな看板ではなかったのだろう。気づいたとしても出航直前では手遅れだったが、エンジントラブルは前回の乗客には周知だったのだ。
 にもかかわらず、ジャパングレイスは9月4日に横浜に入港したクリッパー・パシフィック号を9月7日には出航させた。船の安全運航を考えるなら、第63回ピースボートは大幅延期あるいは中止させるべきだった。それをしなかったジャパングレイスの無責任さと判断の甘さによって、第63回ピースボートの大幅遅延が発生したのだ。また、常に情報を隠蔽しようとするジャパングレイスの態度も非難されるべきである。
 謝罪するべきときに情報を隠蔽しようとするから事態の悪化がエスカレートするのだ。辻元清美の議員辞職のケースと同じである。
 長い航海を終えて私たちが東京・晴海に帰航したとき、桟橋の出口でビラを配っているグループがいた。前回の乗客有志だった。そのビラは「ジャパングレイスの対応・態度の改善を求めて交渉してきたが解決が展望できない。新たな動きを考えている」といった内容だった。
 そのビラが縁で、私は前回の乗客・竹野昇氏の『僕の地球一周の船旅 ピースボート 光と影』という本を入手し、第62回の航海の悲惨な状況を具体的に知ることができた。竹野氏は、私のようないいかげんな人間ではなく、熱心な平和活動家である。

◎世界遺産

 私は今回のクルーズを、世界遺産を巡る観光旅行とも考えていた。訪れた世界遺産は以下の通りだ。

 ・アンコールワットとアンコールトム(カンボジア)
 ・タージ・マハル(インド)
 ・アーグラ城(インド)
 ・カルナク神殿、ルクソール神殿、王家の谷(エジプト)
 ・ギザの三大ピラミッドとスフィンクス(エジプト)
 ・ヒエラポリスとパムッカレ(トルコ)
 ・カッパドキア(トルコ)
 ・イスタンブール歴史地区(トルコ)
 ・アクロポリス(ギリシャ)
 ・バレッタ市街(マルタ)
 ・ガウディの作品群(バルセロナ)
 ・ギアナ高地(ベネズエラ)
 ・サントドミンゴの植民都市(ドミニカ)
 ・キト市街(エクアドル)
 ・ガラパゴス諸島(エクアドル)
 ・クスコ市街(ペルー)
 ・マチュピチュ(ペルー)
 ・イースター島(チリ)
 ・シドニー・オペラハウス(オーストラリア)

 これらの世界遺産の多くは、一度眺めればそれで満足できてしまう。あえて、もう一度来たいとは思わない。「写真やテレビで見たのと同じだ」という妙な感動の仕方をして、現物を見たということに満足してしまうからだ。
 そんな中で、もう一度来たいと思ったのは「ガラパゴス諸島」だった。「ギアナ高地」も機会があれば再訪したい。また、「タージ・マハル」と「マチュピチュ」では、写真やテレビとは違う感動を得た。マルタ島の「バレッタ市街」は拾いものだった。

◎ガラパゴス諸島

 実は、旅行前には「ガラパゴス諸島」に行くのを躊躇していた。イグアナやゾウガメの映像はテレビで十分に見ている。観光客が増えて環境破壊が進んでいるため、世界遺産第1号が今や危機遺産に登録されている。そんな所に観光で行くのは後ろめたい。動物を見るだけの自然動物園のようなものだから、あえて行くほどでもないだろうという気もした。船の遅延の影響で「ガラパゴス6島クルーズ」が「島のホテル宿泊の4島巡り」に変更になったときも、ガラパゴスのキャンセルを検討した。
 しかし、実際に訪問してみると、想像以上に素晴らしい所だった。確かに環境破壊は進んでいる。あとどのくらいの期間、ガラパゴスが現在の姿を維持できるかは微妙だ。とは言え、やはり、美しい島々である。海もきれいだ。動物たちが自由に生息している様を間近に見ることができるのは、まさに別世界だった。
 再訪したいと思った理由の一つは、観光客が少なくて静かでのんびりできるからだ。確かに世界遺産指定後、観光客が急増し、環境破壊が深刻になっている。と言っても、アンコールワットやスフィンクスのように満員電車状態の観光客がいるわけではない。ガラパゴスの観光客には15人までに一人の現地ガイドがつく。1パーティは15人以下である。ガラパゴス諸島の多くは無人島だが、私たちの体験では、一つの島に同時に上陸しているのは1パーティで、たまに2パーティになることがある。その程度の観光客密度である。
 ガラパゴスでは、写真家の藤原幸一氏が私たちを引率してくれた。藤原氏は海洋生物の研究者から写真家になった人で、「ガラパゴス自然保護基金」を立ち上げている。『ガラパゴスがこわれる』という写真集も出している。藤原氏の要を得た説明つきだったことも、このツアーが実り多いものになった要因だった。 
 ガラパゴスでは観光客の量的制限は必要である。これ以上観光客が増えない方がいいと思う。しかし、今やガラパゴスの生態の特異性を維持するには膨大なコストがかかるのだ。外来種の植物や動物を駆除し続けなければ、ガラパゴスは他の大陸と同じ自然環境の島になってしまうからだ。ガラパゴスを維持するコストは主に観光客からの入島料でまかなわれている。入島料が適切に使われているか否かは問題だとしても、観光収入によって生態の維持を図っているのだ。何もせずに自然にまかせるとガラパゴスの特異性が失われる。特異性を維持するには人為的な介入が必要で、その財源は観光客なのだ。そういう事情を知って、私の当初の認識は少し変わった。

◎ギアナ高地

 ギアナ高地を再訪したいと思ったのは、滞在1泊ではもの足りなかったからだ。小型飛行機からエンゼルフォールを見ることはできた。もう1泊すれば、ボートで川を遡って下から見ることもできたのだ。テーブルマウンテンの上にも行ったみたい。登攀する人もいるそうだが、ヘリコプターで行くことも可能らしい。観光客がまばらで静かなのが魅力的だった。

◎タージ・マハル

 タージ・マハルの写真は小学生の頃から何度も見ていて、インドのシンボルとしてその形は頭に擦り込まれていた。実物を知らなくても、すでに何度も見た気分になっていた。しかし、実物には写真では分からない輝くような美しさがあった。多くの遺跡のように写真と同じだったのではない。写真をはるかに超えていたのだ。太陽の光の加減によって微妙に変化する大理石建築の美しさ、神々しさは、実際に見なければ分からない。

◎マチュピチュ

 マチュピチュの写真や映像も何度も見ていた。実物を眼下に眺めたときも、写真と同じだと思った。しかし、写真では分からないことがあった。高山の空気である。これは現場でなければ分からない。目だけでなく肌の感触がいいのだ。現場で360度を見渡し、視線を上下に動かすと、この空中都市遺跡の特異性を肌で感じることができる。周囲の山の高さ、谷の深さ、深山幽谷の趣……それは、現場に立ってはじめて感得できる霊気のようなものだった。

◎バレッタ(マルタ)

 あまり注目していなかったのに、訪れてみて好印象をもったのはマルタ共和国のバレッタだ。地中海の島国の小さな町である。十字軍の聖ヨハネ騎士団(後のマルタ騎士団)が作った町で、町全体に城砦の趣がある。世界遺産に登録されているので一応は観光地かもしれないが、それほど観光地らしくないのがいい。石畳の路地を通して望める地中海も美しかった。
 マルタ騎士団総長館は入場料をとる博物館だが、マルタ共和国大統領府兼国会議事堂にもなっている。そんなに大きな建物ではない。観光客である私たちが通る廊下に接した部屋には国会議員の集団がいた。大きな扉は開けっ放しで、私たちもそのまま入って行けそうな感じだった。警備員が「さきほどまで、ここに大統領がいました」と言った。不思議な博物館である。

◎トルコの印象

 今回のクルーズで最も長く滞在した国はトルコだ。10月13日にクサダシに入港し、10月28日にイズミルを出航するまでの16日間滞在した。前半の5日間は、エフィソス遺跡、パムッカレ、カッパドキア、イスタンブールなどを巡るオーバーランドツアーで、後半はイズミルの街をうろつきながら出航を待ち続ける日々だった。
 オーバーランドツアーで感じたのはトルコ人のプライドの高さだ。私たちのツアーを担当したガイドの印象も大きいが、トルコ自慢が多かった。「遺跡の数はギリシャより多い」「ヨーグルトもピラフもサンタクロースもトルコ発祥だ」などという話は初めて聞いた。自給自足ができるゆたか国だと思った。
 エーゲ海に面した港町イズミルはいい街だった。雰囲気はほとんどヨーロッパだ。国民の大半はイスラム教徒なのだが、とてもそうは見えなかった。若い男女は公園のいたる所で抱き合っている。服装もしゃれている。
 ガイドブックに「イズミルは美人の産地」と書いてあったが、その通りだった。街ですれ違うのは美男美女ばかりだ。混血が多いので美人が多いらしい。トルコのファッションモデルの大半はイズミル出身だそうだ。
 建国の父・アタチュルクがいまだに英雄として扱われていることも、イズミルで確認できた。昔読んだ本で「アタチュルクは日露戦争に勝った日本を尊敬していて、机上には明治天皇の写真を置いていた」という逸話を知った。その記憶があったので、何となくアタチュルクに親近感を抱いていた。だから、街のいたる所にある彼の銅像や肖像の前で写真を撮った。みやげ物屋でアタチュルクの肖像入りの小物も買った。街頭ではアタチュルクの肖像を印刷した大きな国旗を売り歩いている人がいた。少し心が動いたが、さすがにそれは買わなかった。

◎まぼろしのような街

 オーバーランドツアーは航空機やホテルを利用する。船の遅延で日程が何度も延期になったので、オーバーランドツアーの航空機やホテルを何度も変更するのは大変だろうと心配した。結局、ほとんどのツアーが催行されたが、かなり無理なスケジュールに組み替えられているケースが多かった。通常のツアーでは考えられない深夜や早朝の移動も当たり前だった。早朝にチェックインしたホテルで仮眠をとって昼前にはチェックアウトするというケースもあった。募集時に明記した観光地を巡るのが第一優先で、客の健康は二の次の強行スケジュールになってしまったのだろう。
 そんな無理なスケジュールのおかげで、まぼろしのような印象しか残っていない都市がある。プノンペン(カンボジア)とカラカス(ベネズエラ)だ。
 航空機でプノンペンに到着したのは夜だった。9時頃にホテルにチェックインし、遅い夕食をとった。翌日は早い朝食をとり、7時30分にはチェックアウトして空港に向かった。だから、バスの窓から夜の街と早朝の街を眺めただけである。それしか知らないが、道路が広い美しい街だった。ホテルで眺めた朝日のメコン川もよかった。もっと滞在したかった。
 カラカス(ベネズエラ)は夜景しか知らない。船で夕食をとったあと、寄港地のラグアイラからバスでカラカスに向かった。ホテルにチェックインしたのは夜10時だった。翌日は午前3時にホテルを出発して空港に向かった。だから、ほんの短時間しか睡眠を取れなかった。素敵なホテルだったという記憶はあるが、食事はしていない。バスから眺めた街は夜景だけだ。それでも、産油国の首都らしい都会の雰囲気を感じた。港町のラグアイラがみすぼらしかったので、カラカスの立派な印象が意外だった。陽光の下ではどのように見えたかは分からないが。

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